プロフィール
- 齋藤
- 誰もが知っているNHKの大河ドラマですが、その実現のために、プロデューサーの方はどんな活躍をされているのですか?
- 家冨
- そうですね…。今も大河ドラマのロケに行っていますが、一日のロケに150人が一斉に動く大所帯なのです。ホテルの手配一つとっても、役者さんも入れて時に200部屋近くを押さえなくてはなりません。そんなことの連続ですね。それが、とても長く続きます。
普通の1クールのドラマなら、3ー4ヶ月弱で制作しますが、大河ドラマは1年以上かかります。人数も、普通のドラマの4倍強のスケールの人とモノを動かしていかないといけない。かつ、時代劇なので、時代考証、そのときにさかのぼって一生懸命勉強して時代を知って動いていくのが特徴的ではないでしょうか。今携わっている来年の大河ドラマは1960年代までかかる話なので、人によっては「時代劇じゃないだろ」とよく言われるのですが(笑)。でも、どの時代をやっても時代劇なので、見た目もゼロから全て作らなくてはなりません。「いだてん」は、来年放送ですがチームの中心者たちが動き出したのは2015年です。
- 渡辺
- ということは、放送開始の4年も前からスタートされるんですね?
- 家冨
- はい。企画として成り立つのか?など、人間リサーチからですね。
- 齋藤
- 何百人もの様々な役割の方がいて、その人たちをマネージしているのがプロデューサーの仕事になるのですね。
- 家冨
- はい。でもそれはプロデューサーの仕事のほんの一部です。NHKのドラマにも色々ありますが、やはり朝ドラと大河が看板の二本柱です。そして、「朝ドラは日本の家族を描きます」、「大河は日本の国を描きます」と掲げながら、制作者たちは作っています。
- 齋藤
- おぉっ!初めて聞いた!
- 家冨
- それでいくと、大河のプロデューサーは日本の国を知らないといけない、知ろうとする努力を怠ってはいけないと思います。今の日本を知りながら、今に響く時代をチョイスしないといけない。そしてそのチョイスした時代の企画を立ち上げて、明るさなのか暗さなのか、シビアなのかホットなのかという「どの世界観を描くか」を決めます。そして、それを描ける人をチョイスし、この監督ならこの助監督陣、この技術陣…など多岐にわたる部門の人をスタッフィングしてメンバー構成をする。それをいくらの予算でやるか?そしてこれをどこで主に撮影するのか(日本よりむしろ海外を選ぶ?とか)、海辺でやるのか山でやるのか、それともこの1部屋のような限られた空間で時にやるのかという場所選び…などなど、段々と肉付けをしていきます。何を言われようがどう転ぼうが最後の最後まで、ひよこがにわとりになって無事羽ばたくまでを見届けるのが仕事です。
- 齋藤
- プロデューサーとはすごい仕事ですね。強いリーダーシップがないと出来ない!
- 家冨
- 昔は一人のプロデューサーが全部のことをやっていたんですよ。でも、最近は、技術革新で様々な要素の技術が必要になったり、SNSの時代にどう売っていくかという広報的なところが必要となったりと、とても一人のプロデューサーでは対応できなくなってきて。そこで、「真田丸」の際に、真田丸の大阪城の戦いで戦った5人衆になぞらえて、プロデューサーも5人、担当分野を持ちつつ情報を常にシェアしてドラマに取り組んでみようということになったのです。
すべての企画を立ち上げる人、全体のプロダクションを実際に動かしていく人、広報担当の人などがいて、その中で私は1年間の撮影スケジュールを作っていました。今回の「いだてん」では、必要な人・モノ・金を動かすという、実際にプロダクションを進行するど真ん中にいます。人を選択するのもそうだし、その人たちがかかるお金もそうだし、キャスティングもそうですし。言ってしまえば、なんでもやです笑。
イメージとしては私の上に大きなボスがいて、その下に私を含め3人くらいがついている感じですね。
- 齋藤
- なるほどなるほど。一人プロデューサー体制だったのはいつごろまでなのですか?
- 家冨
- そうですね。私がドラマ部に来たのが2010年で、当時の大河は「龍馬伝」でしたが、そのときはまだ1人体制だったと思います。放送の技術的な形態が変わったことと、SNSの影響で、大幅に広報部分の仕事が増えて、一人のプロデューサーでは成り立たなくなってきたのです。
脚本家というクリエイティビティに溢れた方達を相手にするのは、言ってみれば(良い意味で)猛獣使いのようなものです。脚本家さんと向き合うための精神力と、毎日の業務をこなしていく精神力は別ものなのですよね。だからそれはもう、「ちゃんと分けようよ」という風になっていきました。初めは先輩達も試行錯誤の連続だったと思いますが、それが初めてうまくいった感があったのが真田丸でした。それを引き継ぎたくて、今の「いだてん」でも似た形の体制でやっています。
- 齋藤
- 真田丸がはじめての成功体験とのことですが、何がうまくいくきっかけになったのでしょうか?
