INTERVIEWS

第58回 宮本 理江子

フジテレビジョン 編成制作局ドラマ制作センター ゼネラルディレクター 

プロフィール

宮本 理江子(みやもと りえこ)
ICU卒業後1986年にフジテレビ入社。ドラマ、映画の制作に携わる。「101回目のプロポーズ」(1991年)では、武田鉄矢さん演じる主人公が叫んだ「僕は死にません!」を演出した監督として知られる。ほか、「きらきらひかる」(1998年)、「優しい時間」(2005年)、「風のガーデン」(2008年)、「それでも、生きてゆく」(2011年)、「最後から二番目の恋」(2012年)、「続・最後から二番目の恋」(2014年)、「最高の離婚」(2013年)など多数の作品を演出している。

 

ディレクターはイメージを具体化していく仕事です。セットや撮影場所、衣装、演技、音楽などのすべての選択のプロセスを通じて、スタッフと一緒にドラマの世界を作り出していきます。レストランで例えるとオーナーがプロデューサーでシェフがディレクターみたいな感じかな。
渡辺
宮本さんにお話をうかがえれば!と熱望しつつ、今日に至りました。ご多忙のなか、お時間をいただけて感謝しています。
宮本
こちらこそ、お呼びいただきありがとうございます。
渡辺
ドラマの世界で宮本作品を知らない方はまずいらっしゃらないのですが……齋藤さんはご存知ですか?あまりテレビをご覧にならないといつもおっしゃるので(笑)。
齋藤
宮本さんのご経歴リストを拝見し、沢山のドラマに関わっておられて驚きました。もっとも、ドラマを見ないのでイメージはあんましわかないのです。すみません。
渡辺
じゃあ、武田鉄矢さん出演の「101回目のプロポーズ」は…?
齋藤
あ、それはわかります。トラックの前に飛び出して、「僕は死にましぇーん」って言う有名なドラマですね。
渡辺
宮本さんが、その演出をなさったんです。
齋藤
へぇ〜、それは素晴らしいですね。ところで演出ってどんなことをされるのですか?
渡辺
えーと、宮本さんに説明していただくのもナンなので、わたくしからおおまかに申しますと、プロデューサーが企画を立て、予算を取ってきて、役者とスタッフのキャスティングを担当するのに対して 、ディレクターはどんなドラマにしていくか、実際の現場で役者さんにどんなお芝居をしてもらうかなどを作っていく役割、で合ってるでしょうか?
宮本
はい。大工の棟梁みたいな感じです(笑)。
齋藤
台本もお作りになるのですか?
宮本
台本は脚本家が書きますが、脚本家とプロデューサーとディレクターの三者で話し合って台本を作っていきます。
齋藤
知らないことばかりでお恥ずかしいのですが、世の中の人には常識なんですかね?プロデューサーはお金を集めて雇う人を決める人で、ディレクターは監督さんということになるのですね。
宮本
そうですね。映画の監督と同じです。世の中の常識か、というとそうではなく、脚本家も演出家もプロデューサーも混同されている方は多いのではないかな。
渡辺
確かに、横文字の肩書きって分かりにくいですよね。私も入社試験のときにその違いがわからず、面接で教えて頂きました(笑)。
宮本
ディレクターはイメージを具体化していく仕事です。セットをどうしよう、どこで撮影しよう、どういう衣装にしよう、といったことを具体化するプロセスを通じて、スタッフと一緒にドラマの世界を作り出していきます。レストランで例えるとオーナーがプロデューサーでシェフがディレクターみたいな感じかな。
渡辺
通常は、複数のディレクターが一つの連続ドラマを作りますが、「風のガーデン」では宮本さんお一人で演出されましたよね?これは大変なことだと思うのですが。
(「風のガーデン」は「北の国から」の倉本聰さん脚本、中井貴一さん主演のドラマ。番組題字は主人公の父を演じた緒方拳さんによるもの。)
齋藤
それは、珍しいことなのですね?宮本さんの作風へのこだわりからですか?
宮本
いえ、あの時は他に適任のディレクターが確保できなかったのです。でもそれが私にとってはいいチャンスになりました。撮影前に台本がすべてあったこと、放送に追われていないこと、などいろいろな条件が揃って一人のディレクターで演出できることになりました。

本来、ディレクターは、全話を自分で撮りたいと思うものです。ただ、台本が出来上がるタイミングや、撮影期間の制約がある中で、オンエアが途切れることのないように、現場が常に回り続けるようにするにはディレクターが数名必要なのです。現場で撮影を途切れず続け、その作業の裏で各話を編集してくためですね。要は、予算の問題でもあるのですが、同時に若手のディレクターの勉強の場にもなっているんですよ。

