INTERVIEWS

第57回 藤野 彰

Eastern Network ・ Office Fujino代表,
元国連薬物・犯罪事務所(UNODC)東アジア・太平洋地域センター代表 

プロフィール

藤野 彰(ふじの あきら)
1951年山口県生まれ。1980年に国連に採用されウィーンに通算25年、バンコクに5年赴任し、主に麻薬等の国際規制に関わる。

 

自分も高校で留学して、向こうで卒業証書をもらってそのままICUに入りたいと中学生で思っていました。
渡辺
藤野さんと斎藤さんは、大学時代からのお知り合いなんですね?
齋藤
僕が17期で藤野さんは18期かな?あの頃は大学紛争があったせいかもしれないけど、先輩後輩関係なくみんな仲良しだったね。あのときの仲良し仲間にはメルリンチの副会長をしていた村山正和さんがいたり、皆いろんな分野で活躍されているよね。
藤野
鈴木洋樹さんなんかもいましたからね。
齋藤
そうそう!画商としてヒロヤマガタさんの絵を日本に紹介したりしたしね。トレンツ・リャドもそうだよね。
渡辺
なんだか錚々たるお名前が。やっぱり、藤野さんや齋藤さんの頃というのは、勢いが違うというのか、ポテンシャルが違うような気がします。
藤野
齋藤さんを始め、皆さんはただ者ではなかったですよ。
齋藤
あの頃は皆がどうなるかというのはかけらも見えてなかったけどね(笑)。
渡辺
当時の藤野さんは、斎藤さんからご覧になってどんな印象だったのですか?
齋藤
AFS生だったので英語が良く出来て、アクティブな人だったね。出身は山口高校だったんだよね。山口高校はたまたま僕の祖父が教鞭をとっていたんですよ。同窓会に祖父がゲストとしてよばれたときに、岸信介さん(元首相)がメインゲストで来られていたと話していたことを思い出しました。なかなかの名門校なんですよね。
藤野
そうですね。中学の時からそのイメージはあって、総理大臣を岸さんと佐藤栄作さんの2人を輩出していますからね。まだ講堂にも書が飾ってあるはずです。
渡辺
学校の雰囲気としても、政治家を志すような風土なのでしょうか?
藤野
天下の山高と言われてはいましたが、質実剛健な雰囲気でしたね。女子は確か2クラスだけで、その2クラスは男女がミックスで他のクラスは男子だけ。男子の方が多くて、女子は1/5くらいしかいなかったんじゃないかと思います。また他に女子高もありましたね。今の同窓会長は、前県知事で私もよく存じ上げている方です。北九州の同窓会支部総会でここ3年ほど私の同期が話をしたりしていまして、最初はJAXAの人間が話し、去年はプロの画家が話をして、宇宙、芸術と続いた後に私が麻薬の話をしました(笑)。タイトルは幹事の意向もあって、「誰も知らない国連の仕事」でした(笑)。確かにあまり広く知られているような仕事ではないですから。
齋藤
でも、大学時代に国際機関に行くっていうような話してたかな?
藤野
国際法の専攻だったもので、横田洋三さんが指導教授だったんです。それで国際法を使う方面に進むか研究者になるかどっちにするか、という選択肢でして、齋藤さんのような方と違ってつぶしがきかなかったんですよ。
齋藤
いやいや。でも僕たち勉強するっていうよりは遊んでたよね。
藤野
先輩方は特にそうかもしれませんね(笑)。
渡辺
