INTERVIEWS

第60回 田中 朗子

キヤノン株式会社執行役員、キヤノンバイオメディカル社長兼CEO、キヤノンUSライフサイエンス社長兼CEO 

プロフィール

田中 朗子(タナカ アキコ)
1963年生まれ。高校時代は父親の転勤の都合でデュッセルドルフにて過ごす。1982年国際基督教大学教養学部自然科学科入学。1986年国際基督教大学卒業後キヤノン入社。新規事業開発部門やトナーカートリッジ事業で活躍した後、2012年キヤノンUSAに出向、同社シニアディレクターとなる。2015年よりキヤノン初の女性執行役員となり、現在はキヤノンバイオメディカル社長兼CEO、キヤノンUSライフサイエンス社長兼CEOを兼任している。
インターナショナルスクールの先生に「あなたは絶対ケミストリーを専攻すべきよ。」と言われてICUのNS(自然科学)に入ったら・・・失敗したと思いましたね(笑)。
渡辺
年に数日しか帰国なさらないというお忙しさの中で、時間を割いてくださってありがとうございます。こちらのキヤノン本社には初めてお邪魔したのですが、広々とした空間や見晴らしが素晴らしくて……近未来のオフィスみたいです。
田中
ありがとうございます。同窓会からメールでお話をいただきまして、そんな恐れ多いことと思ったのですけれども「ぜひ。」とおっしゃって下さったのでせっかくですからと思って。お二人にお会いしたいという気持ちもありました。
斎藤・渡辺
ありがとうございます。
渡辺
斎藤さんは田中さんとお会いになるのは初めてですか?
齋藤
初めてです。おめにかかれるのをすごく楽しみにしてました。
渡辺
今はどのくらいの割合で日本とアメリカを行き来していらっしゃるのですか?
田中
年に2回は必ず日本に戻ってきます。本社に来れば一番効率良く会社の役員に会って情報交流ができるので。アメリカに行って今年でちょうど5年になるのですが、アメリカが生活の主体ですね。日本ではだいたい二週間くらいの滞在なので、ホテル住まいをしております。
齋藤
上場企業で女性の役員比率というのは3%。しかもキヤノンのようなメーカーはものづくりの世界で、ものづくりの世界はともすると男の世界といわれているのですよね。その中で女性が活躍するということは非常に難しいとされているのに役員になられたのはすごいことですね。
田中
あまり実感がなくて。キヤノンには技術職で入社いたしました。キヤノンに拾ってもらったのは、男女雇用機会均等法のおかげ。技術系の女性を採用しようという会社が一気に増えたことにより需要と供給のバランスが崩れたからだと思います。男性が多い環境だったので自分が女性だということはあまり意識しておらず、本社に勤務地が変更になった時に「女性は制服を着るんですよ。」と言われて「おっ、女性だったか。」と初めて実感したくらいです。
齋藤
ICUでは何を専攻されていたのですか?
田中
自然科学(NS)で入りケミストリーを専攻しておりました。
渡辺
化学がお好きだったのですね?
田中
これは大きな勘違いがきっかけですね。

ICUの前は日本の公立の小中学校を卒業して父の仕事で西ドイツのデュッセルドルフにいました。アメリカンインターナショナルスクールに入ったのですが、そこは幼稚園から高校3年生まで250名の小さな学校で75カ国くらいの国と地域からの生徒が混ざっていました。その中でも日本人は結構数学が得意で、しかも数学が得意だと理科も得意になる。少人数ではありますが、色んな国の人たちがいる中で「あなたは理数系が強い。」と持ち上げられ、当時のケミストリーの先生が「あなたは絶対ケミストリーを専攻するべきよ。」と言って下さいました。彼女は「ケミストリーは女性にとっても合っているの。薬を混ぜて色んな色が出たり、色んなものができるっていうのはすごく女性的だと思わない?」と、とても面白い言い方をされておりました。何となくそのアドバイスに乗せられ当時は帰国子女を受け入れる大学が少なかったものでICUにNSで入ったら・・・失敗したと思いましたね(笑)。