齋藤
テレビドラマをよく見る人は、ドラマを見ただけで誰の演出だとわかったりするのですか?
宮本
そうですね。そう言われることはあります。自分ではなかなか分かりませんが、どこかに自分らしさが出てくるのだと思います。
渡辺
「最後から2番目の恋」という作品では、宮本さんは芸術選奨新人賞を受賞されていますが、受賞理由として『人と人との間にある空気の微(かす)かな揺らぎを映像化できる特性を熟知し、人間関係の危うさを見事に表現する演出家』と評されています。この賞はお父様(脚本家の山田太一氏)と親子二代での受賞なのですね。
宮本
そうみたいですね(笑)。申し訳ないです。あんなおバカなコメディーで頂いてしまって・・・。
齋藤
それは本当にすごい!ICUの女性には才能がある方が多いですね。うちのインターン生もICU生が多く、なかでも女性は本当にできる人が多い。しかも会社の大きさにかかわらず、自分が好きかどうか、この社長についていけるかとか、そういう視点で会社を選んでいるところが面白いと思います。男性はその点、大手有名企業であるとか給料がいいとかそういうのを考えざるをえないんじゃないかな(笑)。
兼高かおるさんの『世界の旅』という番組が小さい頃から大好きで、「素敵だな。この人みたいになりたいな」って小学校くらいから思っていました。もう、好奇心の塊で、「なるほど・ザ・ワールド」のレポーターとかにもなりたかった!
渡辺
実は、小学校6年生の時に「獅子の時代」という大河ドラマを毎週、それは楽しみにしていまして、今でも大河ドラマのなかでは一番好きなのです。原作はなく、脚本 山田太一というシナリオ版が本として5冊だったかな、出版されていて、おこづかいで買いに行ったのを覚えています。
宮本
父の作品ですね。ありがとうございます。早熟なお子さんだったのですね(笑)。
渡辺
早熟というより、本好きな地味な子でした(笑)。宮本さんからご覧になって、どんなお父様なのでしょうか?
宮本
父はとてもせっかちだし、母もゆっくりはしていなくて、みんなそれぞれが勝手に話しているようなにぎやかな家族です。
渡辺
妹さんとはTBS同期入社なので20代の数年をご一緒したのですが、芯がしっかりしていて、とても優しい方ですよね。
宮本
確かに妹は優しいですね。逆に私は、いばってばかりいる子でした(笑)。我が強いというか、今思えば、怖がりであるが故に緊張しているのを見せたくなくて、新しい環境や人など「来るものは攻撃する」感じだったと思います。妹は芯がしっかりしていますからおとなしかったですけどね(笑)。あと、弟がいます。3人兄弟の場合、割とみんな一番上がおとなしくて、二番目が強いって言いますが、うちは逆ですね。上の方がうるさかったです。。
齋藤
小さい頃はどんな事がお好きでしたか?
宮本
兼高かおるさんの『世界の旅』という番組が小さい頃から大好きで、「素敵だな。この人みたいになりたいな」って小学校くらいから思っていました。世界中を回って、きれいで、頭が良さそうで、ミーハーな気持ちで憧れていました。今でもあんな番組の仕事があったらいいですね。
渡辺
兼高かおるさん、とても素敵でしたよね!そういえば、雰囲気も、宮本さん、そういう番組に合っていらっしゃるような…。
宮本
もう好奇心の塊で、「なるほど・ザ・ワールド」のレポーターとかになりたかった!
渡辺
世界に出てみたいと思われていたんですね?
宮本
そうですね。中学生の頃、偶然父の知人が「これからは留学させたほうがいいぞ」と言っているのを聞いたんです。それですっかり行く気になっていたら、せめて義務教育は終わってからと止められたので、高校は当たり前のように留学するものだと思っていました。
齋藤
中学までは私立の女子校にいらしたということですが、公立の共学で過ごすのとはやはり違いますか?
宮本
最近になっての感想ですが、思春期に女性だけの環境にいると男性を理想化してしまう傾向があると思います。共学へ行った人は目の前に実在の男性がいるから、がっかりするところも良いところもリアルに感じられますが、女子校に行くと男性は白馬に乗った王子様に…(笑)。
渡辺
確かに、そうかも(笑)。女子校12年の経験者として。
齋藤
そう言われると、なんとなく理解できそう。僕の周りでも女子校からICUに入ってICU生とすぐ結婚した人は、しばらくすると離婚してしまう人が目につく。社会に出て、自分の世界が広くなると、なんでこんな人と結婚したのだろうと思うのかな(笑)。
宮本
1枚も2枚もフィルターがかかっているから実際より良くみえちゃうんでしょうね。
世界への好奇心の塊で、将来日本にいるとは思っていなかった。でも、留学してみたら実情があまりにも強烈で、このままアメリカにいるのもどうだろう?と思ってしまったんです。
渡辺
高校でアメリカに留学なさった時は、ホームシックやカルチャーショックはありましたか?
宮本
ホームシックは全くなく、帰りたいとは思いませんでした。ただ、カルチャーショックというか、いちいち自分を主張しなければならないことに最初はとまどいました。日本のカルチャーでは、最後まできちんと考えてから主張すべきと言われますが、アメリカではちょっと違うと思ったら、すぐ手を上げないと間に合わないんですよね。言わないと誰も訊いてくれないから、だんだんなじんでいきましたね。
渡辺
そういう文化の違いというか、作法の違いが教室の空気中にあったんですね。
宮本
ありましたね。当時はアメリカ人ってかっこいい・真似したいなと思っていましたが、そのうちどうしてベッドの上でも靴を脱がないのかな、どうしてそんな汚いとこを裸足で歩いてから布団に入るんだ、なんて、実はいろいろ思っていました(笑)。
渡辺
そのままアメリカで進学して、就職、もしかしたら結婚も、と日本に帰らない道もあったのでしょうか?
宮本
当時はそう思っていましたね。世界への好奇心の塊で、将来日本にいるとは思っていませんでした。でも、留学してみたら実情にあまりにも強烈なインパクトを受けまして、このままアメリカにいるのもどうだろう?と思ってしまったんですよね。
齋藤
強烈なインパクトというのは?
