プロフィール
1964年大阪市生まれ。1988年国際基督教大学教養学部卒業。1995年INSEAD卒業。
2019年9月ドン・キホーテなどを運営するパン・パシフィック・インターナショナルホールディングスの代表取締役社長CEO(兼ドン・キホーテ代表取締役社長)に就任。
2019年9月ドン・キホーテなどを運営するパン・パシフィック・インターナショナルホールディングスの代表取締役社長CEO(兼ドン・キホーテ代表取締役社長)に就任。
- 齋藤
- 本日はよろしくお願いいたします。
- 吉田
- こちらこそお願いいたします。ICUそしてマッキンゼーの先輩である齋藤さんとお話しできること、とても光栄に思います。
- 齋藤
- ドン・キホーテには何年いらっしゃるんですか?
- 吉田
- ちょうど丸16年経って、17年目になりました。
- 齋藤
- そうなんですね。僕は新卒でマッキンゼーに入社しとこともあり、ちょうど20年ですね。ちょっと長かったとは思いますが、クライアントの人の話を聞いていると、20年とか30年同じ会社におられる方が結構いて、エネルギーを維持し続けるのはすごいなあと思いますね。
- 吉田
- うちの会社も20年以上いる人がすごく多いですね。
- 齋藤
- 会社の成長ぶりを考えると、若い人がかなり多いと思いましたがそうなんですね
実は僕は3代目のクリスチャンで、大正時代からみんなキリスト教の学校に通っていたんです。僕だけ公立の学校に通っていて(笑)
- 齋藤
- 吉田さんとはICUもマッキンゼーも一緒で、ネットで調べさせていただいたところ大阪出身と言うことで、ほんとに一緒なんやと思って。大阪はどちらのご出身なんですか?
- 吉田
- 生まれたのは天王寺で、そこから茨木市に。それで、地元の公立の学校に通ったんですよね。
- 齋藤
- 公立の学校に行ったのは何か理由はあるんですか?
- 吉田
- 親戚も周りも私立に行っている人が多い環境だったのですが、私の性格を親が見抜いて、公立の方がいい、ということになったんだと思います。中学校のときは校内暴力が全盛期で、そういう経験が出来たのはとても良かったです。ヤンキーの友達もいっぱいいましたし。
- 齋藤
- なるほど。それは幅広い付き合いをされていたんですね。でも公立高校からどうしてICUに入ったんですか?大阪ではICUの知名度は低いので、普通だとあんましないパターンだと思うのですが。
- 吉田
- 僕は3代目のクリスチャンで、大正時代からみんなキリスト教の学校に通っていたんです。祖父に大学のことで相談したとき、「キリスト教の学校に行って欲しい」と言われまして。そこから、ICUの卒業生を紹介していただく形でICUを知りました。
- 齋藤
- そうなんですか!それは面白いですね。
- 吉田
- それでキャンパスに行ったんです。そして、ここにする。と決めました。
- 齋藤
- わかります。実は、僕も似てますね。僕の祖父や父は牧師なんです。僕らの代からは途絶えましたが(笑)。祖父から「君、東京に良い大学があってね」と、祖父の教会にきてくれていたICU生を紹介してくれて、僕に話をさせるわけです。そうしたら楽しそうな話ばかりで(笑)。ちょうど、東京神学大学に通っていた父の知り合いの人に連れられて、実際にキャンパスに行ってみると、キャンパスを見た途端に「あ、ここだな」って思ってしまったんですね。同じですね。
- 吉田
- 本当に同じですね。国立大学に行くかどうかも実際には迷っていたので、共通一次テストも受験したんです。最終的に祖父にも祖母にもICUの方が良いと言われてしまって(笑)、ICUに決めました。
- 齋藤
- そやけど、それってすごいことですね。今までこの「今を輝く同窓生たち」でたくさんの人にお会いしたのですが、出身地が同じで、かつICUに入学した経緯が似ているというのは初めてです。
- 吉田
- そうですか。びっくりですね。
- 齋藤
- ところでICUではどちらの学科へ?
- 吉田
- SSです。
- 齋藤
- SSではなにに興味を持たれていたんですか?