NSに入られる方はエイプリルが多かったので、しっかりと受験勉強して当時の共通一次試験で満点に近い点数を採った純ジャパ(海外経験のない純粋な日本人)の学生や留学をしたいから英語も勉強もできるからとステッピングストーンのような感じでICUを考えていらっしゃる学生が多くいらっしゃいました。そういう方々と一緒に勉強していると、もうついていけなくて、どうしておだてられてここまで来たものかと思っていました。でも、もうその頃は後ろを振り返ることもできなかったので、これはみんなに助けて頂きなんとか卒業するしかないなと思いました。

渡辺
ICUに、というか日本の大学に入ろうと思われたのは田中さんご自身ですか?それとも、ご両親のお仕事で日本にご一緒に戻っていらっしゃったのでしょうか?
田中
父の仕事で、日本に戻ることになったんです。私は、1つ違いの同じインターナショナルスクールに通っていた弟と学年末の6月末までドイツにいようと決めていたのですが、両親は「お父さんは3月末から日本で仕事だからお父さんとお母さんは日本に帰るね。2人は学年末までいて帰ってくればいいよね。」と言って帰って行ってしまって。すごいですよね(笑)。それで、私と弟は単身者の駐在員用のアパートに引っ越しをさせていただいて、ほんの4ヶ月ぐらいを弟と2人で過ごしました。
渡辺
素敵なご両親ですね! 10代の高校生の頃に、ご姉弟ふたりきりで4ヶ月を乗り切るというのは得難い体験だったのではないでしょうか?
田中
そうですね。その当時は海外送金が簡単にできない時代だったので、親に「これだけで暮らしなさいね。」と銀行にあるお金をぽーんと預けられました。引き出す度にお金がどんどん減っていく恐怖を感じながらのお買い物は中々スリリングでしたね。
渡辺
ということは、田中さんは英語、ドイツ語の両方がご堪能なのですね。
田中
インターナショナルスクールはアメリカ式の教育システムでしたので英語でしたけれど、ドイツ語も必須科目でやっていました。日本では公立の中学校にいたのですが、その時は英検3級(笑)。英語の先生にドイツのインターナショナルスクールに入ると言ったら、先生が高笑いしながら「あなたの英語能力で英語の勉強をするの?!」って。彼女は無邪気な気持ちで言ったんだろうけど私にはグサッときましたね。父は「英語の学校しかないのだから仕方がない。行けばなんとかなるだろう。」という感じでしたが、実際に入ってみたら青くなりました。行った瞬間に言葉がわかりませんからね。
渡辺
新しい環境の中に入って、そこで言語から全てを肌で覚えていくというのは大変なことだと想像します。なじむのには、かなり苦労なさいましたか?
田中
日本人が数人いたので導入部は助けてもらいました。あと、学校はアメリカのシステムが充実しており、ESLのクラスで先生方がすごく丁寧に文化の違いとか色々教えて下さりそれに助けられました。高校の3年間で英語とドイツ語ができるようになったかというとだめでしたね(笑)。生活ができる程度にドイツ語はできるようにはなったのですが、高校卒業後に日本以外で勉強しようと考えなかったのは英語がまだまだダメだなと思っていたからです。聞くのは3ヶ月くらいすると慣れてくるし、わからない単語は辞書を使いながら覚えたりするのですが、それで話せるようになるかといったらそうではないですよね。なるべく喋りたいと思っても会話のスピードが速いので、うまく入り込めず、大縄飛びの時のようにタイミングを見計らっていましたが、結局いつまでも外側から眺めているだけという感じになりましたね。
渡辺
中学卒業というタイミングだと、仲のいいお友達も近くの高校に進まれたりするでしょうし、田中さんだけ日本に残るとか一人で戻るという選択肢は頭をよぎりませんでしたか?
田中
ノーチョイスでした。その時はすでに祖父母が亡くなっていましたので祖父母を頼るということはできませんでした。そうなると、親がいる所に自分もいるしかないと思いました。学校にしばらくいると、英語が喋れなくても書いたり読んだりすることはついていけましたし、数学と理科は得意だったので成績が少しずつとれるようになってきたら、必要な時に喋ればよいのであって、喋らなくてもやることをやっていれば卒業できると思い始めました。
ものをつくってお客様を見ながら商売するというのが原点ですし、そのほうが自分にあっているかなと思い現在の会社を選びました。
齋藤
なぜキヤノンに入ろうと思われたのですか?キヤノンといわれると一般的には機械系と考えてしまいあまりケミストリーと関係がないように思われるのですが。
田中
これも勘違いで(笑)。ここでラッキーだったのはコンピューターが得意だったということです。私が通っていた高校はインターナショナルスクールの中でもかなり早い時期にコンピューターを導入した学校でした。コンピューターサイエンスのクラスが開講されてすぐに受講しました。だから、ICUでは他の学生と比べるとプログラミングは1歩か2歩先に行っていたのでコンピューターの授業はすごく面白かったです。

