プロフィール
1951年奈良県出身。高校時代AFS奨学金によりイリノイ州Le Roy High School卒業。1974年教養学部卒業と共に外務省入省。現在特命全権大使 国際連合日本政府常駐代表。
参考インタビュー記事
http://success2010.co.jp/afs/index.php?吉川元偉
参考国連HP
http://www.un.emb-japan.go.jp/jp/aboutus/ambassadors.html
参考インタビュー記事
http://success2010.co.jp/afs/index.php?吉川元偉
参考国連HP
http://www.un.emb-japan.go.jp/jp/aboutus/ambassadors.html
高校の時は、いつも通学の電車の中で声に出して松本亨英会話教室をくり返していました。アメリカにいる先輩から届く手紙を読んで、自分も来年こういう生活を送るんだと想像していたのです。
- 齋藤
- 今日はお忙しい中ありがとうございます。
- 渡辺
- よろしくお願い致します。吉川さんは、斎藤さんの1期下でいらっしゃるのですね?
- 齋藤
- でも当時はそんなの関係なくみんな仲良くしてた感じがするね。吉川さんとは、すれ違って「おお〜!最近どうしてんの!」と話すことはあっても名刺とかは持ってなかったんだよね。それで同じ仲良しクラブにいた国際連合麻薬取締委員会にいた藤野さんに連絡してみたらつながることができて。
- 渡辺
- この「今を輝く同窓生たち」もスタートからすでに50人近くの方々にご登場いただいて嬉しい限りなのですが、今回はお忙しい吉川大使にお時間を割いていただけて光栄です。
- 吉川
- 僕もいくつか読ませていただきました!
- 渡辺
- 最近は佳子様のご入学も決まり、ICUの話題も増えたのではないでしょうか。そろそろICUの梅も見頃かな、と私もキャンパスを懐かしく思い出したりします。
- 齋藤
- そういえば、吉川さんについての記事を読ませていただきました。
- 渡辺
- AFS(高校生の交換留学制度)の?
- 齋藤
- 奈良県出身ということは知ってたんだけども、奈良県には東大寺学園や奈良高校など、いくつか有名な高校があって、その中で畝傍(うねび)というと変わってるな〜という印象だったのです。だからプロフィールを見たときに珍しいな〜!と思いましたね。
- 渡辺
- ちょうどこの前奈良に取材に行って来たのですが、本当に良い所ですね!大和三山に囲まれた美しい風景が広がっていて。そこでお生まれになって、 ご兄弟は弟さんお二人ですか?
- 吉川
- そう。みんなICUなんだ。
- 齋藤
- えっそれは知らなかった!
- 渡辺
- しかもAFS三兄弟なんですよね?
- 吉川
- そう。斎藤さん、僕の弟知らない?アメフトやってて、今は三菱商事です。常務で、ドバイで中東を統括しています。そして三番目の弟は、奈良で高校の先生をしてます。ICUでは僕は柔道だったけど、弟は剣道をやっていました。
- 渡辺
- ということは、ご兄弟皆さん在学中はPE(Physical Education)やフィールドにいらっしゃる時間が長かったんですね(笑)。吉川さんからご覧になって故郷(ふるさと)の奈良は、どんな所なんでしょう?わたしはこの前少し訪れただけで心が落ち着く様な気持ちでした。
- 吉川
- 時間がゆっくりと流れている感じ。僕は小さい頃は「こんな田舎でどうしようか…。」と思って、早く外に出られないだろうかと思っていました。それで高校の時にアメリカに行きたいと思ったわけですが、僕がもし東京にいたらそういう気持ちにはならなかったかもしれない。僕の地元は、みんなそこで育って、就職して、っていうのが普通なんですよ。最近は畝傍高校の同級生がパリにも来たし、ニューヨークにはつい最近来たし、それが18人も来るんですよ(笑)。みんな地元で就職して、定年退職して「吉川のとこ行こうよ〜」っていう感じで。でも戻るとやっぱりいいものですねえ…(笑)。
- 渡辺
- おっしゃる通り、昔の日本人がここで暮らそうと大和朝廷の頃から思ったのがわかるくらい(笑)。でも吉川さんは高校の時に「出たい」と思われたのですか?ご両親の影響でしょうか?
- 吉川
- いやそれはないと思うよ。末吉高明さんという斎藤さんと同級生の方に僕はかなり感化されたんだよね。
- 渡辺
- その方との出会いは?
- 吉川
- 高校一年生の時に一つ上の末吉さんに出会いました。そして僕達二人は松本亨の英会話教室を電車の中でくり返していました(笑)。二人で役割を変えて話してました。
- 渡辺
- 二人して声を出しながら、通学中の電車の中でなさってた?
