プロフィール
1973年4月5日生まれ。国際基督教大学(ICU)卒業。 1996年アナウンサーとしてNHK入局。「第58回NHK紅白歌合戦(2007)」では総合司会を務め「プロフェッショナル 仕事の流儀」、「スタジオパークからこんにちは」などの人気番組を担当。 2011年4月よりフリーに。 小学校時代はアメリカ・シアトル、高校時代はカナダ・バンクーバーで過ごす。 インターナショナル・ヨガ・アライアンス認定ヨガ指導者資格を持つ。
「家族は一緒に」が両親の方針。小さい頃は、商社マンの父の転勤について、各地を転々としていました。数年ごとに移動を繰り返し、東京に15年住んでやっと初めてひとつの場所に落ち着いた感じです。
- 住吉
- “今を輝く”ICU卒業生へのインタビュー、面白い活動をされてますね!
- 渡辺
- ありがとうございます。出ていただく皆さんにボランティアでお願いしていて申し訳ないのですが。もともとは、ICUは医学部がないのに卒業生にお医者さんがいらしたり、法学部がないのに弁護士さんがいらしたりと、様々に活躍なさってる卒業生の情報をリストで伝えるだけでも同窓生にとって有用ではないかと思って当時、同窓会長であった斎藤さんにご相談してみたんです。そうしたら、それだけじゃなく、色んなジャンルで活躍している卒業生、ユニークな生き方をしている卒業生たちの横顔を伝えることができたら、同窓生にも在校生にも、これからICUを目指したいと思ってくださってる学生の皆さんにもいいのじゃないか、というご提案いただいてこういった企画になりました。
- 齋藤
- 同窓生からは、“あのインタビュー記事を読んで元気をもらっているのです”ということはよく聞くのですよ。僕は、現在ICUの法人理事でもあるのですが、法人理事会でこの話をしたら、皆さんも楽しみに読んでいるそうです。
- 住吉
- なるほど。現在進行形で大学に関わっている方にこそ、卒業生がどうしているかが分かるこの企画は喜ばれるかもしれませんね。
- 齋藤
- あとは、やっぱり就職を考えている在校生に対するメッセージを送りたいですね。最近の学生は…とは言いたくはないけれど、今の学生は世の中も不安定だし就職活動も厳しいしで、ともかくちょっとでも有名なところを受けて、入れればそこに行こうと考えてしまう。無理はないのかもしれないけど、何をやりたいのかも分からない、と言う学生がとても多い。でも、第一線で活躍する卒業生が「どうしてそうなれたのか?」という考え方や生き方に触れることで、単に仲間どうしでどの企業を受けるのか、とか自己PRの方法についての話をするだけでなく、自分の将来を考えるための質問や会話が出来るようになれば、それがきっかけとなって、自分が満足できる素晴らしい人生を歩むことになるのであればいいな〜、というのがこの企画の意図でもあるんです。 住吉さんにも、この道に進んだきっかけや、現在の“自分”がどうして出来たのかを伺いながら、「なぜそんな人になれたのか」の謎に迫りたいですね。実は、同窓生から聞いた話なんですけど、ある時にバスに乗ったら、前の席に年配の女性が二人座っていて、ちょうど住吉さんの話をしていたらしいんですよ!それも、「住吉美紀ってかわいいわよね〜」「可愛いだけじゃなくて頭もいいのよ、あの子!そんなところが大好きなの」といった発言で、そんなところで耳にするぐらい多くの人に受けている、好かれていることに更に興味を抱いたんですよ。
- 住吉
- そうですね…いろいろ転々としているんですよ!両親が新婚の頃に日吉に住んでいて、私はそこで生まれました。その後、祖父が亡くなって、祖母のために川崎に移って幼稚園に通ったんですが、卒園直前に父がシアトル転勤になって、6歳からシアトルに行くことになりました。その後は、引っ越しまくりです。シアトル4年半、父が大阪勤務になって堺市に1年、神戸市に5年、ここで中学から高校1年生になって、その後バンクーバーに3年弱。両親はバンクーバーが気に入って住み続けていますが、私は日本で大学に入りたい、と思ってICUに入学して東京に戻りました。その後も、NHKに入って福島、仙台、東京と転勤し、今年で東京に12年目。こんなに長く同じ地域に住むのは、人生で初めてなんです。
- 渡辺
- 6歳以降はいつも転校していらした、ということですよね。どんなだったのでしょう?小さい身体にいっぱい不安もあったことと思うのですけれど。
- 住吉
- 転校生というのは、勿論プレッシャーがかかりますよね。でも、それより何より、数年かけて子供なりに一生懸命築いてきた人間関係や生活環境が、あるとき突然、親の都合で崩されてしまうのが嫌でした。シアトルから大阪に行くときは“さみしい”で済みましたが、神戸からバンクーバーに行く時は、“辛かった”です。神戸では神戸海星女子学院という中高一貫の女子校で友達と固い友情を築いたのに、途中でまた引越しになってしまったんです。一度父が海外勤務を終えたので、もう海外はないだろうと何となく家族で思っていましたし、ちょうど高校1年生で、その後2年間も皆と一緒にいる気満々で、仲良しの友達とバンドを始めて盛り上がっていたところで、いきなり「今度はバンクーバー」です。 勿論、私は愕然として「どこか寮とかに入ってでも日本に残る。もう高校生だし」と訴えましたが、父に「うちの家族は一緒に動く。これが方針」と宣言されてしまいました。子供だけ寮に入れることも、自分が単身赴任することもしない。皆で一緒にいるということを両親が決めていたので、行くしかありませんでした。
- 渡辺
- ご兄弟はいらしたんですか?
