INTERVIEWS

第33回 下館 和巳

東北学院大学教授, シェイクスピア・カンパニー主宰 

プロフィール

下館 和巳(しもだて かずみ)
1955年生まれ。東北学院大学教養学部教授、シェイクスピア・カンパニー主宰。専門は演劇・英文学。ICUで演劇の魅力に目覚める。英国留学を経て、語学科を卒業後、比較文化研究科大学院で学ぶ。29歳の時に博士課程を中退して東北学院大学教養学部へ奉職。

 

齋藤
東北で同窓会の集まりを開いたとき以来ですね〜!今日はインタビューをお引き受け頂いてありがとうございます。この間の同窓会総会でのDAY表彰式では非常にいいスピーチをして頂いて、話し方も動作も「役者風」な雰囲気が一貫しておられましたね。
下館
ふ〜ん(笑)。そうでしたか。
渡辺
舞台をなさってますものね。
東北版『マクベス』を持ってエジンバラへ行きましたが、その時はニュースステーションでは渡辺さんにお世話になりました。8年前に他界した妻は写真家で、娘の名前は四元素から。
下館
実は以前、ニュースステーションで取材をしていただいたことがあるんです。東北版の『マクベス』をもってエジンバラ芸能祭に参加した時ですが、スタッフの方には丸一週間ずっと同行していただいて大変お世話になりました。確か9分間のドキュメンタリーで『東北弁でシェイクスピア?!』というタイトルだったと記憶していますが、久米さんが冒頭で「エジンバラ」を東北訛でおっしゃったので、最後はどんなコメントをいただくのかハラハラしていたのですが、時間切れでコメントができなくなって、内心ホッとしました(笑)。
渡辺
番組では時間が押してしまうこともあるので、申し訳ございませんでした。そして、その節は大変お世話になりました。
齋藤
ところで娘さんでしたよね。何人おられましたっけ?
下館
3人娘。それも上は中学3年生、真ん中は小学6年生、下は小学3年生と、みんなまるで孫みたいにちっちゃいんです。8年前に、妻を亡くしてから、ずっと一人で、たくさんの人に支えられながらの4人暮らしです。
齋藤
そりゃ、大変だ。
下館
長女なんか、難しい年齢ですからね、ほんとうはパパの顔なんか見たくもない(笑)。でも親は一人しかいませんから、私とはコミニュケーションをとらざるをえないんですね。女の子というのは賑やかで楽しいけど、うるさい(笑)。私が出掛ける時の服装にもそれぞれの視点からコメントしてくるんですから。妻(中村ハルコ)は写真家で膨大な未発表の写真を残していったものですから、5年ほど前に『光の音』(フォルマ−レ・ラ・ルーチェ出版)という写真集を出したのですが、そのことで取材されることが多くなったんですね。すると娘達は「ママがいないのがばれちゃうじゃない」と言って嫌がりましたね。同情されるのが嫌なんでしょうね。あっそう、娘の名前は四元素つまり自然を意識してつけたんですよ。長女のうみが海のwater,次女のそうらが太陽でfire,三女のはなが花でearth。今や、妻が大気となってairで、女4元素の完成ですね。
宮城県の港町塩竃で海産物屋の次男として生まれたが、父は「ホヤの塩辛」を日本で最初に創った人。震災後に変わった学生達の表情。
齋藤
下館さんは「ICUリユニオン@東北」でスピーチをなさっていたんですが、本当に喋り方が役者風なんですよ。僕、彼のこういう役者風なとこ好きなんですよ〜。
下館
下館さんは「ICUリユニオン@東北」でスピーチをなさっていたんですが、本当に喋り方が役者風なんですよ。僕、彼のこういう役者風なとこ好きなんですよ〜。
齋藤
なるほど。ところで下館さんの出身はどこなんでしたっけ?
