INTERVIEWS

第76回 藤田直志

日本航空株式会社 特別理事,日本体操協会会長

プロフィール

藤田直志
1956年生まれ。神奈川県出身。国際基督教大学を卒業後、日本航空株式会社に新卒入社。同社代表取締役副社長。現同社特別理事。2021年6月に公益財団法人日本体操協会会長に就任。
齋藤
本日はよろしくお願いいたします。
藤田
よろしくお願いいたします。
渡辺
今日は品川にあるJALの本社の客室にお邪魔していますが、遠くまで海が見渡せて、素晴らしい景色ですね。羽田空港もよく見えます。
藤田
そうですね、羽田が近いですね。すぐ下に新幹線の基地があったり、新しくできた船のターミナルも見えます。陸、海、空が一望できるロケーションです。もともとはここは倉庫だったみたいで。
渡辺
本当に、足元に新幹線の路線が!航空運輸関係が一望できるロケーションなのですね。
留学を通して、内向的な自分から外交的に変わりました。
渡辺
早速ですが、ICUに入学なさったいきさつから教えていただけますか?
藤田
高校の時に1年YFU(YFU日本国際交流財団)でアメリカに留学をしました。英語が好きだったのでアメリカに行ってみたいなと思っていて。当時、留学はお金がたくさんかかるというので、お金のあまりかからない留学のプログラムがあることを知って、とりあえず試験だけでも受けてみたらと言われて受けたのがきっかけでした。それで、高校3年の夏から、オハイオ州でアメリカの家庭にホームステイをさせていただきました。次の年にアメリカの高校を卒業し夏に日本に帰国してもう一年高校で勉強しました。次の年に、たまたまICUに行ったら、キャンパスがアメリカみたいだと思って、元々アメリカの大学への進学も考えていたので、受けてみようと考えたのです。入試も当時は2日間あって、朝から晩まで論文を読んだり英語を聞いたりして、最後は体力勝負で(笑)。たまたま運よく合格できました。
渡辺
高校の時に留学したいと思われたのは、どんなきっかけだったのでしょう?ご両親の影響ですか?
藤田
全くないですね。うちは父がエンジニアで祖父が大工で、ただ出身が横浜の西区なので小さい頃から、横浜の大さん橋や本牧に行くと外国の方とはたくさんお会いする機会がありました。その時には何か興味を持ったというわけではなかったと思います。
齋藤
高校はどちらだったのですか?
藤田
浅野高校です。中学高校と剣道一筋でした。
渡辺
どなたかの影響ではなくて、ご自身で思い立って留学されたのですね?
藤田
はい。高校3年の時に、将来を考えると、アメリカに憧れ、また多文化の中に身をおきたいなと思ったのです。行ってみると日本人は誰一人いない。日本語をしゃべる機会もない。この中でどうやって生きていけばいいのだろうと不安になりましたが、ホストファミリーが大変優しく受け入れてことが救いになりました。ホストブラザーにアメフトに誘われ夏はアメフトを、冬はレスリングのコーチが誘ってくださったので、レスリングに打ち込みました。友人がたくさんできましたし、性格もチームスポーツをしたことで内向的だったのが外交的になり、チームのことを考えるように変わりました。
藤田
そういえば、渡辺さんはアメフト部のマネージャーでしたよね。
渡辺
はい、藤田さんもアメフト部でいらっしゃったので、直系の後輩になります。アメリカでのご経験から、ICUでもアメフトを続けられたのですね?
藤田
そうなんです。ICUのアメフト部は当時14人しかいなくて、オフェンスもディフェンスもやるという感じでした。一度入ったら、やめさせてもらえなくて(笑)
渡辺
私の時も、トレーナー志望の入部希望者がいたとしても、翌日から即選手という状況でした。調布にあったASIJ(The American School in Japan)と試合を組むのですけれど、相手は高校生なのに体も大きくて強くて苦戦続きでした。
藤田
昔、あそこにヘルメットやショルダーパットのお古をもらっていましたね(笑)お金がない時代に。グランドは芝はなく土で雨が降ればどろどろになりながら、ラインに立ったのを覚えています。
Christianityから生まれる愛情、人生を生きる中で基本となること、自己を磨くことを教えてもらうことができました。
藤田
私には両親以外に人生に3人の恩人がいます。大きく影響を与えてくれた人たちがいるんです。一人目が先ほどもお話した、ホストファミリーのお義母さんとお義父さんです。
齋藤
何をされている方だったのですか?
藤田
保険の代理店をやられていました。お義父さんはもうなくなってしまったのですが、お義母さんはまだ元気でいらっしゃって、一昨年に尋ねてきました。
渡辺
今でも交流が続いているのですね。
藤田
そうですね、他人でも愛情をかけるというアメリカのchristianity に満ちた人です。日本に帰ってきてから私も何人か留学生を受け入れたりしていたのですが、人の子供を長期間預かるというのは大変だということを実感して、さらに感謝が深まりました。
一昨年に久しぶりに会いに行きましたが、もう90歳に近いので空港でレンタカーを借りて行く予定にしていました。ところがトリドという田舎の空港に到着して出口に行くとなんとそこにお義母さんが一人で待っていたので驚きました。どうやって来たのと聞いて見たら、駐車場にレクサスの四駆の大きな車が止まっていて、愛車で来たよというので恐れ入りました。

