INTERVIEWS

第42回 カート・トン、丸本 美加

在日米国大使館首席公使(カート・トン)
防衛大学校, サイマル・アカデミー講師(丸本 美加)

プロフィール

カート・トン、丸本 美加(まるもと みか)
カート・トン
2011年12月から在日米国大使館首席公使。

丸本美加
1988年、国際基督教大学大学院行政学研究科卒業。ICU卒業後、マッキンゼー&カンパニーに勤務。1990年、カート・トン氏との結婚を機に、フィリピン、ワシントンDC、東京、北京、ソウルへ赴任。

 

出会いは日米学生会議。まさに”life changing experience”でした。
齋藤
外交官の方にお話を伺うのは初めてです。
渡辺
はい。外交官の奥様にお話をうかがったことはありましたが。
齋藤
そうですね。栗山米国大使の奥様でしたね。先ほど、美加さんにはお話したのですけど、最初のインタビューって8年前になるんですよ。
渡辺
そんなになりますか?そう言えば、雨宮先生が、ちょうど帰国されていたので大急ぎでインタビューさせていただいたのもその頃ですね。
丸本
私、実は雨宮先生のコースを取らせていただいたことがあるんです。それで雨宮先生のインタビュー記事を読みながら、ああ、私は劣等生だったなと(笑)。雨宮先生は計量経済学ですよね。当時、スタンフォード大学から素晴らしい先生がいらっしゃるということで学内が興奮気味でした。私も授業を取らせていただきましたが、とっても難しく授業についていけるレベルではなかったのです。でも、雨宮先生はあの記事に書かれていたように、懇切丁寧に基礎から教えてくださいました。それで、ああ、こんなに出来なかった生徒の私が、ここで雨宮先生と同じようにインタビューを受けてもいいんだろうかと思っているのです(笑)
渡辺
いえいえ!トンご夫妻にご登場いただくのはスケジュール上、至難なのは承知しておりましたので、時間を割いてくださって本当に有難く思っております。 雨宮先生については、仰る通り本当に素晴らしい先生ですよね!「ノーベル賞に最も近いと言われていますけれど…」と伺ったら、「あー、興味ないですねえ。」とおっしゃって。「もちろん素晴らしい賞ですけれど、そのために4万枚のクリスマスカードを書く気持ちはないですよ。それより自分のやりたい研究をしたいし、もっと楽しいこともたくさんありますよ〜!」と。スケールが違うなぁ〜と思いました。
丸本
そんな大先生に習っていたのですから、今思い出しても冷や汗が出そうですね(笑)。それで、雨宮先生にはコースを取らせていただき、栗山尚一元駐米大使・昌子(ミミ)ご夫妻には、90年代にワシントンDCの大使邸にお招きいただいた懐かしい思い出があります。ICUのリユニオンでも呼んでいただいたことがあるんですよ。ご夫妻にはワシントンDCでICU同窓生との出会いの場を提供して頂き感謝しています。
齋藤
トンさんはICUとはどのような関わりがあるのですか?
トン
私は一応ICUで勉強しました。私の父は、当時ウィリアムズ大学体育学科の教授で、アメリカ大学制度で7年ごとのサバティカル休暇をとり、海外で教えることにしていました。私が高校を卒業したとき、「ICUで半年間教えることになったから一緒に来ないか」と、父に誘われました。それで、アメリカの大学入学を1年引延ばして、ICUで1年間勉強しました。ICUではずっと聴講生で、普通はone year regularだと思うんですけど、私の場合はone year irregularでしたね(笑)。
渡辺
なるほど!それは何年でしょうか?
トン
81年ですね。
渡辺
そのとき美加さんは?
丸本
私はまだ津田塾大学の学部生でした。その時はまだ出会っていなかったですね。出会いは、津田の4年生の時に参加した日米学生会議です。その当時、まだ男女雇用均等法もない時代でした。卒業したら、私はとにかく国際機関で働きたいと思っていたんです。そのため、修士号を取得しなければいけないのでもうICUに行くしかないと決めたんです。それで、日米学生会議2年目はICUから参加しましたが、日本側実行委員として翌年の会議を企画する時、彼もアメリカ側実行委員長としてかかわっていました。Eメールのない時代に電話でコミュニケーションしました。でも電話代は高いから、日本側の委員がかける時には、コレクトコールでかけてアメリカ側がかけなおす、ということをしていました(笑)。
齋藤
お話をうかがっていてすごくおもしろいのは、日米学生会議はほんの選択肢の1つでしょ。みんないろんなことをやるわけじゃないですか。なんでこの日米学生会議に興味を持ったんですか?
トン
私の場合は日本で1年間勉強して、そのあとは政治・経済学と、アメリカでは東洋学といって日本語と中国語を勉強しました。その時の恩師が日米学生会議のパンフレットを紹介してくれたのがきっかけです。
渡辺
ICUに1年在学なさったあとアメリカに戻られて、大学生だった時に日米学生会議に出会ったということですね?