下館
私は塩竈出身です。塩竈は三陸津波でもチリ津波でも被害を受けている地域なんです。父は海産物屋を営んでいて、兄が現在二代目として商売を継いでいます。父はサラリーマンをしていたんですけれど、三陸の「ほやが毎日食べたい」と言う素朴な理由で脱サラをして自分で塩辛を作り始めたんです。日本で最初のホヤの塩辛の誕生ですね。国道45号線というのは、青森県の八戸と宮城県の仙台市を結ぶ道路なんですが、昔、父の車に乗って国道を走っていると「これをまっすぐ行くと八戸なんだ」とよく呟いていました。八戸は父の故郷だったので遠くてもこの道一本でつながってるって、なにかうれしかったんでしょうね。  塩竈はさいわいにも島々に守られて津波では甚大な被害を受けませんでした。でも、宮城、福島、岩手出身者が8割を越す東北学院大学ではおよそ1000名の学生が被災しています。被災する前の学生達は、比較的おっとりしていましたが、あの日以降、なにか学生達が変わりましたね。表情に緊張感というか厳しさがあります。憂いもあるかな・・・。皆多かれ少なかれとんでもない経験をしてしまったわけですからね。
東北訛をかかえてICUに来たことで培われた独特の語り口。TIAFの英語劇で賞を総ナメにして、英国留学。
齋藤
ICU時代の話をお聞かせください。
下館
私も齋藤さんと一緒でコミュニケーション学科にいました。英国留学から戻ると、英文科に転科しようかと思ったのですが、「せっかくここまで語学科で勉強してきたのだから語学科で卒業したらいいよ」と大西先生から助言を得て、コンドン先生の指導のもとで、インター・ディヴィジョナルなシェイクスピアの卒業論文を書きました。今読むと幼稚過ぎて、すご〜く恥ずかしい(笑)んですけれど、一生懸命自分の頭で考えていたことだけは確かですね。ただ、ほんとうに何をやりたいのか?自分でもよくわからなかった(笑)ようですね。タイトルは英文で”Stage Directions of Romeo and Juliet”ですから、今の仕事にまっすぐ繋がっているとは言えますけどね。私は、好きだ!と思うとアルゼンチンであろうがグリーンランドであろうが飛んでいって、それも何十年も続けますね。馬鹿の一つ覚え、というやつですね。
齋藤
下館さんの喋り方はほんまに特徴的ですね〜!昔からこんな感じやったっけ?
下館
ん〜別にICUのせいにするわけじゃないんですけれど(笑)、ICUには東京出身者が多いでしょ。それも帰国子女という東北出身の私にとってはなんだかよくわからない存在、そして外国人。要するに東北弁を体に宿した若者、それもそもそも根に芝居がかったところのある(笑)、かっこつけたがりの若者が、そういう環境で東北弁を喋った時に周りから受ける反応に対して生まれた喋り方と言えなくはないでしょうね。つまり、笑われて臆することで、「じゃあもうこれで黙っていようか、このまま喋り続けようか?」とまさにハムレット的な迷いに入って、結局「喋り続けること」を選んだと同時に、ともかくこっちを向いてもらわないと(笑)、という必死の気持ちから、こういう日常なのに非日常的な喋り方になったような気がしますね。だって、東京から帰郷する度に、兄から「お前はどうしてそんなにわざとらしい話し方するんだろうな?」ってそう言えば言われてたことを、今(笑)思いだしましたから。東北弁を喋るICU生がみんな私のように喋るわけではないわけで、演劇という要素がそれに加わって拍車がかかり、劇団を主宰するようになっていよいよ年季が入ってきたんでしょうね(笑)。自分でもこういう自己分析初めて試みましたね。なんだか、切なくなってきました(笑)。大学一年で入った演劇部では、訛りが強いという理由で標準語コーチをつけられたこともあるんですよ。傷つきましたね〜。なので、「演劇なんか辞めちゃおう」と一大決心したつもりだったんですが、結局は日本語から英語に移った(笑)だけでした。でも,あたりまえのことなんですが、英語でも音が大切だと言うことに気づかされるんですね。それで最後の懸けだ、と思って英語で脚本を書いてみたんです。それが、オスカー・ワイルドの小説”The Picture of Dorian Gray”をもとにした脚本だったんですが、ロイ・モレルという英文学の先生に、原稿が真っ赤になるくらい英文を直されましたね。なにせ、ワイルドの優雅な英文をずたずたにしたわけすから。こういう無謀なことは少しでも知恵のある人間にはできませんね、こう言っちゃなんですが、馬鹿じゃないとできませんね(笑)。
齋藤
いや〜(笑)。おもろいわ。ところで、演劇にはいつ興味をもたれたん?