山口高校からICUを受ける方は、もしかしたら、そんなにいらっしゃらなかったのではないですか?
藤野
そうですね。始まりは高松宮杯全日本中学校英語弁論大会に出場させて貰ったことでした。その高松宮杯に出て、後にプロの同時通訳者になった先輩がいて、彼女は高校で留学もしたのですけれど、AFSのことだとかICUについて教えて貰ったのでした。そして、自分も高校でAFS留学をして、それは1年間だけですけれど、必要単位をとれば卒業できますから、そのままICUに入りたいと中学生で思ったんですよね。
渡辺
中学の頃から、すでにそんなふうに考えていらしたんですね!
藤野
それで留学したんですけれど、我々の時からICUでは、ただ1年間のAFS留学で得たアメリカの高校卒業証書では入学できないことになってしまって(笑)。それで山口高校に帰りました。本当はカリフォルニアからICUに行くはずだったのですけれど。
渡辺
その同時通訳者になった先輩の影響が大きかったのですね。
藤野
また、中学校の時の英語の先生がすごかったんですよ。その山口大学教育学部附属山口中学校で英語を教わったのは、岡村先生といわれ、この方は高松宮杯全国大会に毎年のように生徒を出場させるほどの指導をされていました。そこで何故その先生に見出されたかというと、とある塾に通っていたことがきっかけだったのでしょう。山口高校を定年退官された、岩本先生という非常に厳しい英語の先生がやっておられました。教材は全部自分で作られていましたね。ハワイ出身でハワイ大学を出られていて、英語がほんとうに素晴らしくて、やたらと厳しかったですね。まさに寺子屋のような雰囲気だったのですが、宿題がたくさん出て、そして英語で問答するんです。予習していって、それで復習して、という形で鍛えられました。質問をされて、2秒くらいで答えられなかったら立たされるのです。”Stand up. Next!”と言われて。できたら前の席に行く(笑)。最初は人数もたくさんいたのですけど、半分くらいは落とされましたね。
齋藤
なんで中学の時に、その塾に行って英語を勉強しようということになったんですか?
藤野
親父のお陰ですね。そのスパルタ塾の話を聞きつけてきて、やりたいかと聞かれてやりたいと答え、もう締め切りは過ぎていたのですけれど、一緒にお願いに行って先生に頭を下げた記憶があります。本当にたまたまですね。
渡辺
昔の寺子屋では少人数での本当に熱の入った教育が行われていたと聞きますが、山口県というお国柄も然り、また、お父様も先駆的な方でいらっしゃったんでしょうね。
藤野
中学校の時の担任の先生に、お前の親父さんは管理職として部下の人たちにとても評判いいのだと、言われたことがありました。わたしが管理職になったときには鬼と言われていたので、ずいぶんと違うのですが(笑)。
渡辺
お父様は厳しかったですか?
藤野
母の方が厳しかったですね。いつも、勉強はきちんとしなさい、と言われていました。
渡辺
さきほどの塾での英語は相当、厳しい授業だったようにお見受けしますが、そのなかでも英語は自分に合ってるなとか、好きだなとは思われましたか?
藤野
大変でしたけれどね。帰国してから東京で会う機会のあった女性の後輩にも岩本先生の生徒だった人がいて、「あの先生は本当に厳しかったですね」、と盛り上がったものです(笑)。