- 吉川
- はい。
- 渡辺
- 今考えると、とても上達する道ですよね。
- 吉川
- 暗記しないと会話にならないので、電車に乗る時にもうテキストは覚えている。
- 渡辺
- すごい…!(笑)
- 吉川
- 今考えるとよくやってましたね(笑)。学校の勉強には全く関係なかったのに。
- 渡辺
- だとすると、学校の英語は若干物足りないような状態になりますよね?
- 吉川
- そうね。そして末吉さんはAFSでミネソタに行くことになったのです。
- 齋藤
- なるほど。えっと、末吉さんは一つ先輩で高校で会われたということですが、会われたきっかけはなんだったんですか?
- 吉川
- 彼はESSの部長だったんですよ。部活の説明とかあるじゃない?新入生向けに。その時に知り合ったんです。
- 齋藤
- あ〜なるほど!
- 渡辺
- でも英語は、末吉さんにお会いになる前から得意でいらっしゃったんですか?
- 吉川
- 英語は好きでしたね。
- 渡辺
- 小学校、中学校と成績はやっぱり良くていらっしゃった…?
- 吉川
- まあ田舎では小中学校って成績っていいもんじゃない(笑)。
- 渡辺
- さすがです(笑)。
- 齋藤
- ちなみに大学での成績は…?
- 吉川
- 僕は三年間ずっとメリット奨学金(成績優秀者への学費免除)をもらってたんですよ。
- 齋藤
- うわ〜!そんな人めったに会えへんね!「今を輝く」でインタビューしてる人の90%成績悪いですからね(笑)。
- 渡辺
- なるほど〜。親御さんに「勉強しなさい」って言われたりなさったことは?
- 吉川
- それはないね。
- 渡辺
- じゃあ、勉強が嫌とか苦労なさったりしたことは?
- 吉川
- それはあったかも。高校の時に受験勉強いやだな〜ってなりました。面白くないなって。
- 渡辺
- 面白くないってことは、できないということではなかったわけですね。ちなみに、苦手な学科っておありですか?
- 吉川
- 苦手というと、音楽(笑)。数学はだめね。算数まではよかったんだけど(笑)。
- 渡辺
- う〜ん、でもそれもどちらかと言えば、”くらい”ですよね。そうするとICUをお受けになったのも末吉さんの影響ですか?
- 吉川
- そう、末吉さんがICU行ったんだ。僕はそれまでICUは全く知らなかったもの。
- 齋藤
- でも、なんで末吉さんは奈良の高校からICUへ行ったんですかね。当時のICUの知名度はほとんどなかったからね。
- 吉川
- 末吉さんはいろんなことを良く知ってたんですよ。彼はアメリカに行くつもりでいたの。すごい人ですよ。のちにアメリカに留学して、彼が研究したのは黒人文学だった。African American Literatureが専門で、それを日本に持ってきたのは末吉高明さんが日本で最初です。現在、四国学院大学の学長です。
- 渡辺
- そうだったんですか…!その、15歳か16歳での出会いというのは当時の吉川少年の人生を変えたわけですよね。
- 吉川
- それは変えたと思うよ。
- 齋藤
- へえ〜。それはなかなか面白そうな人やね。
- 吉川
- 僕は彼にとても影響を受けた。
- 渡辺
- そのときは「影響受けてるなぁ」という自覚はおありでしたか?
- 吉川
- それはあったよ〜!何を聞いても彼は知ってるんだもん!とても明確で、奈良にいながら「3年生になったら僕はアメリカに行くねん」って言っていた。
- 齋藤
- 当時だったら普通ないことですね。
- 吉川
- それで「アメリカにどうやって行くの末吉さん」って聞くと「こういう制度(AFS)があるんだ」って。奈良県で選ばれるのが、男女各1人なんだけど、自分たちで英語を練習してて「あ、このくらいやってたら大丈夫だろう。」っていうのが自分たちでわかったんだよね。それで彼はミネソタに行ったから「あ、あれくらい書けて話せれば大丈夫なんだな。」っていうのが自分でもわかった。
- 渡辺
- 末吉さんは有言実行でミネソタにいらっしゃって、吉川さんとは離ればなれになったわけですよね?その間は1人でお勉強なさってたんですか?
- 吉川
- うん、1人で勉強を続けた。当時はお金を節約するために日本を出るときに「アエログラム」っていう水色の用紙を買って行った。
- 齋藤
- ありました、ありました!
- 吉川
- これを買っていけば現地で切手を買わなくても親や友達に手紙を書くことができるんですよ。末吉さんはミネソタ便りをアエログラムに書いて月1回くらい送ってくれたんですよ。
- 渡辺
- どのようなお便りだったのでしょう?