下館
一番最初に演劇に興味を持ったのは小学校5年生くらいの時だと思います。『白雪姫』のコビト1(笑)の役。初恋の人が白雪姫でライバルが王子様でしたから、悔しかったな〜。父の影響で洋画が好きだったこともあって、英語が好きになって高校時代はESSに入っていたんです。その頃、兄に感化されてシャーロック・ホームズを読み始めたかな?それからなぜかいつの間にか外交官に憧れるようになった。ですから、大学の最初の数年間は緒方貞子先生の授業もよくとっていました。演劇にのめり込むきっかけは、TIAF(東大・ICU・青山学院大・東京外大の英語劇コンテスト)で優勝したことかな〜。10年近い東大優勝独占を破って、賞を総なめにした舞台の脚本・演出をしたんですから。これ、私の人生の数少ない自慢のひとつ(笑)。
齋藤
その後は大学では何をしたん?
下館
模索していたんでしょうね〜。ホームズ、外交官、演劇・・・でも、英国だ!って ともかく英国だ!って思っていたことは確かで、英国に行かないと自分は始まらないんじゃないかって思いだして英国へ。
渡辺
交換留学でいらしたのですか?
下館
文化放送のスカラシップでした。選んだ大学はエクセター大学。理由は単純で、シャーロック・ホームズの名作『バスカヴィル家の犬』の舞台となったダートムーアに一番近い大学だったからです。しかし、面接の前に先輩から「ホームズを留学の動機として強調しない方がいいよ。むしろシェイクスピアだよ」と助言を受けてはいたんですが、実はシェイクスピアのことはほとんど何にも知らなかったわけで、お喋りな私も言葉少なく(笑)、「シェイクスピアの舞台研究をしたい」ことを述べたわけなんですが、面接官の方が「エクセターには有名なウィルソン・ナイトがいますね。彼は、演出家でもある稀なシェイクスピア学者だからぴったりです。君はよく勉強していますね。」と言われちゃったんです(笑)。私の力というよりは面接官の思い込みで通ちゃった。きょとん合格、という感じでしたね。結局私は11年間ICUに在籍したのですが、留学したときは一旦大学を休学しました。
イギリスでの留学時代。独特なカルチャーをもつ寮でルームシェアをする。女学生とのハプニングを経験し、英語に目覚める。
下館
エクセター大学ではホープホールという寮にいましたが、その中のレイゼンビイという離れの屋敷の寮でした。それも予期していなかった3人部屋。そうですね、思えば全くハリーポッターみたいな世界でしたね。男女混成寮でしたが、なにげなく3つの美女派閥があって、寮生はおおむねどれか一つの派閥に属していましたね。まあもちろん無所属という派閥もありましたけれどね。一つはサリー州の令嬢のクレアの派閥。もう一つは香港大使令嬢ビクトリアの派閥。そして三つ目がディアンというパリジャンの派閥。ディアンはノン・イングリッシュの仲間が欲しかったのでしょう、唯一の東洋人で留学生だった私をスカウトして彼女のテーブルに加えたわけです。彼女の周りにはハンサムなイングリッシュ・ボーイが群がっていましたね。しかしある日事件が起きます。クレアからティーに招かれたんです。それもたったひとり彼女の部屋に。男子の間ではちょっとした騒ぎになって、私が彼女の部屋に入る時には人だかりができたくらいでした。私はプレゼントをかかえ緊張して扉の中に入る。前人未踏の女の園。美しい部屋です。ベイウインドウの傍のテーブルに着く。紅茶にミルクを入れるか、シュガーを入れるか問われる、ビスケットを出される。ふたり向き合う。ディアンにはパリジャンらしい華やかさがあるけれど、クレアには知的な凛々しさがある。前歯が少し重なっている。「かずみ、日本の英語教育について教えてくださらない?」私は、口頭試問でも受けているような気持ちになって、こう答えます。「中学から高校までの6年間、場合によっては更に大学で4年間・・・でもなかなか話す英語はうまくなりません。