宮本
学校は親が選んでくれたカトリック系の学校でしたが行ってみるといろいろありました。授業は日本の学校よりはるかに面白かったんですが、寮に入っている学生の多くは何かしら家庭にいられない状況を抱えていることが多く、不安定な子が多かったですね。ドラッグをしている学生もいたりして。日本では反抗的だったのに、アメリカでは反抗する親もいないし、環境は強烈だし、反対に自分で気を付けるようになりましたね。
渡辺
反抗期はいつ頃からでしたか?
宮本
もう、生まれたころからでした(笑)。人に命令されるのが嫌いでしたね。母が割と口うるさい方だったので、勉強しろしろと言われると余計にしなくなる感じでした。父は何も触れませんでしたが、その分、母とはしょっちゅう喧嘩していました。
渡辺
お母さまへの反発も手伝って、アメリカに!という面も?
宮本
そうでもないですね。あんなに親とは毎日のように喧嘩をしていたけど、不思議と離れたいとは思わなかったですね。それよりも行きたい、違う世界を見てみたいという気持ちが強かったです。
大学生活は、D館にばかりいて、勉強はしてなかったですね。入学した時に勧誘されて、気づいたらずっとアメフトのマネージャー。素足にゴム草履で、ボールに唾をペット吐いて!ここは真理さんと同じだったなんて、意外ですね!
渡辺
ICUでは、どんな学生生活を送られていたのでしょう?
宮本
D館にばかりいて勉強してなかったですね。アメフトのマネージャーをしていました。入学した時に勧誘されて、なんの理由もなく入部し、そのまま三年間いました(笑)。
渡辺
あ、私もアメフトのマネージャーでした!スキー部に入りたかったのですが、その頃はスキー部がなくて、高校生みたいに自宅との往復生活だった時に「人手がない!」と同級生から誘われてアメフトのマネージャーになりました(笑)。
宮本
同じ!同じ!
齋藤
では、お二人はアメフトのマネージャーの先輩と後輩なのですね。
渡辺
宮本さん頃のアメフト部は、どうですか?強かったですか……?
宮本
弱かったですね(笑)。まず人数がいませんでした。オフェンスとディフェンスの両方に回れなくてチェンジの際には相手チームは選手が入れ替わるのに、うちは試合をできる人数がいないから変われない。みんなで息を切らしていて、そりゃ負けますよね(笑)。だから新部員勧誘に必死でしたね。
渡辺
同じです!私の頃も勧誘に必死で、外国人がセンターとかクォーターバックだったら相手チームもビビるんじゃないか? って、1yearの留学生まで勧誘してました(笑)。
宮本
同じアメフト部ということは、渡辺さんもアジリティーをされていたのですか?
渡辺
してました。あの頃は短パン焼けがひどかったです。コンパで飲むとソバカスみたいに点々とシミも浮き出てくるし。だから、4年生でテレビ局を受けた時は、女子大出身の方とかきれいだし、いい匂いがするし、ヒール履いてるし……ものすごい場違いな感じでした(笑)。
宮本
私も「ストッキングって夏でも履くものなのね」と驚いたのを覚えています。ICUではみんな素足でしたよね?ゴム草履とか履いていましたよね(笑)?
渡辺
夏は当然、ゴム草履でした(笑)。私、ICUで草履と運動靴で過ごしてたせいで、入社後1か月で外反母趾になってしまって。アナウンス部長に「痛くてパンプスが履けないのですが、運動靴で研修をうけてもいいでしょうか…」と言ったのが初めてのお願いでした。情けないやら、はずかしいやら…でも、ICUに戻りたかったな、あの頃。
齋藤
お二人の在学はギリギリ重なっていないようですが、今伺っていると、お二人とも大学時代の環境が似ている感じですね。
渡辺
根っこが同じみたいな気がして、うれしいです。
宮本
渡辺さんは全然アメフトというイメージがなかったので意外でした。…やっぱり、ボールを磨くとき「ペッ!」ってツバ吐きました?
齋藤
何ですか?ツバ?ツバを吐くのですか?
渡辺
ツバが一番いいんです。ボールが滑らなくなるから。
宮本
そうそう。落ちたボールをすぐ拾って、「ペッ!」ってツバ吐いて、急いで磨いて渡すのですが、最初はうまくできなくて。よだれがタラ〜っと垂れたりしていました(笑)。
渡辺
マネージャーって漫画の世界からなのかな?なんとなく華やかなイメージを持たれてる場合もあるようなんですが、ICUではまずないです。だって選手の人数が足りなくて両面(オフェンスとディエンス)できないわけですから、雑務はマネージャーの仕事、髪の毛振り乱してがんばるしかないんです。あ、でも華やかな面はチアリーダーが担当してくれてたから、時々一緒に飲む機会とかあると嬉しかったな。実際、チアリーダーはコンテストで上位になるくらい強くて華やかでしたから(笑)。
ドラマの世界に入ってディレクターとなったのは、父の影響というより、紆余曲折して…ですね。2年目にいきなり監督を「やってみるか?」と言われ、吐き気がするほど大変でしたが、このまま一番下の助監督で終わるよりは、監督として失敗してみた方がいいかなと思って、一度やってみようと思いました。
渡辺
日本に戻ってICUに入学された時、将来についてはどんなふうに考えていらっしゃいましたか?お父様のようなご職業をというお気持ちはありましたか?
宮本
何にも考えていなかったですね。外国語が好きだったので、通訳になれたらなと考えていました。日本の中学校を出ているから日本語の履修はないし、帰国子女入学ですから英語の履修も必要なくて授業が1年目から週3日だけだったんですね。だから、他の大学で同時通訳のクラスを受けたり、スペイン語の学校に通ったりしていました。
齋藤
その時の宮本さんと、今のお仕事の接点は何だったのですか?
宮本
父親だけですね(笑)。
齋藤
そうですか。お父様と同じ道に進まれたのは、その仕事が好きだったり、お父様へのあこがれがあったり、ご自分にもその才能を感じていたり、何かきっかけがありましたか?
宮本
大学の時に「ヘアー」というミュージカルの大道具を担当したときに、モノづくりが面白いなと思いました。みんなで知恵を出し合って仕掛けをつくったりがとても楽しかった。