トン
そうです。最初は大学2年と3年の間の夏に参加しました。
丸本
その時わたしは津田の4年でした。翌年は、私はICU大学院1年生で、彼は3年と4年の間に参加しました。
齋藤
それは美加さんが国際機関で働きたいから日米学生会議に入られたんですか?
丸本
私は津田塾にポスターが貼ってあったのをみたことがきっかけです。私は2年生の夏にイギリスに短期留学をしました。津田塾に入ったからには、4年間で絶対英語を喋れるようになるっていう1つの目標をたてていました。そのためにやっぱり留学したい、アメリカとイギリスだったら、まずイギリスだなという感じで留学しました。イギリスに行ってからBBC英語をまねしてみたり。それで帰ってきてからも海外留学思考があったので「日米学生会議、夏に1ヶ月」というポスターをみて、今度はアメリカに行ってみようと思いました。
渡辺
美加さんは津田塾を受験なさる時から将来は国際機関で働きたいと考えていらしたんですか?
丸本
そうですね。入学してからも2年生の時でしたが、津田塾大学国際関係博士第一期生でいらした植田隆子先生(現在ICU教授)の国際関係論の授業で大変啓発されました。国際機関で働きたいという夢をずっと抱いていましたが、それはもっと強くなりました。
渡辺
それは…いつ頃からの夢だったんでしょう?
丸本
ずっと遡ると、語学に対する憧れ、英語を喋っている人をかっこいいと思ったのは広島平和公園がきっかけなんです。私は鹿児島生まれの広島育ちですけど、幼稚園の頃に父親が平和公園によく連れて行ってくれました。公園には広い芝生があって、当時は地域の人がそこに座ってよく歓談していました。ある日、父にそこへ連れて行ってもらうと、長髪でジーンズを履いた日本人のお兄さんが外国人の友人らしき人たちと座って(おそらく)英語で喋ってるんです!あのインパクトは結構強くて!
トン
その話初めて聞いたなあ(笑)。英語を習いたいと思うのも当然のことだね〜。
丸本
初めて聞いた?!そうだったかしら(笑)。でも、私の父は日本人でインターナショナル派ではなく、非常にドメスティックな人でしたから、本当に語学や国際的なことに無縁な環境で育ったのですが、やはり広島だから外国人の方は多く訪問するではないですか。でもそういう人たちとどうやってコミュニケーションをとるのかなと幼心に思っていて、訳の分からない言葉を喋っているけれどみんな楽しそうに笑っているというイメージは結構インパクトがありました。それが憧れを抱いたきっかけですね。英語を勉強し始めたのは中学校に入ってからですが、幼い頃から憧れはずっと抱いていました。
齋藤
トンさんの場合はお父様がICUにこられるということで一緒にこられたということじゃないですか。美加さんの場合は、なぜ津田からICUだったのですか?
丸本
やはり、ICU出身者は国際機関で働いている人が多かったからです。国際機関で働きかったらICUが登竜門みたいな時代でした。
齋藤
確かに当時はICUで国際機関は多かったね!でも今はあんまりいないよね。
丸本
そうなんですか!でも当時はそうだったんですよ。それで、三鷹にICUというユートピアがあるらしいということでICU大学院行政学研究科に進学しました。
渡辺
なるほど〜。前回、ご登場いただいたハーバード大の竹内教授はお父様が非常に先駆的な考えをお持ちで、竹内先生をインターナショナルスクールに入れられたとうかがいました。当時のICUはなかなか漫然と選択する大学ではなかったようにこのインタビューを通して感じています。特に美加さんの場合は津田塾という難関にいらしてからの選択ですから、ご自身の憧れが強くていらしたんですね。
丸本
そうですね。憧れはものすごく強かったですね。昔勉強して使っていた英語のテープは未だに捨てられないでとっています。
渡辺
いつ頃のテープなんですか?
丸本
大昔のですよ(笑)。30年前ぐらいですかね。
渡辺
英語はイギリスに短期留学をなさって喋れるようになられたんですか?
丸本
どうでしょう、イギリスに行ってすぐきちんと喋れるようになったかはわからないですけど、ぽーんとヨーロッパ人だけの中に日本人として放り込まれて、自分はイギリスっぽい英語を喋っているつもりだったんですけど、イギリス人の先生が、Mika, just don’t speak the language spoken across the Atlantic Ocean.”と言われて(笑)。 だからアメリカ英語を話すとその英国人の先生にむっとした顔をされて発音を訂正されていましたね。でも喋らないと事が始まらないので、イギリスに行ってからは英語を喋る度胸はついたなと思います。
渡辺
美加さんは英語と中国語と韓国語に堪能でいらっしゃるんですよね。英語以外の言語を学び始めたのはどういうきっかけだったのですか?
