INTERVIEWS

第46回 酒井 綱一郎

日経BP社 取締役経営情報グループ統括 

プロフィール

酒井 綱一郎(さかい こういちろう)
国際基督教大学教養学部社会科学科卒業、スタンフォード大学プロフェッショナル・パブリッシング・コース修了。毎日新聞東京本社から日経マグロウヒル株式会社(現在の日経BP)に入社し、NY支局長、日経ビジネス編集部長、ビジネス局長などを経て、日経ビジネスの発行人に。その後、日本経済新聞社の常務執行役員を経て、現在は、日経BP社取締役経営情報グループ統括として、会社経営に携わる。TBSラジオ「森本毅郎スタンバイ!」コメンテータとしても活躍。著書は『ドラッカーさんが教えてくれた経営のウソとホント』(日本経済新聞出版社)など多数。認定NPO法人「世界の子供にワクチンを日本委員会」理事、障害者自立支援NPO「木ようの家」理事、国際基督教大学理事など、社会貢献活動にも力を注いでいる。
直感で決めることが多いんです。大学も直観、就職も直観。「これ、いいかな」と思うとそこに邁進する性格なんです。
齋藤
ご出身は鹿児島なのですね。
酒井
生まれたのは東京でしたが、赤ちゃんのときしかいなくて、その後は種子島や喜界島など、鹿児島県内を転々としつつ高校までを過ごしました。
齋藤
それはまたどうしてなんですか?
酒井
父は種子島出身で、鹿児島で教員をやっていたのですが、私が生まれた時は、小説家を志して、プロの文筆家になるために東京に出てきていました。文筆の背景には貧しさが必要だ、貧しい県の鹿児島から出てきた自分こそが苦しい生活を素材とした私小説が書けると思っていたようです。ところが、そのころ、石原慎太郎さんが『太陽の季節』で芥川賞を取った。「あんな裕福な人が小説書いて成功するとは…。到底敵わない」とショックを受けて、断念し、地元の鹿児島に引っ込んでしまった。それで、種子島、喜界島など様々なところで教師をし、自分もそれに伴われて鹿児島に戻ってきたというわけです。
齋藤
なるほど。以前インタビューした元富士ゼロックス社長の有馬さんも鹿児島出身ですね。
酒井
 そうです。有馬さんを囲む鹿児島会という集まりをやっていました。
齋藤
しかし、鹿児島ではICUはほとんど知られていないと思いますが、どうしてICUに?
渡辺
鹿児島は江戸時代から教育熱心な土地柄でもありますよね。
酒井
僕は父が教員だったので、地方の公立高校に行っていました。それで、受験の際に分厚い冊子になった大学受験案内をめくっているとICUが出てきた。キャンパスが広くて、緑が沢山あるのを見て、これなら地方出身の自分でもなじめるのじゃないかと思って調べてみると、非常にユニークだし、面白そうだと思って受験しました。大学教育がどうとか、教養教育がどうとかいうことより、初めは緑のキャンパスに魅かれたのです(笑)。
渡辺
では、緑が縁でICUを志望なさって、キャンパスを見にいらしてお決めになったのですか?
酒井
いえいえ。遠いので見ることは出来ず、大学受験案内の情報だけでした。でも、1年目は準備不足で失敗。試験問題もICUに行かないと見られない時代だったし、ICUは高校の先生の中でも知られていなくて、高校の入試判定会議(先生たちが生徒の成績を見て、ここなら受けても大丈夫とか、難しいとかを判定してくれる)でも、「理解不能な大学」と言われました。ICUを知らないし、鹿児島は国立志向が強いので、なんで国立に行かないんだ、と言われました。
渡辺
ICUの入試には、さすがの酒井さんも戸惑われたのですね?
酒井
そうですね。現役受験の時は試験中に寝てしまったぐらいですよ!
渡辺
えぇっ?それは、剛胆というか、なかなかいらっしゃらないですよね。
酒井
母が、東京は寒いところだからたくさん着て行った方が良いと、エスキモーが着る様なコートを用意してくれて、それを着るととても暖かい。更に、食事も学食で「元気つけなきゃダメ」とか言われて、やたら食べさせられて、お腹いっぱいになって。英語の試験は、リスニングが始まって瞬間寝てしまった。そこから20分以上寝てしまいました。あ、翌年は、眠らずに完璧に受けましたよ。私が受験に失敗した現役の年に、今の妻(綾乃)が受験して現役合格しています。どうも英語は満点だったようで、今でも頭が上がりません。
齋藤
ICU以外にはどこか受験されましたか?
酒井
上智大学などミッション系をいくつか受けましたが、一番行きたいのはICUでした。
齋藤
ミッション系にしたのはどうしてなんですか?
酒井
両親が教会に通っていて、自分も日曜学校に通っていたのが、影響したでしょうね。それで、まあ、ミッション系なら真面目な人が多いだろうなと(笑)。初めは哲学を勉強したいと思ったので、哲学で良い先生がいるところを選びましたね。ICUだけ緑です(笑)。
渡辺
お父様の影響はおありでしたか?文学部より哲学を選ばれたわけですが、ご長男ということなら初めての受験ですよね。
酒井
僕は4人兄弟の長男ですが、全くそういったことはありませんでしたね。父は、大学がどこかには関心があまりなくて、月刊文藝春秋を読みながら、「これを出している出版社にお前入れたらさ、親父としては幸せだ」と。作家だから(笑)。
渡辺
なるほど〜!哲学を学ぼうと思われたのはなぜですか?
酒井
高校時代に、実存主義哲学でキルケゴールを読んで感動して、次にサルトルを読んで感動して、哲学を学んでみようと思ったのです。今思うとうわべだけの理解だったと思いますけれどね。作家になる気は全くなかったけれど、哲学をやったら、将来は教員になるのかな、とは漠然と思っていました。
渡辺
それでICUではヒューマニに入られたのですね。その後、転科されていますが、それはなぜ?
齋藤
哲学は面白くなかったとか?(笑)
酒井
いえいえ。授業は面白かったですよ。えーっと、これもまた劣等生の話ですが、はっきり言うと成績が悪かった。川島重成先生の古典ギリシャ語のクラスを取って、1日3〜4時間勉強しているのにE。斉藤和明先生(故人)の中世英文学だったかな、これもE。いくら勉強しても成績が悪い。なぜだろうと考えて、そのうちに、自分には人文は向いていないと思い始めたんです。自分は実存主義哲学を学んでいたつもりだったが、ようは、キルケゴールが元婚約者に宛てた恋文を読んでうきうきして、哲学が面白いと勘違いしていただけなのだと気付いた。哲学とはもっと抽象的な概念の学問で、自分はそれを面白いと思っていたわけではなかった。結局、即物的で直感的な自分には向かないかなと思ったのです。