- 家冨
- 私の個人の意見ですが、ドラマ制作って、家族でいうと監督が夫で、プロデューサーが妻だと思っています。妻は自由で時に奔放な夫の要求をいつもじっと聞いていますが、じゃあどっちがドッシリしてるかと言うと、たぶん妻なんですよ(笑)。旦那がどのタイミングでご飯食べたい、お風呂入りたい、次は何を言い出すか?を全部わかった上で用意しておくものは用意しておく。最後までずっと「何があっても妻がいてくれたら大丈夫」な状態にするのがプロデューサーかな、と。
そうしたときに、大規模チーム=大家族とすれば、家族の要求や悩みが多岐にわたりますよね。悩みが増えれば増えるほど一人で妻・お母さん役でやっていくとウツ状態になってしまう。それで真田丸のときにとりあえず皆で分けてやってみたのですが、その5人がたまたま適材適所で、チーム=家族のそれぞれの悩みにかちっと適応していった。更にこの5人がとても会話好きで、小さい事から大きい事までよく会話していたのですよね。
- 渡辺
- そのメンバーでコミュニケーションがとれる、というか、仲がいいのは大切な要素ですよね。でも、子育てしながらだと大変でいらしたでしょう…?
- 家冨
- スケジュールを作るのが私の仕事でしたが、女性で子供がいる人がスケジュールを切ることがNHK大河ではたぶん?はじめてでした。私が子供を抱えて復帰しようとしたとき、真田丸の企画者の先輩プロデューサーに「スケジュールやってみないか?」と言われて「たぶん無理です」ってはじめは言って、だいぶ二の足踏んでいました。200人近い所帯のスケジュールに責任をもつなんて想像できなくて。
でも、「たぶんできるよ。」と妙にハッキリと言われまして。実際やってみたら、実はすごく自分に合っていたのです。プロデューサーからの悩みや監督からの悩み。そういう色んな悩みをきくことが子供のお尻を拭くのに比べたら比較にならないほど楽だった(笑)。
- 渡辺
- シンプルに比べたら、そうだったんですね(笑)?
- 家冨
- だって大人ですし。私、その時大人と会話したかったんですよ。子育てをしているママ友の会話は、「この道具を買ったら明日一日子供と生き抜けるかもしれない」とか、悩みを相談したら、「じゃあ、これとこれを試すと子供が泣き止むよ」とかで成り立っています。そうやってママたちは日々を生き抜くんですが、それと、ほぼ一緒だったんですよ、スケジュールを切るという仕事のミソは。
- 齋藤
- ええー。そうなのですか!?
- 家冨
- 俳優さんの所属事務所の悩みも聞けば、スタッフさんの「あいつはもう倒れそうだ」という相談も聞くし、「このセットがあればあと3日間撮影ができそう」などの物理的な悩みも聞くし。今までは男性が大河のスケジュールを作っていて、あまりに大人数の調整で心が折れてスケジュール役交代ということが少なからずあったのですが、私にとってみれば大人と会話できるので「ありがとう!」みたいな(笑)。
で、楽しくやっていたので、「この業務やっていて楽しんでいる人は珍しいよ」と言われました。やはり、皆、スタッフだって出演者だって話を聞いてほしかったんですよね。私は「真田丸」プロデューサーズの中で唯一女性でしたが、ほかの男性のプロデューサーも会話好きだったので、プロデューサーのLINEグループを作って、大切なことからどうでも良いことまで色んなことを会話していました。
- 齋藤
- 上にボスがいるということでしたが、ボスは実際に意思決定をするような、会社でいうと社長的な役割になるのですか?
- 家冨
- ボスのプロデューサーは、役職名でいうと制作統括ですが、会社に例えるなら社長ですね、チームの社長。
- 齋藤
- それでその下に、他のプロデューサーが副社長的に数人いて、その人たちが良いコミュニケーションを取りながら気配りして、会社がうまいこといっていた、ということですか!
- 家冨
- そうですね。それで、「真田丸」の時はその5人の社長と副社長の関係がフラットな横並びだったんです。上下関係ではないけれど、その社長的な方が大切なところではキュッと印鑑を押してくれるので、みんな言いたいことを言い合えた。
- 齋藤
- きっと今の話は、よく整理してみたら企業経営の奥義に触れることができるんじゃないかな(笑)。
- 渡辺
- 家冨さんは、ドラマ志望でNHKに入社されたのですか?
- 家冨
- はい。ドラマ志望でしたが、当時は入社したらまず地方に一度割り振られて、一通り何でもやらされていたんですね。私は札幌局に配属で、ニュースサポート制作したり、極寒の白鳥が飛来するところに中継に行ったりしていました(笑)。で、その札幌局の時に「ドラマに行きたい」って言い続けていたら、来られました(笑)
- 齋藤
- 看板の大河ドラマを担当できるのは、限られた人なのでしょうね?
- 家冨
- そもそも、今は、ドラマを希望する人すごく多いというわけではないですよ。
- 齋藤
- ええ?そうなのですか。どうしてでしょう?