- 吉川
- 一種の日記のようなものだね。ミネソタに来て、こういうことをやってるってことが書かれていたんですが、それは非常に新鮮だし、僕は1年後こういう生活を送っているのか!と思いながら読んでいましたよ。
- 渡辺
- モデルケースの歩みを直にご覧になるような状態ですね!
- 吉川
- そう!(笑)
- 齋藤
- 吉川さんも、さっきの弟さんもそうやねんけど、基本的によくできるじゃないですか。この“よくできる”というのは最近の言葉で言うと「地頭がいい」と言われていることだと思うのですけど。で、それはご両親の遺伝子を受け継いだということなんですよね?あるいはおじいちゃん、おばあちゃんかもしれないけど。吉川さんとこは、そういう頭の良い一族なのでしょうか?
- 吉川
- うーんどうなんでしょう…。うちの親父は父親を6歳で亡くしていて、稼ぎ手がいないものだから、中学校を出て就職したんですよ。うちにお金がなかったので仕事をしに行ったけど、そうでなかったらちゃんと教育を受けてたと思う。戦争に行き、シベリアに4年も抑留されて苦労した人です。
- 齋藤
- お母さんも優秀でおられた?
- 吉川
- そうですね、母は優しくて賢い人です。
- 齋藤
- だいたいICUでオールAって人は、僕の後輩にも1人いるのを知っているけど、なんかちょっと違うね。別に秀才には見えないし、とっつき難い人でもなく、でも話しているととても魅力的というか。
- 渡辺
- お父様もお母様も末吉さんの存在はご存知だったかもしれないけれど、吉川さんご自身が 「留学する」とか「ICUに行く」というのはびっくりなさらなかったですか?
- 吉川
- それは(二人とも)驚きましたね。「アメリカに行きたいんだ」って言ったら、親父は「なんぼかかるねん」と。彼は、もう行くものだと思ってるわけです。試験を受けろとも受けるなとも言わず「なんぼかかるねん」でしたね(笑)。
- 渡辺
- お母様も反対なさるとか、心配を表に出すようなことはされなかったのですね。
- 吉川
- 心配してました。でも、反対はしませんでした。励ましてくれました。
毎日何が起こるんだろう、と思いながら学校に行くのが楽しくてしかたがなかった。ファミリーも先生も、町全体が本当に寛大で温かかったことを覚えています。
- 渡辺
- 初めていらした頃のアメリカって、どんなだったのでしょう?吉川さんの目には。
- 吉川
- たまたま先月、アメリカに到着した日に泊まったニューヨークのホフストラ大学に行ったのです。たまたまね。それで学生やFacultyの先生に、昔そこに着いた日の思い出を話しました。大学は、JFK空港のすぐ横なんだけど、そこからグレイハウンドバスで一泊二日で、ミズーリのセントルイスまで昼夜バスで過ごして向かいまして。
- 齋藤・渡辺
- へえ〜!
- 吉川
- そしてそこにホストファミリー、両親二人と子供二人が待っていて、そこからまた車で二時間以上かけてイリノイに向かいましたね。
- 渡辺
- ホストファミリーの方々と一緒に?
- 吉川
- そう。言葉が通じないんじゃないかと思っていたけど英語は意外にわかったんです。学校は非常に楽しかったですね。
- 齋藤
- 僕も69年にアメリカに行ったんですよ。で、どちらかというと楽しい雰囲気は全然なかったんだよね(笑)。ICUの古屋先生に相談ごとがあって会いに行ったら、紛争のときだったから「君何もしてないだろ〜?アメリカ行かないか?」と言われて、「行く行くー!」ってすぐ返事をして何をしに行くか聞いてなかったんですけど(笑)。黒人のセカンダリースクール、ジョージア州のさらに奥だったかな。そこに行って日本人の学生はこんなこと考えとんねん!っていうのをアピールしてこい、とのことで。
- 吉川
- それはチャレンジングだなあ!
- 齋藤
- これはものすごい大変だったんですよね。当時、学生紛争に加えて人種問題も結構大きくて俺生きて帰れるのかな?という感じで(笑)。
- 吉川・渡辺
- (笑)。
- 齋藤
- ぼくの家内も吉川さんのようにAFSなものですから、デラウエアにいるときの楽しい思い出をいっぱい話すわけですよ。いっぱい遊んだ〜とかデートした〜とか。ぼくそんなの何もないねんけど、みたいな(笑)。
- 渡辺
- 全く違うんですねぇ。(笑)
- 齋藤
- そう。だから「アメリカの高校行ってすごく楽しかった」って言われると思うんですけど、僕の場合は楽しくなかった。吉川さんたちは楽しい高校生活を送った。これ、どういうこと!と思ってしまうんですがこれはどうしてなのでしょう(笑)。
- 吉川
- いや〜、僕は本当に楽しかったですけどね。
- 齋藤
- この楽しいっていうのはなんなんですかね。自分の好きなものというか、「こんなものあったらいいな〜!」っていうものに出会ったのか。やはり期待値に見合った経験が出来たということなんですかね。
- 吉川
- 学校に毎日行くのが楽しかったんです。何が起こるんだろう、と。
- 齋藤
- なるほど、何が起こるんだろうという楽しさですか!