私が通っていた中学校では早くからラボ教育を・・・」とそこまできた時に、クレアは美しい眉に当惑を見せて「ごめんなさい、ラボ?それはなに?」と。私は、頭で正確なスペリングと発音を一瞬模索してから「lavatoryです。’English Lavatory’(英国式トイレ)」と自信をもって答える。この直後に、クレアは顔を真っ赤にして転がるように笑い出し「laboratoryでしょう」と。ここまででたったの5分。私は逃げるように彼女の部屋を去って、群がる男子学生に呆然と見送られながら、自分の部屋にかけ戻りました。 その日から、私は登校拒否児となって、寮のベッドに毛布をかぶって寝たきりになりました。こんこんと眠って、心は遠い故郷日本は塩竃の母のいつも座っている茶の間に帰っていました。そしていっそのこともう帰ろうと思っていました。その間ダイニング・ホールにも講義にも行こうとしない私を心配して、ふたりのルームメートのニコラスとマーチンが交代で、ブレックファースト、ランチ、サパーを何も言わずに運んでベッドの傍に置いてくれたんです。丸3日が過ぎて、寮の公衆電話にチュートリアルのベアード教授から電話が入りました。私は仕方なく起き上がって受話器を取る。「どうしましたか?私は日本に帰ってしまったかと思いましたよ」「はい、実は心だけ帰っていました」「もう、戻ってきたのですね」「はい、ついさっき」とお話しすると、「ほんとうに、かずみ?みちがえるような英語ですよ」と、これまで言われたことのないような褒め方をされたんです。一体何が変わったのか今でもわからない。全部、気のせいだったのかもしれません。 でも私は、相部屋のふたりを通して、英国人の無言のやさしさを見たような気がして、ほんとうにうれしかったですね。英国が大好きになった。そして、あの日から私は、水を得た魚のように泳ぎ始めました。原文でシェイクスピアを読んだことがありませんでしたから、シェイクスピアはさっぱりわかりませんでしたが、エクセターの、ロンドンの、オックスフォードの、ストラトフォードの、ブリストルの劇場に通いました。そして、ともかく舞台のシェイクスピアを見ましたね。俳優から降り注がれるブリテッシュをスコールのように浴びましたね。  そう、ウィルソン・ナイト教授!私が着いた年に引退されて(笑)、私がシェイクスピアを習ったのは、彼の高弟ソルター先生で、それはそれはすばらしい先生でしたから、やっぱりシャーロック・ホームズやっていてよかった(笑)ですね。
ICU卒業後は大学院に進学して、更に博士課程にすすむも東北学院大学に招かれる。
齋藤
ICUに11年って、ご苦労さんって感じやけど、どうしてそうなるんかな?
下館
18歳から21歳までの3年間が、ICUでのフレッシュマン、ソフォモアから英国留学時代です。帰国して、私の中にはっきりと芽生えていたものがありました。シェイクスピア演劇への興味です。英国留学中は、冗談みたいな本当の話ですが、シェイクスピアの原文を読んだ記憶がない(笑)。英文科ではありませんでしたから、訓練を受けていない。現代初期英語ですから難しいんですよ。それでも、エッセイは書かなければならなかったわけで、私の場合舞台こそが原文で、まさにページからじゃなくてステージからシェイクスピアを聞いて、エッセイを書いた。しかしでも、帰国してからもう舞台が見られないわけです、そこで初めてシェイクスピアが恋しくなって、その匂いを嗅ぐなら原文しかないと覚悟するわけです。ICUのヒューマニティーズは、基本的に古典・原文主義でしたからね。齊藤和明先生から徹底的に英文を読む修行をさせられましたね。テキストはシェイクスピアの『ハムレット』ミルトンの『パラダイス・ロスト』、コルリッジの『ジ・エンシェント・マリナー』、キーツの『オウドゥ・トゥ・ジ・オータム』などでしたが、ともかくOEDをひいてのぞまないと相手にされませんので準備が大変。