INTERVIEWS

第51回 松岡 佑子

通訳・翻訳家、静山社会長、ハリー・ポッターシリーズ翻訳者 

プロフィール

松岡 佑子(まつおか ゆうこ)
福島県原町市(現・南相馬市)出身。国際基督教大学では歴史を専攻し、卒業後は日本を代表する同時通訳者として30年のキャリアを持ち、ILOを始め世界中で活躍。1998年静山社の社長に就任した直後に「ハリー・ポッター」シリーズを翻訳・出版したことで知られている。2000年に「青い麦」編集者賞を、同年、書店の選ぶ「新風賞」を受賞。また、小出版社にもかかわらずハリー・ポッターシリーズの出版を獲得しベストセラーにした快挙で、2000年の日経ウーマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。
アドバイザーの武田清子先生からアドバイスの一つとしてよく覚えている言葉が「どこにあっても光る存在でありなさい。」というものでした。こうして考えると、どこへ行ってもICUの方って結構光っているのではないかと思います。
齋藤・渡辺
今日はよろしくお願いします。
松岡
よろしくお願いします。確か渡辺さんとは何かでご一緒する機会があったのですが…確か渡辺さんが他の用事があり、その時は実現しなかったような気がします。
渡辺
そうでしたか!それは大変残念でしたが、今日はその分、ご一緒できて光栄です。現在は、日本にはあまりいらっしゃらないのですよね?
松岡
今は日本に来る機会はあまりないですね。少なくしています。3ヶ月にいっぺん、1週間ほどですね。そうしないと会社も後継者も育たないと思っています。私やハリー・ポッター抜きでやっていかなければいけないですからね。Eメールの時代なので完全に逃れられるわけではありませんが(笑)。
自由に活動していると、ICUというのは変な学校なもので(笑)、「実は僕もICUです」という方にあちこちで出会うんですね。卒業生の数は少ないはずなんですが、海外で国際的な場面でお会いする方が多いということでしょうね。

私がフリーになったころの通訳の世界にはICU閥のようなものがありまして、他の学校出身の方は少なかったです。NHKのアナウンサーの中にもちらほら卒業生がいますね。ハリー・ポッターのおかげでいわゆる有名人(笑)の方とお会いする機会もありましたね。平田オリザさん(※ICU卒業の劇作家。「今を輝く」にも登場)は教育委員にもなられて随分名前が露出しましたね。本来お会いするはずがない方々ともたくさんお会いしましたが、結構みなさんおもしろいところで変なことやってますね(笑)。

一同
(笑)。
松岡
ICU生は群れないと言えば確かに群れないんですけれどね。私は武田清子先生(ICU名誉教授。参考 NHKホームページ )のアドバイジーでした。当時私は近代日本政治思想史を専攻していて、武田先生は天皇制の研究でよく知られていました。そのアドバイザーの先生からのアドバイスの一つとしてよく覚えている言葉が「どこにあっても光る存在でありなさい。」というものでした。こうして考えると、どこへ行ってもICUの方って結構光っているのではないかと思います。学生時代、先生のお宅にお伺いしたこともあります。確かアドバイジー全員が集った時にこのお言葉をいただきました。アドバイジーには個人的な側面を見せられることがあったんですよね。つい最近も先生にお会いしました。朝日新聞にコラムも書かれたり、現在も矍鑠(かくしゃく)とご活躍ですね。
国際基督教大学という名前が私の女子高の中では有名校、憧れの大学の一つとなっていました。卒業生で特に優秀だった先輩が行ったということもあって、伝説になっていたのかもしれません。とにかく英語の教育がすごいところで、新しい大学であるということだけ知っていました。
渡辺
松岡さんは1966年ICUご卒業ですが、宮城県の第一女子高等学校からICUをお受けになったのは、どういうきっかけだったのでしょうか?
松岡
第一女子高校は現在は共学になってしまって、それがとても残念なんですけれど…(笑)。一生ずっと別学ではいけないですが、男女別学というのはとてもおもしろいシステムなんですね。
渡辺
同じ考えを伺ったことがあります。女子校、男子校という制度を見直す動きは日本でも出ていて、「男子校という選択」という本がとても売れたので、そのあとに「女子校という選択」という本も続いたとか。新聞記事でも海外の例としてヒラリー・クリントンやレディー・ガガなどを挙げて「女はこういうことをしない」という観念にとらわれずに自分の好きなものを専攻・追及する姿勢は、 どうも女子校出身者に多いとまとめていました。「リケジョ」と呼ばれる理系の女子も女子校出身者が多いという統計があるそうです。
松岡
そのころは女子校が結構あって、母も叔母も女子校出身で女子校の生態を目の当たりにしていたもので、私が女子校を選んだのもそういう背景があったからかと思います。S現象ってご存知かしら?(笑)
渡辺
S現象、ですか?
松岡
SはSisterのSなんですが、「あの方に憧れるわ」という、恋愛というよりも本当の憧れとしての気持ちですね。異性にうつつを抜かすという余計なことをせずに(笑)、3年間を過ごすことができて、その間に精神的な発達が共学とは違うものが生まれたのではないかと思っています。私はその雰囲気が好きだったので女子校を選びました。最終的にお茶の水ではなくICUを選んだのは、ずっと女子校でいたら人間が偏るんじゃないかと(笑)、思ったからなんです。もちろん高校も無菌状態というわけではなく同級生にはボーイフレンドもいたりコンパをする人もいたりしたわけですが、私は下宿先と学校を行き来していただけのガリ勉タイプの人間でした。学校の人たちと仲良くすることをとても楽しんでいましたから、それこそ無菌状態でしたね。もう一つICUを選んだ理由は、英語で何か自分の能力が伸ばせるんじゃないかと自分でも思い、先生にもそう言われたからなんです。それで「やっぱり私、ICUに行くべきなんだ」と思ったのですが、今考えると若気の至りですね(笑)。
齋藤
そこで、上智を受けようとかはお考えにならなかったのですか?
松岡
上智は私の情報の中にはありませんでしたね。そのころはICUという大学がとっても目立ってましたし、卒業生の中でたった一人だけICUに入った人がいたんです。歴代の卒業生の中でも特に優秀だったと聞きました。その人が行ったというならすごい大学なんだなと思っていました。ただし、いくら勉強しても受からないこともあるし、勉強しなくても受かることもあると、特殊な入学試験であるということもわかっていました。とにかく目立った大学だったんですね。
齋藤
これは意外ですね!これまでのICUの学生さんは主に関東圏からなんです。私は69年に入学したのですが、高校までは大阪なのですが大阪では誰も知らなくて。一応男子校の進学校だったのですが先生でさえも「聞いたことがない」という状況でした。
渡辺
私の入学した80年代後半でも、ICUに行くと言うと「就職するの?」と聞かれるような状況もあったようです。
松岡
大学の内容は皆知らなかったんです。ただ国際基督教大学という名前が私の女子高の中では有名校、憧れの大学の一つとなっていました。
齋藤
それはなぜそのようなことが起こったのでしょうか?
松岡
一つは優秀な先輩が行ったということもあって伝説になっていたのかもしれません。だから私もどんな学校かは知らないけど、とにかく英語の教育がすごいところで、新しい大学であるということだけ知っていました。やはり誰も知らないので、両親は嘆きました(笑)。
齋藤
ですよね〜(笑)。
松岡
父親は坊さんになるのかと、私を責めたくらいで(笑)。母親は体育と図工と国語の教師の資格を持っていたんですが、短距離のオリンピック候補でもあったんですね。
齋藤・渡辺
ええ〜!!!
松岡
幻の東京オリンピックの候補だったんですけれどね。その後体育の先生になりたくて、お茶の水の体育科を受けて落ちたそうなんです。落ちた原因は受験科目にピアノがあったそうなんです。ピアノを習ったことがなくて、それで落ちたと本人は言っていました(笑)。私はその意趣返しをするつもりもあり、そして国立の中では女子校が奈良とお茶の水の二つしかなく、そのどちらかに受かれば誉れ高いことになるということで、お茶の水女子大を受けて受かったんです。母にはサクラサクの電報を渡して、これでいいでしょ?ということでICUに行ったんですね。私の性格を考えるとICUよりお茶の水の方が合ってたんじゃないかとも思いますが…(笑)。
渡辺
どうしてですか?(笑)
松岡
四角四面で、もしかしたらすごい教師になっていたかもしれないと考えたこともあります。しかしそれを破ったことでハリー・ポッターにも出会うことになったんですね。だから人生何が、どこが、岐路になって、それが幸いするか不幸になるかというのは、わかりませんね。最後まで、わかりません。
渡辺
英語に興味がおありだったなら、東京外国語大学はお考えにならなかったのですか?
松岡
受ける予定でした。しかし先に2つ受かって、ICUが第一希望だったので東京外大は受けませんでした。
渡辺
なるほど。そもそも松岡さんと英語の出会いというのはどこだったのでしょうか?
松岡
英語と出会ったのは中学一年生です。両親とも教師で、母親が教育熱心だったこともあって、小学校はずっと1番でしたから新しい科目で自信をなくさないようにと(笑)、家庭教師をつけてくれたんです。私と、優秀と言われていた女子生徒と3人で週に1回か2回、私の家で先生と勉強して、教科書を先へ先へと進める勉強をしました。
その先生は青山学院大学を出た社会科の先生だったのですが、子供心にその人の英語の発音がとてもきれいだったのです。「ああ〜、英語ってこんなにきれいな音なんだ。」と思って、それで好きになったんですね。それにもともと学問は好きで、人よりも先に進むことで成績もよくなり、どんどん英語がおもしろくなるわけです。