でも、それは進路には影響がなく、自分としては通訳になろうと思っていました。そうしたら母が「一回会社組織に入ってみなさい。組織は新卒でしか入れないけれど、フリーの通訳にはいつでもなれるじゃないの。見てみて嫌だったらいつでも辞めたらいい」とアドバイスをくれたんですよ。あの頃は25歳で結婚するという時勢だったので、じゃぁ入ってみようかなと思い、テレビ局を受けるなら面白そうな部署がいいと思って製作を受けました。

齋藤
お母様のアドバイス、一理ありますね。お母さまはお仕事をされていたのですか?
宮本
母はテレ朝のアナウンサーでした。
齋藤
なるほど!商社や金融機関など色々な組織があるのに、なぜテレビ局かと思ったらお母さまの影響だったのですね。
宮本
母が勝手にセミナーに葉書をだしていたんですよ(笑)。おそらく父の影響もあって内定を頂いたと思うのですが、入社して1年目で「あぁもう無理!」と思いましたね(笑)。
渡辺
どんなふうに「無理!」だったんですか?
宮本
最初に、ドラマセクションに配属になった時に、「お前はアシスタント・プロデューサーだよな」と言われまして。女性にはディレクターの道はない、それが当然と扱われたことにカチンと来て、つい「いや、ディレクターになりたいです」と言ってしまったんです。そしたら助監督の一番下となって「北の国から」を担当させて頂けましたが、本当に大変でした。忙しすぎて眠る時間すらなく、雑魚寝でやっと仮眠をとれるような生活が続き、2年目でもう限界、本当に辞めちゃおうと思いました。でも、そんな時に、「ヤングシナリオ大賞」という、一般公募したシナリオから優秀な作品を映像化する企画が立ち上がって、その第一回目の受賞作品を「お前、撮ってみる?」と言われたんです。まだ2年目なのに!
齋藤
へぇそれはすごい。
宮本
でも何もわからないんですよ。急に監督になっても、それまでお弁当運びと人止め、車止めくらいしかしてませんでしたから。それで、緊張感から毎日吐きそうになりながら現場に向かっていました。実際吐いたこともあります。でも、このまま一番下の助監督で終わるよりは、監督として失敗してみた方がいいかなと思って、一度やってみようと思いました。
齋藤
それはとても大変そうですね。
宮本
何もできませんでしたが、その時の現場スタッフがクリエイティブで一生懸命なのをみて、「この仕事をもっとちゃんとやってみたい」と思いました。だから父の影響というよりは、紆余曲折して現在に至ったという感じです。
渡辺
その時のヤングシナリオ大賞の作品は……?
宮本
「GIRL-LONG-SKIRT〜嫌いになってもいいですか?」という坂元裕二先生が19歳の時に書いたデビュー作品でした。
渡辺
2年目に撮らせてもらえるってなかなかないことかと思うのですが、それはフジテレビの気風も?
宮本
いや、そんな事はまずないですね。あの時のフジテレビは、バラエティはとても人気がありましたが、ドラマはどん底でした。会社としては失うものがなかったし、親の名前もあるから、たぶん冷やかしとして使われたんだと思います。
渡辺
いやいや。でも…そういえば、山田太一先生というとNHKとかTBSが多くていらっしゃるかと思いますし、お母さまはテレ朝、どうしてフジテレビを選ばれたのですか?
宮本
たまたま最初に内定が出たからです(笑)。でも行ってみたら楽しそうなところだと思いました。父はTBSに最も多く脚本を書いていましたが、私はフジテレビの雰囲気の方が合っていると感じました。
渡辺
なるほど。おっしゃる通り、あの時のフジテレビは本当にキラキラしていて、他を寄せつけないくらい楽しそうな勢いに溢れてました。隣の局のアナウンサーとして番宣などしてると、その威力は痛いくらい感じたものです。宮本さんはその作品の撮影中は少し眠れるようになっていたのですか?
宮本
この時も全く眠れませんでした。体力的なつらさもありましたが、むしろ責任感からまったく眠くならないんですよね。次の日の朝に現場に行ったらこれを役者さんに説明して、あれをスタッフに説明して、と考えていると怖くて眠れないんですよ。
渡辺
苦しみの中にもどこか楽しみがあったとか……?
宮本
いやいや、苦痛でした(笑)。ただやりたいことはありましたね。技術もないしノウハウも知らないから、カメラの角度とか編集とかデタラメで無我夢中で、やっと出来上がった作品を見たら「これは終わりだな」と思って、怖くて批評も聞けなかったですね。あまりの緊張感に両手が麻痺してくるんですよね。