それで、どうしようと思って、ICU・グローバル・活躍している人と考えたときに、国連職員を目指すか、とこれも直観で思って、横田洋三先生に「どうしたらSS、社会科学科に転科できますか」と聞きにいったんです。すると、専門科目で一番いい成績を取れば転科できる可能性はあるよと言われたので、国際法だけは真面目に勉強しました。そこだけは良かったので、4年生で転科させてもらったけど、内容的にも政治経済系のほうがピタッと合っていましたね。学んでみて、やっとそれがわかった次第です。

渡辺
回り道かもしれないけれど、大学に通ってみて初めて分かったということですね。
酒井
そうですね。もし、他の大学に入っていたら、、文学系にずっといるしかなかったので、その点では助けられたし、ICUは良い大学だったと思います。みんな、高校時代の勘違いや思い込みで学部を選ぶが、それが正しいとは限らない。入ってから先生の授業を聞いてわかることもある。ICUだったからこそ、広く学ぶことができて、向いているものに気付き、そちらに切り替えることができました。
渡辺
そういった色々な経緯を経て、新聞記者になられるわけですが、お父様の文藝春秋!のお言葉は影響されなかったのですか。
酒井
初めは国連に行こうと思って、横田先生の国際法を取ったが、国連職員になるには大学院に行かなくてはならない、語学も2種類やらなくてはいけないと言われて。僕の話は劣等生の話が多いのですが、これはダメだと思った。英語すらまともではないのに、なんでフランス語までやらないといけないんだ、と。