そのひとは英語を教えているのですが、その叔母様は我が家を知っておられるとのことで、聞いてみると、お袋の女学校時代の同級生でした。ご連絡してみれば、私の小さい頃にも会ったことがあるそうで、それからのことも母が不肖の息子についてよく手紙で書いていたらしいんですね。悪いことはできないなと思いました(笑)。そういうご縁がたくさんありましたね。齋藤さんともウィーンかどこかで再会したりしましたしね。そうやって影響を受ける方が世界中にいらっしゃるのですよね。

齋藤
僕はよくICUの時の仲間で集まったりもするけど、藤野さんはずっと海外にいたからなかなか会えなかったりしたんだよね。
博士課程に戻る前にニューヨークの国連国連本部でインターンをして、日本政府国連代表部にも挨拶に行ったんです。その時に、ある空席情報を教えられ、見てみると国際麻薬の分野で、国際法の専門がいるということで応募したら、幸いにも採用されました。
齋藤
そもそも、ICUの博士課程を途中で辞めたのはなんでなんですか?
藤野
在籍中に国連に就職が決まってしまったんです。
齋藤
あー!なるほど!修士号をとっていれば行けるんですね。
藤野
空いたポストに応募というのが原則ですね。ICUで修士(国際法)を取ってカリフォルニア大学に留学して別の修士課程(国際関係論)を終え、博士課程に戻る時にニューヨークの国連本部でインターンをして、日本政府国連代表部にも挨拶に行ったんです。その時に、ある空席情報を教えられ、見てみると国際麻薬規制の分野で、国際法の専門がいるということで応募したら、幸いにも採用されました。
齋藤
ずっと思ってたんだけど、国際麻薬統制委員会って何をやるんですか?ずっとGメンやるのかな?なんて思ってたんですが(笑)。
藤野
Gメンの”G”というのはGovernmentで、国の仕事ですね。我々は国際公務員なのでGメンではないんですよ。インターポール(国際刑事警察機構)に出張した後、家に帰った時に娘たちがルパン三世を読んでて「銭型警部いた?」なんて聞かれたこともあります(笑)。国際麻薬統制委員会には関連国際条約上、準司法機能といわれる機能を持ち、各国がきちんと条約の規定を守っているかどうか監視する役割があるのですけれども、そこの事務局にいました。
渡辺
国連にアプライしようとは思っていらしたものの、「麻薬」は念頭になかったわけですね?
藤野
たまたま対象が麻薬だったんですよね。例えば人権のような分野は、その定義などで異論があったりしますが、麻薬は麻薬という「モノ」なので、そのような問題は生じませんから、国連で実務に携わる最初の分野としてはとても良かったと思います。当時の国際麻薬統制委員会の委員長はフランスの著名な国際法学者で横田教授とも知り合いだったんですが、それもあってチャレンジしたい分野だと思い応募しました。
1988年に新条約が採択され、そもそも薬物を作る原料(前駆物質)やその他の化学物質がないと麻薬などは作れないわけだから、それを国際的に規制すべきということで、私が国連側のその最初の責任者になったのです。しかし新しいことなので我々の前を歩いた人はいなかったわけなんですよ。既成のものを基にしたりしながら、綱渡りのような部分もあったんですけれども、我々のチームには実に信頼できる優秀な人材が揃い、各国の当局者と共に、新しい国際的なメカニズムを作り上げることができました。
渡辺
藤野さんは麻薬の国際規制においての権威でいらっしゃるわけですが、過去のインタビュー記事で「政治的では無く、 技術的な面が強い分野で働くことができて良かった」とおっしゃっていました。これは、どういう意味なのでしょう?
藤野
政治的な問題ではないわけですから、例えば冷戦の時代においても、アメリカと当時のソ連は密接に協力しています。東西ベルリンの間に壁があった頃、例えば国際薬物規制に関する政策を決定する、国連の「麻薬委員会」の場でも、1980年代の初めまでは、ベルリンについて互いに非難する声明を一応出すだけは出していた。毎年同じことを言うんですね。ところが、そんなことをするのは互いに意味のないことではないかとの合意が得られたらしく、そのうちになくなりましたね。そして原子力は武器にもエネルギーにもなり得るけれど、麻薬などの密造・密輸に関しては、政治的圧力の介在する場面はあまりないわけです。
齋藤
仕事で日本に来るとするとどこへ行かれるんですか?
藤野
厚生労働省、警察、税関、海上保安庁などですね。たとえば覚せい剤の密輸にはいろんな国や機関の情報の交換が必要で、そこに我々の出る幕があるわけです。
齋藤
ずっとそういう仕事をやっていて、タイなんかにも行かれてるじゃないですか。そうした中で「これはよかったね〜」ってところと「これはちょっと困ったな〜…」っていうところがあればぜひお聞きしたいですね。
藤野
良かったなということはと言うと、ひとつにはわたしのチームには優れた人材がそろっていたという点ですかね。一方困ったというより、大変だったなという思いがあったという話になりますが、まず麻薬には植物由来のものと化学的に合成した2種類があります。1988年に新条約が採択され、そもそも薬物を作る原料(前駆物質)やその他の化学物質がないと麻薬などは作れないわけだから、それを国際的に規制すべきということで、私が国連側のその最初の責任者になったのです。しかし新しいことなので我々の前を歩いた人はいなかったわけなんですよ。
渡辺
完全にフロンティアだったのですね。
藤野
既成のものを基にしたりしながら、綱渡りのような部分もあったんですけれども、我々のチームには実に信頼できる優秀な人材が揃い、各国の当局者と共に、新しい国際的なメカニズムを作り上げることができました。インフォーマルにつめていって、その次の日にきちっと決めて、などと様々な場面を乗り越えてやってきたその自負はありますね。たいていがもう定年退官していますけれど。