- 住吉
- はい。2歳年下の弟がいます。でも、少し年齢が違うので、人生の変革のインパクトや感じ方は少し違ったと思います。
- 齋藤
- 転校生が友達を作るのは大変でしょうが、住吉さんはどうされていましたか?
- 住吉
- どうでしょう、1年ぐらいたつと自然になじんでいくので、あまり何かをしたという気持ちはないんです。自分から積極的に働きかけるでも、人が寄ってくるでも、どちらでもない。小学校は気づいたら遊んでいたし…。何をやっていたということもなく、時代時代の地域の流行りに身を投じていましたね。例えば、シアトル時代はローラースケートが全盛期だったので、引っ越して早速買ってもらって、放課後はずっとそれで遊び、学校に行くのもローラースケートでした。
- 渡辺
- 言葉は?とくに小学校の時は初めての海外でしたよね。
- 住吉
- あまり、何が苦しかった、詳細に何をどうした、というのは覚えていないんですよね…。覚えているのは、例えば、小学校にはそもそも入学式もなく小学校に行ったこととか。日本で幼稚園を3月に卒園してシアトルに行って、向こうは前年9月から小学校が始まっているので、入学式もなくいきなり転校生だったんです。で、学校に初めて行った日、校長先生が私を新しいクラスに連れて行って紹介してくれたのですが、クラスメイトが皆「誰か来た!」とドアのところに覗きに来たのです。廊下に立っている私のほうを覗いてる子が沢山いて、注目されすぎて圧倒されました。ドアの枠の中ぜんぶが顔で埋まっていたような…(笑)。本当はそんなはずはないんですが、そんな残像が消えずに、今でも残っています。 言葉は最初は大変でした。全く出来ませんでしたから。たまたまクラスに一人だけ海外生まれの日本人の女の子がいて、割と助けてくれたんですが、授業となると全く分からなくて座っているだけ。あるとき、作文の授業で、紙と鉛筆を回しているときに、たまたま、私には紙しか回ってこなかった。鉛筆がない、と思っても、「鉛筆がありません」という言い方が分からない。この、「言いたいのに言えない」という気持ちをごく鮮明に覚えています。どうしていいかわからずその時は、1年生ですから、涙がジワジワと湧いてきて、半べそになって…。近くにいる子が気づいて先生に言ってくれて鉛筆は貰えましたが、あのときの気持ちは今でも忘れられないですね。
- 渡辺
- 住吉さんは、今とても輝いてらっしゃるから、ハタから見ると人に囲まれてて当たり前と思われたりするかもしれませんが、そうでない時もあったんですよね。そんな時はどんなふうにしてらしたんでしょう?溢れそうな不安とか言葉にできない気持ちは。
- 住吉
- はい。この涙ぐんだ記憶はあるんですが、子供の凄さで、1年生が終わらない頃にはなじんでカタコトで遊んでいました。大人ほど構えすぎないから、考えすぎて苦労するってことがなかったのかも。むしろ、2回目のバンクーバーのほうが精神的にはきつかった。言葉は出来る、でも、思春期で自意識も過剰だし、自分と言うものもまだわからない時期だったので、些細なことで必要以上にショックや劣等感を感じていましたね。周りの子が話しているドラマの話についていけない、とか、何で皆こんなにきれいなんだろう、とか。16歳頃の欧米人の女の子は、本当に大人っぽくて、カワイイんですよ!自分と比較してがっかりしていました…。
- 渡辺
- なるほど〜。確かに欧米人のティンエイジャーはびっくりするほどグラマーだったりしますよね(笑)。そんな時は、どんなふうに克服というか乗り切ったの?