- 吉田
- 初めは、社会学というものに漠然と憧れていました。カミュ、サルトルやボーヴォワールが好きだった4つ上の姉の影響で、私は、レヴィ=ストロース、ロラン・バルト、そういう人たちの思想に高校生のころ憧れていました。ただ、リベラル・アーツの本領(?)で、色々なSS以外の授業も取り、特に言語学には大きな影響を与えられました。ソシュールかチョムスキーか、なんていうのが流行っていた時代でもありました。印象に残っているのは、長(武田)清子先生(思想史)、斎藤眞先生(アメリカ政治学)、並木浩一先生(旧約聖書)の授業です。大塚久雄先生の最後の授業にも出席できる光栄にあずかりました。私の思考の礎を作ってくれた、今から考えても本当に贅沢な時間でした。不真面目でしたが笑。
一方、悲惨だったのはフランス語の授業で、全く上達せず、本当に迷惑をみんなにかけてしまいました。その後、私はフランスの大学院に進学したのですが、同級生からすると、それはブラックジョークですね。
言語学から段々と意味論の方に興味が移り、ダブルバインドセオリーの産みの親である、生涯の自分の思考の師ともいうべきグレゴリー・ベイトソンを知り衝撃を受けました。また、シモーヌ・ヴェーユという不世出のフランスの思想家の作品に出会えたことも大きかったです。ICUはそういう色々興味がある人にはパラダイスですよね。
・・・なんですが、最後は、大阪人。商売も大事やな、ということで、鈴木典比古先生の経営学、鈴木ゼミの一期生として、経営学で卒業しました。
- 齋藤
- ICU時代は勉強以外に何をなさっていたんですか?
- 吉田
- ICU時代は日米学生会議に出ていました。
- 齋藤
- ありましたね!みなさん、真面目で出来る学生さんばかりでした。
- 吉田
- 真面目だけど無茶苦茶な部分もありました。東京の友達が元々たくさんいたので、大学入学前から日米学生会議のことは知っていて。大学に入ったらやってみたいことのひとつではありましたね。
- 齋藤
- 日米学生会議でなにをやってみたかったのですか?
- 吉田
- 日米学生会議で何をする、っというより、そういう会議に出てみたい、というミーハーな好奇心でしょうか。学生会議に入るのに結構倍率の高かった面接があるのですが、面接官から、「新人類ですね」と言われて受かり笑、その結果、たくさんの人に出会いました。今から考えても面白い経験で、農協のエライ方と会ったとき、コメによる食糧安全保障をガチで主張されていて、アメリカ人の参加者と全く噛み合わず、激論になりました。アメリカでは、昨年、最高裁判決で覆されたアファーマティブアクションについてのものすごく熱い議論(日本人は茫然と見ていただけでしたが・・・)がなされたり、外務省に行った時に、外務省に行った先輩に、態度が悪いと怒られて全員でほぼ土下座させられたり。ICUとはちょっと違う経験をしました。その時、一番仲の良かったジェシカ・コーンというアメリカ人は、その後、コロンビア大学の教授になっていて、コロンビア大学ビジネス・スクールの授業によんでいただいて再会する、なんてこともありました。
- 齋藤
- 海外はどこにいたんですか?
- 吉田
- アメリカです。大学院ではフランスに。アメリカのあとは大阪です。
- 齋藤
- そうすると、東京にいるお友達というのはどこで知り合われたんですか?
- 吉田
- 色々な活動の中で、自然と東京の友達は多かったですね。
- 齋藤
- それはすごいことですね。僕の時代は、基本的に大阪の子はずっと大阪にいるのが普通で、他を知りませんからすごく世界が狭くなりがちなんです。吉田さんのように小さい頃から海外に行って、活動をして友達がいっぱいいるというのは普通の人ではまず経験できないことだと思いますね。
- 吉田
- 確かにそうかもしれませんね。
- 齋藤
- ICU時代スポーツはやられていたんですか?
- 吉田
- 陸上やサッカーをやっていました。でもクラブに入っているとかではなく、基本的に文化系の大学時代でしたね。
- 齋藤
- そうですか。大学の授業や日米学生会議の他にアルバイトなんかはしていたんですか?
- 吉田
- 週に一度家庭教師をしていました。
- 齋藤
- これも僕と同じですね。吉田さんは大学時代には留学されなかったんですか?
- 吉田
- そうですね。ちょうどその頃に父が病気になってしまって日本にいた方が良いという選択を取りました。
- 齋藤
- なるほど。そこからどうしてマッキンゼーに?