ケミストリーでは物理化学を専攻していました。この領域はシミュレーションが多いのですが、そこに自分が得意なプログラミングをかなり引き寄せ、その専攻内容を書いてキヤノンに応募したらソフトウェア技術者として採用されました。当時、ソフトウェアの技術者は欲しくてもどこにもいないという状態だったので、それでひっかかりましたね。外資系のコンピューター系の会社に内定をいただいたりもしたのですが、やっぱり外資よりも日本の企業に行きたいという気持ちがありましたね。金融関係からも内定をいただいてはいたのですが、専攻していた物理化学では扱うものが目に見えず苦労したのでやっぱり目に見えないものを扱うのは無理だと思っていました。ものをつくってお客様を見ながら商売するというのが商いの原点ですし、そのほうが自分に合っているかなと思いました。

齋藤
すばらしいですね。けど、お父様はメーカーさんにおられたわけではないわけですよね?
田中
ええ、日本人学校の先生です。数学を教えていました。
齋藤
そこでつながるのですね。
渡辺
中学までの日本の学校でも数学や理科の方がお好きでしたか?
田中
そうですね。国語は嫌いじゃなかったのですが、社会科なんて勉強する意味がわかりませんでした。やらなくちゃいけないのはわかっていたのですが、例えば細かく年号を覚えていくことの意味がわからなかったです。私の生活はこれがなくても生きていけるわけだし、それが生活とどう関係あるのかということも本当にわかりませんでした。パッと計算で答えがでる理数系の科目を合理的だと思って好んでやっていたのだと思います。
齋藤
このインタビューで随分と多くの人とお会いさせていただいたのですが、9割くらいの人が大学の成績が良くないのですよ。田中さんの場合はいかがだったのでしょうか?
田中
全然よくなかったです。いつも平均以下でした。期末にアドバイザーの先生と面談するのがとても気が重かったです。成績表を見る先生のため息が聞こえるような気がして。
齋藤
僕はアメリカ人の先生から「お粗末でした。」って日本語で言われました(笑)。
田中
わざわざアメリカ人の先生が日本語で「お粗末でした。」って(笑)?!私も似たようなことがありました。山をかけてそこだけ勉強しておけばなんとかなるかなと思っていたんですけど、見事に外れて。担当教官とすれ違ったら「山が外れたね。」って(笑)。
齋藤
田中さんは勉強にエネルギーを投入する以外に、何か違うものに興味をお持ちになっていたのですか?
田中
バスケットボール部のマネージャーをやっていました。欠員があって誰かやってくれる人がいないかって探されていたのでやってみようと思いました。ちょうどそのとき、それまでは同好会みたいにやっていたけれど関東リーグに出ようということになり、関東リーグに入る手続きを当時の先輩方と一緒にやりました。関東リーグでは大会の準備などのミーティングにマネージャーが呼ばれるわけですが、基本的に体育会系の部活は上下関係厳しくやっておられるしマネージャーだけれどしっかりとプレイヤーもされている方々が集まっていたので、そういう中で私が「ICUから来ました〜。」という感じで行くと場違いな空気になりましたね(笑)。
齋藤
アルバイトはなさっていましたか?
田中
秋葉原のパソコン屋でアルバイトをやっていました。ちょうどパーソナルコンピューターやマイコンピューターをパソコンとかマイコンと呼んで売り始めた頃だったので、あそこに行けばパソコンを無料で使えるなと思ってそこでバイトを始めました。
渡辺
プログラミングを好きになられたのは、いつ頃からでしょう?
田中
面白いなと思ったのは高校生の頃からだと思います。理屈ではなく「じゃあ、プログラム書いてみましょう。」というところから入る感じのアメリカ式の授業が面白かったですね。ニューヨーク州立大学の数学のプロフェッサーの方が先生で来られていて「じゃあ、ドイツ語と英語を置き換える翻訳ソフトを作りましょう。」と。言葉で聞くと難しいように思えるのですが、それがすごく簡単にできるのです。英語とドイツ語は基本的な挨拶が同じですから、単なる置き換えをすればいいわけです。例えば「グーテンターク」と「グッドデイ」を置き換えるとか、そういう単純な置き換えをしただけで翻訳ソフトができるのです。「ドイツ語を入れると英語が出てくるんだ。」という感覚がブロックを組み立てるような感覚で面白かったです。