実は作品を部長の席に提出して、それから二日間ずる休みしました(笑)。落ち込んで家にこもっていたら、なんと当時の部長が「面白かったよ」と電話をかけてきてくださったんです。あの時は本当にびっくりしました。年配の人には「俺にはわからないけど、これは面白いものなのだろうな」って言われましたけど、どうやらへんてこりんだったところが意図していないのに狙いだと思われたようですね。

渡辺
その頃からすでに、宮本さんの才能が滲み出ていたんですね!
失敗とは、「つまらない」ということが一番。「つまる」をあえて定義すれば、「表現したいものが、研ぎ澄まされて届くように作られているか」ということかと。何気ない会話であっても人間の面白みが出ているかが重要で、説明が入っているとつまらない。
宮本
今考えてみたら、何も知らなかった無謀さがかえって良かったんでしょうね。それからしばらくして、セカンドディレクターとしていろんな番組に呼ばれて経験を積んでいるときには、逆に撮れなくなってしまった時期もありました。技術やノウハウを考えすぎて、オーソドックスなものに寄せなきゃと思っていた一時期ですね。
渡辺
そういう時期も、あったのですね。視聴率や質という形で社内でも社外でも評価されていらしたのに、ご自身のなかで揺らぐこともあったのでしょうか?
宮本
評価は、10年くらいしてチーフになってやっとされるものなので、それまではセカンドディレクターとして、大失敗して怒られることの連続でした。
齋藤
失敗とはどういうことをいうのですか?
宮本
「つまらない」ということかな。それが一番ですね。そのシーンの芝居なり演出なりカットなりが、一言で言えば、面白くなかったということですね。
渡辺
「つまらない」って大事なキーワードだと思うのですが、「つまらない」の基準は人それぞれでもあるし、たくさんの人が見てくれて結果として視聴率も取れば、局としてOKかとも思います。が、イコール面白かったのかというと、数字は取らなくても後々の記憶に残る作品もあって、なかなか一概には言えない面も。