- 家冨
- 肉体的に辛いという印象があるのではないでしょうか。かつ、最初は何もできなくても、地方で4年もいたら、自分の企画で好きな構成で一本作るのにトライできるようになっている。それなのに、またドラマ部に来てピラミッドの下積みから再スタートとイメージが先行してしまい、みんなハードル高く感じるようです、この10年くらいは…。同じ理由で、私も周りから「行くの?本当に?」と言われていました。
- 齋藤
- 昔の人は3Kだろうとそれが普通だと思ってやっていたんだろうね。
- 家冨
- それでも演出ができるなら行きたいって。昔はドラマが大人気だったので、私の上司達の世代は本当に精鋭部隊です。
- 齋藤
- 大河ドラマに一つ参加しただけで、「生きていて良かったぜ!」って思うものじゃないのか?と思いますけどね。
- 家冨
- 本当に人数が多いので…。今まで自分の企画で、せいぜい3人くらいで完結して責任を持ってやれていたことが、一気に150人体制の中に入ると、ただのコマに過ぎないと思っちゃうこともあるかもしれません。私も正直、それはすごく思いました。だから最初の1,2年はとても辛くて。でも、そのなかでたまたま見ていてくれた1人のプロデューサーに「おまえ脚本担当手伝ってみるか?」と言われて「平清盛」という大河ドラマで脚本担当になったのです。この年次で普通あまりやらないのですけど。
- 齋藤
- 「あなたならいけるだろう」って思わせたのだと思いますが、何がそう思わせたのでしょう?
- 家冨
- 「疲れた」と言わなかったかららしいです(笑)。男性比率が9割ぐらいなのですが、同期や少し上の先輩たちが、「だめだ、しんどい、疲れた。」と言っている横で、ニコニコしながらパソコンいじっていたからって(笑)。
- 齋藤
- それはよくわかる(笑)。「もうあかん。」とか、そんなこと言っている人間は上に引っ張りあげられないよね。要はすぐ逃げちゃう人は一番困るから。
- 家冨
- もう逃げられない事態でした。でも、とにかく、うまい脚本を作るためのアイディア出しはできなくても、脚本家さんって孤独な闘いを強いられるものですから、何があっても最後まで寄り添っていても折れない人(笑)。でチョイスされたらしいです。
ただ、それは自分の性格もありますが、もう一方で、1割しかいない女性としては「疲れた」って言えないのですよ。言った瞬間に、他の男性職員が決してしないような補佐的な仕事に回される。そういう明確なジェンダーの差があるのをなんとなく自覚していたので。「言ったら終わるな」と。
- 渡辺
- 女性進出と言われて久しいですし、先輩方のおかげで女性たちも活躍の場を得られるようになったのですけれど、家冨さんのおっしゃる通り、プロデューサーという職業自体、増えてはきましたが、全体ではまだ女性はまだ少数かもしれません。
- 齋藤
- 確かにね。僕も最初に入り口から入ってきた姿を見た時に「この人…かな?」と思いました(笑)。
- 家冨
- (笑)。プロダクションの社長さんやマネージャーさんにご挨拶をするときに「プロデューサーの家冨です」と言うと、齋藤さんと同じリアクションをされます(笑)。「女性なんですか?」って。そのくらい男性社会なのかもしれないです。「真田丸」でスケジューラーをやっているときも100%驚かれました(笑)。「私、夕方6時半に子供迎えに行かないといけないんで」って言うと「えー!?」って。なぜ男性が主にやっていたかというと24時間ずっと電話を受けるからなのですね。本当はそうでもないはずですが。だから、「それでどうやってまわすの?」と頻繁に言われました。
- 渡辺
- これまでは、ずっとそうでしたよね。
- 家冨
- でも、その時の上司に「あなたを求める人達が200人いたら、誰が本当に今連絡を取らないといけないか。誰に気を配らないといけない人なのか。2週間くらい観察していたらすぐわかるよ」と言われて。それで、観察していたら確かに分かるのです。本当に急ぐべき人たちとだけは6時半から子供が寝る間の時間でも連絡を取るようにしました。LINEだったら子供をあやしながら片手でメッセージを見られますしね。どうしても急ぐ時、ですけれども。
- 渡辺
- それは、子育てと仕事というの大変な両輪生活を実践なさったんですね…! 差し支えなければ、おいくつの時に出産されたのですか?