丸本
英語は津田塾大学時代に必死で勉強して、ICUの時は1年休学してUCサンタ・バーバラ校に交換留学で行かせてもらい、そこで頑張れば1年半で学位が取れるということで、本科生に急遽変更し、英語で経済学を勉強しました。でも、中国語と韓国語に関しては憧れはありましたが、学生時代に勉強する時間と機会には恵まれなくて。それで彼の赴任先北京とソウルで大学(中国人民大学と延世大学)に通ってそれぞれ勉強して覚えました。
結局私はすごくラッキーな人で、“海外留学してみないか?”、“日米学生会議やらないか?”、“大使館インターンやらないか?”って声をかけてもらったんです。私は大使館のインターンをするまでは大使館のことなんてなにも知らなかったし、本当にラッキーだったんです。
渡辺
トンさんは、ICUの1年間の間に日本語を習得なさったのですか?
トン
そうですね、勉強し始めたのはその時です。それでアメリカの大学に戻って3年間勉強して、また日本に1年間留学することになりました。アメリカ・カナダ大学連合日本研究センター(Inter-University Center )に通って、当時私は大学生でしたが、主に大学院生を対象にした集中日本語研修を1年間受けました。
渡辺
最初に日本にいらしたのはお父様のお仕事でそれは偶然だと思うんですが、その後も日本語を勉強しようと思われたのはどうしてだったのでしょう?
トン
やっぱり日本で最初に勉強し始めてからおもしろいなと思ってずっと勉強し続けました。
丸本
お義父さんが日本へ行くから行ってみよう、ということだったと思うけど、日本に来る前まではお医者さんかファーマーになりたいと思っていたんでしょ?
トン
そうそう。私は田舎で育ってきたんですけど、私の家族はある意味で国際的な家族だったんです。なぜなら、私の祖父、祖母は宣教師でフィリピンにいたんです。30年代の話ですけれど。第2次世界大戦で、日本軍の捕虜収容所に3年間収容され、戦争が終わってからは台湾に勤務しました。だから、私の父はアメリカでふつうの体育の先生として、バスケット・ボールのコーチをしていましたけれど、前の世代は国際的でした。その影響もあって、父は7年ごとに海外で教えるということにしていたんです。フィリピン、エクアドル、中国でも教えたことがあります。
丸本
そうなんですよ。おじいさん、おばあさんがフィリピンにいる時に、お義父さんが生まれ11歳までそこで育ったので、お義父さんも国際的ではありますよね。
トン
私が大学を卒業してからも、私の父はICUとのつながりが強くなり、Japan ICU Foundationの委員をつとめました。昨年の12月で任期は終わったようです。父はちょっと変わってる人ですよ。
渡辺
お父様はどんな風に変わっていらっしゃるんですか?
トン
冒険するタイプですね。
渡辺
お父様がそういう方だとすると、お母様はどんな方なのでしょう?
丸本
エンジェルみたいな優しい方ですよ!
トン
エンジェル?(笑)。普通の人ですよ。ずっと高校の生物学の先生をしていました。父、母、あとは兄、姉も先生で、私の家族は全員先生です。私だけが違います。


ワシントンD.C.の国務省にて、父母 カーテイス & ジンクス・トン とともに。

渡辺
そうなんですね。でも先生ではなくて、高校まではお医者様かファーマーになりたいと思っていらっしゃったんですよね?
トン
そうですね、それで留学したからこそですけど、2回目に留学した時にたまたま当時の米国大使館首席公使に出会ったことがあり、その方から大使館でインターンをやらないかと誘っていただきました。結局私はすごくラッキーな人で、“海外留学してみないか?”、“日米学生会議やらないか?”、“大使館インターンやらないか?”って声をかけてもらったんです。私は大使館のインターンをするまでは大使館のことなんてなにも知らなかったし、本当にラッキーだったんです。
齋藤
でもその首席公使に出会ったのはどうしてだったのですか?
トン
日米学生会議です。
齋藤
ああ、そこでか〜!
丸本
その日米学生会議の中で、ディスカッションテーブルがあって、例えば、国際関係、国際政治などを勉強する仲間が集まっていると、フィールドトリップで大使館や国連を訪れるという企画でした。それで、ワシントンD.C.で私たちが1年目に出会った会議では、国務省でデセイ・アンダーソン氏に会いました。その後、アンダーソン氏は在日米国大使館首席公使になられました。それで私どもが現在住んでいる公邸は、彼が首席公使だった当時、初めて遊びに行かせていただいた家なんです!
渡辺
そうなんですか!インターンはここ日本にいらしていたということですか?
トン
そうです。
渡辺
ということは、トンさんにとっては本当に戻っていらしたという感じですね。
トン
これは3回目の勤務で、1回目はインターンです。
齋藤
となると日米学生会議様様なんだね!美加さんにも出会ったし、自分の将来を決めるきっかけにもなってるし。すごいな〜これはすごく意味のある活動だったのですね!
丸本
そうなんですよ。だからよく日米学生会議を卒業した人たちは”life changing experience”と言いますね。
齋藤
他にもその時の方でこうやって外交官になられた方っておられるんですか?