- 渡辺
- 転校生としていらっしゃるわけですものね。
- 吉川
- そうですね、たった一人の外国人として。
- 渡辺
- 空気としては、どんな感じだったのですか?
- 吉川
- 僕がいたのは68年のミッドウエストだったわけですが、日本に対する関心はあったかも。でも日本に対する知識はゼロだったんですよ。
- 齋藤
- でも大事にされたということですかね。
- 吉川
- 確かに、今のアメリカと比べると非常にgenerousだった。
- 齋藤
- あ〜、なるほど。
- 吉川
- まず経済的には、世界のナンバーワン、ベトナム戦争もまだ負ける前。しかもその小さな町はhomogeneous。僕の町では先生も生徒もみんなホワイトで、ホワイトでないのは僕だけでしたね。
- 渡辺
- なるほど。これは余談なんですが、わたしの母は日航の初期の客室乗務員だったんです。もはや化石を越えて神話の時代と言われているらしいですが(笑)。その頃の国際便勤務は帰りの便までパリやニューヨークに一週間ステイするような時代だったそうで、そのときの母の白黒写真を見ると、現地のシスター達が珍しそうに母の周りに集まってきていたり、黒髪を触らせてと言われたりしたそうです。吉川さんのいらしたミッドウェストでも日本人に対する先入観も情報もなく、ホストファミリー含めみなさんストレートなホスピタリティに溢れていたのでしょうね。
- 吉川
- 家族、生徒学年問わず…みんなすごく親切にしてくれました。それで、アメリカっていうのはこんなに寛容で温かい社会なんだな、と思いました。先生も非常に親切なんだ。僕はレスリングとクロスカントリーをやったり、「マトリガル」という中世の歌のクラブに入ったりしたのですが、フルトンという音楽の女の先生が、ソロをやりましょうと言っていただいて。それで学校が終わったあと一時間特訓するわけですよ。
- 渡辺
- え〜。すごい。
- 吉川
- それで帰国するときにホストマザーに「ミス・フルトンにお礼を言いたい。」と言ったら、彼女はトレーラーに住んでいたんです。驚きました。先生もそれだけすごくやる気があるわけですよ。クロスカントリーだ、レスリングだ、などのチームに入ると、普段心理学や歴史を教えている先生が学校終わったあとに二時間とか付き合ってくれる。日本に比べると、なんというか…もっと優しいわけなんだ。全てが。
- 齋藤
- へ〜!なるほど!家庭教師してくれるんや。
- 吉川
- それで、レスリングの試合には親が大勢見に来る。ほったらかしじゃなくてすごく優しい。
- 渡辺
- よく映画で見る、古き良きアメリカっていう感じなのでしょうね。
- 吉川
- どでかい冷蔵庫があって、ガレージに行くとさらに冷凍庫があって、そこに一頭の牛の半分が入っていて土曜日はそれを引っぱり出してバーベキュー。本当にテレビにあるような感じ。そして非常に立派な親父とおふくろさんがいて、喧嘩したのも見たことなかったなあ。
- 渡辺
- だから「楽しくてしかたがない」わけですね。
- 齋藤
- きっと喧嘩してても子供に見せないのかもしれないね。
- 吉川
- そうかもしれない。家も広かったしね(笑)。
- 渡辺
- でもそんなに楽しいと、お帰りになるときはさみしいですよね。ホストファミリーや仲良くなった人たちとも別れがたいでしょうし。
- 吉川
- ホストファミリーとは今でも関係は続いています。親父は死んでしまったけれど。
- 渡辺
- 輝くような青春の一年だったのでしょうね。
- 齋藤
- うん、お聞きしてると本当にいい生活なんですよね。
- 渡辺
- もともとそれだけ英語が上手だったことに加えて、彼氏や彼女などsteadyな関係ができると格段に語学は上達する、と聞きますが(笑)。
- 吉川
- ははは!(笑)
- 渡辺
- だからきっとそうでいらしたんだろうな、と思います。
- 吉川
- AFSに行った仲間はみんなそうだっただろうなあ(笑)。
アメリカではいろんなことが、やろうと思ったときに機会が与えられたんです。日本の成績至上主義は一つの問題でもあると思う。日本でも選択肢をもう少し広げてあげると学校生活が楽しくなるのではないでしょうか。
- 渡辺
- アメリカにいらっしゃるときから、ICUに行くことは視野に入れていらしたのですか?