父の夢をかなえようにも、文藝春秋は当時、新卒を採用していませんでした。親父が教員なので、サラリーマンという概念がなく、一般企業に行くことはまったく考えませんでした。で、悩んでいた頃に、トレンチコートの襟を立てて歩いていたら、彼女(今の妻)に「あなた、それ、新聞記者っぽい」と言われたのです。彼女のお父さんが官僚だったので、よく夜回りの取材記者が、そんな恰好で自宅周辺に出没していたようですね。また、昔のドラマに新聞記者が出てくるものがあって、夜回り朝駆けなどのシーンを見て格好いいなと思って調べると、正義の味方らしいと(笑)。これはいい、ということで新聞社を目指そうと。これも直観で、単純ですね。現実はテレビの格好よさは一面で、非常に厳しい世界なのにね。

渡辺
その頃は特に単純に行きたいから行ける業界ではありませんよね。就職活動は大変でしたでしょう?
酒井
確かに、毎日新聞はランキングで20位以内に入いるぐらい難しかった。当時、早稲田大学商学部不正事件があって、それを毎日新聞が特集して、新聞協会賞を取った。学生にも関心ある分野だっただけに、一気に人気が上がってしまったんです。更に、マスコミの試験は、スタートが遅いため、他の一般企業で内定を取ると、学校の推薦などの場合にコンフリクトが起こる。通常は10月に会社訪問が解禁されて、10月下旬には一般企業はほぼ内定が出る。でも、マスコミは11月から筆記試験、その後面接となっているので、先に一般企業に決めることが出来ない。ICUのように人数の少ない大学の場合、一般企業の内定をまず取って後でマスコミに行くから一般企業の内定を蹴るのはまずい。就職課の人にメディア志望ならメディアで通してもらいたいと言われて、その通りですねと、マスコミに絞りました。

メディアを目指すなら、退路がないという状態だったので、仲間3名ぐらいと、春から11月まで半年ぐらいひたすら筆記試験の勉強をしました。筆記試験は作文、教養、時事問題などなので、読売にいた先輩記者の長谷川さんという方を訪ねて作文のコツを聞いたり、テーマを決めて作文してお互い批評し合ったり、教養と時事問題のため「新聞ダイジェスト」を読んでお互い質問をしあって理解が深まっているかを試したり、いろいろやりましたね。

渡辺
かなり高度な勉強ですね。
酒井
それを通じて、結論から書くなどの、コツを学んだのです。僕なんかは“原点野郎”と呼ばれていました(笑)。「何々の問題を解決するのは、何々の原点から考える必要がある」なんて書く癖があったからです。あとは、毎日新聞に文章の達人がいて、山崎塾というのをやっていて、直接ではないけど、そこでどんなことを教えているのかを取り入れたりもしましたね。これは面白くて、彼は「カン・カラ・コ・モ・デ・ケ・ア」という法則を教えて、多くの学生をマスコミに入れていました。

カンは書き手の感動体験を書く。カラはカラー、文章の中に色がなくてはならない。色彩を思い出すような文章。コは今日性、今のトピックをやること。集団自衛権でもなんでもいいですけどね。モは物語性、ストーリーのある話に組み立てる。デはデータ、文章には必ず根拠となるデータ、数字がないといけない。ケは決意、大学生だから決意が表明されないといけない。アは明るさ、暗い文章はダメ。前向きでないといけない。という内容でしたね。