池田
いますね。山内弘志くんというメキシコの日本大使館でナンバー2をやっていますね。 (注:池田さんは今回のインタビューのきっかけを作ってくれた同窓会理事で朝日新聞国際本部の部長)
トン
米国側は少ないですね。同級生で国務省で働いている人はいましたけれど。その彼は現在、米国議会調査局勤務です。
丸本
彼の奥様もICUの方で、家族ぐるみのおつきあいです。丸山裕美さんという弁護士の方で、彼女とはよく会います。実は、つい最近彼女が日本に来るということでICUで待ち合わせたんです。たまたまうちの息子のサッカーの試合がICUに隣接するアメリカンスクールでありました。それで彼女もその日しか会えないということで、「じゃあICUで会わない?」となったんです。あの改築された素晴らしい食堂で!彼女はICU卒業以来、全く訪れていなかったので、とても感動していました。
トン
結局、毎年カップルは何組かできていましたね(笑)。
渡辺
変な話になるんですけれど、当時は遠距恋愛になるということですよね…?
トン
そうですね。付き合い始めたのは、私が東京にいて彼女がICUにいるときでした。
丸本
そうね、ICUがよくデートスポットになっていました(笑)。
トン
それでそのあと1年間はカリフォルニアとプリンストン、次の年は台湾と東京でした。
渡辺
同じアメリカでもカリフォルニアとプリンストンも離れていますよね。
丸本
そうですね。だからお互いにお金を貯めて春休みや夏に会っていましたね。
渡辺
その時はスカイプもない時代ですよね?
丸本
そうなんですよ。だから手紙を書いていたんですけど、届くのに1週間ぐらいかかるじゃないですか。それで返事もそのくらいかかっていたから本当にゆったりしたやりとりをしていました。そういう時代だったんです。
齋藤
トンさんはBCGで美加さんはマッキンゼーじゃないですか。トンさんはBCGにいつごろ行かれてたんですか?
トン
実はですね、マッキンゼーにも応募していたんですがダメでした(笑)。
齋藤
あ、そうだったんですか(冷汗)。
丸本
私がマッキンゼーはすごくおもしろいし、いろいろ勉強になるよって勧めたんです。それで結局その時はだめだったけれど、今回は2人そろってこのインタビューをしてくださってありがとうございます、とお伝えしようと思っていたんです!(笑)
齋藤
え〜!いや、それ僕初めて聞いたよ!そうですか、ぜんぜん覚えてないですよ〜。それ大変失礼しました(笑)
丸本
でもその結果、今こうなってますからね!
渡辺
大変ではあるけれども、充実した時間なんですね。
池田
だから齋藤さんも日米関係に貢献されたということになりますね!
渡辺
でもやっぱりマッキンゼーを受けられたということは、美加さんも東京にいらっしゃるし、美加さんからのお話で受けようかなという感じだったんですか?
トン
それもありますね。銀行にも応募を出してみたんですけど、やっぱりコンサルティング会社がいいかなと思いました。当時はコンサルが成長期でしたから。
丸本
そうよね。みんなが行きたいって思っていましたから。
トン
コンサルティング会社で働いていたことは非常に良かったと思います。結局BCGには2年弱いましたが、分析力を高めることができました。
渡辺
それで90年に国務省に入られていますが、インターンをなさっていた学生の頃、そのまま国務省に行こうとは思われなかったのですか?
トン
そうですね。それは試験があるんですよ。アメリカの外交官試験は、何回も受けることができます。それで私は、1回目は落ちて、2回目で受かりました。手続きもいろいろあって人物調査でも調べられますから、結構時間がかかりましたね。その手続きがすべて済んでからも、ポジションがあるかどうかが関係して、決まった人数しか採用しないので、結局90年に入省することができました。当時は、コンサルティング会社で仕事を続けるか、外交官になるかで迷っていましたが、大学時代は国際関係論などを勉強していましたから外交官になろうと決めました。
渡辺
これは、齋藤さんの前だからといって遠慮なさることはないんですが、その2つで迷われたときに、コンサルティング会社はおもしろいと思われましたか?
トン
おもしろいと思っていましたよ。それでお金もよかったので(笑)
丸本
当時は結婚しようと思って付き合っていたんですけど、齋藤さんに、「家族や親せきに競合他社で働いている人がいたら教えてね〜」と言われたとき、「ああこれは大変なことになった〜!」とものすごく悩んで(笑)。結婚するためにはやめなければならないかなと思うようにもなりましたね。彼は政府系かコンサルタントと言っていましたけれど、私が覚えているのは、学生の頃、学者になるか、ジャーナリストになるか、国務省に入るかという3つをぐるぐる考えていたと思います。それで、コンサルティング会社に入社したら、こんなに頭を使わされる仕事もあるのか、ということでlife changing experienceになりましたよね。
渡辺
最初に出会われたのが日米学生会議の1年目で、84年。ご結婚なさったのが…?
丸本
90年です。
渡辺
じゃあ遠距離も含めて6年間お付き合いなさってご結婚されたということですね。
齋藤
遠距離がなかったらもっと早く結婚していたということですか?