渡辺
ICUでは寮生活を?
藤田
そうですね、最初は寮がカナダハウスという名前なのでアメリカの大学のような寮かと思っていたら全く違っていました。
一同
(笑)
藤田
そこで二人目の恩人で寮母をなさっていた、ツカダトモコさんと出会いました。元々看護士として海外で難病の患者さんのケアをしていたと聞いています。ツカダさんにまず教えられたのは、”掃除をするときは顔が写るくらいまで綺麗にするように、また最初にそれをまず上級生が率先してやるように”ということでした。
渡辺
普通だったら下級生が掃除を担当するのが相場ですから、逆ですよね?
藤田
そうですね、逆ですね。ツカダさんには寮にいた間、カナダハウスでよく人の生き方についての基本になるようなことをたくさん教えていただきました。嘘をつかない、正直、誠実に生きることの大切さとか、今でもその言葉が心に残っています。
渡辺
その頃、卒業後のことはもう決められていたのですか?
藤田
そうですね、やはり英語が好きでしたし、海外にも行けそうだったので、航空業界を受けました。銀行からも内定をいただいたのですが、自分とは合わないと思いお断りさせていただきました。(笑)。
渡辺
そうだったのですね。JALは入社後に配属が決められるのでしょうか?ご希望などあったのですか?
藤田
配属決めはありましたね、やはり航空会社ですし、これからたくさん国内外にいくので東京にいるよりも早くからそういう経験をしておきたいなと思って、遠いところがいいと希望しましたら、沖縄支店になりました。最初は予約業務でした。電話の受け答えだったのですが、沖縄の名前がなかなか珍しいのでわからないのと、会話に琉球言葉が入っていて大変でした(笑)。 ただ、本当に沖縄の皆さんは暖かい方ばかりいらっしゃって、新入社員としては恵まれていました。航空会社は沖縄という場所では生命線です。本土に行くのに他に交通手段がありませんので、台風の時は空港にも沢山の人が溢れたりもしました。
渡辺
台風の通り道でもあるから、大変ですよね。
藤田
そうなんですよ、当時は本土の銀行のキャッシュカードが使えない状況で、旅行者の皆さんも手持ちの現金がなくなり空港でずっと待っていらっしゃるので、炊き出しなどにも行きました。沖縄でないと経験できないことだったので勉強になりました。
渡辺
藤田さんのお話をうかがっていると、その時々を前向きに乗り切られる爽やかな空気が伝わってくるのですが、もともとポジティブなマインドでいらっしゃったのですか?
藤田
いやいや、当時一緒に入社した同期が25人くらいしかいなくて、他の同期は皆さん優秀で、その中でも僕は入社の成績が悪かったというのを聞きまして、これからは頑張らないとこの会社では生きていけないと思って必死に働きました。結果として入社成績が悪くて役員になったのは僕が初めてだと思います(笑)。
齋藤
ICU在学時代はどうだったんですか?
藤田
そうですね、コンスタントにBくらいをとっていました。興味のあることには打ち込むことができていたのと、成績にかかわらず、周りの同級生や先輩に人間としての器が大きく、尊敬できる人が多くいたのでその人たちに追いつくにはどうしたら良いのだろうといつも考えてモチベーションにしていました。
齋藤
三人目の恩人というのはどなただったんですか?