ICUのコンピューターの授業も楽しかったですね。当時はウィンドウズとかない時代で実験データをグラフにするプログラミングも自分で定義しなければならなかったのですが、それをどんどん凝りに凝って作っちゃう。他の学生は基本的な操作だけでやっているわけなので、ちょっと工夫してビジュアルに凝った形で作ると先生たちに褒められるんです。褒められるとすぐのっちゃうタイプですから。

渡辺
田中さんのお話は楽しくて、つい先へ先へと聞きたくなっちゃうんですが、インターナショナルスクールでもICUのNSでもお友達に助けられたとおっしゃって、例えばどんな関係の築き方をされるのでしょう?
田中
理系ですから実験の待ち時間が長いので、その時にNSの建物にあるラウンジで仲間と雑談したり勉強の相談をしあったりしていました。基本的にNSの学生は同じ専攻の仲間とジェネード(一般教育科目)のときから同じ授業をとるような形になるので、入学してすぐに仲の良い友人同士の塊はできました。あと、リトリートですね。セプテンバーはそれほど人数が多くないので仲良くなりやすかったです。そのようにして遊び仲間がたくさんできたものですから、学業に全然手につきませんでした。授業に行くよりも遊びとバスケットボール部のマネージャーと秋葉原のバイトに時間を使うキャンパスライフでしたね。ICUへは自宅から通っていました。
わからないときはすぐに質問していました。ずうずうしいやつと思われながらも顔は広くなりましたね。
齋藤
一番質問したいと思っていたことなのですが、男女雇用機会均等法などのタイミングが重なったとはいえ、その中で役員になられたというのはかなり難易度が高いことだと思うのです。田中さんはそれこそメーカーという男の世界の中でどのように存在感を示してこられたのでしょうか。おそらく、実力があるにも関わらず認められずに苦労している女性はたくさんいらっしゃると思うのです。そのような人たちにこういうことが大事ではないかなというのは大変重要なヒントになると思うので、その辺をぜひ伺わせて頂きたいです。
田中
わからないことがあったらすぐに質問したりしていましたね。私はインターナショナルスクール、ICUという環境で育ってきましたので、会議でもあまり立場もわきまえずに「なぜですか?」とか「意味がわかりません。」というような発言をしていました。すると、皆さんも「なぜここで質問するかな?」と思いながらも「それはね…」とか「そこはあとでちゃんと解説してあげるから。」とちゃんと預かって下さいました。そうすると、こちらは自覚がないものですから困ったときは聞きたいときに質問するようになりましたし、ずうずうしいと思われながらも顔は広くなりましたね。何か困ったことがあったときは自分1人で解決しなくても、あの人とあの人とに相談すれば何とかできるというようなことを自然とうまくコーディネートできるようになり、自分だけで抱え込むよりも仕事が早かったりうまくできるようになりました。