そして高校に入る頃には取りつかれたように毎朝松本亨さんの英会話のラジオを聞いたり、副読本を片っ端から読破したり、ESSというクラブに入って外国の映画を見てその台詞を暗記したりとか、まあよく勉強しました。

渡辺
その副読本は、差し支えなければ、どのようなものだったか教えていただけますか?
松岡
教科書の副読本は、校長先生が特別授業で使った「若草物語」の副読本、あとは”David Copperfield”を副読本にした英語の先生がいて、その先生は常勤ではなかったのですが、それが正式な副読本でした。でもそれによってそのような本のシリーズがあるんだなということを知ってしまったんで(笑)、本屋さんに行って同じ様なものを買いあさったんですね。名作のダイジェスト版などもたくさん読みました。イギリスの古典である「デイビット・コパフィールド」に触れたり、大好きな「若草物語」を英語で読めたというのが、英語熱に拍車をかけたと思いますね。
齋藤
ICUでは、最初は語学科にお入りになられたんですよね?僕も語学科でその時はコミュニケーションだったんだけれど、当時は斎藤美津子先生やジャック・コンドン先生とかにお世話になったのですが、少し後になるのでしょうか?僕は17期生なのですが…。
松岡
そうですね。私は10期生なのでだいぶ違いますね。当時は教養学部で2年生から少しずつ専門の授業がとれるようになっていました。1学年は200人ほどでしたが、今はどうなのでしょうか?
齋藤
今は650人ほどになりましたよ。
松岡
そう考えたら200人の時代はとても牧歌的でしたね。まだ農場もあってICUミルクを飲んでいましたね。
齋藤
私も味わいました!
松岡
そのあとゴルフ場になったり、高校ができたりしたんですものね。
渡辺
時代でいうと、私がちょうど今の在校生と齋藤さんの間くらいなのですが、私の頃は1学年400人ほどでした。
松岡
そうですか。学校というものはどれだけ理想が高くても事業ですからね。お客が来なければ成り立ちませんからね(笑)。ただたくさんお客が来ると品質が落ちると言われるから難しいものですね。
渡辺
おっしゃる通りだと思います。
松岡
あの頃は泰山荘が焼けずに残っていてそこで学生コンパをやったり、裏の栗林を歩いたり、またとてもいい郵便局長さんがいたんだけど、その方のお宅に週末招かれて賛美歌を歌ったり、本当に小さな大学の牧歌的ないいところを味わいました。
私がお茶の淹れ方などを通して学ぶことができたのは、人への対し方というものだと思います。英語ができても偉くないんだということですね。そこで過ごした7年間というのは、私の社会人としての人生経験の一番大事な核になっていると思います。
齋藤
通訳の勉強はICUでやられたんですか?
松岡
語学で入りましたけど、1年生のFreshman Englishが2学期で免除されたんです。成績が全部Aだったので…。
渡辺・齋藤
ひええ〜!
松岡
いえいえ、あの試験は、とにかく勉強すれば成績が良くなるのは普通だったんですよ(笑)。
齋藤
そのころ大田先生っておられました?
松岡
ああ〜、私、好きでしたね。
齋藤
私は彼女に「あなたの英語は大阪弁のアクセントがあるわね。」と言われてガクッときたものです(笑)。
松岡
私は4人組の親友がいたんですけれど、一人が奈良の出身で、その子も「イントネーション」というときの発音が変わっていたんですよ(笑)。関西弁の英語ってあるんだなあと思いましたね。とても優秀な人で、ウェスレー大学に留学した人でしたけれど。大田先生は名物先生で発音に厳しい先生で、手鏡で口元を見ながら発音させるという人でしたね。大田先生は印象に残っている先生第一位でしょうね。
渡辺
Freshman English をスキップされた後は、どんな授業をお取りになったんですか?
松岡
3学期目には好きな授業やジェネラル・エデュケーションも取っていいということになっていました。専門の授業が早くとれるわけなので、もう20歳になっていた女性がいろいろな学問を学ぶようになると、「英語で身を立てる必要はなく、英語は道具として使えばいいんじゃないか。人生もっとやるべきことがあるんじゃないか。」と思えてくるわけですね。それで歴史研究会なんかに入って、歴史好きな人たちと付き合ったりもしていました。私は特にマルクス主義を信奉する人でもなし、かといって小説に耽溺する人でもなし、何か学際的な分野があれば楽しめるんじゃないかと思って、武田先生のアドバイジーで歴史(ヒューマニティーズとソーシャル・サイエンスのID)を選んだんです。ですので、1年生の後半では語学を専攻することをやめて、歴史を勉強して大学院まで行きたいと思っていましたね。
齋藤
通訳の勉強というのもとても大変ですよね?
松岡
私、齋藤美津子先生の通訳の授業は一度も受けていなかったんです。通訳になるつもりなんてさらさらなかったんですよ。生徒は皆齋藤先生のことを怖がっていましたよね。私は幸か不幸か、一度も齋藤先生には教わっていないです。
齋藤
そうなんですね。同時通訳の勉強はしなくて、そのまま英語はできたんで通訳をやっていたと、そういうことなんですか?
松岡
専攻としては歴史、細かく言いますと近代日本政治思想史ということです。本当は4年生の時に、私は武田先生のお口添えでマラヤ大学に1年間留学するはずだったんです。ところがちょうどシンガポールが分離する時期と重なり、しかも武田先生はサバティカルをお取りになってアメリカに行ってしまわれたんです(笑)。それで結局留学がだめになったのが夏休みです。もう就職には遅く、大学院に行くと言ってももう8月で受けるあてもないし、学生部に行ってずらっと掲示物を見ていたら「常勤通訳求む」という文字があったんですね。
渡辺
そこですか…!
松岡
そして受けたら一次試験が通って、二次試験を受けることになって。もうその時には主人と巡り会っていました。それである日主人とどっかデートした帰りかなんかに、「あ、今日は面接日だった!」なんてことがありました(笑)。
齋藤・渡辺
えー!!(笑)
松岡
忘れちゃってたんです(笑)。主人はALS協会を設立した人ですが、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者でもあるホーキング博士という人は、大学か就職する時かの面接日を忘れたことがあるんですって。「もう一人いた!」とその時思ったものでした(笑)。