- 吉川
- その話をするとね、末吉さんはアメリカから帰って来て畝傍高校には戻らずにセプテンバーとしてICUに入ったんです。彼はそれをはじめから考えていたようです。
- 渡辺
- アメリカでの生活がそんなに楽しいと、アメリカの大学にapplyしちゃえ、とは思われなかったのでしょうか?
- 吉川
- それはなかったんですよ。一番は、親父はアメリカの大学に行くお金は出せなかったと思う。大学を出たら就職しろよ、とか、浪人も留年もあかんで、と言われてました。日本で大学に行って、日本で仕事を探そうと思っていましたね。
- 齋藤
- もう一つびっくりしたことがあるんですけど、吉川さんはまず頭がいいよね。普通、頭のいい子って頭が良いだけで他はあまり何もできないっていうことが多いと思うんですけど(笑)、運動も柔道黒帯ですよね?それで先ほどアメリカでも「君、歌うまいからちょっと中へ」って…。天は二物を与えずというように、そんなこと普通ないでしょ!(笑)
- 吉川
- いやいや…(笑)。
- 齋藤
- なんででしょうね?自分でいろんなことに興味があって、やってるうちに修練されてうまくなっていく、ということはあるとは思うのですが。根底にあるのは好奇心なんですかね?
- 吉川
- それはあったと思うね。アメリカではいろんなことに興味を持った。それらをやりたいなと思うと、その機会が与えられたんです。
- 渡辺
- そうすると結果、二物どころか三物となっていくわけですね。人によるとは思いますが。ちなみに奈良にいらっしゃるときは小学校で「美声の少年」って有名だったのですか?
- 吉川
- いやいや(笑)。音楽の成績は3か4でした。
- 渡辺
- ではアメリカで開花なさったということですね?
- 吉川
- そうかもしれない。日本の学校制度の一つの問題は、成績至上主義というところなんだよね。学校の先生も「うちの高校から東大に何人入れる」とか、それが唯一のことのように扱ってしまう。そうでないと、選抜野球とか本格的な運動部の道へ行く。AorBというか、その間がないと思うんですよね。アメリカでは、田舎の高校だったということもあったかもわからないけど、レベルが低かったわけです。弁護士になったり医者になったりというのは何人かいるけど。日本人の方が習ってる分量が明らかに多いから数学とか易しいわけです。それで先生が「君はケミストリーに進め!」と言ったりして「冗談だろ〜」と思ったこともありましたが(笑)。授業が日本で習った内容だったのでね。そうやって勉強で少し楽な思いができたので、スポーツや音楽など勉強以外のことがいろいろできた、というのがあるかもしれません。
- 渡辺
- なるほど。
- 吉川
- 日本でも本来はもう少し勉強以外のことをやれると、学校生活自身が楽しくなるんではないでしょうか。しかし、受験勉強と決めると、他のことができない。そうやって考えると、アメリカに行けたのはすごくラッキーでしたね。
自分の意見を言うだけではなく、何が求められているかを短期間で理解し、行動で示していけるかが大切だと思います。
- 齋藤
- 末吉さんの影響を受けてから、そのあと同じように「この人からすごく影響を受けた」というような人はそのあとに出会うことはありましたか?