渡辺
今伺っていても、なるほどと思う面白さです。切磋琢磨という意味でも、貴重な時間だったのですね。
酒井
一緒に勉強した人は、NHK、朝日新聞、読売新聞など、其々マスコミに進みましたね。
渡辺
一緒に勉強なさった皆さんが合格されたのはすごいことですね!
酒井
覚悟してメディアに行きたい人たちで、他の会社の可能性を排除していたし、筆記試験に受からないとどうしようもない時代だったのでみんな必死にやりましたね。一夜漬けが得意な仲間でしたから、短期集中型のマスコミ試験にみんな向いていたのかもしれません(笑)。
渡辺
就職なさってからのお話を伺う前に、どんな大学時代だったかも教えてください。
酒井
ほとんど卓球をしていました。今は部がなくなっているかもしれませんが、僕らの頃の卓球部は強くて、三鷹(全国でも非常に強い)で、ペアの部で優勝したぐらいです。ペアを組んだ相手は、富士宮焼きそばのブームをつくり、B1グランプリを立ち上げた渡辺英彦君です。渡辺君はICUのDAY賞を受賞していますから、ご存知の方も多いと思います。だから、ほとんどカナダハウスとジムの間を行き来していました。妻の綾乃とも卓球部で知り合いました。
毎日新聞の支局時代は、経験のない修羅場も多くありました。東京に戻ってスポーツ記者をして、日経BPに転職してと、様々な経験を積みましたが、結局、記者は「人に会う。人に会って話を聞き、情報を引き出す」仕事なのだと思います。
渡辺
就職なさった毎日新聞は、いかがでしたか?
酒井
7年いました。まず、浜松支局に配属されて、そこで5年。サツ記者と言って、警察をメインに担当していて、基本的には社会事件の担当が多かったです。静岡は大事件が多くて、赴任前には東名高速日本坂トンネル火災事故、静岡駅前地下街爆発事故などがありました。赴任後にはリゾート地のつま恋でガス爆発事故、自衛隊のブルーインパルス墜落事故など大事故や大事件が起こりました。つま恋ガス爆発事故では、14名の方が亡くなられ、28名の方が負傷されました。このガス爆発事故が起きたときは、ボロ車を飛ばし、現場に向かうパトカーの後ろにくっついて一般車両を次々追い抜いて現場にいち早くたどり着きました。地方記者はカメラも自分で買い、車も自家用車。デジタルカメラがなかった時代ですから、写真の現像・送信、すべて一人でやらなくてはならず、支局時代は驚きの毎日でした。

業界用語で、他に先んじて報道するのを「特ダネ」とか「特報」「スクープ」と言います。逆に、自分だけが報道できなかったのを「特オチ」と言いますが、特オチをやると支局長のカミナリが落ちてくる。怒られるのが嫌で、支局になかなか帰れず、「何やってんだ、早く帰ってきて原稿出せ」ともっと怒られました(笑)。つま恋のガス爆発事故だけは、特ダネを連発できたので、少しは成長したのかもしれません(笑)。

渡辺
思い描いた記者生活より、さらにハードだったという感じでしょうか?
酒井
忙しい時のほうが精神的には楽でした。暇でニュースがないときが一番つらかったです。毎日、1本は記事を書かねばならないのに、ネタがないからです。仕方ないので、ミカンやウナギの出荷風景を記事にしたりしましたが、ニュースでもなんでもないんですね(笑)。やはり、記者としては、新聞の一面に載るような記事を書きたいので、ニュースがない時が一番きつかったです。
渡辺
支局から東京に帰っていらしてからはどうでしたか?
酒井
僕の志望は、第一志望が政治部で、第二志望がスポーツ、第三志望は何でもよかったので、まあ経済部にしておきました。

実は、毎日新聞に内定した後、日米核持ち込み疑惑取材班のお手伝いしていました。取材班の皆さんがインタビューしたテープを聞いて、テキストに起こすテープ起こしをしていました。古森義久さんという毎日の記者だった方が、エドウィン・ライシャワー元駐日米大使にインタビューして、ライシャワー氏が「米軍の艦艇は核兵器を搭載したまま日本の港に立ち寄り、領海を航行することを日本政府が黙認する合意が日米間にある」と爆弾発言をしました。日本は、非核三原則で「核は持ち込まず」という原則がありましたから、国会を含め日本中が大騒ぎになりました。実は、亡くなられましたが、斎藤明さんという後に毎日新聞の社長になる方が、核密約があったことを突き止め、最後にワシントンにいた古森さんに「今ならライシャワーさんは話してくれるはず」とインタビューを依頼して、大スクープにつながるのです。

斎藤さんの歴史の真実を取材で明らかにしていこうという姿に惚れて、それで、政治部に行きたいと思っていました。ただ、ある先輩記者に「運動部に行ったら文章がうまくなるぞ」と言われ、ニューヨークタイムズの有名記者はまずスポーツ部門で筆力をつけるものだとも聞いて、そうかと思ってスポーツと書いたら、そちらに回されてしまった。