先ほど話の出た、医療用の麻薬は不可欠なものであって、例えば100年前には、世界で医療用に必要なのはモルヒネに換算して約33トンと言われていました。でもその当時製薬会社によって合法的に製造されていたのは100トンにも達していました。その2/3は非合法密輸されていたのですね。そのためには輸入許可証を偽造したりして、正規の国際貿易の過程から「横流し」していたのです。こう言った状況に対処するため、国際社会は新たな条約を締結し、それぞれの国が医療用に必要な需要「見積もり」を国際連盟に提出し、独立した委員会が吟味・承認してからでないと、麻薬の輸出入はできなったのです。

従って、現在では麻薬の国際的な横流しというのはなくなっていますね。でも麻薬原料(前駆物質)などではまだ存在しているところがあります。そういうところに直接警告したりすることもありますし、疑わしい取引怪しい集団を追跡できるようなシステムを我々は作り上げました。

渡辺
淡々と話してくださってますけど、素人がまず人生で垣間みることの出来ない世界…。取り締まる、抜け道を止める、を重ねてどんどん追いつめていく様子を推察しますが、時には無法地帯に踏み込んでいくような怖い部分もあるわけですよね?危険を感じられたことはありませんか?
藤野
アフガニスタンとかコロンビアとか現場に行かなければいけない場合は、事前に、危機を避けるため、またもしも拉致されたときの対処についてのトレーニングが必須だったりします。

エフェドリンという薬物があります。風邪薬なんかによく入っていますね。ある時、インド政府から連絡があって、そのエフェドリンをインドから大量輸入しようとしていたカナダの会社が、カナダ政府から発行されたという手紙なるものを提出したとのことでした。そこには、エフェドリンのカナダへの輸入には規制が全くかかっていないとありました。その手紙を書いたとされる人物名を見ると、かつてのわたしのスタッフでした。そして、その署名は似ても似つかぬものでした。偽造された手紙だったのです。

インド政府から問い合わせをしてきたひとも、かつて私のチームにいた人物だったものですから、話は早かったですね。そこで、インド政府には輸出禁止を依頼し、カナダ政府にも連絡し、大捜査が行われて摘発されました。賢く立ち回ったと思ったのでしょうが、そもそもそういった疑わしいやりとりは監視できるメカニズムが既にできていて、その真ん中に我々がいるということだったのですね。