- 家冨
- 30歳の時なので、5年前です。ちょうどその時「八重の桜」っていう大河ドラマの助監督をやっていました。
- 齋藤
- 会津若松ね。主演の綾瀬はるかが良かった。僕あれ大好きだったんですよ。
- 家冨
- 本当ですか!現場をやっていて突然妊婦になっちゃって。それで最終回を見届けて産休に入ったのです。子供が生まれて、夫も親も結構多忙で、自分は子育てだけの孤独な毎日を繰り返していると「もうだめだ」と思って…。そこで、児童館に通いママ友を作り始めました。子供産んだ、っていう共通点しかないのですが、とにかくお友達を作りたいっていろんな話をし始めて。
一緒に公園にいくだけのママだけど、いかにこの公園に行くだけの限られた時間をどう楽しむかと。それで今まで自分と近いジャンルだと思わなかった人達とも話したいな、と思ったことで、使う言葉の種類が変わったように思います。児童館のサークルに参加して友達を作って、いざ仕事に復帰するという時に引越しすることになりました。小さな子供を抱えて仕事をするには職場の近くに住まないと無理でしたから。
で、引越しの時に、ママ友たちにメッセージの入った色紙を貰って、それにすごく感動しました。自分と同じジャンルなんて括らずに、まずアタックして自分の知らないことほど聞いてみようと思うようになって。子育てする前は、助監督をやって現場で撮影を進行していましたが、美術さんなど、沢山いる職人の人たちに「なんでわからないの?」と怒られたり、ものすごく厳しいことを言われたりしていました。でも、復帰後は、そういうことがなくなった。それまでのように、あの人は苦手とか、この人は偏屈だからなんて思わず、ひとまず何でも聞きますって思えるようになりました。本当に、あの子育ての時のコミュニケーションのトレーニングが現場に生きています。
- 齋藤
- ママ友の交流って、単なるお友達ではなく、子供を育てる上での知恵を教えあう仲間なのですね。
- 家冨
- 結構サバイバルです。時間がないけど、1時間捻出して本を読みたい。それにはまず本を読む体力がなければならない。ということは夜寝なきゃならない。でも子供は寝てくれない…。じゃあ夜寝付かすにはどうしたらよいか?そんな話をすると、「このアイテムがあると寝やすいよ」って教えてくれて。それで子供が寝てくれて、本を1時間読むっていう成功体験につながったら、他の人に教えてあげようって思うのです。サバイバルのリレーなのですよ。
子供が急に具合が悪くなった時、次に何が起こるのか?病院連れて行くときにタクシーだとあの道はだめだ、電車も混んでいてだめだ、じゃあどうする?というように、そこに到達するまでの具体的な話を一つ一つ進めていくんですよ。これって実はドラマのプロダクションと同じ。そういうことに最近気づいて、それについてエッセー書こうかなって(笑)。
- 齋藤
- なるほど、子育てのトラブルに筋道を立てて考えるのはプロダクションと一緒ね。だいたい事業でも筋道をたてて時間の流れで考えることが多いのだけど、そうすると大体漏れがない。何をどの時点でやったらいいかがわかるし、ある時点でうまくいかなかったらそれは何故だろうということを考えて。そこを解決したらもっと流れが良くなる。それと同じことをやっているのですね。
- 家冨
- そうですね、4年間育ててきて、今になって気づきましたが、あの時必死にやっていたことーちょっと時間がないけれども、その時間の中で子供を病院に連れていくとか、コンビニご飯ではなくちゃんとしたご飯を食べさせたいなどの、達成しなければならない目標があって、それを実現するにはスーパーに行って何を買えばいい?というような毎日の切迫した事案がある。「子供を正直に育てたい」「子供と笑顔で話せるようになりたい」という夢があって、その夢と現実がせめぎ合うところをどう解決するかーそれはプロダクションと一緒だなって気づいたんです。
だから、今、ようやく増えてきた女性の後輩が妊娠したりするタイミングなのですが、そうなったときに、私は彼らにスケジューラーを勧めています。そうすると、仕事上でやっていることが、子育てで自分がやっていることと同じだって気づく。誰かの補佐的な仕事は人に左右されるけれど、スケジューラーだったら自分で責任をもってやれるから。
- 齋藤
- なるほどね。先ほど同僚は9割が男性とのことでしたが、ひょっとするとおっさんをマネージするみたいな、そんな秘訣もあったりして?(笑)。
- 家冨
- 自覚的にやってきたわけではありませんが、発見してきたことは「おっさんマネジメント」だなと思います(笑)。どんな理不尽なことを言っている人でも紐解けば理屈がある。モノを喋れない赤ちゃんがなぜ泣いてるの?というと、おしめが濡れているから。など、何か理由がある。それを子供に教わって。復帰してから今まで大嫌いだった面々がだんだんとラブリーに見えてきたような気も…(笑)。
だから、この辺の歯が抜けている先輩とか(笑)、以前はなんで?と拒絶しかねなかった人にも、今は「なぜこの人は歯を入れないのか…?良い歯医者を紹介するよ?」と、冷静に見られるようになりました(笑)。
- 齋藤
- 今のはすごい話ですね。僕はコンサルティングをしていて、コンサルティングとは問題解決の世界なんだけど、基本はそれ。なんでこんなこと言うのか?なんでこんなことが起きているのか?それを突き詰めていって、解決することなのですよね。
- 家冨
- 私自身が姉妹だったから男の子っていうのは本当に新しくて。息子を育てながらどうして男ってこうなのかしらと考えるんですが、会社に行くと答えが広がっているんですよね。それに、このおじさんたちも何十年か前はこの子と一緒だと思えば可愛いかなって(笑)。
- 渡辺
- NHKにドラマ志望で入局される前、大学時代にもそういう萌芽というか、きっかけはあったのですか?
- 家冨
- 全くありませんでした。専攻は全然違う経済でしたし。ただ、おばあちゃんは映画のオタクで、母親がテレビドラマオタクで、空気を吸うように映画とテレビを観ていていました。大学時代に演劇をやっていたこともなく、ただ好きだったんですね。で、進路を考えたときに、人生一回だし明日死ぬかもしれない身なら好きなことをしようと思って。「映画系のことをちゃんと勉強できるところに留学するか」と。
- 齋藤
- どちらに行かれたのですか?