でも、確かに、スポーツ記事は文章力が高まるんです。人の心を読んだり、スポーツ選手がなぜこの一球を投げたのか、ということを考えたりして記事を書かなくてはなりませんから。アマチュア野球、モータースポーツなどを担当して、一番良く取材したのは大相撲でした。千代の富士全盛期で、双羽黒、北勝海、大乃国ら次々と横綱がどんどん誕生した時代で、大いに盛り上がっていました。小錦も全盛時代で、稽古の後に名刺を渡したら、ぎゅっと握ってぽいと捨てられたんです。名刺は通用しない、顔を覚えてもらわないと仕事にならないと痛感しました。顔を覚えてもらうために、酒は断らず、飲みましたが、最初の時は倒れて、部屋で寝かされましたね(笑)。最後の頃には、双羽黒が部屋から失踪した事件で、3日間マンションの前で彼が出てくるのを待った。これも他紙に抜かれたので、記憶に残っていますね。

渡辺
苛酷ながらも充実した日々だったかと思いますが、なぜ転職なさったのですか?
酒井
政治部には行きたかったけれど、すぐ行けるような部署ではないし、行ったとしても、自分で記事を書くにはかなりの時間がかかることが分かりまして。政治部は、初めは政治家に張り付いて話を聞く部品屋的な仕事ばかりで、ある年齢になるまで総合情報を基にした記事は書けず、修行が長いのです。それは嫌だな、どうしようかな、と思っていた、そんな時期に、新聞広告で「日経ビジネス募集」と書いてあるのを見て、「日経」で「ビジネス」だったらいい雑誌だろうと思って、応募しました。
渡辺
合格できそうでしたか?
酒井
全く合格するとは思いませんでしたね。当時はスポーツしかやっていないため、全くジャンル違いで経済知識がまるでなく、「リストラ」と聞いても用語が全く分からなかった。しかも、面接の日なんて、西武ライオンズの東尾修投手の賭博事件の処分が出る日で、ぎりぎりまで発表を待ち、慌てて面接にかけこんだぐらいでしたから。ただ、日経ビジネスを月刊から週刊化しようという計画があって、即戦力で記事を書ける記者を多く募集していたようです。だから経済知識のない私でも合格して、毎日新聞を退社しました。
渡辺
転職は人生の岐路だと思いますが、奥様には相談なさったのですか?
酒井
全くしないです。すべて事後報告です。彼女もそれを望んでいたと思うし。
渡辺
お父様はどうおっしゃいました?
酒井
当時は、日経マグロウヒルという変な会社名だったので、親父からすると良くわからなかったのではないでしょうか(笑)。いいとも悪いとも、全く口は出されませんでした。
渡辺
転職してみて、いかがでしたか?
酒井
経済ジャーナリストになろうと思っていなかったので、日経ビジネスもいい雑誌かなぐらいしか知らなかったのです。入ってみたら、部数でも日本一の経済誌だし、当時は「管理職でないと読者になれません」と公言していた雑誌でしたから、読者ターゲットを絞った記事品質の高い雑誌でした。企業の方に自由に会えるので、非常に良い仕事が出来ました。
齋藤
ビジネスを勉強していなかった中で、どうやって取材されたのですか?
酒井
下調べはものすごく時間をかけてやりました。一夜漬け能力はもともと備わっていて、調べて理解する能力を生かして、徹底的に調べてから取材に行った。当時はインターネットもなかったので、大宅壮一文庫などで調べていました。経営者などに会うときは、かなり相手のことを知り尽くしていましたので、取材で今まで知らなかった情報を得られた時に、ラッキー、と思いました。記者は、徹底した下調べプラス、相手に食い込み、相手から話を引き出す能力が大事でしたね。
渡辺
秘訣なんて一言では言えないと思いますが、人から話を引き出すには何が大事なのでしょうか?
酒井
これは、人によってスタイルが大きく異なります。僕は明るい知り合い的なコミュニケーションスタイルを得意とするので、厳しい質問でも明るく聞く。「どうして失敗したんですかね」なんて厳しい質問を、ハキハキと聞く。すると、相手も明るく応対してくれる。全く違うアプローチの人もいて、例えば、ある記者は相手に話をさせない。「あなたが言いたいのはこういうことでしょう」と続けて、相手をイライラさせて「そうじゃないよ!」と本音を話させる。そんな人もいましたね。