爽快だったのは、宮本さんがあるインタビューで「つまんない台本はつまんないのです。」とバッサリおっしゃっていたのが素敵でした(笑)。

宮本
そんな風に言っていましたか(笑)。
渡辺
はい。宮本さんが「つまらない」をあえて定義すると、「つまる・つまらない」はどう違うものなのでしょうか?
宮本
「表現したいものが、研ぎ澄まされて届くように作られているか」ということですかね。何気ない会話であっても、人間の面白みが出ているかが重要だと思います。例えば、朝のシーンで「おはよう」と台本に書いてあっても、朝だから「おはよう」というセリフが必要なのか、それとも本当にそこに「おはよう」を必要とする空気があるのかと考えます。あと、説明のセリフが入っている作品はつまらないですね。
渡辺
わかります。私も苦手です。でも残念ながら、傾向として説明セリフが非常に多くなっている気が。
宮本
大嫌いですね。説明を冒頭のナレーションで流せば楽ですが、その説明は「面白い」という感情にはならない。それより、お芝居の表情や動作から、その人となりが伝わるほうが面白い。感覚は人によって違うと思いますが、私はそう思いますね。
齋藤
ドラマについてではないけれど、僕も最近、人の感情や裏にあるものを察する、ジェスチャーを読み取るといった、洞察力が弱ってきているように思います。全て明文化してもらわないとわかりません、という人が増えてきていませんか? 本当は「感じる」べきことを言葉にしてしまうことで、世の中がちょっとつまらなくなってきているように思うのです。原点に戻って、本来の人間としての素晴らしさを求めることも大切だと思うのですよね。
宮本
本当にそうですよね。おっしゃる通りです。
この仕事が合っていないのかな、と思うことはしょっちゅうです。自分が責任を取るのが怖いから、できればやりたくないと逃げ出したくなります。でも現場に入ると、面白くなってくる。他の方のアドバイスを受けたり、喧嘩のように言い合うなかで新しい方向性が生まれたり。私は一人では仕事はできなくて、本当に人に助けられながら仕事をしているんだと思います。
齋藤
先ほど渡辺さんが、宮本さんがフジテレビに入った頃はみんながキラキラしていたとおっしゃいましたが、今はいかがですか?職種によるものなのか、時代によるものなのか、もしそのキラキラが失われつつあるとしたら、それはどんな問題からくるのでしょう。やっぱり、視聴率や売上を重視しすぎているのでしょうか。これは、多くの企業が直面している重要課題なので、テレビの世界についても伺ってみたいなと。
宮本
そうですね。それは今大きな問題になっています。
齋藤
ポピュリズム(人気者になることを目的とした施策を行う)は政治の世界だけでなく、企業においても業績向上の阻害要因になっています。それなのに、どうも“大衆受けすること”が大事と考えてしまう。大衆が正しい考えを持っていれば良いのですが、実際は自分のことしか考えない人が多くなっているようなので、問題は大きいと思うのです。そんな時代には、大衆の支持を集めようとした途端に媚びが出てくると思います。宮本さんが長い間いくつもの人気作品を世に送り出せているのは、逆に、媚びずに自分の大切なものを貫いている姿勢をお持ちだからだと思うんですよね。
宮本
そんな風に言って頂けて嬉しいです。
齋藤
“媚びない”と言葉で言うのは簡単ですが、とても大変なことです。宮本さんご自身が作られたドラマを見て、涙を流してこんな生き方をしたいと感じる人がいるのは、非常に重要な意味を創り出していると思います。僕はテレビは見ませんが、映画やドラマのDVDをレンタルすることは多く、暖かい話にジーンとしたりしますね。
渡辺
評するのはおこがましいのですが、宮本さんの作品は、とても静謐な、でもどこかに反逆性を秘めている気がします。
齋藤
それはICUの女性そのものですね。
渡辺
例えば「最後から2番目の恋」というドラマは、とてもコミカルでハートウォーミングですが、奥にはちょっと、というか、かなり毒を秘めている…。小泉今日子さん演じるヒロインは「もしかして、これが最後の恋かなぁ」なんてどこかで悟ってるみたいなんだけれど、タイトルは「最後から2番目の恋」。モテてたバブル期を過ごしてきた40代女子を客観視して、ほんとはまだまだ最後なんて思っちゃいないでしょ〜?って、タイトル自体で茶化してるような。自虐とか皮肉とかが相まって、ヒロインのそんなイタさがいつのまにか可愛さとかカッコよさに昇華してるような不思議なリアリティーでした。さすが、岡田恵和さん(脚本)と宮本さん!
宮本
そんなに褒めてくださって本当に嬉しいです。
渡辺
肩書きや経歴で「すごい」ってことになりがちですが、宮本さんのすごさは、やっぱりその静かなのにアバンギャルドな表現力なのかと。
宮本
いやいや、脚本が私の毒を中和してくれているんですよ(笑)。
渡辺
あ、脚本で中和されてる方向なんですね(笑)。全くスタイルは違うかもしれないけれど、宮本さんのなかには、お父様はじめご家族の価値観や哲学・美学が、雨が地面に沁み込むようにしっとりと行き渡っているのではないかと感じるのですが。
宮本
そんな高尚なものではありませんが、人間観察の癖はついたような気がします。食卓での会話の中心は「今日見た面白い人」であることが多かったので(笑)。