- 住吉
- えーっと、あまり克服できなかったんです。高校時代は私にしてみると“暗い”時期で、平日に通っている現地校の友達との関係も、日本の時のように自分を解放できなかった。今考えると、結局は自分の気持ちの問題だったのですが。それで、毎週土曜日だけ通っていた日本語補習校で一緒だった日本人の友達との会話が救いでした。ここで“わーっ”と日本の感覚でおしゃべりをして発散していた。それから、親に頼んで神戸の友達と長電話したり。当時はインターネットもメールもなかったですからね。 電話以外には、小包のやり取りをしました。荷物に、流行りのCDやお菓子と、すごく長い手紙を入れて。あとは、カセットテープにメッセージやおしゃべりをラジオ番組風に録音したものを、神戸の友達と交換していたんですよ。「みなさんこんにちは〜!カナダは春の季節になりましたが、そちはらいかがですか?では、こちらで流行っている曲を聴いてください」とか言って曲をかけ、合間に「最近こちらですごく格好良い人がいて…」など、まるでおしゃべりをしているように話すんです。日本の方では、仲良しの友達は女子バンド活動を続けていたので、練習の時に一言ずつコメントを収録して返してくれたり、という声のお便りのやりとりですね。
- 渡辺
- わぁ!それはすごく楽しそうですね。クリエイティブな発想ですが、住吉さんが?
- 住吉
- うーん、始めたいきさつは覚えていないんです。ただ、その発想の種は、私の中に確実にありました。というのも、シアトル時代に父がそれをやっていたんです。当時、1ドル360円代の時代で、海外との通信費はすごく高かった。電話も3分以内で、祖母に電話するときは、「電話するよ〜」と母が声をかけて皆が電話の前に集まってから、交替で話すんです。小包も航空便が高いから常に船便を使って、届くのに1か月もかかる。だから、電話で何が欲しいかを一生懸命伝えてましたね。届くのもとても楽しみで、小包が届くと、「船便が着いた〜」と皆で集まって開梱して大喜びするような時代です。そして、父がある時に、それを思いついたんでしょうね。初めに音楽をかけて、父が司会をしつつ、「じゃあ、ママが話します」「子供たちが学校の話をします」とか、「習った歌を歌います」とか、テープにとってシアトルからのお便りを作っていました。それが高校時代にも、どこか記憶に残っていたのは間違いありません。
父は私をまるで長男のように、たぶん自分の“跡取り”として育てていました。私の中に、何か似たものを見ていたのかな。こいつの中には男がいる…!って(笑)。私は完全に父の影響を受けています。人は出来るときに何でもしておいた方が良いし、与えられた時間を思い切り活用していかなくてはならない。早くに亡くなった父ですが、そんな人生観をくれました。
- 渡辺
- 素敵なお父さまですねぇ!たしか…就職してしばらくしてお亡くなりになったと伺いました。もしも、あまり話したくなかったら話さないでくださいね。
- 住吉
- はい。実は、父が亡くなって暫くして、祖母の家を整理している時に、シアトル時代のテープが出てきたんです。母と祖母と三人で、早速聴いてみました。そうしたら、当時は知らなかったのですが、テープの時間が余ると、「じゃあ、後は僕が歌います」といって父がテープの最後までカラオケで歌っていて…。「もう、お父さんったら。」と皆で泣き笑いでした…。
- 渡辺
- 「家族は一緒に」というお話の時も素敵な方針だな、と思いましたが、素敵なご両親ですね…。
- 住吉
- “古き良き夫婦”、だったのかもしれませんね。父は外で働き、母は家を守り、家族は仲良くし、という価値観が生きていた時代の家庭で、子どもから見ると夫婦間のバランスも取れた素敵な関係だったと思います。
- 住吉
- ご両親はどんなタイプでいらしたんでしょう?