藤田
稲盛和夫さんですね。JALの人生は大きな事故や災害、戦争といった試練の連続でした。そして遂には2010年に経営破綻となりました。当時私は部長職でしたので、部下や先輩方に退職をしてもらうだとか、賃金の引き下げをするような業務でした。部長職ということで責任感もあって、一区切りつけようと思って退職を申し出たんです。ですが稲盛さんが、JALの再建をすることは自分のためだけではなく、日本経済のため、残った社員のため、そして航空会社がANA1社だけになると独占状態になってしまうと競争がなくなる、それは飛行機を利用する国民にとっては良くない。だから、JALの再建は個人の問題、損得ではないんだとおっしゃられました。その話を直接お聞きして自分としてもう少し頑張ろうと決断しました。その時に、役員を拝命したのですが、稲盛さんにがんばれと励ましていただいたので、どうやってがんばれば良いのでしょうかと伺った時に、とにかく“誰にも負けない努力をしろ”、と言われました。
齋藤
役員になられたということですが、それは年代的にはどうだったのですか?
藤田
当時54歳くらいでしたので、早くはなかったと思います。ただ、先輩方が経営破綻の時にみなさんお辞めになられたということと、新役員を選んだのはその当時の企業再建で携わっている人たちが中心となって選考されたようでした。稲盛さんに、誰にも負けない努力をしろと言われて、お坊さんがやっておられる1000日修行を真似して、とにかく休まずに1000日働いてみようと決意しました。
渡辺
お休みを取らずに、1000日間働かれたのですか。
藤田
はい、ずっとデスクにいるわけではなくて時間があれば現場に行き、現場の皆さんと一緒に仕事をしました。空港でお客様のお見送りをしたり荷物のハンドリングをしたりしていました。1000日たって稲盛さんに「一所懸命に頑張りました。少しは成長できると思いましたが、あまり成長したとは感じられません」とご報告に行ったら、「まだまだやなあ」と言われました(笑)。私にとって経営破綻はとても辛かったですが、その時に稲盛哲学を教わったことで人生が変わったと思います。普通は、企業に入って偉くなろうというような思いがあるのですけども、破綻の時などにはそういう出世欲はなくて、何とか社員の皆さんのために何かしたいという気持ちで働くことができ、それ以来ずっとその思い出仕事をすることができました。
齋藤
藤田さんのお話を聞いていると、目の前のやるべきことを一生懸命やっていたら、気がついたら偉くなっていた、ということだと思うのですが、本当にすごいですよね。
渡辺
数年前、JALを取材した際に、整備の方、客室乗務員の方、パイロットの方それぞれにうかがう機会を得て、破綻の時にどれだけの改革をされたかという内容に驚かされました。必ず立ち直ろう、という破綻当時の思いを決して忘れないことが、絶対に事故を起こさないという現在の決意と姿勢に繋がっているのだと利用者として実感しました。
藤田
ありがとうございます。破綻の時に稲盛さんからの学びを社内でまとめたJALフィロソフィという40項目を記した冊子を作りました。社員や役員が一緒になってその一つ一つを繰り返し紐解きながら、意見交換をする勉強会をずっと続けているんです。