それと、キヤノンがおおらかな会社であったということは本当にラッキーだったと思います。女性・4大卒・技術系を受け入れるというのはほとんど初めての職場だったので、どう扱っていいかわかわないからちゃんと話を聴いてあげようということが自然とできる素地のある会社でした。せっかく入ってきた技術系の女性なのだから大事にしなくてはならないという気持ちがベースにあったのだと思います。

齋藤
田中さんのお話を伺っていると、きっと質問を受けた人も「これは本当に問題の本質を突いた質問だからそれに対して答えてあげよう。」と感じていたのではないかと思います。田中さんはわからないときにどのような質問の仕方をされていたのでしょうか。
田中
それまでの話から論点が飛んだということに対する感度はありました。「その話からなぜここになるのですか。それはつながりませんけど。」というような質問をよくしていましたね。
渡辺
仕事に対する考え方や姿勢が変わるような時期はありましたか?
田中
新規技術の試作品を海外のお客様に見せに行くということになった時、英語を話せる人が説明しに行けばいいということになり、英語を少し話せた私が開発部門の偉い方と同行することになりました。通訳兼鞄持ちとなったので、先輩や仲間の社員がそれまで作ってきてようやく形になったものを「これは壊れやすいからな」とか「大事に扱えよ」と私に預けてくれることに当事者意識を感じました。それまでどこか無責任にやっていたのですが「私がみんなの思いと成果を背負っている。責任重大だな」と自覚した時、パチッとスイッチ入りました。入社して3年目の頃です。
渡辺
先輩や同僚の皆さんのこれまでの努力を背負っていらっしゃると意識なさることで、大きな責任というスイッチが入ったわけですね?
田中
ギャップだったわけです。海外では時差もあるし、助けてくれる同僚もいない。偉い人には安易にできませんとは言えませんから、そこで困るのは自分。それまでは何かあれば人に聞けばいいと思っていたところからいきなり自分で解決しなくてはならないという立場になったので。出張メンバーを選ぶ上司も必死の思いで、技術はできるが英語ができない人かそれでも英語が少しでもできる人かという究極の選択をしたのだと思います。
渡辺
そんなふうにして、自分がやらなきゃ!と思ってなさった仕事は、どうでしたか?やりがいがあったり、楽しいと思われたりしたのでしょうか?
田中
そうですね。仕事は楽しかったです。成果を出して帰ってくると、次に海外と商談や提携話が出たときも私を行かせれば良いというようになりましたから、いろいろなところに出張したり、偉い人の会議に同席したり、吸収できるものが多かったですし、できる仕事の幅も広がるので楽しかったですね。
齋藤
“楽しく仕事が出来る”ということはすごく重要ですよね。
渡辺
田中さんはキヤノンの中で女性としてはフロンティアでいらしたわけですけれど、その分、ご苦労もあったかと。涙が出てきてしまうような時もあったのでしょうか?
田中
根があまり真剣に考えないので大丈夫だったように思いますが、それほど技術が得意ではない中で流れに乗ってキヤノンの開発部門にいたことに関しては違和感がありました。当時は会社の寮に住んでおり、休日に寮の仲間と遊ぶ楽しみがあるからウィークデイを頑張ろうという気持ちで過ごすことが多かったですね。
渡辺
うかがえばうかがうほど、愛される性格でいらっしゃるんだなぁと思います。
プライベートとの両立のために段取りよく仕事をすることは大切にしていました。海外のワークライフバランスを垣間見れたのもよかったですね。
齋藤
アメリカに会社を設立された経緯はどのようなものだったのでしょうか?
田中
2012年にアメリカで新規事業の探索をするということになり、あちこちまわっているうちに遺伝子関連の研究を扱っているキヤノンの子会社に出会いました。遺伝子を使った検査装置の事業はキヤノンに合っており大きな事業に育てられる可能性があるということを上司に提案したら、日米の経営層が共感してくれて、会社を作って事業化を目指すという話になりました。