- 住吉
- 母が楽観的で優しいタイプで、父は厳しいんですが、関西人なのでたまに冗談を言って周りを笑わせたい人でしたね。母は、笑いだすと止まらない系の人で、父と弟と私で、誰がどうやって母に笑いの発作を起こさせるかで競っていたようなところがありました。
- 齋藤
- 笑いはいいね。育つ家庭の暖かさが人柄ににじみ出て、それで友達も自然に周りに集まってくるのかもしれないね。
- 渡辺
- そうですよね。むっつりしている人より、この人と仕事をしたら楽しいかも!と思われたら嬉しいですものね。あと、温度があたたかいところに人は集まってきますよね。美紀さんは、ご両親にはどんなふうに育てられたのですか?
- 住吉
- 私は完全に父の影響を受けていて、父は私をまるで長男のように育てていたように思えます。弟の方は小さい頃からおちゃらけマンだったからか、許されているところがありましたが、私の方は長男のように厳しく育てていた。就職活動の時も、良く父に相談したんですが、内定がなかなか出ず、弱音を吐いた時に、「就職が決まらなくてもバンクーバーには絶対に帰ってくるな。社会人として初めに生きていくなら、大きな都市で、企業の厳しい環境で鍛えられた方が良い」と突き放されました。普通、娘が弱っているときには、励ましたり慰めたりすると思うんですが、父は厳しかった。
- 渡辺
- 本当なら、「蝶よ花よ」で育てられてもおかしくないところを、長女というより、お父さまの中では「長子」だったのでしょうね。
- 住吉
- 父は、自分と何か似たものを私に感じていたのかもしれません。大学に行くまでは、父がディベート相手で、父が好きな著者の本をわざと一緒に読んで、赤線を引いて「ここの議論はここと矛盾しているのではないでしょうか?」とか書きとめて、あとで問題提起するんです(笑)。父は父で、私の読む本の著者は間違っていると言ってきたり。私は、環境問題に関心があって、父は商社で木材貿易の仕事をしていたのがジレンマで、よく突っかかって議論していました。議論にはちゃんと応じてくれたし、父の本心はわかりませんが、こいつの中には男がいる、と思ったのか、「何を勉強したい?」とか、「働いてキャリアを築け」とか色々言われて、「お嫁さんになって幸せになれよ」とは一度も言われませんでしたね。
- 渡辺
- きっとその厳しさにきちんと向き合って乗り越えられる人間に育てられたかったのでしょうね。甘えて許してもらうのでも、絡め手からでもなく、正面突破で話し合ってみなさい、という試練でしょうか。正門は閉まっているけれども、それを叩いて開いてみよ!という。大変だったでしょうけれど、本当の優しさかも。
- 住吉
- はい。大変でしたが、父自体もそんなタイプの人だったので、違和感はありませんでした。父は50歳で会社を辞めて、バンクーバーで木材貿易のコンサルティング業を始めたんですが、その時も、ある日突然家族を集めて、「お父さんは会社を辞めます。帰国せず、バンクーバーで移民になる。よって、この先家族4人で住むことは、一生ないだろう。それぞれ、がんばろう」みたいに演説して。相談をしたり迷ったりせず、決めたことは不言実行の人でした。その後、NHKに入局して福島に赴任しているとき、父は54歳である日突然亡くなってしまった。交通事故で、本当にある日突然に。人生の、一大転機の日でした。
- 渡辺
- それは……本当にショックでしたでしょうね。
- 住吉
- はい。私よりも、母がすごくショックだったと思います。私もショックで、次の日にすぐにバンクーバーに飛んで行ったのですが、しばらく信じられなかった。そこまでずっと強い影響を受けてきた父でしたから…。父は生前から「太く短く生きるんだ」と公言していて、本当になってしまったね、と母と話しました。でも、残された家族にとっては、父が会社を辞め、好きなことをして生きていたことがせめてもの救いでした。好きなヨットの免許を取ってみたり、ゴルフをやったり、思うように生きていた。人生いつ終わるか分からないから、出来るときに何でもしておいた方が良いし、与えられた時間を思い切り活用していかなくてはならないということを、父が最後に身をもって教えてくれました。元々、3年おきに移動していたおけげで、何かを積み上げてもすぐ失ってしまうものだと感じていて、“その時”を大事にする傾向がありました。でも、父の死で決定的に“いま”を大事にする人生観が生まれましたね。
大学時代、体験してみよう!と、トライアンドエラーで体当たりした勉強やアルバイトが、自分には何が向いているかを考えるきっかけとなり、就職活動にも繋がっていった。
- 齋藤
- ICUに入ってから、大学時代はどんなふうに暮らしていたんですか?