丸本
どうでしょうね〜。そうかもしれないですね。
渡辺
でも、実際はなかなか難しいことですよね。お互いにやりたいことを実現しながらずっと付き合って結婚に至るのは。それを実現なさったのは素敵ですね。
丸本
(やりたいことをすべて)実現したのかどうかわかりませんが。もう時効だから許していただきたいんですが、結婚するためにはマッキンゼーをやめなければならないのかなと思ってそうこうしているうちに、結局彼が国務省に入省しました。最初は、査証(ビザ)部門に配属されますが、どこの国に行かされるかわからないんです。それで、私は国際機関に行きたいという夢があったので、世界中の国際機関にコンタクトしました。そうしたらフィリピンにあるアジア開発銀行からオファーを頂きました。インタビューしますよって言ってくださって。それで「どうも私はフィリピンに決まりそうだから、絶対フィリピンを希望してください。」ってお願いしたの。で、彼は国務省の人事課に毎日通って、僕のフィアンセがフィリピンに行くから、フィリピン配属にしてくれって頼んでいたみたいです。
渡辺
それは異例なことなんですか?
トン
うーん、みんなそれぞれのことがあって頼んでるとは思います。
丸本
それでラッキーだったのは、彼が1週間(人事課に)通いつめたら「もう来なくていいから。」とおっしゃったらしいんです。それは、ちょうどそのころ現地でクーデターがあり、誰も行きたくないという事情がありました。「即答できないけれど、この意味合いを読み取ってください。」と。そして、彼の最初の勤務地はマニラになったんです。
渡辺
へえ〜。そういういきさつだったんですね。でもそこで遠距離ではなくご一緒にいられたというのは大きいですよね。
齋藤
あ、そうだったんだ。美加さんはマッキンゼーやめてからそんな生活をしていたんだ。あれは昨年あるいは2年前のマッキンゼーの同窓会かな?その時に、あれ?丸本美加ちゃんだ〜!久しぶりだね〜みたいに話しかけたんだったよね。
丸本
そうですね。一度90年代に日本に帰ってきているんですけど、その頃は、フルタイムで働き、子供が0、2、3歳ぐらいのときだったので、とてもとてもマッキンゼー同窓会に行く余裕もなくて、ソーシャルライフもゼロという時代でしたね。
私の哲学は、とにかく一生懸命にやって、自分にとっておもしろい仕事を選んでそれを一生懸命やり遂げていくということです。これをやったら昇進するだろうなということを考えるのではなくて、いろんな可能性の中で自分にとっておもしろいものをやるということですね。
齋藤
トンさんは外交官試験を受けて、外交官になられて、今は在日米国大使館の首席公使になられていますよね。日本の感覚からするとそういう高位のポジションには長く勤めていないとなれないと思うんですが、この早いうちに偉くなっちゃう秘訣みたいなのって何なんですか?これまでの経歴を見させてもらったら、いろんな重要なお仕事をされてきていますね。アメリカ社会だと、一つドンくさいことをすると、結構復帰するのが難しいというイメージを持っているんですよ。だから、そういうことをなしに、どんどん仕事をやり遂げて行ったというのは、きっと何か特別な考え方とか能力とかがあると思うんです。最近の若い人たちは、できれば早いうちにお金持ちになりたいという人が多いんですが、恐らく、確実にお金持ちになろうと思うと、自分自身の実力をつけていくということが成功法だと思うのです。とすると、トンさんの知恵から若い人はきっと秘訣のようなものを学びたいと思っているはずなんですが、それはなんだと思いますか?