齋藤
こういうことを企業でやっているというのは初めて聞きました、すごいですね。
渡辺
こういう冊子を常に持ち歩いていらっしゃるのですね?余白部分にはご自身の書き込みもあって、『論語』からの引用であったり、哲学的なものを感じます。
藤田
そうですね、三人目の恩師として挙げさせていただいた理由にもなるのですが、稲盛さんは常に自己を磨くこと、自分の心の中心に利他の気持ちを持つことの大切さを教えてくださっていました。
渡辺
人の命を預かるという意味では医師もそうですけれど、ミスが許されない面はありますよね。感謝もされますが、支障なく遂行できるのが当然という認識はぬぐえないので。
藤田
そうですね、この冊子の後ろの方にも、事故で亡くなった方のお名前を記載させていただいています。私はいつも亡くなられた方の無念な気持ち、そして尊い命を背負っているということを意識しています。自分の地位が上になればなるほどどんどんと背負うものが増えていく感覚です。
渡辺
JALの方々にうかがっていていつも感じるのですけれど、これだけの革新を敢行したのに、その経験値をあまり喧伝なさらないのですよね。破綻に対しての痛恨の思いがあるからこそとは思うのですが、立ち直るという意味では、どの企業にも組織にも役立つご経験、もっと広めていただきたいと感じてしまいます。一方で、同時に避けて通れない質問としては、破綻に至ってしまったのはなぜだったと藤田さんご自身はお考えですか?
藤田
一番の問題は、収支意識が甘かったのではないかと思います。私たちは公共交通機関だから、という気持ちがあって、世のため人のためのものだから赤字でも仕方ないのだ、と赤字の路線を黒字にしようとしている人は見当たりませんでした。
渡辺
人の役に立っているのだという使命感を経営よりも優先した、と。赤字になったとしても使命感は放棄しないのだ、という精神こそ正しいと思ってしまうわけですね。
藤田
そうです。ただこれも稲盛さんがおっしゃっていたのですが、黒字にならなければ事業は継続できないし、公共性は保てないと思います。稲盛さんは航空会社の収益は上期に売上げが高く黒字になり、反対に下期には売上げが低くなり赤字になる傾向にあるが、その下期の業績を改善することでさらなる収益が改善できる、ということをおっしゃったんです。安全のためには費用は必要なんだとおっしゃる方もいましたが、利益がなければ安全は守れないとだから、必要以外のものは買わない、コピー用紙は裏側まで使う、無駄な電気を消したり、整備の部品の在庫の棚に値札をつけていくらの部品を使っていることを意識させるといったコスト意識を徹底させたのです。そしてそのことが赤字の続いていた下期売り上げをプラスに転換させ、破綻後の初年度にも黒字になりました。
渡辺
そうやって一歩ずつ歩んでこられた中で、今回の新型コロナウイルス感染症のパンデミック、航空業界はまた大きな打撃を受けました。どのような展望をこの期間に掲げられていたのでしょうか?
藤田
それが驚くべきことですが、稲盛さんがこのような時のための言葉を残していらっしゃったんです。「危機に対する5つの心得」というのですが、第一が全員営業(利益を考えるだけではなくて世の中のお役に立てることを全員で探す)、第二が新製品開発(忙しさによって着手できていなかった市場や開発を行う)、第三が生産性を下げない(お客様が減った時には人員も減らして生産性を落とさない。余力のある人員は教育や職場を変更してあらたな仕事をしてもらう。)、第四が徹底的な費用を削減、(危機のための費用削減だが、そのことで危機が去っても費用削減ができる体制を作る。原価を抑える)、第五が社員とコミュニケーションをよくとること(不況を人間関係を再構築する機会と捉えて社員に向き合う)なのです。これを元にしてJAL版の5つの心得を作りました。その中で生産率を下げないということでは、外部に出向して地域のお役に立つ活動を実施するふるさと応援隊や、普段から必要だと感じた教育プログラムを設定し受講するなどを行って現場の人員は制限して生産性を保ちながら、雇用を守り続けています。社員に稼いでもらうという側面と同時に、その経験は必ず危機が終わった後にプラスになると信じています。
齋藤
なるほど。今後についてはどのように考えていらっしゃるんですか?
藤田
今のトップの赤坂社長が率先して掲げているのが、今までのやり方に固執しないということです。例えばですが、飛行機が飛ばないという状況が続く中で、飛行機を飛ばさなくても収益を稼ぐことができる、そういう経営をしていける経営基盤を構築していこうと考えています。
経営者の立場に必要なこととしてどれだけ社員に時間をかけられるかだと思います。
齋藤
藤田さんのように、トップの方が何か信念を持って物事を行われているときに、その下にいる人たちとその信念を共有し、一丸となって協力して取り組むというのはとても難しい部分と感じるのですが、何か工夫や秘訣などはあるのでしょうか。
藤田