- 住吉
- 大学時代は勉強が面白くて、ひたすら授業に没頭していました。レスター・ルイーズ教授のゼミでしたが、政治学、特に個人と個人の関係に生じる力学をパーソナルポリティクスと言う視点で扱っていて、「フェミニズム」や「ジェンダー」、「ポストモダニズム」といったテーマの書物を読んだり、議論したりして、非常に刺激的でした。指導は厳しくて、来週までに5冊文献を読んで感想を書け、授業ではそれについてディスカッションだ、と言う感じ。アサインメントの本をひたすら読んで授業に参加する生活でしたね。
- 齋藤
- 勉強以外には何かしていました?
- 住吉
- 空いている時間は、結構いろいろなバイトをやってみました。バンクーバーの高校時代はビザの関係で働くことができなかったので働いてみたかったのと、将来どんな仕事をしたらよいのか全く分からなかったので、とりあえず働いてみて、労働とはどんなものかを体験してみようと思って。バンクーバーに行くまでは、神戸海星女子学院から推薦枠で上智に行くのを目指して、行けたら英語科に行って通訳になろうかな、とアバウトに考えていましたが、バンクーバーで英語が日常の道具になったことで、英語そのものを勉強の対象にすることには興味がなくなってしまったんです。子供心に想像していたやりたいことが、一旦リセットされて何もなくなってしまった。唯一興味があるのは環境問題でしたが、それもどう仕事につながるのか、さっぱりわからない。で、社会経験を積んでみようと。
- 渡辺
- ICUからアルバイトに行くのは遠くて大変だと思いますが、寮生だったんですか?
- 住吉
- いえ。祖母と久我山でふたり暮らしをしていました。両親も、祖母がいたから日本に来ることを許してくれたんです。それで、当時の私は、労働の基本はスーパーのレジで、それをやってみるまで仕事というのは語れない、となぜか信じていまして…(笑)。子どものころ初めて接する「働く人」がスーパーのレジ係の人だからかもしれませんが。それで、久我山のスーパーでアルバイトをしました。そして、5時間立ってレジを打って、働くって大変なことなんだと実感しました。私は、トライアンドエラータイプなので、とにかくまずはやってみるんです。スーパーは何が辛かったかと言うと、立ってお客さんが来るのを待つのが苦痛だった。特に、“待つ”と言うのが向いていないと発見しました。その後、お歳暮の包装バイトもやってみました。石鹸が100個きたら、ひたすらそれを包む、というような仕事。無言でひたすら作業をしていたら、一日で、これはダメだ、と思って、平謝りして辞めさせてもらいました。何よりも、人と話をすることが出来ない環境に耐えられなかったんです。
- 齋藤
- 意思決定が早いですね!次は何をされたんですか?
- 住吉
- 次は、オランダの食品輸入会社の試食販売のアルバイトで、これはいい、と思ったんですよ。同じ5時間を過ごしても、疲れ方、辛さが大きく違う。これが不思議で、試食販売は何がいいんだろう、と考えたんです。すると、肉体的に「声を出している」こと、さらに、試食の過程で人の反応を見ながら、「人とコミュニケーションが取れる」というのが良かった。
- 渡辺
- 試食販売ですか〜、人が立ち止まってくれなくて辛くなかったですか?
- 住吉
- いえ。興味ない人を止めてみるのがむしろやりがいとなり、楽しかったですね。「パプリカピーマンいかがですか?これ、美味しいんですよ〜!」と声をかけて、お客さんが足を止めてくれると、あっ!興味がない人が立ち止まってくれた!とうれしく思う。「フルーツみたいに生で食べられるんですよ」と差し出して、口に入れた時に、相手の反応を見ながら次に言うことを考える。「ビタミンCがみかんよりも多いんですよ」とか、「意外に甘みがありませんか?サラダに混ぜるだけで手軽に食べられます」とか話しかけることで相手が買う気になっていく。それで、相手が最後に買ってくれたりすると、たまらなくうれしかったんですよ。
- 渡辺
- それは、アナウンサーにすごく向いているタイプかもしれない!就職活動はどうなさったの?