- 吉田
- マッキンゼーは当時学生の間で流行っていたんです。当時は珍しかったインターン制度に申し込んで、それがすごく面白くって。そこで初めて齋藤さんにお目にかかりました。マッキンゼーは、ICU時代、インターンとして働き、大学院卒業後、コンサルタントとして働き、とご縁がありました。
- 齋藤
- インターンでお会いしていたんですね!吉田さん1995年12月入社ですよね。僕は1995年の12月に辞めているのでどこでお会いしていたのかなと思っていたんです。
- 吉田
- お会いしていたのは大学の時ですね。
- 齋藤
- それは素晴らしい。マッキンゼーのインターンプログラムは僕が作ったものですから。頭を使うことや「こんな仕事があるんだ」ということを味わってもらうことで、マッキンゼーという会社を知ってもらいたいと考えていたのです。学生さんの口コミは効果的なので、インターン制度はもちろん、入社試験を受ける人も増えて、段々と難易度が上がっていったんです。
- 吉田
- そうなのですね。マッキンゼーのオファーは実は留学先のフランスで受けて。とても思い出深いですね。
- 齋藤
- うわっ!それはかなり優秀だったということだと思います。
「究極の環境」までいかないとわからないことがあるんです。マッキンゼーにはその環境がありました。
- 齋藤
- マッキンゼーでの経験はどんな風に今に活かされていますか?
- 吉田
- 経営、ということに対して、今すぐ答えないといけない課題を突きつけられる、という経験は本当に役立っています。あとは、自分って頭良くないなあというのを実感できたことです。
- 齋藤
- というと、どういうことですか?
- 吉田
- 自分に何が向いているのか、どうやったら自分の能力を最大限活かすことができるのかを試すには、「究極の環境」まで追い詰められないとわからないことがあるんだと思います。マッキンゼーに入社するまでは、あまりそういう自覚はなかったのですが、入社し、まさに、その日から「究極の環境」に追い詰められる日々が続き、自分はあんまり頭良くないというのがわかり、自分は何かもっと他の分野でないと勝負できない、ということに気がつきました。マッキンゼーは、とても丁寧に個人評価をしてくれるのですが、一番(唯一?)褒められたのが、チームプレイヤーとしての評価でした。ギリギリの環境で自分の能力の照射をできたのは、マッキンゼーでないとできない環境でしたね。
- 齋藤
- それは確かにその通りだと思います。ところで、今就職や転職でコンサルティング業界が人気というのをよく耳にしますが、そういう人たちにアドバイスはありますか?
- 吉田
- コンサル会社でやりたいことがある人は、どちらかと言えば、何事においても我慢ができるタイプの人だと思います。また、コンサルの仕事は、極端に、時間的な制約や心理的なプレッシャーや競争など、しんどい要素がたくさんあります。その中でやりたいことを見失わずにいられるなら、そこ(やりたいこと)に戻ることができます。大変なプレッシャーの中で仕事をするけれど、自分のやりたいことという原点に戻れるということが大切で、その戻る場所がないと、無味乾燥なことになってしまうかもしれませんね。
- 齋藤
- それは良いお話ですね。僕はドンキホーテというお店にほとんど行ったことがなかったのでまったく無知だったのですが、調べてみるとすごく大きな会社なんですね。2兆円って!もうびっくりしました。兆円企業は日本で限られていますからね。おまけに1000億円もの利益を出されているのは、素晴らしいことです。
- 吉田
- ありがとうございます。
- 齋藤
- そんな素晴らしい会社の経営を任されるということは大したことだと思います。社長になられたのは、2019年なので、入社17年目ということですね。社長という役職を担うにあたって、どんなことをお考えになっていたのですかね?
- 吉田
- 私が入社した時は売上が3000億くらいだったんです。でも「この会社いける」と思ったんです。
- 齋藤
- 17年間で6倍の売上ですか。それはすごいことですね。でも、なぜこの会社はいけると思ったのですか?
- 吉田
- 当時創業者が経営の最前線にいたんですが、その方のエネルギーがとてつもなくて。カリスマ性やリーダーシップを持った方で「この人について行ったら多分いけるな」と思いました。あとは、社員が良い意味で荒削りですごく優秀だと感じたんです。社員は、言語表現が苦手だと感じましたが、逆に言えば、うちの社員に欠けているのはボキャブラリーだけだと。商売は言語化ができたらうまく行くわけでもないですし。この創業者に、この社員たち、本当にこんなに頑張る組織は見たことなかったですね。
- 齋藤
- なるほどね。
- 吉田
- どんどん店が増えて会社が大きくなる中で、M&Aや会社のガバナンスを整える役割を担うようになりました。対外的なリレーションをする中で、セブンさんやイオンさんに次ぐサードウェーブになれる実感があって、会長も「いいね」と支持してくれました。その中でも自分にとっても、誰にとってもやりたくない仕事も全部手をあげてやっていました。笑
- 齋藤
- 具体的にはどんなお仕事ですか?