- 吉川
- それはいますね。外務省に入ってから出会った上司の方々などです。僕は役所に入って、すごく上司運が良かった。我々は上司は選べないんですよ。上司は部下をある程度は選べますが。そういう意味で言うと僕は今日まで恵まれましたね。僕の部下がどう言うかわからないけれども(笑)。
- 渡辺
- でもそれは、すばらしい上司の方々が吉川さんを部下としてお選びになったということではないでしょうか。
- 齋藤
- うんうん、自分で何かを出していたんだろうね。
- 渡辺
- お人柄も含めて。
- 吉川
- 幸運にも一人だけではなく複数のすばらしい上司に恵まれたと思っています。
- 齋藤
- 僕はこのインタビューを通して、読んでいる人に「どうすれば自分がもっと素晴らしい人になったり、周りにも頼られるようになれるのか」ということのヒントをつかんでほしいと思っているんですよね。上昇志向を持っている人は沢山いるとは思うのだけれど、どうしていいかわからない、とか、頑張っているけどうまくいかない、ということも多いんじゃないかな。でも例えば、吉川さんが言うように「上司運」という言葉を聞くと「なんだ、運か」と思ってしまうかもしれないけど、さっきのお話みたいに結局部下は上司が選ぶわけなんですよね。だから部下なりに自分の役割を自分なりに考えて成果が出せるように頑張っていれば、それが上司の目に留まって「こいつを部下にしたいな」となるのかもしれないね。
- 吉川
- うんうん。
- 齋藤
- こうやって吉川さんの経歴を拝見していると、とんとん拍子で偉くなっていってるじゃないですか。僕はこういうことってどうしたらできるんだろう、ということも聞いてみたかったんですよね(笑)。世の中にはうまいこと行って社長になる人もいるし、課長で終わる人もいる。この違いはどこから生まれてくるのだろうかといつも考えるんです。それが解るとみんなに、伝えてあげることが出来るでしょう。努力だけ一生懸命しても上司に伝わらないこともあるし、自分の考えをアグレッシブに伝えていくことも大事なのかなと思うのです。前に勤めていたコンサルティング会社なんかだと、自分はこんな考え方をしてるんだ!こんなことを提案したいのです、と言わないとなかなか評価してくれないところがあったんです。だから日本社会でも、これからはアピールすることもいくらかは大切なのかな、とも思うのですけどね。
- 吉川
- 外務省は国内の官庁の中では比較的自分の意見が言える気がします。でも霞ヶ関の役所ですから、意見を言うだけの人は上には上がらない。何が求められているかということを短期間で理解して、それを実行する。政策を作っていくための歴史や事例をきちんとおさえていく。いい加減なリサーチをやっているようだったら事務官としては失格ですね。そして管理職になった場合には、国会議員やプレスの人たちなどに自分たちがやっていることをきちんと説明できるかも重要になります。自分の言ったことをきちんとデリバーできるかが大事です。これらは各方面でチェックされるわけです。
- 齋藤
- なるほど。なかなかわかりやすいですね。
- 吉川
- 外務省という組織は学閥が比較的に少ないですね。閨閥はたくさんあるかもしれないけど(笑)。大使の息子はたくさんいますよ。だけど全体として比較的オープンな組織だと思う。
2004からの2年間、小泉政権の下、逆境の中で自衛隊員をイラクに派遣したときが一番大変でした。しかし死者を一人も出すことなく、多くの側面で日本がやるべきことをやれたのではないだろうか。
- 渡辺
- こちらのインタビューに外務省に入られてから歩まれた道が書かれている訳ですが、(参考インタビュー http://www.un.emb-japan.go.jp/jp/aboutus/ambassadors.html)
恐らく人の目に触れるのはこういう文字となったご経歴だと思うのですが、文字以外の面、例えばAFSのときも、ICU在学中も、外務省を入省前もお入りになってからも、きっとハードワークでいらしたと思うんです。それはご経歴の陰で人からは見えないものかもしれませんが。このときは大変だった…とか、今までどんなことがご記憶に残ってますか?
- 吉川
- どうかな…苦しかったという記憶では余りないのですが、一番大変だったのは中東局長をやった二年間でしたね。2004〜2006年まで、小泉政権でイラクに自衛隊を600人、2年半出したころ。当時イラクで軍事行動が行われていて国内世論は必ずしも自衛隊派遣に賛成ではなかった。日本人の人質が殺害されるということもあった。国会ではなんとか政権の足を引っ張ろうということで厳しい追及もあったし世論もあるし、逆風の中での小泉政権の大きな政策決定でしたね。結果的には自衛隊を2年以上派遣し一人の死者も出さずに帰ってくることができました。その間発砲しなければならない、という場面もなかった。批判はありますが、日本とイラクとの関係、アメリカとの関係、どの側面で見てもやらないといけないことができた。特に第一次湾岸戦争の時の対応、お金だけ出して何もできなかったという時と比べると、日本はやるべきことをやれたのではないかと思います。外務省に入る前で言うと、外務省の試験勉強は一生懸命やりましたよ(笑)。
- 齋藤
- あれって大学4年のときに受けるんですよね?本当に難しいと思うのですが、よく通ったなあと思って!
- 渡辺
- 難しいどころじゃないですよ〜!
- 吉川
- (笑)。
- 渡辺
- どうして外務省をお受けになろうと思われたのですか?
- 吉川
- 仕事は外務省かマスコミか、と考えていて…。父から留年はあかんと言われていましたからどこかに就職しないといけなかった(笑)。
- 渡辺
- 恐らくどこにいらっしゃっても、たとえばマスコミでも卓越した表現をなさっていただろうと思うのですが、やっぱり外務省をお選びになったんですね。
- 吉川
- 外務省に入ったのはよかったと思っています。
- 渡辺
- 言葉では難しいかもしれませんが、それはどんな点が?