- 住吉
- 環境問題にはずっと興味があって、NGOも考えまして、ボランティアをして事務所に出入りしてみましたが、NGOは人を育てる予算がないから、学卒で何も職業経験がない中で行くと、あまり役に立てないことがわかった。活躍している人を見ると、専門分野の仕事経験を別のどこかで積んで、さらに実力があって初めて、「核保有を減らすための交渉担当」などの具体的な役割に就ける。それで、まずは、普通に就職しようと思いました。 分野は、メディア系は面白いかな、と思いましたが、初めはアナウンサーは考えたこともなくて、書くことが好きだったので、ライターを考えました。知人にフリーライターを紹介してもらって、その人のアシスタントをしたところ、テーマについて調べて、取材のアポを取って、インタビューに行くまではとても楽しかったんですが、インタビューが終わって、ライターの方が、「この後は僕が5日後までに1000字にまとめておくから」と言った時に、「え、それ、まるで大学の課題と同じ!」と思ってしまったんです。「今、大学で毎日している宿題を仕事にするのはきつい」と思って、ライター志望はやめました(笑)。 もうひとつのきっかけは、ICUの平和研究所の主宰した、平和研究旅行でした。ここで、低レベル核廃棄処理場の見学などを通じて、普段会えない人、話を聞けない人に会って、「現場は面白い」と発見しました。旅行中、成り行きで、私がグループの通訳をすることになってて。アメリカの平和活動家とか、ネイティブアメリカンの方などの話の通訳をしていると、その方の活動への情熱、人生への情熱が、そのまま言葉とともに私の体内を一回通ってから、グループの皆に届く感じがして、ものすごく高揚感があったんです。人の情熱を、自分の身体を通してまた人に伝えることに、すごくやりがいを感じましたね。そして、旅行後、来年の募集のための、活動報告会を開かなくてはならなかったんですが、司会を誰もやりたがらなかったんです。誰もやろうとしないので、仕方なく、「じゃあ、やります」と言って司会をしたんですね。そうしたら、終わった後、平和研究旅行全体を監督していた最上敏樹先生が「住吉さん、司会ありがとう。なんだか本物のアナウンサーみたいで、良かったよ」と言ってくださったんです。最上先生は、当時とても厳しい先生として有名で、その最上先生に褒めてもらったことでうれしくなって、初めて「アナウンサー」と言う言葉を意識するきかっけとなりました。考えたこともなかったけど、要素を考えると面白いかも、トライアンドエラーで説明会に行ってみよう、とすぐ応募してみたんですね。そうしているうちに、マスコミは活動が早くて、気づいたら就職活動に没頭していました。 実は、私、アナウンサーに興味を持ち始めた時に、真理さんにOG訪問させいていただいてるんです。OGリストを調べて連絡したら、快く引き受けてくださって、TBSの下のロビーでお話を伺いました。すごく覚えてます。
- 渡辺
- 私でよかったかは全く分からないんだけど(笑)。どんな話をしたのかしら…。その時の自分に、もっと美紀ちゃんに私が質問して今日みたいな話を聞き出しなさい!って言いたい感じ。わたしが教わる面がたくさんあるから。
- 住吉
- いえ、私の事を聞いてもらうのではなく、真理さんのお話を聞きに行きましたから!どんなお仕事ですか?など、沢山質問させて貰いました。その時に、見た目の華やかさと違って非常に大変な部分もある、と言うことを教えていただいたのが印象に残っています。
- 渡辺
- 住吉さんには色々な仕事が合っていると思うけれども、その中でもアナウンサーと言うのは一つの非常に向いた仕事だったと思います、僭越ながら数年先に仕事を始めた者として申し上げると。なかでも、NHKのアナウンサーになれたのは、とても良かったですよね。もちろん、それぞれの局の良さはありますけれど、環境問題などへの意識がある住吉さんにとって、そのような番組にも取り組みやすいNHKはとても向いていたと思うんです。
- 住吉
- そうですね、自分の力をフルに発揮しなくてはならない仕事が多かったので、初めは大変でしたが、数年した後に、「やっぱり良かった」と思いました。
地方局は、皆で取材して皆で作り上げよう、というスタイル。アナウンサーの仕事だけでなく、番組作り全てに関わります。福島は、放送で失敗をすると、「大丈夫ですか。上司から怒られて落ち込んでいませんか」とハガキが来るような温かい土地柄で救われましたが、初めの1年は何回も辞めようと思いました。
- 齋藤
- 僕もマッキンゼーで採用担当をしていたけど、住吉さんが来たら確実に採用していましたね!(笑)。そして、NHKのアナウンサーが500人もいる中で、紅白の司会をするような花形アナウンサーになれたのは、どうしてだったのでしょう?