トン
私の哲学は、とにかく一生懸命にやって、自分にとっておもしろい仕事を選んで、それを一生懸命にやり遂げていくということです。だから、これをやったら昇進するだろうなということを考えるのではなくて、いろんな可能性の中で自分にとっておもしろいものをやるということですね。結局私は、非常にチャレンジングな仕事をすることに恵まれました。例えば、日本で金融担当官として勤務していたときに、ちょうど金融危機がありました。それで大変注目される仕事ができました。中国で、環境・科学技術・保健の担当官をしているときには、SARS(重症急性呼吸器症候群)が発生したり。韓国で経済担当官のときには、FTA(自由貿易協定)の交渉をやりましょうということがあって。たまたま、チャレンジングな仕事を何回か与えられました。
丸本
国務省では、普通3〜4年おきに担当を変わらなければなりません。このプロセスがおもしろくて、希望国とポジションのリストを提出します。各国でのポジションの空き情報が出るんですけど、それに対して応募(ビディング)するんです。だから国務省入省後も、さらにジョブ・ハンティングをしなければいけないシステムです。自分を売り込まないといけないんですね。その3年ごとにやってくるプロセスが大変で、それが1年ぐらいかかります。語学がかかわってくる国だと2年前ぐらいから始まります。だから、それを決めるとき、じゃあ次はどこに行きたいか、と家族で話し合うんです。彼は自分の一番おもしろい仕事はどこかって選びます。でも、例えば、自分のランクより下のポジションでもヨーロッパの過ごしやすい国がいいとか、子供の教育を考えて安全な国を選ぶ人もいます。いろんな選択肢のなかで、彼にとっては「自分がやりたい仕事」ですよね。一応私にも「美加はどこ行きたい?」と聞きますけれど、自分にとってインパクトのある仕事ができるところがいいんじゃない、という感じですね。自分が楽しめて、自分のスキルを活かせるところを選んできたと思うんですよ。だから、まあ大体第一希望できてるんじゃないかな?上の方に引張ってもらったこともありますけれど。
トン
そうだね。大体第一希望だったね。
丸本
でもここからが大変よね。というのが、これまでは上の方に引っ張っていただいたり、推薦していただいたり。その過程で自分を売り込む時に、前一緒に仕事をして「こいつだったら一緒に仕事ができる」と思ってくださる大使がいらしてラッキーでした。そのプロセスが大変なので、それが苦手だったり、嫌だという人には、この仕事には向かないかもしれないですね。でも彼は、苦じゃないと思うんですよ。
齋藤
僕ね、今日お話を伺っていて、おもしろい仕事を選ばれるとおっしゃってましたけれど、確かにそうなんですが、おそらくすごく大変な仕事を選んでいるんじゃないかなと思うんですよ。難しい仕事が結果的におもしろくなるんじゃないかなと。普通はね、みんなしんどい仕事はできるだけ避けたいというのが人情なんですよ。だから敢えてしんどい道を選ぶ人っていうのは、みんなに大事にされるわけで、そこで良い仕事をやれば、どんどん上に上がっていくんですよね。トンさんはそういう方なんやなあと思いました。
トン
そういうタイプは良いかもしれないですね。
丸本
でもしんどいって思ってないんですよ、たぶん。これがおもしろいかなって選んでいるようで。わざわざしんどい仕事を選んでるって思ってる?
トン
でもある程度プレッシャーがないとおもしろくないんですよ。
丸本
私はプレッシャーに弱いんですよ。
渡辺
そこをお二人にぜひ伺いたかったのですが、さっきトンさんが僕はラッキーなんだということをさらっとおっしゃったように、どんな大変な仕事でもやりがいを感じて全うなさるのは凄いし、どうすれば見習えるんでしょう?
丸本
彼はワークホリックですね。もう長時間働きますね。彼は、ドイツ、フランスには一回行ったことがありますけれどそれ以外はヨーロッパに行ったことがないんです。アジアだけ。よく冗談でアジア化しちゃったのねって言っています。
トン
だから外交官の難しさというのが、仕事はとてもおもしろいんですが、家族が大変ですね。子供ももちろん大変ですけれど、奥さんが一番大変だと思います。この人は本当によくできる人で、3,4年ごとに移動しなければいけないということで、新しい仕事を見つけるのが結構大変なんですよね。すごく建設的にそういう機会を得ていますね。フィリピンにいた時は、彼女が先に決めていたんですけど、その次はワシントンで国際金融公社、東京でも国際金融公社で働いて、中国では国連機関です。
丸本
その時に中国語も勉強して楽しかったですね。
トン
一番大変だったのが、韓国にいたときだよね。でもこの人の場合は、「仕事がみつからない」と悩むだけじゃなくて、「じゃあ私は延世大学にいく!」といって博士号をとってました。
丸本
というのがね、初めての赴任地フィリピンでの初めてミセス会に行った時、あまり良い印象を受けませんでした。「私はここで3年間無駄にしてしまった。」「早く、帰りたい。」 と公然とおっしゃる方もいらっしゃいました。確かに本当に大変なんですが、そう思いながら赴任地でずっと過ごすのは残念なことです。日本の外務省や国務省の方も同じですけれど、大学時代に付き合っていた同レベルの学歴のパートナーと結婚するとなると、ついて行く方は3年ごとの移動でキャリアにならないんですよ。だからそれでわりきって2人で一緒にできることをやっていくというカップルもいますし、一方で、例えば「私はやっぱり医者になりたかった」と結局離婚される方もいらっしゃいます。もしくは奥さんのために外交官をやめるという方もいますね。
トン
それで若い人たちはいつも美加にアドバイスをもらいに来てますね。私たちのラッキーなことは、子供たちはみんな健康に恵まれ、国際的な環境に慣れるタイプの子どもたちでした。
丸本
でも子どもたちに「お父さんと同じ道を歩む?」と聞くと、ノーといいますね。そんな3年ごとに移動するなんて大変だと。転校の問題が大きいです。「もう転校したくない!」と言っていたのが、新しい国で友達もできてここもいいかなと思えるようになった途端にまたすぐ転校というのが大変だったと思います。
齋藤
確かにそれは大変だね。僕ね、マッキンゼーの時にシニアパートナーの人に、「奥さんがよくないとマッキンゼーでは偉くなれないよ。」と言われたんです。
渡辺
「よくないと」っていうのはすごく曖昧な言葉ですけど、どういう意味ですか?