会社をつくるには社長を決めなければならないということになり「誰にしますか?」と質問したら「お前だ」と言われ、いきなりキヤノンの研究開発拠点ではない、米国という飛び地での事業会社立上げを任されました。開発から製造、マーケティング、セールスのすべての機能を作らなければいけないのですが、製品もなく他のメンバーもいない状態でしたからどうすればいいのかわかりませんでした。銀行口座がないと税金を払えないため会社を設立ができないということもそのとき初めて知りました。しかも従業員は自分1人で自分が社長。ITシステムがなかったので、e-mailもできなかったです。そこから、キヤノンUSAで情報系の部門に携わっている方にお願いをしてドメイン名を作ってもらいe-mailができるようになりました。e-mailの仕組みができるとキヤノンのITシステムにつなげることができます。そこでようやく人事の仕組みができ、新しく人を採用できるということになりました。同時に製品作りも始まるわけですが、研究と製品開発は大違い。米国には販売機能しかありませんから、子会社の研究から生まれた技術を製品化するための支援を得るために日本にある様々な部門にお願いしないといけないわけです。

日本に戻るときは会う方々それぞれにあわせたものを少しずつ「ここが大変です」というのを持ってきて相談します。だから、2015年に会社を設立することになった頃から今に至るまで色んなところで協力をしてもらっております。

齋藤
もう1つ伺いたいことがあるのですが、課長職は非常に大きな役割を担っており、特に日本では課長としてうまく仕事をこなせると部長にもなれるとみなされています。課長になると自分のチームのマネジメントと同時に上司のマネジメントもしっかりやらないと評価されないという非常に難しい立場に立たされますが、田中さんはそこで何か工夫をされたのでしょうか?
田中
とにかく「見える化」を行いました。私は主任のときに第一子をもうけ、その後職場に戻って課長代理という立場になったのですが、妊娠が発覚した時からどのように仕事を引き継ぐかということと私が産休に入って職場復帰したときはどうなっているかなどはかなり頭の中でシミュレーションをしていました。当時は会社にも早い時期に妊娠したことを言わない方がいいような風潮がありましたので「課長が今忙しいから○○さんが代わりにこれをやってくれる?」とか「課長、すみません、これをやっておいていただけないでしょうか?」というのを徐々に増やしていき、お腹も目立ってきてこれで自分もフェードアウトして大丈夫だという頃に妊娠したことを上司に伝えました。上司には「田中さんがお休みしちゃうとなったら大変だなぁ。」と言われたのですが「そんなことないですよ。この仕事はこの人が、あの仕事はあの人がやってくれるから大丈夫じゃないですか。」と伝えると理解してもらえました。
渡辺
日本でもワークライフバランスという言葉が頻繁に聞かれるようになりましたが、田中さんは女性としての幸せと仕事の両立に関しても、まさに切り開いてくださった世代。ご主人とは、自然と出会われてそのまま結婚しようと思われたのでしょうか。
田中
そうですね。26歳で結婚したのですが、スイッチが入った後だったので仕事が面白くなっていた頃でもありましたね。
渡辺
同じ会社の方ですか?
田中
実は、ICUの卒業生でバスケットボール部の先輩。在学中にお付き合いしていたわけじゃないですが卒業後なんとなく付き合うことに。マネージャーをやっていただけじゃなくて他にもメリットがあったみたい(笑)。
渡辺
じゃあ、キヤノンに入社なさる時にはどこかのタイミングで結婚しようと?
田中
相手はわからないけれど、入社したころから漠然と3年くらい働いて寿退社することを目標にしていました。それがその当時の女性の幸せだったから。私もそんなにバリバリのエンジニアでもないし、なんとなくラッキーでキヤノンに引っかかっているわけだから長続きするわけないと思っていました。