- 家冨
- バーモント州のミトルバリーカレッジという大学で、教養学部をベースにした学部体制で、ICUと似た雰囲気があるところです。そこで短いサイレントフィルムを作りましたが、それがめちゃくちゃ楽しくて。自分でその辺の学生に声をかけてキャスティングして、自分で絵コンテ描いてカメラ回して編集して。
- 齋藤
- 留学していたのは何年くらい?
- 家冨
- 1年だけです。大学で色々やっていたのでしょうね、と言われますが、特にやってなくて、いつも母親とドラマを見ていたんです。母親が自由奔放な人で、暴力や性的なシーンがあっても10才だろうが15才だろうが見せられていたんですよ。それで、テレビの編集に対して母親が真剣に怒るんです。「あんなレイプシーンだったら彼女の悲しみがわからない!」と。そういうことをバンバンいうのですよ。性描写が全くまったくわからないような時期に。ただ怖いし気持ち悪いなと思っているけど母親が怒っているからとりあえず聞く。それで、母親の怒りを見ていると「これはきっと足りてないんだな、この絵の中に」と思えて。母親がこれは名作だっていうのを観ると、確かにこれは良いんだなって、思えるんですよ。それでその母親の言う良し悪しに興味が出始めて。母親と本当に母娘らしい会話って今の今までしたことがないのですが、ただ一つ、映画とテレビドラマに関しては真剣に議論する。そういう母娘関係でしたね。
- 齋藤
- 良いドラマとか良い映画ってとは、どんなものを良いって思われますか?
- 家冨
- それは私もずっと考えていますが、最近は、観たときに「これをやりたくて作り手の人はやったのかな」と思えたらそれは良い映画なのだな、と思っています。例えば、最近観た中では「ROOM」という映画です。監禁された女の子がその監禁した犯人の子どもを身籠って10数年監禁されたプレハブの中で子育てをするんですよ。それで最後はそこから脱出して、2人で全然違う人生を歩むという映画で、言葉に書くと残虐なんですけど、映画ではちっちゃい子供が生まれてからたったの一部屋で育ったとしても、いかにキラキラとものを見てるか?という描写があるんです。子供の無尽蔵の強さとか、それを見るにつけ母親はどんどん苦しんでいく。母親の母性の苦しみみたいなものも共存してあって。きらめきと、残酷な気持ちっていうものがこうも描けるんだって。映画を観終わったときにとにかく子供のキラキラが印象的で、この監督はきっと子供目線がやりたかったんだな、と思って。久々に映画を観終わった後にパンフレットを買ってプロダクションを見たら、やはりその部分は原作には無かったというのを発見したときは嬉しかったです。
- 齋藤
- そういう感じ方、感受性が、おばあちゃんやお母さんとドラマを見たり一緒に会話したりしている中で培われてきたのですね。人が、そういうことだけで、そこまでの感性を持てるようになる。これはなかなか面白い発見だな。
- 家冨
- そうですか(笑)自分で分析をしたことがなかったので。
- 齋藤
- 以前ICU生で非常に英語のうまい子がいてね。帰国か留学かと思ったら「わたし海外行ってないんです」と言うんだよね。彼女はずっとFEN(米軍向けラジオ放送)を聴いて、喋っているのを後からついて真似て喋っていたらいつの間にか喋れるようになっちゃったって言っていた。あのときも新鮮な驚きだったな。この彼女とはちょっと違うかもしれないけど、家冨さんの話って「あれ?これでこんなに偉くなっちゃったの!?」と、これを読む人が思ったら素晴らしいなと思うのですよね。母親が「それは見てはだめ」ってではなくて、「何処がよくて、何処がダメ」を言ってきたのが重要というのは、これはなかなか読者にとって良いメッセージだと思います。
- 家冨
- まあ、母親とそれ以外のことではそんなにベタベタ仲良くはないのですけれど。でも、やはりこの人の良いと思うところは、真剣な所なんですよね。真剣に笑うし真剣に泣くんです。それが、見ているものがシンドラーのリストだろうがクレヨンしんちゃんだろうが、いつも真剣なんですよ。
- 齋藤
- お父さんの話は出てこないね(笑)。
- 家冨
- そうでしたね(笑)。父親からは全く別のものを貰ったかな。父親は医師で総合病院に勤めていたのですが、いつも宴会芸をやらされていたんですよ(笑)。「こんなに人がいるのに、どうしてあなたなの?」と父親に聞くと、「どうやら僕は請われる、何かを頼まれてしまう存在らしい」と言っていて、私はちっちゃい頃は恥ずかしかったんですが(笑)、今こんな大所帯の中にいると自分にも同じことが起こっていて、「誰に相談したらいいかわかんないんだけど、とりあえず家冨ちゃんに言っとくわ」と言われることが多くあって。でもその相談に乗って逆にこちらが何かを得ているものもあって。何でも請け負っても、「NOといわない日本人」でも良いかなと。そう思えたところは父親から学んだかなと思っています。
- 渡辺
- 素敵なお父さまとお母さまですね。
- 齋藤
- 家冨さんはご出身はどちらなんですか?