- 住吉
- そういっていただくのは嬉しいのですが、NHKには15年いて、いろいろな仕事に地道に取り組んだ意識が強くて、花形という印象は自分にはないんですよね。
- 渡辺
- 東北にいらした時代とか?
- 住吉
- はい。NHKは当時、2カ月間研修を受けてから、地方局に行きました。地方局は陣容も小さいので、番組制作のスタッフは皆一緒のフロアにいるし、アナウンサーに特化した仕事だけでなく、それ以外の全てをやらなくてはならないケースが多かった。テレビの情報番組やラジオなどで、アナウンサーだけで作る仕事も沢山ありました。そうすると、ネタ探しから、アポイント、取材、技術下見、謝礼の用意まで全部やるんですよ!これは大変なこともありましたが、地方局の仕事の仕方は、「皆で取材して、皆で作り上げよう」で、ある意味すごく自由だし、企画が通ればどんな番組も自分で作れる状況なんです。
- 渡辺
- 初めにNHKの地方局に行くことで、民放と違って、番組制作の全体像が見える面では良かったかもしれないですね
- 住吉
- ただ、初めの1年は何回もやめようと思いました。、初任給で4万円のワンルームのアパートを借りて、狭くて、部屋にいても物置に座っているような感じで落ち着かなかったですね。当時、福島市内は喫茶店もショッピングを楽しむところもほとんどなく、映画館も小さいものがひとつで。自然はたくさんあって、キャンプなどが趣味ならば最高の環境だったのですが、わたしは都会育ちだったので、そういうところでひとりでどう休日を過ごしていいのかわからない。友達もいなくて寂しいし、職場に行ってもうまく行かないことばかりで、ストレスが沢山溜まりました。
- 渡辺
- それはどうやって解消していたの?
- 住吉
- 徐々に、でしたね。段々と仕事のやり方が分かって、仲の良い人が出来て。何か建設的な趣味が欲しい、と思って、同僚の薦めでバイクの免許を取りました。福島は自然も多くてバイクに乗るのが楽しいと言うし、日本の自動車学校に行ったこともなかったので、それを経験するのも良いかなと。免許を取る前から、パフィーが乗っていそうなアメリカンっぽい、かわいいバイクを見つけて、「これに乗ろう!」と目標を立ててがんばりました。でも、いざ免許を取っても、自然が美しい山道はスラロームが怖くて行けず、結局郊外のホームセンターに行く時などに乗っていただけでした(笑)。 仕事に慣れなくて辛い時期に一番支えになったのは、就職活動で7カ月悩み、考え抜いてアナウンサーという仕事に本当に就きたいのか、自分と向き合ったことです。あれだけ悩んで、何か向いているところがあると思って始めたことだから、何かあるはず、という気持ちでしたね。あともう少し頑張ろうと思って半年ほど耐えたら、楽しいことややりがいが出てきて乗り越えられた。
- 渡辺
- なるほど、いい時間にご自身で変えていかれたんですね。でも、美紀さんは福島に縁が深い分、震災のショックも大きいでしょうね…。
- 住吉
- はい。本当にそうですね。取材などでいつも通っていた道、見覚えのある光景が海沿いにも沢山あります。震災当初は個人的にもすごくショックで、胸が痛くて何も考えられなくなりました。そして、今でも原発の放射能の影響も残っていますし。
- 渡辺
- 福島や仙台の地元の方々は、きっと美紀さんをとても応援してらして「うちの美紀ちゃんが紅白の司会をする!がんばれ!!」って気持ちで観ていてくださったのではないかと思うんです。その分、本当に心配ですよね…。
- 住吉
- はい。年賀状や日常の連絡など、直接のコンタクトがある人は、家族のように扱ってくれましたし、そうでなくても、福島の方は温かく支えてくれました。地方の放送局は、卒業したての新人が行ってニュースを読むので、正直レベルは低くて申し訳ないくらいなんです。でも、新しい子が来たわね、と温かい目で見守ってくれる。放送で間違えたり、失敗したりしても、「大丈夫ですか。上司から怒られて落ち込んでいませんか」というハガキが来るような温かい土地柄です。新人が育つのを待ってくれるので、それは本当にありがたかったです。
- 渡辺
- また、折にふれて訪れられるといいですね、東北を。 美紀さんは東京にいらして活躍なさって、去年フリーになられたんですよね。
- 住吉
- 入社した頃から、正直定年まではいないかな、と思っていました。日本にとどまらず、海外とも行き来したいとの気持ちもありましたから。
- 渡辺
- 局という枠を超えて、活躍の場が広がるこれからが楽しみですね!4月からはいろいろレギュラー番組を担当されるとか?