準備しても大変(笑)。読みがすべての真剣勝負で苦行でしたけれど、その先にほんとうにおいしいなにかが、真実のようなものが待っていることがわかった極上の時間でしたね。大げさな言い方をすれば、「見えたぞ、シェイクスピア!」みたいな。マシューズ先生からは、論文の書き方とシェイクスピアの言葉のとらえ方のようなものを丁寧に教えられました。比較文化学科での修士論文のテーマが『ウィリアム・シェイクスピアと近松門左衛門ーオセロウと心中天網島』という迂遠なものでしたから、普通2年で書き上げるところを5年かかってますね(笑)。オセロに2年、心中天網島に2年、その合体に1年かかりました、というのが修士論文口頭試問で私の言い訳でした(笑)。 その間、よく働いてもいましたね。FEPの助手、人文学科の国文学者峯村文人先生の助手、家庭教師、塾・予備校講師、翻訳、通訳。とくに通訳の仕事は日中会社で、夜は新橋で(笑)というパターンが多くて、大学ではお目にかかれない方々とお会いして、ものすごい社会勉強になりました。近松とシェイクスピア研究しながら、芸者さんの通訳ですから、バランスとしては悪くありませんね(笑)。 ICUのキャンパスのぜいたくさに育まれているもののひとつに、唯一無比性というか独自性のようなもを挙げていいと思いますね。人は多かれ少なかれ比較されて生きていますね。優秀さ美しさや・・・様々な事で。ICUの学生は別格の印象を少なくとも東京の人たちに与えているように思うんですね(東京と限定したのは、たとえば東北では牧師さんの学校と思い込まれてしまうほど、ICUの名が知られていないからなんですが)、番外に置かれている感覚は、浮世離れした感覚を与えてもいるんですが、悠々とした気持ちも生むんです。注目されていないわけではないし、無視されているわけでもないし、馬鹿にされているわけでもなく・・・(笑)。期待され過ぎるとストレスになりますからね(笑)。大学の中でも、比較されるという嫌な感じがありませんでしたね(単に私が鈍いだけだったのかもしれませんけれど)、ですから、のびのびと天真爛漫にあまり気負わずに学問できましたね。ほんとに、ICUで学べたことは幸福でした。
齋藤
現在は東北学院大学で教えてらっしゃいますけど、東北学院には知り合いの方がおられたんですか?
下館
私は、そもそも東北学院高校の出身なのですが、5年間の修士課程時代に、将来の職業のことがさすがに不安に感じられて、教員免許を取るための教育実習校として、東北学院高校を選んだわけです。高校に通うある朝、横断歩道で信号待ちをしていた時に、私が高校2年の時に英文法を習っていた遠藤健一先生にお会いするわけです。遠藤先生は、当時大学院生でいらして英語の非常勤講師だったわけですが、私がICUの大学院生だったその時は、東北学院大学英文科の助教授でいらしたのです。 そこでの全く偶然の再会がきっかけで、新設される教養学部の教員としてよんでいただくことになったのが、博士課程2年生の時でした。私には、論文一本しかなくて、就職できるぎりぎりのラインだったと思いますが、既に英文科にいらしたICU出身の先輩方が大変活躍していらっしゃって、私自身の力というよりはその先輩方の七光りで(笑)下館君も大丈夫じゃなかって、思っていただいた可能性が高いですね。
ダンテ神曲読書会を始めて、後にシェイクスピアカンパニーを設立。ダンテから「物事の本質を理解する正道は創ること」「標準語ではなくて方言−自分たちの言葉で」を学んでシェイクスピア・カンパニーを設立 。「日本のシェイクスピア演劇の歴史を塗り替える」ことを主張して潤沢な助成金を獲得、それを出発点としてこれまで数々の公演を成功させてきている。
齋藤
シェイクスピア・カンパニーはいつ立ち上げたんですか?