- 吉川
- そうだなあ。自分でやりたいと思っていたことが、現実にできる職場だったことですね。給料が高いわけでもないし、なかなか大変な仕事ではあると思うけど、自分たち以外の人も含めて生活を良くしようとか、または日本のイメージを良くしようとか、日本や世界のためにやっているという実感が仕事を通して得ることができる。国を代表して仕事ができるのは素晴らしく、下積みの時代も含めてすごくおもしろい職場だと思います。
- 齋藤
- 昔は国連にICUの人が多かったけれども、最近は少なくなったと聞きました。
- 吉川
- NYの国連事務局にはまだ何人かおられます。我々の世代の少し上はもっとおられたんだけども最近新しく入ってくる人はやや少ない気がします。
- 齋藤
- これはICUの問題なのでしょうか?(笑)それとも国連のリクルーティングの枠組みなのでしょうか。
- 吉川
- ICUの卒業生の選択肢の中に国際機関で働きたいというのがかつてはかなり大きい比重を占めていたのが、数が少なくなっている気がします。出身大学を聞くと、早稲田、慶應、上智と言う人が多い。
- 齋藤
- あ、そうなんだ。それは知らなかった。
今でも関係を続けさせていただいている、緒方貞子先生や、お亡くなりになった細谷千博先生、横田洋三先生に出会うことができたし、ICUはアメリカの高校にどこか近い雰囲気がありましたね。何百人に授業をしてさよなら、ではなく、もっと小さく先生との距離も近くて、たとえば「外務省に行きたいんだったらこういう勉強をしたらいい」と身近に教えてくれる人がおられた。それは非常にラッキーだったと思っています。ICU生にはcuriousityをなくさない人材になってほしいし、学校でもそれを育てる環境を維持していただきたい。
- 渡辺
- ICUについてもう少しお聞きしたいのですが、吉川さんにとってICUという大学はいかがでしたか?吉川さんにとってどのような時間だったのでしょうか?
- 吉川
- 僕は2年生くらいから外務省を目指していたんだけど、オファーできる授業の幅が狭いから、最後の年を受験勉強の年にするために4年生になる前にとらなきゃいけない単位を全てとってしまったんですよ。
- 渡辺
- それで、しかもオールAですか(笑)。
- 吉川
- 時間を残しておきたかったんです。その過程で、今でも関係を続けさせていただいている、緒方貞子先生や、お亡くなりになった細谷千博先生、横田洋三先生に出会うことができたし、ICUはアメリカの高校にどこか近いような雰囲気がありましたね。何百人に授業をしてさよなら、ではなく、もっと小さく先生との距離も近くて、たとえば「外務省に行きたいんだったらこういう勉強をしたらいい」とか身近に教えてくれる人がおられた。それは非常にラッキーだったと思っています。
- 渡辺
- 先生でいらした緒方貞子さんとは、卒業なさったあともずっと親交を温めていらっしゃるのですね。
- 吉川
- ずっと私の先生です。先生がUNHCRを辞められてNYで自伝を書いておられた頃は、僕もNY勤務でした。9.11のあと緒方先生(日本政府代表)の補佐官としてアフガニスタン、イラン、パキスタンを回ったり、長年教えを受けてきました。ちょうど3週間前にニューヨークに来られて数日間御一緒しました。
- 渡辺
- 緒方先生は、吉川さんにとってどんな先生だったのでしょう?
- 吉川
- 上品なおばさんだったかな(笑)。
- 渡辺
- ふふふ(笑)。
- 吉川
- 小柄で、静かにお話をされていて。日本語でしゃべっておられるときと英語で話される時とで感じが変わるんだな。日本語だとすごく柔らかい感じなんだけど、英語だと優しい言い方ながらメッセージがダイレクトに伝わり、みんながうわっ!となるような印象があります。
- 渡辺
- へえ〜。とても良い時代のICUですね。 じゃあ、ICUの改善した方がいいんじゃないかと思われる点などはありますか?