私がずっとやってきたのは、地道な対話です。経営者の立場で必要なこととしてどれだけ社員とのコミュニケーションに時間をかけられるかであると考えていました。対話といっても2時間、3時間かけて社員と向き合うように心がけています。それから自分の行いの中で卑怯なことをしないということです。思っているよりもトップは社員から見られています。リーダーの振る舞いは部下に大きな影響を与えます。そう思っていても自分が満足できる行動がなかなかできないものです。毎日反省ばかりですね。
齋藤
そうなのですね、それはどんな人を対象にされているのですか。
藤田
すべての人を対象にしますが、スポットライトの当たらない職場で努力している人や、評価があまり高くない人たちです。自分は部下のことをどれだけ知っているか、本当の本質までわかっているか、例えば部下を40点だ評価するのはその部下の60点の部分が自分には見ることができていない、そのような自分の器を問い直すというふうに考えるのです。うまくいっていない原因は人にあるのではなく、必ず自分にあるのだと考えるということが大切だと思います。部下を辞めさせない、ということはとても大切です。それと部下を病気から守るということも大切にしています。僕は今まで部下を5人ガンで亡くしているんです。役員になってからは、CWO(Chief Wellness Officer、最高健康責任者)をやらせていただいて、社員の健康維持、促進に努力しました。例えば、会うたびに健康診断を受けるように社員たちにかなり促しています。部下の命を守る大切さをいつも感じています。
齋藤
そうですか、なぜ藤田さんがCWOをやられることになったのですか?
藤田
JALの企業理念の「社員の物心両面の幸福を追求する」を実現するために、会社の中期の経営計画の中に「健康」を組み込みました。経営計画ですので責任者を設置してKPIを設定することが必要であると、その時にもっとも現場に通じていると言われて、拝命しました。ただ、私が1人ではなかなか難しいので、現場で私と同じ思いを持って仕事をしてくれるウェルネスリーダーというのを一般の社員から募りました。200人くらいの社員が応募してくれて、みんなで一緒に社員の健康を守ろうとと奮闘していました。また社員の中で、ガンになった社員を絶対に辞めさせないと決意しました。病気になった社員の就労支援を徹底することで残念ながら亡くなった方はいますが、まだガンになったことで辞めた社員は一人もいないです。
物事を恨まずに素直に受け入れて向き合う意識を得ることができました。
齋藤
JALに入ってさまざまな試練に遭われても前向きに仕事に取り組まれよう、というような考え方は、ご両親やアメリカ時代の影響があるのですか?
藤田
我が家はどちらからというと信仰にあつい家だったのが関係しているかもしれません。仏壇の前に座ってお坊さんのお経やお話を聞いたり、ということは幼い頃からありました。
齋藤
なるほど、宗教が根底にあるのですね。僕が最初にこの企画をやろうと思った時に、何か存在感のある人生を送った人に、どうしてそういう立場になれたのか、なにが良い影響を与えてくれたのかを、うかがって、それを読者の人たちにも知ってもらいたいと思っていたのです。そこで、藤田さんのお話をお聞きしているうちに、今のようになるためには、どういう人生があって、どのように考え方が形成をされたのかなと気になったのです。
藤田
素直さというか、物事が何か起きた時に、恨みつらみではなく受け入れて向き合うという意識や、人にどう思われたいということを気にしないという部分は、そこからきているのではないかと思います。
齋藤
なるほど、その精神をもってJALにずっと尽くしてこられたのですね。
藤田
そうですね。そして65才を転機にして、JALの役員を退任して今までずっとお世話になってきてばかりいたので、何か恩返しとして人様のためにできることをしたいと思いました。そんな時にご縁があって体操協会のお話をいただきました。それまでに体操協会の会長をしていらっしゃっていた方が、僕とは比べ物にならないような大物の方ばかりで何度もお断りしたのですが、スポーツ界もいま改革が必要とされている、是非企業の経験を是非生かして欲しいと説得され、嬉しくて結局受けちゃったんですね(笑)。いつも後から後悔するのですが(笑)。

渡辺
最後に、ICUの在学生やICUを目指される高校生たちにメッセージをお願いできますか?
藤田
リベラルアーツという教養を身につける環境がICUには特に整っていると思います。この素晴らしい環境を通して自分の心の軸を定めるということができると思います。人生の中で何か危機や問題にあっても、自分の軸があるということは大きいと思います。私自身は平凡な人間で人並みの器でしかありません。(笑)。ただ、与えられたことを忠実に誠実にそして着実にやり遂げる、それを、軸をぶらさずに繰り返しやるということが大切だ、とお伝えできたら嬉しいですね。



プロフィール

藤田直志
1956年生まれ。神奈川県出身。1981年に入社し沖縄支店に配属後、パリ・大阪・東京などで主に販売・営業部門を中心に従事。2010年2月に執行役員、2016年4月より代表取締役副社長に就任。2017年度からCWO(Chief Wellness Officer)として健康経営の責任者なり社員の健康の向上に努める。2021年6月に副会長を退任。その後、公益財団法人日本体操協会会長を務める。