下館
1992年です。でもその前にダンテ神曲読書会を始めたことが、このシェイクスピア・カンパニー設立のきっかけになっているんです。 なぜかと言いますとね、ひとつは単純に大学の先生がひとりキャンパスの外に飛び出して一体なにができるか?という自問がありましたね。その頃、学者の道を歩き始めて6年。大学で論文を書いて昇格すると言うシステムの中に身を置いて、何となく「自分はこんな風な生き方を望んでいたんだろうか?」みたいなことを考えるようになっていたんです。シェイクスピアで小さな論文を書く、誰も読まない(笑)がしかし、その研究が学問の歴史の中で小さいけれどもなにかの意味を持つ、という信念を持っていればいいのでしょうけれど、自分の父がつくっている「ほやの塩辛」にくらべれば、ちっぽけなもんだと思うようになっていて、自分の力を試したくなったんですね、単位を取るためでない人たちに自分の話す言葉が伝わるのか?ってね。いよいよ始めたその日の市民会館の前には、「ダンテ『神曲』を毎月一曲づつ10年かけて読む」と報じてくれた地元の河北新報の記事を片手になんと40人もの人たちが列をつくってならんでいるんですから、怖ろしかったです(笑)ね〜。しかし、ICUで教えられたことの一つ「知ったかぶりをするな。わからなければ、わからないといい。質問し、勉強しろ」を胸に、「門外漢なので、皆さんから教えられながら読んでいきます」と初日に宣言。全くその通り(笑)になりましたね。私が頼りないと思うと、みなさんが説明してくれるんですよ。たまたまカトリック、プロテスタント、アングリカンというばらばらの宗派の人が集まって論争になって、私はただぼーっとして聞いているなんていうこともありましたね。この読書会は、16年かけて『神曲』全100曲を読了しました。
渡辺
ダンテは、どちらで学ばれたんですか?
下館
ICUの講義科目の中にダンテはありませんでしたが、英文科の齊藤和明先生がICU教会の一室で主に教会員を対象として『神曲』読書会を開かれていて、私は斎藤先生のお話は何でも聞きたいという一心でその会に通っていました。1977年から1986年まで、およそ9年かけて読み終えられましたから、別な言い方をすれば私にとってはダンテを学んだICUでしたね。そのテキストとして使われた岩波文庫の翻訳者が、山川丙三郎だったんです。日本におけるダンテ黎明期のパイオニアで、上田敏からダンテ翻訳のバトンを引き継いだ英文学者ですが、東北学院教授だったわけです。 イタリア語の”La Divina Commedia”の冒頭は、大変有名なのですが、こう始まります。

Nel mezzo del commin di nostra vita
me retrovai per una selva oscula,
che la diritta via era smarrita.

「人生の道の真ん中で、気がつけば、暗い森の中にたたずんでいた」という意味なのです。道に迷うダンテは35歳で、私もちょうど35歳の時だったものですから、これは自分だ!って思ったんですね。実は、ダンテさっぱりわからなかった。だから9年間も斎藤先生にしがみついていた。でもやっぱりわからない。ダンテは素晴らしいぞ、っていうことはわかる。いよいよ自分で大勢の人に解説することになって、わからなければ自分の言葉で喋れない、と痛感するんです。イタリア語の猛勉強、聖書、ギリシャ・ローマ古典の勉強・・・。私のノーテンキなところは店を開いてから品物を仕入れにいくみたいなところがある、走り出してから考える?ところでしょうね。 ダンテからシェイクスピア・カンパニーにつながるふたつの重要なキーワードを見つけます。ひとつは「物事の本質を理解する正道は創ることである」というダンテの言葉です。「そうか、そもそもシェイクスピアを始めたのは、舞台を見ることが好きだったからじゃなくって創ることが好きだったからじゃないか!そうだ、創れ、創れ、創れ」と 言う声が私の中で大きくなっていきます。もう一つ、それはダンテが、『神曲』を書いたのは、当時の標準的文語だったラテン語ではなくて、ダンテの生まれたフィレンツエのトスカーナ方言であったという事実ですね。『神曲』は、口承文学的な要素が濃いんですね、ですからも娼婦も職人も口ずさんでいたと言われています。そこです!方言と言うよりは、「自分たちの言葉でシェイクスピアを喋ればいいんだ」というところに、ぼんやりと近づいて行くんですね。  読書会にはいろんな方がいらっしゃっていましたから、私がじかにお話しをして、みなさんの反応からこれはいい、これはよくない、これは面白い、これは面白くない、ということが感じとれたことは、街の中で広く仕事をしていく上で役にたちましたね。読書会が1990年開始で、シェイクスピア・カンパニーの設立が1992年ですから、2年間のダンテと市民と方々との対話から、カンパニー構想が醸造されたと言ってよいと思います。

渡辺
大学からではなくて、街の中から生まれてきたんですね。これまで、何回くらい公演をなさったんですか?