- 家冨
- 東京です。
- 齋藤
- 東京だよね、大阪じゃないもんね(笑)。そのお父さんのノリから言うと大阪人かなと思ってしまった(笑)。
- 家冨
- そうですか!(笑)。父を慰労しようとして最近一緒に飲みに行きまして「本当に良く頑張っているね、あの人と結婚しながら」って言ったら、「でも、彼女は本物を常に子供に見せようとしていたと思うよ。あのやりかただけど」って父に言われたんです。子供のころにおばあちゃんと「仁義なき戦い」の映画を観ていて、戦争描写が好きだったりしたのも、良い物はたとえ残虐だろうと良いから、そういうもの見せようとしてくれていたのかなぁって。そうやって父の言葉で自分を納得させようとしているのですが(笑)。
- 渡辺
- すごい。それって、お父さまがお母さまのやり方や言葉を翻訳して下さってるわけですものね。
- 渡辺
- もう一つうかがいたいのは、NHKを受けられたのはどうしてだったのでしょう?お話を聞いていると、大学卒業後、そのまま映画にいく道も考えられたのかな、と?
- 家冨
- 会社を受けるか、撮影所に入るか、二択で考えていました。それで日活とか見学に行っていました。でも父親が「撮影所もいいけど女の子だからちょっと心配だ」ってつぶやいて。それがちょっと引っかかって会社を受けようと。それである映画会社ですごく好きなところがあって、単純に自分の創りたいものを創っていたからという理由でそこかNHKにしようと決めました。その映画会社の会長さんにすごく憧れていたのですけど、その方に最終面接をしていただいたんですね。そこで、「君がもし入ったら、君の向き不向きで言うと最初は宣伝に入ると思うよ」と言われて、「宣伝……?」と思ってしまって。そのときは宣伝のことをよく分かっていなかった。かたやNHKは「最初は地方に行ってもらうと思いますが、いずれ一人で番組を作ってもらいます」という風に言われて。その時の私はNHKをとりました。
私が映像業界で仕事をしたいと思ったきっかけが、この会長さんの書いたプロデューサーについての本を読んだことでした。人として本当に憧れていた方にお会いでき忘れられない面接になったんです。それで内定をもらったあとに、「行きません。でも本当に有難うございます」という手紙を5枚くらいしたためて勝手に送りつけて。5年くらいは後悔を引きずりました。
- 渡辺
- 会長さんとはその後、会われましたか…?
- 家冨
- いえ。でも子供を産んで、復帰した後、ひょんな繋がりから、その会社のプロデューサーさん達と会う機会があって。不思議な縁だなって思いました。
- 渡辺
- よかった。ご縁って、そういうものですよね。これから、その方と仕事をなさる機会があるかもしれませんものね。そうして、まずはNHKの札幌で番組作りから積み上げられたのですね。
- 家冨
- そうですね。取材を多くしていましたが、当時の上司が社会系のドキュメンタリーを作っていた方でした。同期は中継とか芸能系番組とか多く割り当てられていましたが、私はドラマをやる限りは人間を取材する癖をつけたほうが良いということで、道南の酪農家さんなど一次産業の人達を取材したりしていました。その後、「倉本聰さんの取材をしてみたら?」とその人に言われて。それで富良野塾にほぼ塾生と同じように入門して…(笑)。
- 渡辺
- 入塾されたのですか!?
- 家冨
- 「最後の入塾生っていうのが入るらしいから、彼らを取材してみたらどう?」ということで、まだ企画としてまだ成り立ってもいないのに「とりあえずお前も行ってみろ」と。その時26人塾生がいて、私は27番目の(括弧)のついた塾生風で、ほぼほぼ一緒にいました(笑)。それで、倉本さんのところにいながら局と行ったり来たりをして、結局2年半ぐらい取材して倉本さんのドキュメンタリーを2本くらい作って、倉本さんとNHKサポートのコラボレーションでラジオドラマをつくって、ドラマ部にきました。
- 渡辺
- テレ朝のドラマ「やすらぎの郷」のヒットも記憶に新しいですが、倉本聰先生との時間は、いかがでしたか?
- 家冨
- そうですね、その時間というよりも、あの時倉本さんに言われた言葉…それは取材としてインタビューで返ってきた一言でもそうですし、それだけじゃなくて取材のあり方とか「NHKはこれでいいのか?」みたいなこととか120%オープンに話してくださったことが、今になって響いてくるのです。今NHKに入って11年目なのですが、ふと思い出す師匠の言葉、みたいなものってあるとすると、その時の倉本さんの言葉がそれだなと思います。倉本さんに会いに行くことを勧めてくれた上司と、倉本さんが言ってくれた言葉が私の札幌時代の大きな原点ですね。
- 渡辺
- どんな言葉があったのでしょう?
- 家冨
- ほんとに何もわかっていないダメダメなディレクターでしたので、バシバシと切られて。「なんか不躾だ、失礼だ、物がわかってない」とか、いろいろ言われました。
- 渡辺
- 厳しいですね。響きましたか…?
- 家冨
- その時は、そうですね……響きもしなかったかな?響きはしていたんですけど、何が悪いのかわからなかった。なんだか、とにかく自分はだめらしい(笑)と。ただ、あの時言われた言葉だけは、言葉としてインプットされて今に響くんですよね。
- 渡辺
- 倉本先生は厳しい。けれど、温かい。率直な言葉を投げかけられます。日本という国の方向性はこれでいいのか?マスコミのあり方はこれでいいのか?など、憂うからこそ忌憚ない言葉を若い世代に向けて警鐘として発し続けられるのだと思うのですが、家富さんは、倉本先生の言葉がきっかけで変化した部分はありますか?