「優秀」というのは、それぞれの分野でプロであるということですね。
齋藤
一つ興味があるのは、企業に入って偉くなる人もいればアウトになる人もいると思うんですが、なんで偉くなったのかというところです。この前、国連大使の吉川さんにお話を聞いた時は先輩が引っ張りあげてくれた、ということだったのですが、読者の人は国際機関に興味がある人は多いと思うし成功したい人ももちろんたくさんいると思うんです。
藤野
それは私も聞きたいです(笑)。最初に勤務したINCB事務局では、当時の事務局長はチュニジアの人だったんですけど、彼はうるさかったけれども、公平でいい上司でした。そろそろ昇進という時期になって、その頃大分楯突いていたのですが(笑)、問題なく推薦してくれました。ただあの時は、「優秀だけど予算がついてない」と審査委員会によって3回くらい却下されましたね。また、これは後々のことですが、似たようなケースがあって、この時は他の機関に応募したところ、面接でいつから来れますかといった話になり、その旨を報告したら次の日に昇進が決まりました。運はよそから来るんではなくて、組織への貢献や仕組みを作ったという結果を評価して理解してくれる人がいたということです。
齋藤
おもしろいのは、いくら優秀でもポジションが空いていなければ無理というところですよね。
渡辺
平生から、例えばチュニジア人の上司の方とも、かなり緻密な議論を重ねたり、時には絶対に譲らないくらいの話し合いをなさったりも?
藤野
本当に細かいことばっかりですけれどね。条約を適用するときにこういうことも考慮しないと後々影響しますよ、というようなことを細かく討議していました。
渡辺
こうしてうかがっていると穏やかで淡々としていらっしゃるのですが、国際会議やカンファレンスの場では相当にタフな交渉を続けていらしたわけで、そのタフな交渉を自分のコンクルージョンに持っていくにはどうするものなのでしょう?ねばりとか、忍耐力とか…。
藤野
国益や製薬会社等の利益などいろんなものが関係しますが、落としどころを探すということでしょうね。会議場の外で話すことから見つかるものもあります。1988年に新しい条約が採択された時には、例えばアメリカの麻薬取締局の高官は、各会社に「あながたがきちんと協力しないと、後々会社の名前に大きな傷がつきますよ」といった風に説得していましたね。これは脅すというよりも、協力することがプラスになるということを理解してもらうためのものでした。そうやって、国際的な協力体制を築こうとしてきました。
渡辺
以前、ミスター円の榊原英資さんが「日本ではタフネゴシエイターがなかなか育たない」と話していらっしゃいましたが、私たちには見えない水面下で藤野さんのような方々が日夜、活躍してらっしゃる現実を実感します…。
藤野
外に出せないものもたくさんありますけどね。
渡辺
やはりチームの力も大きいのでしょうか。信頼できるチームを育てるということこそ大変かと拝察しますが。
藤野
優秀な連中が、専門職のみならず、秘書さんたちなど一般職も含め、集まってくれました。以前バンコクで私の部下だった人が今ウィーンの私のいた事務局で勤務しているのですが、「当時のチームメンバーは今でも、藤野さんのことをサムライだったと言っていますよ」と教えてくれたこともありました。
渡辺
藤野さんから見て、その「優秀」ってどういう人なのでしょうか?
藤野
それぞれの分野でプロであるということでしょうね。法医学のある研究所の所長だったり 化学者で警察官だったスタッフなどがいましたが、それぞれの分野でプロであった、ということです。それがあった上で協調性があって、仕事が任せられる人間ですよね。最後には「あんたは厳しかったけど皆に対してきちんと同じに扱った」とは言ってくれました。
渡辺
公平ということですね?
藤野
そうでしょうかね。人間なので向こうから見たら、そうでない部分もあったとは思いますが。中学の時「人生常に岐路に立つ。決断が大切です。」と書いてくれた恩師がおられました。後から考えて間違いだったという場合もたくさんありますけれど、それぞれの時点では、最大限の情報を集めて、我々は決断したのでした。
「空中に楼閣を立ててもそれは失ったことにならない。楼閣は空中に立てるものだ。さあ土台を作ろう。」という言葉がありましたが、これはまず楼閣を立てようと思わなければ何も起こらないということだと思うんです。だからそれぞれの楼閣を思い描いたらいいと思う。
齋藤
ウィーンでは射撃やってて賞なんか取ったりしてたようですし、スキューバダイビングもやってたり、いろいろやられてますがあれはいつ頃からやられているんですか?
藤野
射撃は30年くらい前からですね。紹介されて始めました。ダイビングはタイに赴任してからです。
齋藤
武器ってお好きですか?僕も刀とかも好きなんですよね(笑)。
藤野
私はナイフも銃もたくさん持っていますね。あとはギターもたくさんあります。射撃については、トロフィーも結構手に入れました…。(写真を見せる)
齋藤
わー!これはすごい。日本の多くのサラリーマンって、生活範囲がものすごく狭いんですよ。仕事がメインであまり自分の豊かさを磨く機会がないというか。いろんな趣味を昔からやっられていたというのは、やっぱりすごいことやね。
渡辺
長くいらしたウィーンは、藤野さんにとってどんな町ですか?
藤野
ウィーンに行った時、都市ではありますが村のような意識があると感じました。京都みたいな感じと言えば近いかもしれない。私の親友はウィーン人ですけれど。やっぱり欧米人の顔をしていない場合、人種の区別はありますかね。差別があるわけではないですが見られることは多いな、と。ウィーン以外ではそうではなかったんですけどね。人口が少なくても、様々なスポーツができ、例えばスキーをつけたパラグライディングなど、マイナーなものも盛んでした。

住むのには良いところでしたね。そこに永住するようにすればできたんですけどしませんでした。すれば税金も無しなんですが、でもやっぱりアジアかな、と。バンコクからウィーンに戻ってきたらレジの人がぶすーっとしてるんですよね。バンコクはにこやかなんですよ(笑)。そういった意味では、ウィーンは自分のいる場所ではないなという気はしましたね。1年目は珍しいからいい、2年目は悪いところが見える、3年目になってバランスよく見ることができる、といった思いでした。