下館
初演が1995年で、福島のブリティシュ・ヒルズ。仙台から100人、東京から50人、計150人が25000円の宿泊費+観劇料を支払われていらっしゃたのですから、もう頭が下がります。「東北弁の『ロミオとジュリエット』」ということで、ウーパールーパーみたいな感じで騒がれました。でも「どんな変なものか一回見てやろう」という感じがほとんどだったのじゃないでしょうか。私たちも、東北弁の与えるイメージとシェイクスピアのとりわけロマンチックな悲劇の組み合わせのミスマッチさを知らなかったわけではなくてそれを知りつつの挑戦でしたから、CBSソニーの大木裕さんという有名なデザイナーにお願いして80万という法外なお金をかけて、みなさんの期待の水平線上にあるような、ほんとうに美しいポスターを創りました。それをみんなで見ながら稽古をしたんです。あんな風になろうねって。お金ですか?私は貯金を30万しか持っていませんでしたが、それを使おうとも思っていませんでした。オーナーになっちゃいますからね。私は集まったみんなで出しあうのがいいと思っていましたから。でも私のイメージする舞台を創るのには最低300万円必要である、と言うことがわかってからは、宝くじを買い(笑)
齋藤
え〜ほんまかいな。
下館
そうですよ。それから、助成金の書類を書きまくりましたね。まあ、学者ですから堅苦しい文章を書くことには慣れていましたからね。最初のオーディションで集まった人たちは不安だったと思いますよ。「下館さんみんなにお金は出させないみたいな気前のいいこと言ってるけど実際大丈夫なのかな〜」(笑)って。ここで、どこからもお金がおりなかったら、私たちの今はなかったと断言できますね。初演に1000人ものお客さんが来てくれたわけですが、だからいいじゃない、そういうことではなくて、経験もお金もない下館についていっていいんだろうか?と思っていた劇団員の迷い(笑)を吹き飛ばせるか、迷いと不安を増長させて挙げ句の果てに借金までできて、それぞれに生活にひびが入るか、の瀬戸際みたいな感じでしたからね。
齋藤
それで、早う言ってや、(笑)お金はどうなったん。
下館
まずインテリジェント・コスモス構想という基本的には科学研究にお金を出す団体から50万がおりました。続いてなんと文化庁から50万、そして宮城県から200万!
齋藤
ぴったり300万やんか。
渡辺
へえ〜。
下館
そうなんです。劇団員には逐一報告しませんでしたが、段々私の態度がでかくなってきた(笑)のに気がつかなかったはずはありませんけれども、最後に300万集まったことを知ったみんなからどよめきと拍手が起きましたからね〜。
齋藤
そりゃ、そうや。ところで、なんて書いたん?
下館
「日本のシェイクスピア演劇の歴史を塗り替えるようなエポック・メイキングなシェイクスピアの誕生」
渡辺
でも、まさにその通りですよね。
下館
有り難うございます。野心は中途半端じゃいけませんね。気が遠くなるほどでかいほうがいいんです(笑)。それで、いただいたお金は全部、公演のために使って、カンパニーの基礎になる物をそこで揃えました。観客1000人分の200万円を基金にして、次の『松島湾の夏の夜の夢』『縄文の空騒ぎ』『仙台藩の十二夜』『恐山の播部蘇』『温泉旅館のお気に召すまま』そして2006年の『奥州幕末の破無礼』へと向かっていきます。3年越しで東北各地、東京で公演、延べ4000人の観客を動員しました。
齋藤
この先はどんな風に?