- 家冨
- そうですね。「創るということは狂うこと」と言う言葉を繰り返しおっしゃっていますが、倉本さんはNHKのドラマ部と敵対して、喧嘩したあとに西口からそのまま空港に向かって札幌へ行っちゃった方なんですよね。今私はまさにそのドラマ部にいるんですよ。倉本さんは、大河ドラマに携わった中で「組織として成り立つことを優先して、本当に面白いものをクリエーションとして創ることがなかった」と。ちゃんと、きちんと仕上げることは一見良く見えるけれども、それがやっぱりだめで、ちゃんと狂うことでなければならないと。
その意味がその時はさっぱりわからなくて、今そんなこと言ったら、「わかってなかったのか!」って怒られそうですね。でも、今、私も大河ドラマに携わり、様々なことを準備する中で、過去何本も大河ドラマをやってきたからまとめようと思えばやれちゃう。でもそれやっても楽しくないよね、と思うことが出てきます。まとめて、オーソライズされる作業は必要でも、「それがやりたいことじゃない」ということを色んな人との調整の中で思う。そうすると、頭の横に毎回ポワーンと倉本さんが浮かんできて。誰も見たことのない新しいものや、愛憎、すごく難しい表裏一体のせめぎあいみたいなのを限られた時間の中でどうやったら描けるのかなって、調整役をやりながらいつも思います。その倉本さんの言葉があるから。
- 渡辺
- なるほど。でも、難しいですよね、家冨さんが調整しないと成り立たなくなるのも事実だから。
- 家冨
- そうなんです。みんなと話すと、たぶん嫌われていないとは思いますけど、立場は嫌われ役です。いろんなことに時にはダメって言う係だから。
- 渡辺
- 倉本先生とは連絡を取っていらっしゃいますか?実は私、近々、雑誌の取材でお会いする予定なので、ご伝言などあれば。
- 家冨
- 本当ですか!?私は東京で倉本さんの公演があるたびに観にいくようにしていて、多分名前は覚えていてくれてないと思いますが、顔を見れば、あの時の括弧がついた変なのがいたなぁって覚えてくれていると思います。ご迷惑をかけたので。
札幌時代に倉本さんの取材をしていたときにすごく印象的なことがあって。取材の合間、空き時間に、ゴルフ場の跡地で倉本さんがふっと奥に消えたからついていったんです。そしたらちょいちょいって手招きされて。行ってみたら、そこに大きなバスがあったんです。中にキッチンが付いているキャンピングカーで、そこで倉本さんがスケッチブックを出してデッサンを始めたんですよ。その周りに森があって、いつもそこで木を描いているんです。それを見せてもらって、「(カメラ)まわしててもいいですか?」ってきいたら「良いよ」って。先生が描いているのを撮らせてもらったんです。それを受け入れてくれて、先生の一番個人的なものを見せてくれたのはすごく嬉しくて、ずっとそこで見ていましたね。
ずーっと木の肌を描いているんですけど、「木って全部同じじゃないんですか?」って言ったら、「わかってねーな」って。枝がどう分かれているかを描いているのですが、線ではなくてすべて点で描いているんですよ。点の一個一個の積み重ねで描いているけれど、倉本さんのこだわりは折れた木肌をちゃんと描くってところで。「これは風が吹いてこうなったのかな?」「雷でやられてこうなったんだな」というような木の歴史、履歴を見ている。ドラマの人物も考え方がこの木たちと一緒で、「どういう日の積み重ねでここにいきついたかを考えるのが一番大事なんだよ」と。
- 渡辺
- …脚本の、文字にならない部分ですよね。すごく素敵なお話ですね。
- 家富
- 今までの長いドラマ人生の中でいろいろなことを背負っていて全部引き受けているけれども、究極のところ、倉本さんが一番大事にしているところはすごくピュア。そのアンバランス感がすごく印象に残っていますね。
- 渡辺
- 家冨さん、もしかしておじいちゃん子でしたか?
- 家冨
- おじいちゃんはいなかったのでおばあちゃん子ですね。
- 渡辺
- そのおばあちゃまがお好きな映画って、具体的にどんな作品ですか?
- 家冨
- おばあちゃんは、おじいちゃんと銀座でデートしてそこで映画を観るのが好きだったみたいで、ジャン・ギャバンの映画を観ていたそうです。「ここで主人公が死んじゃうの?」というような、日本だと絶対やらないストーリー展開で「でもそれがひいては人生だ」という映画なのです。私はジャン・ギャバンを知りませんでしたが、おばあちゃんと一緒に観ていてすごく好きでした。バーモントの大学留学中、ヨーロッパフィルムノワールの授業で、テキストの中にジャン・ギャバンの顔を発見して、この人がきっとリアルな時代におばあちゃんたちは映画館で観ていたんだなと。
- 渡辺
- じゃあ、お母さまの認めるドラマ、お好きなドラマって具体的には?
- 家冨
- これがまた、何の因果か倉本作品なんですよ。「前略おふくろ様」です。
- 渡辺
- さすが。家冨さんのドラマについては、何かおっしゃってますか?