そこに就職するつもりでいたので困ったと思いましたが、とにかく謝らなければならないと思い、「大変失礼いたしました。もしも機会がいただけるのであれば面接していただけないでしょうか。」と聞いたところ、その時の理事長がとても偉い方で、穂積五一さんとおっしゃる方だったんです。読売新聞の連載(2014年8月6日〜9月10日連載「時代の証言者」)にも書いているのですが、穂積五一という方は思想家でもあり、「アジアに戦争をしかけた日本が悪い。その贖罪をしなければならない。」という思想の持ち主で、穂積先生を慕う人たちが新星学寮という寮に集まるようになり、それが発展してアジア文化会館となり、そこから今度は海外技術者研修協会(AOTS)ができ、というふうに発展していったんですけれど、そこの理事長であった穂積さんが、面接を受けることを許してくれたんですね。それで行きました。

行ってみるとそこに穂積先生が座っていらして、それからその頃その協会の通訳をやっていらして、その後保険会社のAIUにお入りになった方がいらっしゃって、そのお二人がとても印象に残っています。そのAIUに入られた方が「一次試験を一番で通った方が、なんで面接に来ないんだろうと不思議でした」とおっしゃいました(笑)。それで穂積先生は、何も質問なさらないんです。アジアのことを語り、自分の個人的なことを語り、私は“はいはい”と聞いているうちに、それでは終わりましょうと面接が終わり、採用になりました(笑)。

齋藤・渡辺
へえ〜!!(笑)
松岡
それが経緯で、とにかく穂積先生の通訳をすることを目標にがんばったんですね。そのころは國弘正雄さんと、もう一人東大の長井善見先生という方と、そのお二人だけが穂積先生の通訳をすることを許されていたというくらい、厳しい要求の方だったんですね。その後を継ぐべく、私は必死で内部の研修を受けて、やがて1年も経たないうちに穂積先生の通訳を許されるようになったのです。それでその協会内の授業の通訳をしたり、海外の技術者の研修のためにあちこちの工場を見に行ったりしました。鉄鋼業とか造船業とか自動車とか、のちにはエレクトロニクスだとか、日本がその時代に最先端を行くようになっていた、そういう分野ですね。当時は製鉄所に行くと顔中が真っ黒になるくらい煤がでているし、自動車もまだそんなにロボット化が進んでいない時でした。でも日本を引っ張ってきた企業についてずいぶん勉強させられたのはよかったです。

もう一つよかったのは、主に東南アジアの研修生と付き合うことによって英語のなまりに強くなりました(笑)。それから、日本が何をしてきたかということを、歴史専攻の端くれとしても直に感じたり考えたりする機会にもめぐまれました。穂積先生の薫陶を受けたというか、先生の何気ない話の中からそういうものが伝わってくるんですよ。ご自身が命をかけてやっておられたことですから。

それから、そこで過ごした7年間というのは、私の社会人としての人生経験の一番大事な核になっていると思います。諸先輩の中に立派な女性たちもたくさんいまして、その女性たちから、お茶の淹れ方から電話の応対の仕方など基本的なことを学ぶことができ、社会人の第一歩を踏み出すのにはとてもいいところでした。私がフリーになったころは、立派な通訳をしていても、社会勉強しないままに通訳界に入る人たちが結構多かったんですね。帰国子女だったりすると日本の文化に疎かったりしますから、特殊な世界です。もちろん通訳はよい通訳ができればそれでいいわけです。でも、私がお茶の淹れ方などを通して学ぶことができたのは、人への対し方だと思います。英語ができても偉くないんだということですね。そんなところを叩き込まれた7年間でしたね。