あとは、業界的特徴もあって、金融は夜回りがポイントでした。金融は秩序の世界なので、大手銀行の役員の方は、昼間の取材ではあまりしゃべらない、適当にごまかす。インタビューに行っても、広報の人が隣で内容を速記して取材で答えた内容を他の役員、頭取に回したりしますから、銀行内の監視を警戒していました。そういった環境では率直な意見は言えませんよね。逆に、夜回りで、匿名であれば、色々なことを話してくれる。

渡辺
相手が政治家か経済人かの違いはありますが、結局、日経ビジネスにいらしてからの仕事は相手から情報を得る、人に話を聞いて記事を書くという、かねてから望んでいらした内容だったのですね?
酒井
そうです。記者は、ようは人に会って話を聞く仕事だった。文章はそれ程書けなくてもよく、基本さえしっかりしていればよい。記者−副編集長−編集長の順番で原稿を直されていきます。デスクとも言いますが副編集長が真っ赤に直してくれます。原稿がズタズタになって、最後はゴミ箱行きもよくありました(笑)。例えば、5W1Hがきちんと記載されているのか。また、経済雑誌の場合はWhy(なぜ)が大事だったので、それがしっかり入っているのか。このあたりはかなりチェックされました。なぜ投資したのか、なぜ買収したのか。原稿チェックは「なぜなせ」の嵐です。相手が言っていることが、本音と違う場合もある。デスクは業界に詳しい目利きなので、インタビューしたままを書いて、「君、それは騙されているよ」と言われて、再取材もよくありました。
渡辺
新聞やネットはよりそうですが、即時性以上に雑誌には納得できるような理由がきちんと記載されていないと、突っ込まれるということですね。
齋藤
なるほど、僕は日経ビジネスの「敗軍の将、兵を語る」が好きでよく読むんですが、あれなんかはちょっと違って、相手の人に喋らせてますよね。普通なら編集で時系列に書いたりするところを、ある程度そのまま載せている感じがするんです。
酒井
そうです。僕はあの記事のデスクもやっていましたが、あのコンセプトは、相手が話したままを載せる、ということにあるんです。倒産した人、失敗した人に対するインタビューなので、なかなか依頼に対してOKを貰うのが難しいジャンルの記事です。依頼の際に、ご本人を直接捕まえて「貴方は倒産したけれど、本当は言いたいことがありますよね」、と説得するのが一番大事。大企業の場合は、広報をすり抜ける。広報を通すと、会社としては出したくないので、OKが出ない。なので、朝駆け、夜回りで自宅を訪れ、失敗したご本人を説得するのが最初の仕事です。民主党の国会議員になった長妻昭さんは、国会議員の不正をいろいろ糾弾していましたが、彼は日経ビジネスの敗軍担当の記者として、取材力を磨いたところがあります。
子会社から親会社の日経新聞で取締役になったのは、歴史上初めてのことで、自分としても予期しない役割でした。相手に仕事を任せてもらうために提案する。新しい自分の役割に対して上司の薫陶を受けて、一つ一つそれをこなしていく。そのことが大事だと思います。
齋藤
酒井さんは、日経BPに入られて、NY支局長になった後から、どんどん次の役割へとステップアップされていますよね。
渡辺
ICU出身で、ジャーナリストで役員になられた方は初めてですよね。
酒井
そうですね。しかも、毎日新聞から日本経済新聞の子会社日経BPに行って、更に親会社に天上がりしている。あ、「天上がり」というのは、私が言ったのではなく、どこかの週刊誌が私の日経行きをそう書いたので、正式な言い方ではありません。あしからず(笑)。
齋藤
どうしてそうなれるのですか?明るいとか、信頼を得るとか、大事なことはあると思うのですが、他の人との違いは何なのでしょうね。何か学生が学べる秘訣はあるのでしょうか。
酒井