結婚が決まったときは「結婚するの?!じゃあ、辞めるの?!」という反応はあったけれど「やめないわよ〜」というオーラは出していたし、幸いにも海外のお客様や海外の提携先との会議には私がいないといけないという雰囲気が確立しており、会社側からも残るのは当たり前というような感じでした。

渡辺
ご主人さまは全くジャンルの違うお仕事ですか?
田中
その時はコンサルティング会社におりました。
渡辺
ずっと仕事に対して第一線で向き合い、時間も割いていらしたお立場から、ご家庭と仕事との気持ちや時間のバランスはどんなふうに取っていらっしゃったのでしょうか?
田中
理屈で考えて段取りよく仕事をすることは大切にしていました。ここで私がラッキーだったのは、社内転職に成功したことです。それまでいた部署が新規事業で事業の組織体制作りにずっと苦労していました。それで、ちゃんと事業をやっている部署に行って事業の成功に必要な要素をきちんと勉強したいと相談したら、海外と仕事を行っているプリンターのOEM(original equipment manufacturer)部門に異動させてもらえました。取引先が海外なので日中は社内調整を行ない、相手の会社の交信ということになると再び社内調整をやり、帰宅してしばらくしたら電話を1本入れれば用が済むというような流れで仕事を行うことができました。1人2シフトで効率よく時間を使うことができたのがよかったです。

そこで海外の会社の方のワークライフバランスを垣間見ることができたのもよかったですね。みなさん平気で電話会議中に「あ、ごめん今ちょっと料理しながらなのよ」とか子供の子守をしながら「ごめん、今泣いているからちょっとごめん、私一回抜けるわ」というような感じでした。

課長になったときに第2子の妊娠がわかり、人事に呼ばれて「これは何か嫌み言われるな〜。」と思って行ったら「管理職向けの産休の規定がございません。どうしましょう、田中さん」と言われて。「私に聞くんですか?」って。