その頃は若気の至りで「この人と結婚する!」と強く決めていましたけどね。貧乏で手鍋下げて所帯持ったくらいのものですから。そういう時期には、別に相手がどんな貧乏でも欠陥があったとしても、そういう目でしか見ないものだということを、ホーキング博士の離婚した奥さんがその著書で言っていました。結婚ってそういうものだと思うんですよ。何も知らないうちにしてしまうのが良いんです(笑)。早く結婚して苦労をともにして、それが嫌だと思うか、それとも添い遂げるのか、だと思いますよ。
渡辺
ご卒業なさってから7年間務めていらっしゃる間に、ご結婚を?
松岡
そうですね。学生時代から付き合いはありましたけど、卒業してから1年目に式もあげずに籍を入れただけです。両親は大反対でしたし…(笑)。
渡辺
大反対、ですか?
松岡
どこの馬の骨かわからない、ましてや「キリスト教」大学なんぞを出た男なんて、ろくなやつはいないと(笑)。田舎の人から見れば一番いいのは国立大学を出てしっかりした定職についている男性なんですよね。そういう人であれば「蝶よ花よ」と育てた自慢の娘のいい婿だったのかもしれないけれど、相手は哲学専攻で定職もないし、どこの馬の骨ともわからない人と突然結婚しますだなんて許せない、という感じでしたよ。
渡辺
松岡さんは、ご兄弟は?
松岡
弟が一人いて、今は弊社の社長をやっています。
渡辺
なるほど…お嬢さんはお一人だから、ご両親は特にご結婚相手に対して厳しくなられたのかもしれませんね。
松岡
希望があったのだと思いますよ。今になるとその気持ちはよくわかります。その頃は若気の至りで「この人と結婚する!」と強く決めていましたけどね。
渡辺
押し切るというか、それでも断固、結婚なさったんですね?
松岡
まあ、結婚は両性の合意に基づきますのでね(笑)。貧乏で手鍋下げて一緒に所帯持ったくらいのものですから。そういう時期には、別に相手がどんな貧乏でも欠陥があったとしても、そういう目でしか見ないものだということを、ホーキング博士の離婚した奥さんがその著書で言っていました。ホーキング博士との生活を書いた本が最近映画になりましたね(「博士と彼女のセオリー」本の原題は“Travelling to Infinity”)。
渡辺
エディ・レッドメインがホーキング博士を演じて絶賛された作品ですね。レ・ミゼラブルでも素晴らしい演技でしたが。
松岡
アカデミー賞をとっていましたね。ホーキング自身があれをみて「あれは自分だ」と言ったほど、そっくりだそうですよ。私、映画は全て飛行機の中で見るんですけど、この前見た宮部みゆきの本の映画、学生たちが裁判する映画もおもしろかったです。中学校で起きた殺人事件の模擬裁判を、生徒たちがするんですけど。小説もとても売れていたと思います。「ソロモンの偽証」だったかな?
それは余談として、ホーキングの映画も飛行機の中で見て、素晴らしい映画だと思いました。ホーキングとその奥さんは、ホーキングが発病してから結婚しているんですよ。もう足を引きずって、余命がほとんどないと言われているのに結婚することを決意したんですね。「今考えてみれば、それは若かったからなんの障害にもならなかった」と。結婚ってそういうものだと思うんですよ。何も知らないうちにしてしまうのが良いんです(笑)。あとになって知恵がついた頃には相手がいないんです(笑)。早く結婚して苦労をともにして、それが嫌だと思うか、それとも添い遂げるのか、だと思いますよ。
齋藤
ご主人様は同級生でおられるんですか?
松岡
いえ、4歳上です。4年上ですが、大学で足踏みしていてそれで出会った訳です。
齋藤
するとクラスなどで一緒だったのでしょうか?
松岡
いえ、修養会です。1年の時の修養会で一緒で、最初は「なんか小難しいことをいう深刻そうな顔をした人がいるな」、というのが第一印象で、あっちは「18の小娘が難しいことに食いついてくるな」と思ったそうですけど(笑)。同級生じゃないんですけれど、むこうは私より先に学校に入って、卒業したのは私より後でした。フランス哲学の関屋光彦先生のアドバイジーでしたね。
渡辺
反対を押し切っても結婚したいと思われたご主人様の魅力は、松岡さんにとってどんなところだったんでしょう?
松岡
「どこが好きだ」って結婚する人なんていますかね(笑)。女性の場合は目がきれいだとかなんとかあるかもしれないけど…。だけどあとからその目を良く見たら普通だったとかね(笑)。もう思い込みですよね。でも私は、やっぱり一番惹かれたとすれば哲学者だったところだと思います。人生を深く考えるんですよ。フランスのパスカルを卒論にしていたんですが、私が考えたこともないようなことを考えているわけです。そんな話を4歳も年上の人から20の娘が聞かされてご覧なさい。きっと感激したんだと思います(笑)。それで素晴らしい人だなと思って、惹かれたのだと思いますよ。
仕事を続けながらも日米会話学院に通い、錚々たる方々と切磋琢磨し合いました。そしてどの仕事も大切に、大切にやっているうちにだんだんあちこちからお声がかかるようになって、そのうち日本の通訳の中でもこれは、という人間を集めてILOへ送り込もうという話の中で選ばれたわけです。それで最初に行った10人くらいの中に選ばれて、81年からずっと総会の通訳を務めてきました。
渡辺
81年からはILO(国際労働機関)の同時通訳を担当なさいましたが、このまま通訳の道で生きていこうと、7年経過した時点では思われていたのですか?
松岡
そうですね。いつも与えられた仕事に全力投球していましたから、AOTSの常勤通訳として恥ずかしくないものになりたいと思っているうちに、この組織の中に置いておくにはもったいないと思われる実力になっていたらしいのです。私はもっと勉強したいと思って、日米会話学院の夜学の同時通訳科に通ったことがあるのですが、1日おきでしたけれど逗子に住んでいましたから夜学を21時までやって帰るのは大変でした。その時には通訳としての力をAOTS内で認められていたこともあって、半常勤という形をとってもらえたのです。1日おきに仕事に行き、1日おきに夜学に通って、夜学でもよく勉強して1年を過ごしたわけです。ずいぶん勉強になりました。

西山千先生なんかもそこに講師に来ていましたし、クラスで一緒に勉強した中にも優秀な方がたくさんいました。1人は山崎順一さんといって、弁護士でご自分の弁護士事務所もやってらっしゃいますが、知的所有権の錚々たる弁護士です。当時は東大を卒業したのに、弁護士の試験を受けるためにか、ビルの清掃のアルバイトをしていたんです。そういう変わり者でした。とても優秀でしたね。もう一人は西水美恵子さん、女性として世界銀行の副総裁になった人です。まあ優秀で、こんなに英語ができる人がいるんだとあっけにとられました(笑)。

渡辺
優秀な松岡さんがあっけにとられるレベルって…!?
松岡
しかも「優秀だった人間(松岡)」が6年ほど実地で研鑽してから学校に行ったときのレベルなのに、あっけにとられるわけですよ(笑)。それから石倉洋子さんという年下の方がいたんですが、彼女は日本人の女性として初めてハーバードのドクターコースを卒業した方です。
齋藤
彼女は僕のマッキンゼーの後輩でもあるんですよ。
松岡
洋子さんとは随分一緒にお仕事しました。あのころの石倉さんにまた会ってみたいけれど、会わない方がいいのかしら(笑)。もっとすてきになっているとは思いますが、あのころの石倉さんが大好きだったから、今会わなくても十分です。そういう人たちと切磋琢磨してご覧なさい。ある程度レベルはあがると思うんですね(笑)。