- 吉川
- 頼まれてICUでレクチャーして生徒さんと交流することは何年かに一回はあります。キャンパスが新しくなってて感動したことはありますね(笑)。僕や斎藤さんがいたときのような、牧歌的な付き合いがあるのかどうかは判りません。僕はカナダハウスに3年間いましたが、そのつながりはまだ続いている。ICUのいい点はそういうところだと思います。だから、どうやって小さな規模の大学として自分の特色を活かすか、ということ。だって今はどこも国際教養とかリベラルアーツですもん(笑)。名前まで同じような学校が山ほど出て来て、そしたらスケールの問題になってきてしまう。だからどうやってスケールに負けない生徒を送り出すか。ここが一番難しいかもしれませんね。独自の9月入学だって今、東大だ京大だってやりだしてますがそんなの50年前からICUは実践してるなんて誰も報じないじゃない!(笑)
- 齋藤・渡辺
- (爆笑)。
- 吉川
- AFSやICUの経験というのはすばらしい価値を持っているし、ICUはそれを提供することができるわけなんですよ。だから学校自身も元祖リベラルアーツや本家セプテンバーとして、もっとアグレッシブに売り出したらどうかとは思いますね。そうでないと残念だけど埋没しますよね。変わった人が来なくなってしまう。
- 齋藤
- 昔は変わった人しかいなかったからね。
- 渡辺
- はい、と言いますか、いろんな先輩方にお会いすると実感いたします(笑)。うかがいたいことが尽きないのですが、最後にICUの 在校生やICUに興味を持っている学生の皆さんに対してメッセージをお願い致します。吉川さんが仕事や、生きていく上で大切にしていらっしゃることも含めてお聞きできれば幸いです。
- 吉川
- 大事なことは好奇心を失わないことだと思います。それは新入生と話せばすぐわかる。Curiousityを持っているのか持っていないのか。それを学生時代にどうやって磨くかが難しいんだけれども、知らないことにおびえないでチャレンジするということじゃないかと思いますね。だからお二人の活動はとてもすばらしいことだと思います。いろいろな同窓生のお話を聞いている。これはcuriousityがないと絶対できないと思う!(笑)
- 渡辺
- 斎藤さんは「問題解決」のカリスマ講師なのですが、わたしはこれといって何もないと言いますか、全てに素人なので、わたしがわかったら読んでくださる方はどなたでも理解していただけるリトマス試験紙のような存在と言いますか(笑)。
- 吉川
- 好奇心はどこの社会でも大事だと思っているんですよ。知識だけあるけど絞っても何も出てこないしおれたレモンのような…(笑)。そういうふうにならないためにICUはよい学校です。自由に任せるということは生徒一人一人の責任がとても大きいわけですからね。curiosityをなくさない人材になってほしいし、学校でもそれを育てる環境を維持していただきたい。就職のことを考えると外務省に入るためにICUに入るのは、おかしいと思う(笑)。
- 渡辺
- おかしいですか?(笑)
- 吉川
- 一番楽な方法ではないということ。だから、入ったあとどういう風に自分で考えるか。ICUの卒業生を見てみると、少人数の割にこれだけ違った職種の人がいる。作家がいたり政治家がいたりお医者さんがいたり…医者になりたいんだったら医学部に行った方が絶対楽なわけですよ(笑)。政治家になりたいんだったら大きい学校に行った方が卒業生が多いわけだし。役人になりたいんだったら東大にいった方がいい。それが常道だよね。だけどそれに飽き足りない人がICUに来て(笑)、ICUに入ったらこういうふうになりますっていうルートができているわけじゃない。それを僕は強みにしないといけないと思っています。多様な人に来てほしいですね。
- 渡辺
- 逆算で行くのではなくて、迷いもするけれど、豊かな時間を過ごすことができるという最大の恵みですよね!
- 吉川
- それはとても理想的なことだと思います。ICUで大いにその時間を楽しんでほしいですね。
プロフィール
吉川 元偉(よしかわ もとひで)
1951年3月13日、奈良県御所市生。 奈良県立畝傍高校卒業 在学中にAFS奨学金により米国に留学し、Le Roy High School(Illinois)卒業。 1973年外務公務員採用上級試験に合格 1974年国際基督教大学教養学部卒業とともに外務省入省。 スペイン(Valladolid大学及びEscuela Diplomatica, Madrid)で研修。 その後外務本省では、中南米局中南米第一課、大臣官房人事課、経済協力局無償資金協力課首席事務官、経済局国際機関第二課長、総合外交政策局国連政策課長、経済協力局審議官、中東アフリカ局長を歴任。 在外公館では、在アルゼンチン大使館、在英国大使館、経済協力開発機構(OECD)代表部(パリ)、在タイ大使館公使、国連代表部(ニューヨーク)公使のちに政治担当大使を歴任。 以上の他、1994-95年、龍谷大学法学部客員教授を務めた。 2006-09年、駐スペイン王国特命全権大使。スペイン最高位イサベラ女王勲章を、在任中に受章したアジアで最初の大使となった。2009年より初代アフガニスタン・パキスタン担当大使(外務省勤務)。2010年より経済協力開発機構(OECD)日本政府代表部特命全権大使(パリ)。在任中OECD執行委員会議長及びIEA(国際エネルギー機関)理事会副議長。 2013年9月より国際連合日本政府代表部特命全権大使、常駐代表(ニューヨーク)。