下館
昨年の2月末、アイヌを主人公にした野心作『アテュイ・オセロ』(アテュイはアイヌ語で海)を青森県八戸で終えて間もなく、あの東日本大震災が起きて、すべてがストップしました。これからどうしようか・・・と思っていたある日、カンパニーを立ち上げた『ロミオとジュリエット』の話をすると、娘たちが目を浮かせて聞いているのを見て、「そうだ原点に帰ろう。そして、悲劇じゃないハッピーエンディングのコメディに変えて、被災している私たちも楽しめるお芝居にしよう、そして沿岸部の人たちに出前をして、届けよう!」と。外からやってくるお芝居じゃなくて、被災地で被災した者達が創るお芝居です。
渡辺
まさに絆ですね。
下館
昨日までうずくまってた私たちでしたが、まさに今、立ちあがって創りはじめています。それは『新・ロミオとジュリエット』。国際観光ホテルベローナの社長令嬢と名湯舌奈旅館御曹司の恋物語。仲をとりもつカトリック神父は、またぎで、乳母(ナース)はおなす(笑)という名の女中になります。
齋藤
それ、見たくなるわ〜。
ICUは単一の教養学部しかないからこそ卒業生同士で比較し合わない良さがある。あのキャンパスにいる間に、ともかく好きなこと見つけることですね、そしたら人生はどう転んでもなんとかなる
渡辺
充実した人生を送っていらっしゃるなかで、ICUでのお話も是非うかがわせてください。また現役学生のみなさんやこれからICUを目指そうとなさっている学生さんたちへのメッセージもお願いします。
下館
私にとってICUでの学生生活は人生を作った全てだったかもしれないと思っています。ICUに巡り会わなかったら今の自分はないと思います。この大学の学生だったことが私に誇りを与えてくれましたし、「一人あって二人いない」という言葉を実感させられて、自分のままでいいよ、ということを感じさせてくれました。私の時代にはどこを探してもそういう大学はなかった。自分にしか出来ないことをやるには、まず自分を発見しなきゃならないですよね、自分に出会わないと。ICUのよさは、類い希なキャンパス、そして学問的に一流の教授陣、でも大事なことは著名であることでも何冊本を書いているかでもなくて、ひとりひとりの学生に向けての愛があったことですね、育てようとする愛が、つまり先生方は学者である前に一流の人間であったということです。だから、私たちに誇りが芽生えたんです。  ICUって他大学に比べると圧倒的に人数が少ないでしょ。それは贅沢なことです。教育の質は人数と明確な相関関係がありますから。それから、ICUには教養学部ひとつだけなので、大学内に優劣が存在していないことがいい。大抵の有名大学には、学部間に差が大きくあって同じ大学なのに違う。東大を例にとっても、文Iを頂点としたピラミッド型ですね。教養学部ひとつしかないからこそ、卒業生はみな兄弟みたいな感覚を持てるんです。最初にもお話ししましたけれど、「勇気をもつこと」と「畏れを持つこと」。この2つが大事なような気がするんです。ですから現役の学生の皆さんには、中途半端じゃない大いなる野望を抱いて(笑)、そして謙虚に先生についていってほしいですね。ついてこられると、先生もがんばっちゃうし(笑)。
齋藤
昔は特にそうだったね!
下館
英国で、某東大の先生にお会いして親しくさせていただきましたが、その先生、大変学問的には厳しい方ですが、後から知り合いの先生にこう申されたようなんです。「東北学院の下館さん、いかにもICUって感じで、明るくていいね」。嬉しかったと同時に、ICUって明るいイメージがあるのかな?って。
渡辺
確かにICUには明るいイメージがあるのかもしれませんね。下館さんだから、よりそうなのかもしれませんけれど。(笑)では最後に、東北にお住まいの下館さんにだからこそ伺いたいのですが、撫でるような上辺の応援ではなくて、東北にこんなふうにして欲しい!というリクエストはありますか?
下館
私は素直にICUのみなさんが東北に来て下さった。それだけで嬉しかったです。思っていただいていることを知るだけで嬉しいでんですよ。思う、それは既に行動のマグマ、行動の源泉です。


プロフィール

下館 和巳(しもだて かずみ)
1955年生まれ。東北学院大学教養学部教授、シェイクスピア・カンパニー主宰。専門は演劇・英文学。ICUで演劇の魅力に目覚める。英国留学を経て、語学科を卒業後、比較文化研究科大学院で学ぶ。29歳の時に博士課程を中退して東北学院大学教養学部へ奉職。主な共著は「文学海を渡る」「言葉と想像力」「わからないことは希望なのだ」ほか。www.shakespeare-company.net