でも、そういう生徒の中でも、6年間実地で通訳していたのは私しかいなかったので、通訳科の中では少し目立ったらしいのです。それで、今は日米会話学院の学院長でもある大井孝先生が、当時は同時通訳科で教えていたのですが、その先生に「実は1ヶ月間アメリカで研修団の通訳をする研修があるんだけど行ってみないか」と言われたんです。私はそれまで海外に行ったことなかったんですよ。アメリカに行って自分の力を試してみたいという気持ちがあったので引き受けたかったのですが、そのためには仕事を休まなければいけないわけです。それでAOTSに申請を出したら、ずっとお世話になっていた上司に「あなたはいつまでもここに留まる人ではない。いっそここで辞めて、フリーになった方がいいんじゃないか。」と言われたんです。しかし重要な通訳や後輩の指導など、今すぐいなくなられてしまうと困るから、半常勤の保証をするのでその形でアメリカに行かないか、と言われました。それでその通りにしました。

一生懸命やってきたことがAOTSで認められ、学校でも努力が認められたおかげで、研修団に随行してアメリカに1か月間行きました。それ以後その研修団が5年間くらい続いたんですが、その時にペアで一緒に行ったのが先程お話した山崎順一さんです。3回か4回一緒に随行して仕事しました。この人は英語を本格的に勉強したことがないのになんでこんなにできるのかと、その能力の高さを噛み締めましたね。通訳はやっぱり語学よりも理解力だと思いましたね。

そしてフリーランスになったわけなのですが、幸いその頃フリーターをしていた夫が出版社の学研に勤めることになりまして、ある程度の定収入が見込めるようになったので、良いタイミングでした。そしてどの仕事も大切に、大切にやっているうちにだんだんあちこちからお声がかかるようになって、そのうち日本の通訳の中でもこれは、という人間を集めてILOへ送り込もうという話の中で選ばれたわけです。それで最初に行った10人くらいの中に選ばれて、81年からずっと総会の通訳を務めてきました。数年前にはもう辞めましたけどね。

齋藤
僕の大学の後輩がILOにいまして、今度松岡さんにインタビューすると話をしたら「え!僕よくお見かけしました!」と言っていましたよ。
松岡
ハリー・ポッターを始めて2,3年はILO通訳を続けていましたので、その時かもしれませんね。通訳でなく「ハリー・ポッターの松岡」という目で見られるようになってしまいまして、それはあまり良いことではないと思いましたけどね。
2月の長野オリンピックの通訳の仕事もお断りしていたんですが、主人が12月に亡くなったので、そのあとに、もし必要でしたらやりますとお電話しました。亡くなる前、主人に「どういう風に生きてほしい?」と聞いたら、「世界中いろんなところに行って、思いっきり自由に生きろ」と言われたんです。それでその遺言に従ったつもりです。そしてその年の10月に仕事で行った先でハリー・ポッターに出会いました。これは天国からの贈り物だと思っています。
渡辺
そのあとはモントレー国際大学院大学(MIIS)で国際政治学修士もお取りになっていますが、これは?
松岡
大学院の夢が破れましたので、やっぱり大学院で勉強してみたいと思っていました。というよりも、大学院大学で1年間教える機会がありまして、教えながら学ぶことも可能だったということで学び始めました。1年では単位は取りきれなくて、またいろいろやりすぎて1ヶ月間肺炎になってしまいました。夜になると咳が出る特殊な肺炎だったのですが、日中は咳をしながらも仕事をして…今考えると若気の至りですね。そうは言っても50歳でしたが。50になる直前の年が1992年、クリントンが選ばれた年です。大統領就任演説を肺炎の熱にうなされながら見ましたから(笑)。
渡辺
ハードワークがたたってしまったんですね…。
松岡
そのあとも上智大学と慶應大学の単位を取りまして、それをMIISで認めてもらいました。取得した単位が米国で認められる大学がいくつかあって、上智大学の国際教養学部と慶應大学の大学院のコースをとって、卒論がわりに大きな論文を訳して、それで認めてもらいました。修士号取得までに、通算5年くらいかかったと思います。
渡辺
その時は通訳をなさりながら、並行して学んでいらしたということですよね?
松岡
そうですね。アメリカに行った時は通訳の仕事をする気はなかったんですが、お付き合いの長いクライアントのお仕事だけは3件ほどやりました。サンフランシスコで通訳したすぐあとにタイで会議があるからきてほしい、ということですぐタイに行って、帰ってきてすぐまたサンフランシスコで仕事があって、その時「コホン」と一つ咳をしたのが肺炎の始まりでした。
渡辺
その時ご主人様は一緒にいらしたのですか?
松岡
いえ、その時はもう日本でALS協会にどっぷりでしたから。
渡辺
では、97年にご主人様がお亡くなりになる時には…。
松岡
92年に私がアメリカにいったわけですからね。彼は1度母と叔父夫婦を連れてサンフランシスコに来ました。私も1度日本に帰ったかな?くらいのものです。
渡辺
ご主人様が逝去されて、松岡さんが出版社を継がれたのですね。
松岡
そうですね。12月の25日でした。煙草とコーヒーが大好きだったのでそれがたたったのでしょうね。それで仲のいい先生に見てもらったら、癌ではないと言われました。それが97年の半ばですね。6月に一度、私がILOに行っている間に倒れていて、その時には私に知らせるなと言ったそうです。帰って入院しているところに行ったら、点滴のスタンドを引っ張って歩き、煙草を吸っていましたよ。そしてそのまま自宅療養していたら11月に激痛が走って、救急車で私が東京女子医大に運び込みまして、そしたら完全に転移性の末期肺がんでした。そこから1ヵ月の闘病生活です。私はどうしてもというもの以外仕事は全部断り、12月の京都議定書、COP3の10人の通訳にも選ばれていましたがそれも降りました。1ヵ月看病して、次の年に長野オリンピックがあったんですね。それもお断りしていたんですが、主人が12月に亡くなったので、そのあとに、もし必要でしたらやりますとお電話しました。

亡くなる前、主人に「どういう風に生きてほしい?」と聞いたら、「世界中いろんなところに行って、思いっきり自由に生きろ」と言われたんです。「お前には通訳という仕事があるから」と。それでその遺言に従ったつもりです。2月の長野オリンピックは通訳として務め、それが看病後の初めての仕事だったかもしれません。