- 住吉
- はい、そうなんです。月曜日から金曜日の生放送番組をふたつ担当させていただくことになりました。午前中はTOKYO FMの『Blue Ocean』(8:30縲鰀11:00)という番組のパーソナリティ、午後はフジテレビの『知りたがり!』(14:00縲鰀16:00)という情報ワイド番組の司会です。それに、1月から始まった『サンデー毎日』のインタビュー連載「すみきちのぶっちゃけ堂」も続きます。こんなにたくさんのお仕事をさせていただくのはたいへん光栄ですが、ちゃんと期待にお応えできるのか、ドキドキしています。
- 渡辺
- では、最後にメッセージをお願いできますか。これからICUに入る方や在校生、卒業生も読まれるかもしれませんが、若い方に向けてのメッセージをいただくとしたら、どんなでしょう。
- 住吉
- 昨年末ICUでお話する機会があり、その時にも伝えたのですが、多くの人は、先のことを考えて計算しようとしてしまうけれど、先のことって本当に分からない。私が人生で感じてきたのは、とりあえず今できること、今やりたいことに没頭して一生懸命やっていると、それが終わるころに次の何かが出てきて、その流れの中で、気づくと自分が行きたい方向に近づいているということ。だから、計算を忘れて、何かに没頭してもらいたい。ということですね。
- 齋藤
- トライアンドエラー、意思決定が早い、この二つがとてもいいですね。そうそう、今回お会いするにあたって、住吉さんのインタビュー記事を読んだのですが、「アナウンサーとして成長するためには、アナウンサーの資質を伸ばすだけでなく、人として成長し続けるしかない」と住吉さんが言っていて、非常に共感しました。そのためには具体的になにかされているのですか?
- 住吉
- やはり、興味があることには、トライアンドエラーで飛び込むことにしていますね。例えばフリーになって、昨年はやっと時間が出来、いろいろなことにチャレンジしました。10年ぐらいヨガをやっていますが、昨年夏は1カ月間、ヨガ合宿で山にこもりました。今年に入ってからは友人とミュージカル・ステージを企画して、必死にお稽古もして、上演したり。
- 渡辺
- あ、そうだ。沢山の“ファン“のために、今独身の美紀さんに好きなタイプを聞いておかないと!
- 住吉
- 実は、タイプというのがあんまりないんです。女性では、一貫して、斉藤由貴さんは中学の頃からず〜っと好きです。高校時代からはメグ・ライアン。最近は、「セックス&ザシティ」が大大大好きなので、サラ・ジェシカ・パーカーとか。男性の場合には、その時見て熱中しているドラマの人が好きだったりするので、どんどん変わってしまうんです。でも、話すのが好きだから、話して面白い人がいいな、と思いますね。話がはずむ人は、男女関係なく楽しいです!
- 渡辺
- ありがとうございました!
プロフィール
住吉 美紀(すみよし みき)
1973年4月5日生まれ。国際基督教大学(ICU)卒業。 1996年アナウンサーとしてNHK入局。「第58回NHK紅白歌合戦(2007)」では総合司会を務め「プロフェッショナル 仕事の流儀」、「スタジオパークからこんにちは」などの人気番組を担当。 2011年4月よりフリーに。 小学校時代はアメリカ・シアトル、高校時代はカナダ・バンクーバーで過ごす。 インターナショナル・ヨガ・アライアンス認定ヨガ指導者資格を持つ。 著書に『自分へのごほうび』(幻冬舍)(株)ノースプロダクション所属。 すみきちブログ。 http://blog.livedoor.jp/sumikichi_blog/ レギュラー担当: フジテレビの『知りたがり!』(月縲恚焉A14:00~15:52)司会 TOKYO FM『Blue Ocean』(月縲恚焉A8:30~11:00)パーソナリティ BS朝日『おスミつき』(木 22:00~23:00)司会 週刊誌『サンデー毎日』インタビュー連載「すみきちのぶっちゃけ堂」