帝王学ではないが、色々な上司に色々なことを教わったというのが一番大きいですね。初めはジャーナリスト、記者との役割とは何かから始まりましたが、管理職になると、事業家にもならないといけない。そうすると、編集的に面白いだけではだめで、セミナーをやるにしても、聴衆を魅了する講師は誰がいいか、事業収支はちゃんと取れるか、など考えないといけなくなる。そういった新しい役割を果たすため、上司からの薫陶を受け、それを学び、一つ一つこなしていく。すると、相手の期待が高まり、次のことを任せてくれるようになります。この繰り返しだと思いますね。
齋藤
それは、相手が教えてくれようと思っている相手発信ですか?それとも、酒井さんがそうなるように働きかけていったのですか。
酒井
それは両方ですよね。50〜60人の編集部ですから、上司が「酒井にこれを任せよう」と思わないと仕事は回ってこない。だから、自分でこれをやりたい、こんなアイデアがあると、常に提案することは大事です。コツを言えば、アイデアを出すときは、A4一枚にコンパクトにまとめ、見出し、キャッチコピーが命です。
渡辺
天上がりについては予測されましたか?
酒井
そんな大それたことは思いもしませんでした。
渡辺
ご自身ではお答えになりにくいかもしれませんが、どうしてそういう事態が起こったのでしょう?
酒井
当時、日経新聞がグループ経営に力を入れ始め、100社ほどあるグループ企業が総合力を高めていくためのルールを決め、人事交流もして、との流れがありました。その際、当時の社長がグループ経営をするのにグループ会社の人間が一人も本社にいないのはおかしいと言って、グループ経営室長に指名されたという経緯です。それはびっくりしましたよ。新聞社を辞めて雑誌社に来たのに、また新聞社かと(笑)。
渡辺
生活はガラッと変わりましたか?
酒井
その前から事業はやっていたので、仕事で戸惑うことはありませんでした。ただ、新聞社なりのルールを踏まえておけばよかったと思いました。雑誌にいたころ、フジテレビの「報道2001」などのテレビ番組でコーナーを受け持っていましたが、新聞社の人間が他のメディアに出演するときのルールがあったのですが、それを知らずに届け出も出さずに出演したので、周囲の方に迷惑をかけました。
渡辺
ある意味、新しい領域を切り開かれたフロンティアですよね!ご経歴を拝見すると、著書に割く時間も含め、休んでいらっしゃるのだろうか?と思ってしまいます。
酒井
それは、まあ、記者の時代は、有給を取ったこともないぐらいでしたけどね。
渡辺
やっぱり。話題になったドラッカーさんの本は、どんな経緯で出されたのですか?
酒井
NY支局時代は、9.11の前で、ITバブルも端緒で、経済的に平穏な時代だったのです。で、折角だから大学の頃に本を読んだ偉い人に会ってみようと思って、『不確実性の時代』を書いたガルブレイズ、『経済学』の著書で有名なポール・サミュエルソンなど高名な先生に会ってみた。日経ビジネスは日本なので読んだことがなくても、日経は日経平均で有名でしたので、例外なく会ってもらえました。その中で、ピーター・ドラッカーさんと一番気が合って、3回ぐらい会って、1回6時間ぐらい話を聞かせてもらったのです。そんな日本人は当時どこにもいなかったので、これは本でも出そうかなあと。
渡辺
最初から波長が合ったのですか?
酒井
実は、初めに申し込んだ時には断られました。手紙で、「経営の神様としてのドラッカーさんに会いたい」と書いたら、「日経の席はSOLD OUT」と言われた。日経新聞の人のインタビューが決まっていたので、日経の席はないよと言ってきたのです。で、「ドラッカーさんは洒落が聞いているな」と直感し、「洒落で返せば会ってもらえるかも」と考えました。そこで、「経営の神様としての席はSOLD OUTだとしても、社会生態学者(ソーシャルエコロジスト)としてのドラッカーさんの席はまだ空いていませんか?」と書いてファックスしたら、「それなら空いている」と即座に返信のファックスがあり、会ってくれました。洒落で実現できたインタビューでした。