そしてその年の10月に仕事で行った先でハリー・ポッターに出会いました。これは天国からの贈り物だと思っています。

出版権が取れた時は、小さなシャンパンを買ってお祝いしました。文芸翻訳なんてやったこともないんですけど、不思議なことに、自分が燃えていると周りに人が集まってくるんですね。その時の私は火の玉のようだったそうです(笑)。アドレナリンが出ていたんでしょうね。
齋藤
ハリー・ポッターと出会うきっかけになった、他のインタビュー記事にも書いているダンとアリソン夫婦とは20年のお付き合いということですが、どのように出会われたんですか?
松岡
ICUの卒業生って、私も含めみんな変なんですけど(笑)、イギリスに半年留学したことがあったのです。34の歳の時ですね。日米会話学院を卒業して通訳に勤しんでいた時に、果たしてこれでいいんだろうかと思ったことがあったんですね。自分の英語がイギリス英語だと言われていたこともあって、34歳の12月、クリスマスの時から半年間だけイギリスに行きました。他に方法がなかったので学生ビザをとり、外国人に英語を教えるコースを紹介されて、最初の3ヵ月はまじめに学びました。
あとの3ヵ月は、もう学ぶことはないと思い、授業料だけ払って学生ビザを更新して、ロンドン大学の社会人教育のコースに行ったり、あとはパブリック・スピーキングを学んだりしました。イギリスのパブリック・スピーキングの伝統というものに触れてみたくて、ネイティブスピーカーオンリーだったにも関わらず先生に頼みこんだら受け入れてもらえて、ネイティブスピーカーに混じって学びました。大変でしたけれど、非常にうまくいって、イギリスの教養人たちはこういうことを学び、こういう話し方をするんだと、とても勉強になりました。そういうことをしたあとで、私は通訳が一番向いているんだと決心しましたね。
齋藤
それで、その時にダンとアリソンに出会われたんですか?
松岡
その時の帰りの飛行機で、ダンと隣り合わせに座ったんです。パリから乗り込んできたピンクのシャツの22歳の若者だったのですが、彼はイエール大学からスカラーシップをもらって、オックスフォード大学で学んで、日本に立ち寄って韓国に行くところだったんです。
彼は3人席の真ん中で、隣り合わせになって。彼は日本語の勉強がしたくて、日本にもホームステイしたことがあったんですね。それで日本語で話しかけてきたのですが、私はそれに英語で答えて(笑)、それで会話が始まりました。変わった子なのですが、マラソンもやっていて、ボストン・マラソンで4位になり、アトランタ・オリンピックの選手候補でもあったそうです。歌もうまいし絵もうまいんですよ。
オックスフォードで日本文化を勉強して、そのあとハーバード・ロー・スクールに行って、そこでアリソンに出会ったそうです。アリソンはケンブリッジの秀才で、そして二人は結婚したんですね。ダンは弁護士として数年間ニューヨークや日本でプラクティスをして、そして韓国にいた時に、アリソンがダンに会いにきたわけです。その時に「ユウコに会って帰れ!」と言われて、アリソンが日本に来ました。それは2人が結婚する前のことなので、2人とも長い付き合いです。

その時からずっと交流が続いて、2人は結婚後イギリスに行ったのですが、アリソンは弁護士をするために生まれてきたような切れ者で、イギリスでも弁護士として就職しました。しかしダンはお父さんにも「お前は弁護士に向いてない」と言われて、自分でもそう思ったそうです。それで画家になっちゃったそうですよ。

渡辺
松岡さんはご主人様亡きあと出版社をお継ぎになって、大きな人生の転機を迎えられた頃に、そのご夫妻を通してハリー・ポッターに出会われたということですね?
松岡
そうですね。通訳の仕事でロンドンに行った際に、いろんな報告もかねて会いたいなと思い、自宅の夕食に招かれた時、私とアリソンは赤ワインを飲んで、ダンはオレンジジュースを飲み(笑)、酔っぱらいながら話していた時のことでした。
静山社を継いだんだけど何を出したらいいかわからない、何か翻訳でいいものないかしらね。と言ったら、すっと立ち上がったダンが、「これだよ、これ!出版権をとれたらビルが建つよ」と言って。その時J.K.ローリングはそれくらい有名になっていたんですね。

彼女はシングルマザーで、ちょうど第二巻が英国で出版されたあとの頃のことでした。アメリカでは出版権に何万ドルの入札があって、とても話題になっていたそうなんですね。私が代理人に電話をかけた時は、日本からは3社問い合わせがあったそうで、まだどこにも出版権を渡していない状況でした。
1998年10月にハリー・ポッターに出会ったのですが、本当に夢中になって一晩で読んでしまうくらい惚れ込み、その熱意を代理人に手紙で送ったところ、12月に向こうから「あなたに決めました」とEメールが来ました。私には実績もないし、出版権が取れたのは、本当に奇跡に近いのです。アリソンはその手紙を添削してくれたのですが、あの手紙はすばらしかった、と言ってくれました。そう長いものではなかったんですけどね。
アドバンス(出版権の前払い金)に払うお金などのことも何もわからず、知合いの編集者の木田恒さんという方に、オファーの仕方を全部教えてもらいました。他の会社よりも高かったのかもしれませんね。そんな奇跡が起きたものですから、その日は松岡幸雄の遺影の前で、コンビニで買ったシャンパンを開けました。

渡辺
ご主人様も喜んで乾杯なさっていたでしょうね。
松岡
それからが大変なんですけどね(笑)。文芸翻訳なんてやったこともないですし。しかし不思議なことに、自分が燃えていると周りに人が集まってくるんですね。編集者の木田さんによると、そのときの私は火の玉のようだったそうです(笑)。アドレナリンが出ていたんでしょうね。
渡辺
そして、それに吸い寄せられるように人が集まってきたのでは?
松岡
私はビジネスに情熱を燃やしていたというより「この物語をいい訳にしたい」という思いが一番強かったんですね。もし失敗してみんなに楽しんでもらえなかったら、そんな大失敗はすべて私の責任だと。

その人が惹きつけるものを持っていないと、何も出会いはないし、こちらが求めるものがないと、出会った時に気づかないと思うんですね。チャンスも人もたくさんいるんだけど、それがぱっと結びつくには、何かがなければいけないんだと思います。ハリー・ポッターの第三巻の携帯版のあとがきに書いていると思うのですが、「天性のものとたゆまぬ努力と、それが全て揃ったときに魔法の粉が一振りされる」ということで、準備がなければ魔法はかからないんですね。最後の魔法の粉をかけさせるのは、その人の人生、生き方です。