齋藤
奥さんがちゃんと旦那を支えないとまず無理だろう、と。長時間働いていて、奥さんがそんな仕事やめてといってしまうと、それこそそこで折れてしまうんですよ。それを支えながらやっていくとうまくいくといっていましたね。
丸本
いろんな方がいらっしゃるから、そういうサポートを「ただの奥さんでしょ。」と軽視する人もいれば、「いろんなことをやりながら頑張っているのね」といってくださる方もいて。非常にグレーな立場ですね。
渡辺
さっきトンさんがこれからが大変になるとおっしゃっていましたが、若くしてアジアでこれだけの仕事をなさっていて、これからの方がもっと重要なポストを任されると思うんですが…。
トン
そうですね。これから難しいのが、プロセスが複雑になってくるということですね。
丸本
まあでも、どこへどんなふうに転んでもそれがベストだと二人で思うようにしようね、とは言っています。
齋藤
ああ、それはすごく良いね。
丸本
私はもう充分楽しませて頂きましたから(笑)。あと、子供もみんな巣立つので今年はちょっと過渡期というか重要な年ですね。私もずっと海外にいたので、これからは日本でなにかしたいなと思っています。家族それぞれが勝手なことを考えていますから、集まれるときに集まってという感じでもいいかなと思っています。
渡辺
今、美加さんがおっしゃったように、秘訣はそれぞれがどんなところでなにをしていてもつながっている!ということなのかなと思いました。
齋藤
僕ね、トンさんたちは、絵に描いたような家族ですごく良い家族だなと思いました。
渡辺
ちなみに3人のお子さんはおうちでしゃべるときに、どの言葉を使っているんですか?
丸本
長女とは日本語で話しますね。下の2人は日本語を勉強していて理解できるけれど英語で話してきますね。同じ親から産まれたとはいえ、長女がいい所どりをしています。というのが、6歳までは日本にいたので、小学校は1学期だけでしたが、ひらがな・カタカナを習い、次は中国に行って毎日小学校で中国語を使い、中学生から韓国ソウルで、高校の時はアメリカで日本語のある高校を選び、本当にいい所どりできたようです。耳が良いでしょうね。バークレーではアラビア語とトルコ語を勉強中です。語学はそんなに苦じゃないんだと思います。次女と長男は赤ちゃんの時に日本を出ているので、日本語もまだそれほど得意ではありません。中国では、夏に日本人学校に通わせていたんですが、そのときは「もう日本人学校に行きたくない!」と言われました。「18,19歳になった時に、『ママ、どうして日本語を学ぶように言わなかったの!』って言う日がくることはわかってるんだからね。」と説得しようとしましたけれど、3人とも口をそろえて「絶対に言いません!」と(笑)。どうしてそんなに行きたくないの?ときいたら、友達は夏休みが2ヶ月もあるのにどうして私たちの休みはたったの1ヶ月しかないんだと(笑)。あとは、文化的にも違うところがあったみたいで。それでしょうがなく、じゃあ自然にしたほうがいいかなということになったんです。でもそのかわり条件をつけて、「夜ごはんを食べるときは必ず日本語で会話する」ということを決めました。ところが、会話がなくなっちゃったんです(笑)。私一人がしゃべることになって。なんでしゃべらないの?と聞いたら、だってそれなんて日本語で言っていいかわからないと。それでもうお手上げで。そのあと数年間は子供たちは日本語の勉強はやめていたんですが、結局それぞれまた勉強し始めましたね。
渡辺
やっぱりいろいろ乗り越える壁があるんですね。
丸本
やっぱりコツはね、楽しいって思うことですね。好きだって思ったら苦にならないし、少ししんどくてもがんばれるから。
渡辺
大学時代からお付き合いなさっているお二人ですが、美加さんからご覧になってトンさんはどんな方ですか?
丸本
いつもニコニコと淡々としている人ですね(笑)。プレッシャーに強いというか。私はプレッシャーに弱いんですが、彼はずっと同じテンションなんです。冷静沈着。外交官として必要な資質なんだと思います。本人は先ほど言いませんでしたが、2009年に米国人女性ジャーナリスト二人が北朝鮮に拘束されましたよね。自宅でその連絡を受けたその日から彼女たちが開放された5ヶ月後の8月5日まで、ちょうどその日は息子の誕生日だったのでよく覚えていますが、舞台裏で北朝鮮と粘り強く交渉しました。彼はその当時、国務省コリア・デスク部長でしたから、ご家族、ホワイトハウス、国務省関係者、スウェーデン大使等と連携をとりながら、クリントン元大統領による見事な救出劇にこぎつけました。嬉しいことも、大変なことも、つらいこともずっとモノトーンで対応するんですよ。喧嘩もそんなにないですね。
渡辺
トンさんからご覧になってて美加さんはどんな方ですか?