渡辺
今でも仕事に対して、疑問を感じられることはありますか?
宮本
この仕事は合っているのかな、と思うことはしょっちゅうです。最近は腹を括れた感がありますけど、ついこの間まで作品が始まるときは逃げ出したくなっていました。
渡辺
逃げ出したく……?
宮本
自分が責任を取るのが怖いから。できればやりたくないと逃げ出したくなります。でも現場に入ると、面白くなってくる。作家やプロデューサーと意見がぶつかり、喧嘩のように言い合ううちに、新しい3つめの方向が見つかったりして。そのプロセスが本当に楽しいんです。私は一人では仕事はできなくて、本当に人に助けられながら仕事をしているんだと思います。
渡辺
怖いと思われているのは意外でした。
宮本
私は、一人では自信がなくていつも迷っているし、怖いし、失敗もいっぱいしています。失敗が多い分、危険察知能力がついていろいろ未然に防げるようになりましたが、いつも迷い、プロデューサーや作家、カメラマンなど、周りの人に助けられています。彼らが台本を読んで素直に感じた意見や、私がつけた芝居への意見など、常に人から教えられてやっています。そういう人たちがいなかったら、私は何の仕事もしないなと思うくらいです。かっこ悪いですけどね。
頭で考えるだけでなく、考えているうちに感じたこと、ちょっと別の方向に行ったことが面白い。それを現場で役者さんに伝えると、エネルギーの火がどんどん回っていくようになる。それを頭で止めず、自分で感じることが大切だと思うんです。頭で考えたことを、必ず腹で検証するようにしています。
齋藤
本当にそうだよね。「今を輝く」の素晴らしさは、読者が違う世界を垣間見て、その人の生き方に何か新たに感じられることにあると思っています。宮本さんのお話しから、読者の人生に、今までなかった視点が増える。ネットの「まとめ」情報に頼る人が多いなかで、修羅場をくぐってきた人の生の言葉や知恵は重みがあるはずです。だから、答えを教える必要はないけれど、考える材料を与えることができたらいいなと。
宮本
そうですね。生の人間の経験ですからね。
齋藤
ディレクターとしていい作品を作るのは当たり前の役割ですが、宮本さんはそれだけでなく、「一緒につくるスタッフとのやりとり」を大切にされているように感じます。人に仕事を投げるのではなく、キャッチボールのようなやり取りの中で仕事をされていますね。他に大切にされているはありますか?
宮本
そうですね。ひとつは頭で考えた事ではなく、腹で感じるというか、頭で考えたことを必ず腹で検証するようにしています。例えば「このシーンで殴られたら、こう動いて、こんな表情で」と頭で考えたものは人間らしくないんですよね。若いころはカットも動きもすべて考えていましたけど、それをベテランの役者さんが演じると、予想とは全く違っていて立ち尽くしたことがあります。人間の心の動きや体の動きという分析できないものを、カット割りという編集によって分析したように見せるわけですが、あくまでその分析は結果であって、元を分析したものにしてしまっては切り絵のようになってしまいます。だからいつも「人間としてスムーズだろうか?」「腑に落ちるだろうか」と腹で検証するようにしています。
齋藤
なるほど。つまり、見ている人の視点に立って考えてみようということですね。そしてそれは同時に、演じている人の視点でもあるのではないですか?
宮本
そうですね。その二つですね。映像の中に入り込む視点と、俯瞰する視点の両方の作業を同時に行います。ただ、そのどちらとも、頭で考えた計算上のものは大体面白くない。考えるうちに感じて、ちょっと別の方向にいったものが面白いものになっていたり、それを現場で役者さん伝えたときに全然違う反応があったりして、まるでエネルギーの火がどんどん回っていくようになる。それを頭で止めず、自分で感じることが大切だと思うんです。年を取るごとにそれが大事だと思えるようになってきました。
渡辺
「風のガーデン」撮影時の中井貴一さんが宮本さんを「鉄の女」と表現されていますが、現場での宮本さんは出来るだけ弱さを見せず、凛とした感じでいらっしゃるのでしょうか?
宮本
中井さんとはずっと一緒に仕事しているので私が強がっている事はご存知だと思います(笑)。若い時は本当は迷うことばかりでしたが、見せないように頑張ってました。最近は迷っていますと言えるようになりました。弱さを隠して変なストレス抱えているより、その方がいい。凛としているというより、思っていることを全部出すようにしました。言いたいこと言うのでスタッフともぶつかりますが、みんな本気でぶつかっています。そういう意味では現場では楽しくやっています。激しく悩むこともありますが、現場に入ったら棟梁の仕事が待っているので、悩むのは前日までですね。昔は現場が怖かったですけど、今は一番現場が楽しいです。
2世と言われることにはじめは抵抗がありましたが、今ではそれも自分の一部であると思えるようになりました。小さな頃から父親の作品はすべて見ているので、基本的に父親の影響は大きく受けていて、私の求めている世界観は父の世界観なのかもしれません。
渡辺
日本で屈指の脚本家であり、小説家のお父様のことをどうしても聞かれる折がこれまでもたくさんあったかと思います。私もこの機会にと、うかがってしまいましたが、宮本さんご自身はどんなふうに折り合いをつけていらしたのでしょうか?