齋藤
お話を聞いていると、なかなかおられない方だなと思ったんですね。先ほどのパブリック・スピーキングのクラスに入れてもらえるとか、ハリー・ポッターを訳したいと思った時もそうだし、「情熱を表す」というのは、そう思う人はいたとしても説得させるというのはすごいことなんですよね。“思うだけ”と、実際に行動に移していくというのは別の話なんですよ。このエネルギーはどこから学んだのでしょうか。親の教育なのか、それとも本人次第なのでしょうか。
松岡
すべては遺伝子のなせる業とは言いますが、遺伝子は効いていると思います。頑固な両親とか、先ほどお話したように、母みたいにピアノが弾けなくてもとりあえず試験は受けてみるとか。あとは負けず嫌いというのもありますね。ずっと1番で通してきたので。横綱と同じですよ。それで自然に競争心は身についていたのかもしれません。私の人生哲学としては、やらないで後悔するよりやって後悔する方がいいと思っておりますのでね。とことんやってだめだったら、仕方ない。それで後悔する方がいいと思います。「あの時やっておけば…」と女々しいことを思うのは嫌ですね(笑)。
齋藤
失敗したら、「がんばって失敗したんだからまあいいじゃん」というところを松岡さんは「失敗したら尼寺に行く」とおっしゃいましたよね。こういうことを言う人はなかなかいないですよ。人よりさらにもう一歩行かれているところがすごいな、と思いました。
松岡
「ここで失敗したら、なんの松岡佑子ぞ」、というところはありましたね。「尼寺に行く」というのはもちろんシェイクスピアの教養なのですが(笑)。とにかく失敗したら男の人が頭を剃るように、尼寺に行くというのは究極の選択なんですよ。ある意味ではユーモアですね。本気で失敗するものかという気持ちを表した言葉です。
渡辺
苛酷なときこそユーモアをもって臨まれる姿勢は、素敵です。うかがっていると、運命的に出会った極上におもしろいハリー・ポッターという物語を、そのままのおもしろさで伝えなければ!という使命のようなものがおありになったのでは?と感じるのですが。
松岡
使命感のようなものはありましたね。天からの贈り物であり、私がやらざるを得ないものなのです。自分がやると決めたからには素人っぽいこともできないし、いろんな人の名訳と言われるものを読むなど、そうとう勉強しましたね。日本語から英語に翻訳するプロの翻訳家の友人にも徹底的に誤訳をつぶしてもらいました。日本人ではないのに、私よりも日本語が上手なくらいの方なんですよ。大学の寮で同室だった後輩二人、宇尾史子さんと村松夏子さんにも私の翻訳を全部読んでもらって、おかしいところがあったら指摘してもらいました。
齋藤
そういうところが徹底されているんですよね…!
渡辺
だから、J.K.ローリングがご自身の公式サイトで世界中の翻訳編集家のなかで最も信頼を置く人物 として「ユウコ」の名前をあげてらっしゃるんですね。
松岡
あれは嬉しかったですね。「〜に感謝する」の名前の中に「ユウコ」の名前があったときには、これは私以外にありえないですからね。
渡辺
ハリー・ポッターという物語はみんなに愛され続けていて、大阪のUSJも行列で入れないくらいの人気だそうです。まさにモンスターSTORYですが、松岡さんご自身にはハリー・ポッターのような名作を再び発見したいというお気持ちはあるのでしょうか?
松岡
ないでしょうね。これは千載一遇で、前代未聞のものです。それほどのインパクトを持ったものだと思います。ハリー・ポッターの魅力は、語り継がれ古典として生き残る普遍的な要素だと思っています。今だに皆が夢中になっているのも、映画があれだけヒットしたのも不思議ではないと思います。
しかし映画はまた違う世界です。これは読んでみなければわからない世界で、映画は違うブームだと思っています。ハリー・ポッターの本のブームを味わったのは、1巻から読み続けて、7巻まで読み終えて、その頃には10年くらい経っていましたから、10歳で読み始めたならちょうど20歳を過ぎた頃読み終えた、その世代が一番正当なハリー・ポッターの本のファンの世代だと思います。その子供の世代に、読むことの楽しみを伝えてもらえればと思います。映画はどう考えてもダイジェスト版です。エッセンスはもちろんうまくとらえているし、J.K.ローリング「様」が監視しているので、そんなに逸脱はできないですけれども、あくまでもハリウッド映画であるということは、スクリプトの翻訳(字幕と吹き替え)を監修してわかりました。なんせ1ページも、2ページもかけている場面が、「あ」「う」だけのアクションで終わっていたりするんですから(笑)。この調子なら訳すのはずっと楽だな、と思いましたね。映画はあくまで別物ですけど、それはそれなりの楽しい世界を作り出しています。
USJは、私はまだ一度も行っていないんですが、見事に作られていると聞いておりまして、それはそれで楽しめるとは思います。触れるとか、見るとかは読むのとは別の刺激ですからね。
しかし本を読む楽しみは全く違う。読むことによってしか得られない楽しみがあると思っています。だからブームの第一世代が一番楽しい思いをしたのだと思います。
齋藤
これまで50人くらいインタビューしてきたのですが、共通点のようなものがいろいろとあるんですね。1つは成績が良くない方が多いんです。松岡さんは成績が良かったと思うのですが、そういう方は5〜6人くらいしかいないんじゃないかな。
そして最も共通しているのは、いい人に出会っていることなんですよ。松岡さんの場合は、ご両親のもとに生まれ、高校時代にもすばらしい人が周りにおり、大学時代にはご主人に会い、その後は穂積先生とか西山先生とかいろんな方がおられて、ステージが変わるたびに松岡さんにいろんな影響を与えていると思うんですね。そこで一つお聞きしたいのは、「どうしてそんな人に会えるわけ?」ということなんです。これは読者のみなさんも思われるかと思います。

先ほどは燃えていると周りに人が集まるのよとおっしゃっていましたが、それぞれのステージで一生懸命やっているとね、「こいつなかなかやるじゃん!」と周りのいい人に注目されるのではないでしょうか。だから、これを読まれている方にも言いたいのは「ただ待っていてもいい人には出会えないよ」ということなのです。一生懸命自分を鍛え、磨き、それで直面していることに真摯に取り組んでいくと助けてくれるいい人が現れるのではないのかな、と思ったのです。

また、いろいろと読ませていただいて、「日本語は重要である」ということを言われていると思うのですが、松岡さんとお話ししていると日本語の表現の仕方が本当にすばらしいなと思います。「私は愛と友情と勇気を」と言われていることがあると思うのですが、そういう言葉ってなかなか言えないと思うんですよね。それをきちんと出しながら「愛はこういうもの、友情とはこういうもの、勇気とはこういうもの」ときちんと説明されているのはすばらしいなと感じました。