トン
すばらしい女性です。美加は感情的な側面もありますけど、それもおもしろいんです。
丸本
そう!私が怒るじゃないですか、それを受け止めてほしいと思うんですが、よく笑ってるんですよね。「君はおもしろいね」なんて言ったりして。だからこっちが怒っていてもその的が外れるというか、「あれ?」ってなるんですよ。だからそれ以上続かないんです、いつも。
渡辺
なるほど〜。それほどトンさんは客観的でいらっしゃるってことですよね?その場を観察しているというか。
齋藤
でも美加さん、今は感情的といってましたけど、マッキンゼーのころはかなり冷静でしたよ。全然表情を出さないというか。
丸本
そうですか?!でもそれは若いころだったからですよ。今も斎藤さんの言葉覚えてますよ。「君らね、20%のことしか知らなくてもクライアントの前では100%知ってるふりをするんだぞ。できることは確実にきちっとやることが大事や」って。でもそれはそうだなと思いましたよ。偉いクライアントの前に行かなきゃって時に、自信に満ちたコンサルタントにみえるようにしなきゃと。だからそこから自信を持つことって大事だなと学びましたね。
渡辺
なるほど。でも実際に選挙に立候補して選挙運動をなさるのは大変でしたか?お父様という力強い存在があるにしても、自分の主張を聞いてない人にも聞いてもらわなきゃいけないわけですものね?
トン
確かにこの人は家の中では感情的にいろんな面がありますけど、仕事の時は自分をコントロールしてますね。
渡辺
最後に、ICUの学生たちやこれからICUを目指そうと思っている学生のみなさんに、お二人からメッセージをお願いします。
トン
自分にとって1番楽しいこと、面白いこと、やりたいなと思うことをすることです。そしてそれがわからない時には、忍耐力を持っていろんなことにトライすることです。失敗してもいいからとにかくトライすることが大事です。それを繰り返していると自分にとってふさわしい道がみえてくると思います。
渡辺
トンさんがICUにいらしてここが良かったとか、もっとこうだったらいいなと思われたことはありますか?
トン
私はそんなにクリティカルにみてなくて、すべてが楽しかったですね。あと、サッカーグラウンドが芝生化されたのは非常に良かったと思います(笑)。サッカーをやっていましたから。
渡辺
美加さんもお願いします。
丸本
PMAという言葉があるんですけど、”positive mental attitude”という意味で、ポジティブにしているとどんなにどん底にいてもなんとか道が開けていくんじゃないかなと思います。だから自分はもうだめかなとかという時でも、自分だけが輝けるものがあると信じることが大事かなと。自信を持ってPMAでつき進むことですね。セカンドベストと思えることでもやっていればそれが結局ベストだったんじゃないかなと思えることですね。
渡辺
あと、美加さんはICUのどんなところがいいなと思われますか?
丸本
ICUはずっと憧れていて入ったところなのでもう大好きでしたね。そこでの経験、友達、先生方との出会いは最高でしたね。
トン
ICUのいいところはオープンな人が多いことですね。アメリカの大学に戻ってから思ったんですけど、ICUは言葉の違いがあっても付き合いやすい人が多かったなと思います。頑張っててもお互いに助けあっているという環境があったと思います。広くて自然豊かな環境だからこそそういう精神になるのかもしれないですね。
渡辺
最後にもうひとつだけ!あの壁にかけてある”Diplomacy is a team sport.”というのはどういう意味なんですか?
トン
よくここでチームミーティングをするんですけど、これが一人のためではなくてみんなのために仕事をするという精神が分かち合えるかなと思ってそこにかけています。外交というのは、個人では本当にできません。協力しあってやらないとできないことです。だからこの精神を大事にしています。


プロフィール

カート・トン、丸本 美加(まるもと みか)
カート・トン

2011年12月から在日米国大使館首席公使。首席公使就任前はアジア太平洋経済協力(APEC)担当大使として米国のAPECへの参加全般を統括するとともに、国務省東アジア太平洋局の経済調整官を兼務し、同局の経済政策課題への取り組みを主導した。プリンストン大学ウッドロー・ウィルソン・スクール(公共・国際政策学部)で学士号を取得後、国務省付属の外務研修所で大学院レベルの経済学を学んだ。他に北京教育学院、台北のアメリカ・カナダ大学連合中国研究プログラム、東京のアメリカ・カナダ大学連合日本研究センターと国際基督教大学で学んだ。


丸本美加(まるもと・みか)

1985年、津田塾大学国際関係学科卒業。1987年、カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校経済修士取得。1988年、国際基督教大学大学院行政学研究科卒業。ICU卒業後、マッキンゼー&カンパニーに勤務。1990年、カート・トン氏との結婚を機に、フィリピン、ワシントンDC、東京、北京、ソウルへ赴任。その間、アジア開発銀行、国際金融公社、国連開発計画、国連人口基金でコンサルタントとしてプロジェクト評価にあたる。2004年、ソウルで延世大学国際大学院に入学し、米国ハーバード燕京研究所を経て、2007年、延世大学国際学博士号取得。現在、語学教育・リサーチに従事。