齋藤
女性が管理職となり産休をとることを想定していないのですよね。
田中
そうですね。私が2人目の娘を出産したのが36歳頃。人事にも色んな思いがあったと思うのですが、その言葉を飲み込んで「どうしましょう」という言葉だけが出てきたのだと思います。「どうしましょうと言われても産休は産休ですから。普通に休んで普通に出てくるから他の社員と何も変わらないんじゃないですか?」と言ったら「あ、そういうことですよね。」と気を取り直したみたいな感じでした。
失敗しても終わりじゃないということです。若い人たちには次の成功につながる良い失敗をたくさんしてもらいたいです。
渡辺
世間一般では社長になりたいという志を抱かれる方はたくさんいらっしゃるかと思うのですが、田中さんの場合「これは面白いんじゃないかな?」と提案なさって「じゃあやってみよう」ということになり「社長は?」と尋ねたら「私ですか?!」という経緯と。肩書を目指すのではなくて、仕事の中身を面白がって専心された結果の肩書と感じるのですが。
田中
そういう意味ではキヤノンが本当におおらかなんだと思います。とりあえず男女関係なく「お前がよくわかっていてお前が楽しんでる。じゃあ、お前が社長をやれ。」と考えるあたりが。
渡辺
実際に社長になられてみて、いかがですか?
田中
何十倍も何百倍も違いますね。いきなり自分が全てになり、自分が仲間を引っ張るということの大変さを実感しています。誰かに頼まれて「これが面白かったです」ではなく、いかに押しつけがましくなく仕事の面白さに共感してもらえるか。今になって初めて経営の教科書にあるビジョン・ミッションが合わないとだめだということが腹に落ちました。みんなの心のよりどころになるものがなくてはいけないということが。管理職研修のときの課題に「ビジョン・ミッションを作ってみましょう!」というのがありましたが、今から考えれば、あれはちゃんちゃらおかしいですよね。「この会社の意味は何なんですか?」、「あなたたちが仕事に生きがいを持って行く上での心のよりどころはここでしょ」というふうに示すものをつくるわけだから、机上の検討ではできないと思います。一人ひとりの思いを聞いてみんなからにじみでてくるものを寄せ集めてビジョン・ミッションが出来上がるのだと思います。
渡辺
それはまた違う醍醐味でもありますか?
田中
醍醐味ですね。なるべく歩きまわってみんなの顔色を見たり「仕事は面白い?」とか「元気?」という風に話しかけ、そういうことからみんなが何に興味を持ち、何がこの会社にいることの楽しみなのか、どこがこの会社のだめなところなのかなどを聞くようにしています。情報収集をするというのは今までの仕事と同じですが、仕事の内容ではなく人となりを理解するためというところが違いますね。
齋藤
田中さんにとって仕事はもちろん楽しいと思うのですが、仕事以外に自身の人生の楽しみ方はおありですか?息抜きやこれやっているとすごくクリエイティブになるというものですけど?
田中
日本のテレビドラマやバラエティを観ることですね。娘がインターネットで探してきた日本の番組を一緒に観ながら感想を言い合うのが息抜きです。最近では『逃げ恥』(TBSドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』2016年10月放送)とかバラエティでいったらジャニーズの嵐が出てくるものとか。
渡辺
ご主人さまに仕事のことを相談なさったりも?
田中
若い頃は愚痴をたくさん聞いてもらったと思います。管理職になってからは、組織運営のこととかを相談します。上司との考え方の違いに悩んだり、会社の経営がわからないときに相談すると、彼は仕事上色んな企業を見ていたので、パターンを把握・分析した上でどう対処したらよいのかアドバイスをくれます。
渡辺
家庭内にソリューションがあるのは素晴らしいですね!育児に関してもご主人さまと分業なさっていたのでしょうか?
田中
そうですね。コンサルタントというお仕事はプロジェクトがあると家に帰って来ることができない日が続くことも多くありました。その分、時間が自由になるところもあって、柔軟に対応してくれました。それでも夫婦ともに時間が取れないところはベビーシッターさんにお願いしたり、あらゆる手段を取り入れて乗り切っていました。我が家の育児では、子ども達がいかに生きる力をつけるかというところに専念していましたね。困ったときに頼る人をちゃんと教えました。困ったときは、まず保育園の先生か子供連れのお母さんに伝えなさいと。子供連れのお母さんならまず悪い人はいないし、緊急の対応もある程度わかっていらっしゃるので。
渡辺
なるほど、大切なことですね。アメリカに行くという決断も、ご主人さまと一緒にされたわけですよね?
田中
はい。うちの旦那も前向きに考えるほうなので「家族でアメリカに行けるのっていいじゃないか、行こうよ」と言ってくれました。コンサルタントの仕事を休職して、一緒にアメリカに来てくれました。だけど、それまでフルタイムで働いていたのがいきなり、それも外国で子ども達の面倒をみることになって精神的にも身体的にも大変だったと思います。
渡辺
素敵ですね。お二人とも、大変さも含めて楽しもうという気持ちがおありなのが伝わってきます。最後に今ICUにいる学生たち、ICUを目指そうとしている若い世代に向けて、メッセージを頂戴できればと幸いです。
田中
失敗してもこの世の終わりじゃないということですね。失敗するから終わりなのではなく失敗をすることが重要であって、失敗を引きずらず、いかに気持ちを切り替えどう成功につなげていくかということが重要だと思います。次の成功につながる良い失敗をたくさんしてもらいたいです。


プロフィール

田中 朗子(タナカ アキコ)
1963年生まれ。日本の中学校卒業後、父親の転勤の都合でデュッセルドルフのアメリカンインタナショナルスクールで学ぶ。帰国後、1982年国際基督教大学教養学部自然科学科(NS)入学。化学を専攻する。1986年国際基督教大学卒卒業後キヤノン入社。新規事業開発部門や米ヒューレット・パッカード向けトナーカートリッジのOEM部門で活躍した後、2012年キヤノンUSAに出向、同社シニアディレクターとなる。2015年にキヤノン初の女性執行役員となり注目を集める。