- 吉田
- 労務や財務、法務、M&Aなどですね。チャンスがたくさん与えられる環境で、自分の能力を発揮できるフェーズで貢献できたことがマッチング的にすごく良かったと感じています。
- 齋藤
- なるほど。確かに大変な仕事ですね
- 吉田
- 社長を誰にするかというのは、会社として大きな決断になるのですが、この会社はとても若い会社なのでできたことだとも思っています。実は、役員の中でも創業者を除けば私が一番年上なんです。そういう意味で年齢的なことというのは大事なことだったと思います。
一方、リーダーになる人は、何をやってきた人なのか、という情報が、社内にも、対外的にも重要だと思います。私が当社でやってきたことは、本流の営業ではありませんが、特にM&Aを中心として、会社の成長物語と私のやったことがシンクロして、見えやすかったのかもしれません。
- 齋藤
- 社員の方の戸惑いもあったんでしょうか?
- 吉田
- 社内も社外も戸惑いの方が多かったと思いますね。社長になって一番初めに宣言したことは「私にとって一番大切なのは社員の皆さんです」ということです。それはずっと一貫していて、9万人の従業員を中心に考えることを一番大切に思っていました。
- 齋藤
- 創業者の方のエネルギーや事業の方向性を理解した上で、色々な仕事を経験されてきたことがとても大きかったように思いますね。会社を構成する最も重要な部分や土台となる部分をやってこられたのが吉田さんの強みの源泉のように感じます。
- 吉田
- 2030年には3兆円を目指したいと社内報で言った時にみんな「何を言っているの」というような雰囲気になったんですが、会長は「すごくいい」と言ってくださって。時代性というのはすごく重要で、自分の考えや直感と時代の流れがマッチしてきているのは感じます。
- 齋藤
- 吉田さんが、セブンさんやイオンさんの次になる!というのを考えられていることは素晴らしいことだと思いますね。もちろん、規模で言うと、セブンが12兆円、イオンが9兆円でかなり遠そうに思うのですが、存在感として次を目指すというのは素晴らしい考えだと思います。
大学4年間で「限界まで自分の地位に対してチャレンジする」ことはとても大切です。
- 齋藤
- 最後にICUの在校生たちやICUを目指している若い世代にむけて熱いメッセージをお願いできますか?
- 吉田
- 在校生の方には、まず、ICUは素晴らしい学校で、私個人の経験から申し上げると、ICUに行って本当に良かったということですね。ICUの教育に、大きな影響を受けました。入学した時にまず初めに教わった言葉はクリティカルシンキングです。考えること、というのは、どんな状況になっても自分から奪われることはありませんから。考えることというのは、ICUからいただいた最も大切な私の宝物です。また、授業やゼミを含め、素晴らしい学生や先生方と出会うことができました。
一方、ディスアドバンテージももちろんあります。リベラルアーツが持て囃される時代ではないし、同窓生のネットワークも小さいです。
みなさんにお願いしたいことがあるとすれば、大学4年間で「限界まで自分に対してチャレンジする」ことを何かやってみませんか?ということです。4年間というまとまった時間は、その後の人生では、ほぼない、っと言って良い機会なんだということは、みなさん自身も感じられてるんではと思うんです。であれば、是非、なんでもいいので、自分の限界まで何かに打ち込めるといいですね。
また、ICUの教育の中で、奉仕の大切さを学びました。ICU建学の精神では、「神と人とに奉仕する」、とあります。民間企業にいる私の立場では、「人に奉仕する」、ということが現実的であると思います。社長になり、ウクライナの避難民の方約150名をホストさせていただいたり、難病のこどもの支援をさせていただいたり、一般的な印象とは異なるさまざまな活動をしておりますが、これは、ICUで学び、感じたことにルーツがあります。
- 吉田
- 高校生の方には「大学ってどんなところだろう」というのを考えた時に、ICUは良い意味で全然イメージと違うプログラムを用意してくれています。これはその後の就職や人生において何の問題もないし、むしろ素晴らしい経験として生きる4年間が待っています。
- 齋藤
- 今日はお忙しいところ本当にありがとうございました。
プロフィール
吉田直樹(よしだ なおき)
1964年大阪市生まれ。1984年、大阪府立茨木高等学校卒業。1988年、ICU卒業。1995年、INSEAD卒業。経営学修士。マッキンゼー入社。2007年、ドン・キホーテ(現パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス)の海外事業本部長兼子会社であるドン・キホーテ(USA)社長として入社。2012年、同社取締役。2013年、同社専務取締役。2018年、同社代表取締役専務兼CAO。2019年9月より、同社代表取締役社長CEO及び株式会社ドン・キホーテ代表取締役社長を務める。