松岡
出会いについては、私も同感です。ただ、チャンスというのはどこにでもあるんですね。見る目を持たなければ見えないのです。人もどこにでもたくさんいます。その中で力になってくれる人が出てくるというのは、こちらに受け入れ準備があるからだと思うんですね。親しい人に50歳でとても魅力的ですてきな女性がいまして、「誰かいい人いないかしら」と言うので、「あなたが輝いていれば絶対誰かが来るから」と言っています。その人が惹きつけるものを持っていないと、何も出会いはないし、こちらが求めるものがないと、出会ったときに気づかないと思うんですね。チャンスも人もたくさんいるんだけど、それがぱっと結びつくには、何かがなければいけないんだと思います。
ハリー・ポッターの第三巻の携帯版のあとがきに書いていると思うのですが、「天性のものとたゆまぬ努力と、それが全て揃ったときに魔法の粉が一振りされる」ということで、準備がなければ魔法はかからないんですね。最後の魔法の粉をかけさせるのは、その人の人生、生き方です。
渡辺
それが全て揃ったときに、魔法の粉…。なんだか松岡さんの人生みたいです。そういえば、松岡さんが今スイスにお住まいになっているのは、どうしてなのでしょうか?
松岡
それは今の主人が住んでいるからなのです。ILOでもスイスには長年行ってて、地理勘もあるし、いいところだな、と思っていました。松岡幸雄もそのうち外国で暮らしてもいいなと言っていたし、ずっと日本に定住することにはあまり魅力を感じていなかったんですね。それで外国で一番身近に暮らせると思ったのがスイスだったんです。
これもまためぐりあわせなのですが、今の主人は大昔に仕事で知り合った人なんです。お互いに若い時に仕事で出会ったことがあって、その時は別にどうということもなかったんです。ハリー・ポッターがヒットした2000年の時に、沖縄のサミットが開かれたんですね。その時まで彼とは音信不通だったのですが、彼はずっと教育関係のNGOの仕事をしていて、サミットの教育大臣のミーティングのために、その時東京に来ていました。
それで帝国ホテルに泊まっていて、通訳に「松岡佑子という通訳を知っているか」と聞いたら「私の先生です」と答えたそうなんですね。いい子を育てたと思いましたね(笑)。しかし私はその時東京にはいなくて、ロンドンから帰ってきたとたんに、ボブ・ハリスという人から電話がありましたよとスタッフから聞いたんですね。たまたまその日は一晩東京に泊まって、次の日は京都に行く予定でした。その1日しか東京にいないという日に、ボブは帝国ホテルに泊まっていて、私も京都に行くので帝国ホテルを予約していたんですよ。そういうところに運命を感じましたね。
渡辺
それは…魔法の粉ですね!
松岡
(笑)。昔知っていた人だから楽しくお話もして、魔法の粉がかかってそれでスイスに行くことにしたんですね。

その人の人生の価値というのは、死ぬ時にどれだけの人が本当の涙を流してくれるかによって決まると思うんですね。なので、一隅を照らすものであって、どこにいてもきらりと光る存在でいれば、その人の人生は称えられるべきものであると思います。

また、ハリー・ポッターにも出てくる「3つのD」があるのですが、「Destination」は「目標をしっかり見定める」ということ。「Deliberation」は「どうやったら行けるか」をしっかり考えるということ。「Determination」は「よし行くぞ!」ということですね。これはきらりと光るためには、良い方法なのではないでしょうか。

渡辺
最後に、今、ICUにいる学生たちや、これからICUを目指したいと思ってくださっている高校生、メッセージをいただけますでしょうか。
松岡
武田先生の言葉を引用すると、「どこにいてもきらりと光る存在になってほしい」ということですね。それから、「一隅を照らすもの」という最澄の言葉があるのですが、松岡幸雄はそうだったと思います。世間的に有名ではありませんでしたが、彼が亡くなった時に、どれだけ多くの人が涙したことか。それだけ感謝される仕事をしていた。その人の人生の価値というのは、死ぬ時にどれだけの人が本当の涙を流してくれるかによって決まると思うんですね。なので、一隅を照らすものであって、どこにいてもきらりと光る存在でいれば、その人の人生は称えられるべきものであると思います。
渡辺
そのためには、先ほどおっしゃった3つですね。才能と、たゆまぬ努力と、最後の魔法の粉と。
松岡
そうですね。そしてJ.Kローリングの引用をすれば、物語の中に「姿あらわし」と「姿くらまし」という魔法があって、それを勉強する場面があるんです。難しい魔法でなかなかできないんですが、そこで先生が「3つのDですよ」と言うんですね。それが「Destination, Deliberation, Determination」なんですが、これはごろ合わせするのがとても大変でした(笑)。
渡辺
確かに大変そうです(笑)。
松岡
大変でしたよ。でも、この言葉はどこにでも当てはまるんです。「Destination」は「目標をしっかり見定める」ということ。「Deliberation」は「どうやったら行けるか」をしっかり考えるということ。「Determination」は「よし行くぞ!」ということですね。これはきらりと光るためには、良い方法なのではないでしょうか。
齋藤
すばらしい!
渡辺
お忙しいなか、貴重なお時間をありがとうございました!


プロフィール

松岡 佑子(まつおか ゆうこ)
通訳・翻訳家・実業家。出版社の静山社会長。福島県原町市(現・南相馬市)出身。国際基督教大学では歴史を専攻し、卒業後は日本を代表する同時通訳者として30年のキャリアを持ち、ILOを始め世界中で活躍。1998年静山社の社長に就任した直後に「ハリー・ポッター」シリーズを翻訳・出版したことで知られている。2000年に「青い麦」編集者賞を、同年、書店さんの選ぶ「新風賞」を受賞。また、小出版社にもかかわらずハリー・ポッターの出版を獲得しベストセラーにした快挙で、2000年の日経ウーマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれる。

静山社では、社会に問う不屈の精神と、真摯な編集態度を創業者から引継ぎながら、国際感覚を吹き込んだ。創業者の情熱を自らの情熱として、1998年、ALS患者の闘病記「負けてたまるか 負けたら俺の男がすたるよ」(杉山進著)を刊行、2006年には横浜でのALS国際シンポジウムの開催に寄与した。同時に語学力を生かす国際的な出版活動を展開し、1999年4月には、古典的名著の邦訳「英日国際会議用語辞典」(ジャン・エルベール著)を出版。そして、1999年12月、情熱を注いで翻訳・出版した「ハリー・ポッターと賢者の石」は大ベストセラーとなり、日本に「ハリー・ポッター」ブームをひき起した。全7巻の総部数は2400万部を超える。2010年から静山社会長。スイス在住。翻訳活動を続け、2011年からは英国のイラストレーター、イアン・ベックが初めて書いた児童書、「少年冒険家トムシリーズ」全3巻を翻訳出版した。