渡辺
長い海外生活でいらして、しかもこれだけの忙しさ…差し支えなければ、奥様とはどちらで出会われたのでしょう?
藤野
妻もICUなんですよ。本来ならば会わなかったのですがUCLAから博士課程に戻ったら、彼女は修士過程にいて出会いました。亡き母が「結婚するなら日本のお嬢さんにしてくださいね」と言っていましたが、日本にいなくて、そんなのにどこで会うんだ、と思ってましたが(笑)。今は国連工業開発機関(UNIDO)のスタッフで、代表としてインドに赴任しています(本年10月には本部のあるウィーンへ異動予定)。
渡辺
ご夫婦で国連で活躍していらっしゃるんですね!
藤野
そして双子の娘たちがいまして、今はふたりともカナダにいます。もともとカナダの大学でアートとグラフィックスを専攻してたのは、アニメーターになりました。もう1人はICUを卒業したんですけどニュージーランドで働いて、後に、カナダへ移りました。かつては、家族が皆世界のばらばらの場所にいました(笑)。
渡辺
奥様はインドで、藤野さんはずっと日本におられる予定ですか?
藤野
もともと事務所をバンコクに置いて、遠藤周作さんの「海と毒薬」という本がありましたが、私のライフワークは「海と麻薬」です(笑)。麻薬等の国際規制に関する仕事とプロのダイバーつながりの仕事をやろうと思っているのですが、どうなるかというところですね。
齋藤
なるほど。それは面白そうやね。
藤野
他にも経済社会理事会で行われる、INCB委員選挙に私を送り込もうという動きがあったり、どうなるか本当に分からないような状況ですね。
渡辺
ますます忙しくなられそうな!ご活躍を祈っております。最後に、ICUの在学生やこれからICUを目指そうとしてくれている高校生の方に向けてメッセージをいただけますでしょうか。
藤野
そういえばICUでも語学科も興味があったし、どの学科に行こうかってすごく悩んだんですよ。そして論文に対してやまをかけていたんですが、キルケゴールがぴたっと出たんですよ(笑)。
渡辺
すごい!(笑)
藤野
それで社会科学を選んだんです。語学というと、通訳する技術を身に着けるというよりも、私が言うことを通訳してもらうというのが合うんじゃないかなと思いました。

ひとつ付け加えたいのは、ヘンリー・デビッド・ソローと言う人が「空中に楼閣を立ててもそれは失ったことにならない。楼閣は空中に立てるものだ。さあ土台を作ろう。」という言葉を残していますが、これはまず楼閣を立てようと思わなければ何も起こらないということだと思うんです。土台が無いからと言ったら何もできない。まずは楼閣を思い浮かべるとこから始めることが大切です。それぞれ自分のやりたいことをやったらいいんじゃないかと思います。

後は、かつて、どこかで、目にした「ひとつの波が揺れて、四海の波を揺れ動かす」という言葉を思い起こします。結局うちのチームは、難しい状況の中でみんなでがんばって海を動かしてくれたんじゃないかと思っています。

土台ができることもできないこともあったけれど、これまでずっと楼閣を立てることを思い浮かべて来たし、それぞれの楼閣があっていいんじゃないかと思いますね。



プロフィール

藤野 彰(ふじの あきら)
1951年山口県生まれ。山口高等学校、国際基督教大学(ICU)大学院行政学研究科修士(国際法)、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院政治学研究科修士(国際関係論)、ICU大学院行政学研究科博士課程中退(国際法)。1980年に国連に採用され、ウィーンに通算25年、その間バンコクに5年赴任。約30年間、主に麻薬等の国際規制に関わる。国際麻薬統制委員会(INCB)事務局次長、国連麻薬・犯罪事務所(UNODC)東アジア・太平洋地域センター代表、UNODC事務局長特別顧問などを歴任。

現在、高円宮杯全日本中学校英語弁論大会/日本学生協会(JNSA)基金理事長; 公益財団法人 麻薬・覚せい剤乱用防止センター(DAPC) 理事; 内閣府認証特定非営利活動法人 アジアケシ添削支援機構(APOP) 理事; エバーラスティングネイチャー(ELNA) 副代表理事; 日墺協会 理事。