- 家冨
- そうですね、「世界観としてはいいと思うわ」「もっと脚本の劇的な持っていき方ってあるわよね〜」とか(笑)。つまんないものはつまんないって言いますしね。
- 渡辺
- 素敵(笑)。家冨さんは、そのお母さまの真剣さが若干、嫌というか苦手だったんですか?
- 家冨
- ドラマに対する真剣さは嫌ではなかったです。「あなたのその感想はいけてないわ」と言われても、まだ私は達していないんだな、って思っていました。
- 渡辺
- そうか…お母さまの強さは、きっと家冨さんにも引き継がれていて、それは今となっては支えになっているのじゃないかと思うのですけれど、中学高校の頃、思春期には反発心を招くこともあったかも…その分、自立心も養われますよね。
- 家冨
- 自立心というより、逃げたいって気持ちですね。早くどうにか逃げたいと思っていました。
- 渡辺
- そんな頃、どうしてICUだったのですか?
- 家冨
- いろんな大学の学祭などを見に行って、一人一人の顔が見えたからでしょうか。先輩が話かけてくれたりして、一人一人の顔を覚えられたというような。雰囲気も、学生のグループ感がなくて良くも悪くも一人ひとりが個性的だなと思ったんです。高校でも部活に入っていなかったし、グループにはいたけれど馴染んでいなかった。「学ぶこと」ではなくて「居やすいかも」という空気感。それで大学選んじゃいました。
- 渡辺
- 大学選びや留学先選びなどで感じるその直感と冷静さは、小さい頃からですか?
- 家冨
- どうでしょうか。集中力はあると父親には言われていましたけどね。迷路が大好きで自分で描いていたんですよ。その他のことにはよく抜けがあるし、運動神経悪いし、だめなものの方が多かったんですが、はまるものにはすごくはまってずっとやっているっていう。もう典型的な劣等生です。当時「たんけんぼくのまち」っていう教育テレビがあったのですが、その中に出てくるチョーさんが知らない町に行って、その時に会ったおじいちゃんなりおばあちゃんなりを一枚の模造紙に消せないペンで、ぶわーって、描く。町の造形とこんなところにこんなものがあったっていうクラウドデザインができて。それで「はい出来た」という、たったそれだけのテレビ番組だったのですが、それがすごく好きでした。私はチョーさんになりたいと思って、誰に見せるわけでもなくその日出会った人や町を長さんの真似して描いていた。父には「本当に飽きねーな」と言われていました(笑)。
- 渡辺
- なるほど〜。これが好き!とか楽しい!っていう察知力がすごく高いですよね。お父さま譲りかもしれませんね(笑)。
- 家冨
- 宴会芸ですね(笑)。
- 渡辺
- そして、お母さまもそうなのかもしれませんね。私はこれが好きという発見、加えて集中力と真剣味。自分が楽しいものを察知して続けられる力は、ご自身がとても幸せだし、社会にとっても貢献ですものね。家冨さんは、その能力をご両親から譲り受けた上に、ご自分でも培われたんですね。
- 家冨
- わからないです(笑)。もはや自分を客観視できないです(笑)。
- 渡辺
- では最後に、ICUに在学している学生の皆さんや、これからICUを目指そうと思ってくださっている方々にメッセージをお願いできますでしょうか。
- 家冨
- そうですね。あえて言うならば、大学に対する“愛情”は仕事をして10年くらい経つまで無かったのですが(笑)、10年経ったらすごく好きになりました。
- 渡辺
- 何か、きっかけが?
- 家冨
- 責任のある仕事をやればやるほど、判断に迷ったときに寄りどころになる思想やアイディアはICUにあったかなと思います。それこそ倉本さんの話と一緒になるのですが、どこかの集団なり何かのノリ中に埋没することを良しとするのではなく、本当に大事なのはこの人が面白いと思っているもの、その人が見ているものにある。その個性が重要なんだということ。それはICUが原点だったかなって。唯一ドラマ部にもう一人ICUの先輩がいて、いつもその人と私にしか共鳴できないことなのですけど。
- 渡辺
- なるほど(笑)。なかなか、それは共鳴されないものですか?
- 家冨
- されないですね。たとえば、ドラマで脚本家さんと付き合うのですが、脚本家さんって1を100にするのではなく0を1に動かす人。本当に孤独なんです。その孤独さと良さをわかって注文してあげる。こんなにメリットのある、巨大な大組織とたった一人の人を、「どっちをとるんだ?」って言われたときに、迷いもなく「こっちじゃない?」と言えるのはICUにいたからかなって。
- 齋藤
- なるほどね。
- 家冨
- いつもこの議論になるのですけど、その先輩もいつも一緒で、「どっちの立場なの?NHKの立場なの?その人なの?」という言葉に対して「この人ですね」とさらっと自分の意見を言えるのはICUのお蔭だと思っています。
プロフィール
「平清盛」(2012)、「八重の桜」(2013)、「真田丸」(2016)、など大河ドラマや朝ドラの他に「悦ちゃん」(2017)など数々のドラマ制作に携わる。現在は子育てをしながら来年放送の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」のプロデューサーの一人として忙しい毎日を送る。