彼は、ヒットラーの迫害を恐れてアメリカへ移住した人なので、カリスマや神様という言葉を嫌っていました。「インテルの創業者はカリスマですね」と質問したとき、ドラッカーさんは「カリスマはイエスキリストやブッダのことを言う。インテルの創業者は周囲を粘り強く説得して、事を実現している。カリスマという言葉を彼に使うのは失礼だ」とピシャリ。だから、自分が経営の神様と言われるのも嫌で、自分は社会についての歴史のジャーナリスト、社会生態学者(ソーシャルエコロジスト)だと、常々言っていました。

それで、初めて会った時から、ランチを一緒にしようと言ってくれ、2〜3時間ランチを取って話をしてくれました。90歳ぐらいの彼に、どんな生活をされていますか?と聞いたら、朝起きて奥さんのお弁当にサンドイッチを作って、奥様がテニスに行っている間に、前日に口述筆記をした原稿を推敲すると言っていました。ランチの時はそれらのサイドストーリーを聞いたうえで、本格的なインタビューとして、これからどんな世界が待ち受けているのか?を聞きました。1929年ごろに予測を書いてそれが外れたので、懲りてもう予測はしないと言ったけれど、年金社会が出現する、非営利組織が隆盛するなど、結局、彼が言っていたような世の中になっていると思いますね。

齋藤
今後は何をなさるのですか?
酒井
今は、日経ビジネスなど経営系の媒体、日経メディカルなど医療系の媒体を担当しています。10月から日経新聞との共同事業で、日経Goodayという健康・医療のサイトを立ち上げたので、これを盛り上げていきたいです。また、日経新聞の役員をしていたころに、NPOなどソーシャルビジネスを表彰する「日経ソーシャルイニシアチブ大賞」という賞をつくりましたので、非営利組織の活動支援は続けていきたいです。私自身、細川元首相の奥様、細川佳代子さんが理事長をしている「世界の子供にワクチンを日本委員会」理事など福祉系の理事、評議員をいくつかしているので、弱者の支援事業を強化していきたいです。
渡辺
最後に、ICUの在校生、そしてICUを目指していらっしゃる学生の皆さんに向けてメッセージをお願いします。
酒井
まずひとつは、ICUは教養学部だから、色々な、基本的な、自分の思考力を高められる勉強ができる。これは、劣等生であった自分でも感じる素晴らしいところだと思います。自分の進路が違っても修正させてもらえる大学だし、取れる科目の自由度も高い。リベラルアーツとは、大事なんだな、と、卒業した後で認識しています。ここが一番良いところ。それから、キリスト教を信じるということでなくても、何らかの形でキリスト教に触れるのは大事なことです。世界はキリスト教でもイスラム教でも、宗教を持っている人ばかりなので、グローバルで生きて行こうと思うと、宗教を持っている人の心がわからないといけない。海外との交流が深めやすいのもいいところですね。


プロフィール

酒井 綱一郎(さかい こういちろう)
国際基督教大学教養学部社会科学科卒業、スタンフォード大学プロフェッショナル・パブリッシング・コース修了。毎日新聞東京本社から日経マグロウヒル株式会社(現在の日経BP)に入社し、NY支局長、日経ビジネス編集部長、ビジネス局長などを経て、日経ビジネスの発行人に。その後、日本経済新聞社の常務執行役員を経て、現在は、日経BP社取締役経営情報グループ統括として、日経ビジネスや日経ビジネスアソシエ、日経メディカルなどを担当。10月にオープンした健康医療サイト「日経Gooday」責任者。
日経Goodayのサイト
http://gooday.nikkei.co.jp/

以下は社外活動
TBSラジオ「森本毅郎スタンバイ!」火曜日コメンテーター。
http://www.tbs.co.jp/radio/stand-by/

認定NPO法人「世界の子供にワクチンを、日本委員会」理事
http://www.jcv-jp.org/

障害者自立支援NPO「木ようの家」理事
http://ww35.tiki.ne.jp/~mokuyou/

著書は「ドラッカーさんが教えてくれた経営のウソとホント」(日本経済新聞出版社)など多数