宮本
自分の意思でこの道に入りましたが、最初はやはり「2世」と言われることには抵抗がありましたね。ただ、フジテレビは2世の入社が多かったし、だんだん周りに2世が増えてきていたので、それほど気にしないでいられました。2世であることも自分の一部であって、恩恵もたくさん得ているし恥じることではないと思えるようになりました。一度だけですが、父の本を演出したときに、キャストと本の解釈で意見が食い違い、あまりにも私の意見を聞いてもらえなかったので、頭にきてその場で父に電話してしまったことはありますが(笑)
渡辺
お父様の答えはいかがでしたか?
宮本
私と一緒でした(笑)。父の本って一字一句直してはいけないとか神聖なものだって思って頂けるのはありがたいのですが、尊敬しすぎてものすごい深読みをしてしまう方もいらっしゃるんです。ここは、ふつうの意味ではないのかなと私は思うんですけどね(笑)。そして、その時は父親の方が尊敬されているのだなと悔しくなりましたね。
齋藤
小さい頃からお父様の作品はご覧になっていましたか?
宮本
全て見ていました。私が子供の頃はテレビも一台しかなかったし、録画もできない時代だったからオンエアで静かにみていました。
渡辺
静かに、ですか?
宮本
いつも父が横にいて真剣に見ていましたからね。小さいころから父の作品はテレビの前に座って黙ってみなければならないというのが習慣でした。「このシーンはこの間の夕飯と同じだ」とか、「このセリフは私が言った言葉だ」とか思っていましたけどね(笑)。
父の作品ばっかりみてきたせいもあって、基本的に父親の影響は大きく受けていますよね。私の求めている世界観は父の世界観なのかもしれません。
渡辺
お父様は宮本さんの作品をご覧になりますか?
宮本
たまにありますね。「あれ面白かったよ」と素直に言ってくれる時は面白かったのだろうなと思いますが、「あのカットよかったね」と細かいところを言う時は面白くなかったのだなと思います。けなすことはほとんどないですね。ふつうの父親ですよ。
渡辺
ちなみに、お父様と名字も違うので…差し支えなければですが、宮本さんはいつ頃ご結婚なさったのですか?この忙殺されそうな日々のなか…。
宮本
35歳の時だったかな?
渡辺
ご主人さまはテレビ関係の方とかICUの卒業生とか?
宮本
どちらでもないです。ICUの同級生とよく行くバーの常連が彼でした。まったく異業種で絵をかいたりオブジェつくったりしています。
渡辺
そんなふうに出会われたんですね!しかし、なんといってもこの忙しさ……「風のガーデン」は5カ月くらい撮影期間があったのじゃないかと思うのですが、家庭と仕事は、どんなふうに両立を?
宮本
子供も家も主人にまかせっきりでしたので、大変だったと思いますよ。今でこそ子供は高校生になり、だいぶ手が離れてきましたけど当時は大変だったと思います。私は集中するとそれしか考えられなくなってしまうので、家に仕事は持ち帰らないようにしています。深夜のファミレスで台本を一人で読んでいたり、早朝行ったりしていますね。そこのファミレスには気付くと同業者がよくいるんですよ(笑)。
渡辺
お家には仕事を持ち込まれないのですね。
宮本
そうですね。家族の為にも自分の為にも持ちこまないようにしていましたね。でもあまりにも家にいる時間がない中で、夫は家事もやりながら、子育てもしてくれて支えてもらいました。
渡辺
きっと、ご主人さまも宮本さんを支えているというやりがいがを感じられているのでは。
宮本
どうですかね。でも本当に感謝しています。
渡辺
最後になりますが、ICU の在校生やこれからICUを目指す若い世代にメッセージをいただけますでしょうか?
宮本
「失敗はつきものだから、なるべく好きなことを好きなだけしたほうがいい」ということですね。どんなに丁寧に頑張ってやっても失敗は必ずあります。それを怖がりすぎてできない人が多いと思うんですよね。でも別に失敗しても死ないし、むしろ失敗しないと成長できない。失敗したと感じるところが伸び代です。怖がらずに好きな事をいっぱいした方が楽しいよと伝えたいですね。


プロフィール

宮本 理江子(みやもと りえこ)
1986年に国際基督教大学を卒業後、フジテレビに入社。一貫してドラマ制作に携わっている。1991年のヒットドラマ、『101回目のプロポーズ』第6話で、武田鉄矢演じる主人公がトラックの前に飛び込んで「僕は死にません!」と叫んだシーンを演出した監督としても知られる。

2006年『チェケラッチョ!!』で映画監督デビュー。

2008年の連続ドラマ『風のガーデン』では、全11話を一人で演出した。通常2、3名のディレクターが分担するテレビドラマの世界では異例である。同作品の演出により、第63回(平成21年度)文化庁芸術祭放送個人賞、2008年度放送ウーマン賞受賞。

2012年 編成制作局ドラマ制作センター演出担当部長を経て現職。

2013年『最後から二番目の恋』の演出により芸術選奨新人賞を受賞。「人と人との間にある空気の微(かす)かな揺らぎを映像化できる特性を熟知し,人間関係の危うさを見事に表現する演出家」と評される。父であり脚本家の山田太一と親子二代で同賞の受賞者となった。