プロフィール
国際基督教大学社会学科を卒業後、コーネル大学大学院に2年間留学。1965年(昭和40年)、帰国してNHKに入局した。初任地は横浜放送局であり、以後、東京政治部、アメリカ・ワシントン支局特派員を歴任した。1980年(昭和55年)からは、同局の情報番組『「海外ウィークリー」』にテレビ出演、幸田シャーミンとともに番組の進行を務めた。また、ニュース番組『NHKニュースワイド』、『ワールドニュース』への出演、同『NHKニュースTODAY』のアンカーマンなどとしても広く知られることとなった。
- 渡辺
- 以前から、ぜひ平野さんにもインタビューを!とお話はしていたのですが、受けていただくのはなかなか難しいだろうな、と思っておりました。今回お時間を割いてくださって、本当にありがとうございます。
- 平野
- いえいえ、よろしくお願いいたします。
- 齋藤
- よろしくお願いいたします。
中学生のときに通っていた教会のハイキングで初めてICUに行きました。緑豊かなキャンパスを見て、“日本の中にこんなところがあるんだ!”とショックを受けました。
- 渡辺
- 実は最初に平野さんにお会いしたのは在学中でした。というのも、ICUのA館にNHK9時のニュース番組のスポーツキャスター公募のお知らせが来まして。アメフの新入候補生を先輩たちと案内していて、その張り紙を発見したその場のノリで、先輩も行くというので一緒について行ったんです。展示コース以外のNHKの中を見られるのは一生に一回かも!と思って無謀ながら行ってみました(笑)。
- 平野
- そうでしたねぇ。
- 齋藤
- へぇ〜!ちなみにNHKの展示コースって何ですか?
- 渡辺
- 一般の方向けに、放送の作り方をわかりやすく説明したコースが設けられているんです。それ以外のNHK内部は関係者でないと入れないので、興味本位で応募の規定年齢にも達してなかったのに行ってしまったんです。2月のオーディションで、4月からの番組のスポーツコーナーは福島敦子さん(福島弓子さん(イチロー選手の奥様)のお姉さん)が担当なさることになったのですが、なぜか「次点なので、とにかくアルバイトでいいから来てみませんか」と。アルバイトとは名ばかりで何も実質お手伝いにはなっていなかったのですけれど、参加させていただいて、結局、大学4年まで2年ちょっと渋谷に通いました。
- 平野
- ちょうどNews Todayという番組が大々的に立ち上がるときタイミングでしたね。
- 渡辺
- はい。NC9という番組の後を継ぐ21時スタートの大型番組で、メインキャスターが平野さんでした。ですので、あの時のアンカーマンの平野さんの印象が私の中では鮮明です。
- 齋藤
- 平野さんは渡辺さんが大学の後輩だと言うことはご存知だったんですか?
- 平野
- お話しして初めて分かりました。たしか坂本くんという看板チーフプロデューサーがいましてね。彼が連れてきたんだという記憶があります。ちょうど放送が始まる1時間くらい前でみんな準備をしていて、私も化粧をしてマイクを着けて席に座ったときに、ちょうど席の反対側に渡辺さんがお見えになったんですよね。あのときは福島敦子さんがスポーツキャスターを担当されていて、番組の打ち合わせをしながらちょっとお客さんと話した、というシチュエーションだったと思います。
- 齋藤
- なるほど。ところでNHKに平野さんが入社されたとき、他にICU卒の先輩社員というのはいらっしゃいました?
- 平野
- 同じ4期でいうと、小野耕世くんというポップカルチャーの世界で有名になった方がいましたね。ただ彼はキャロルというちょっと過激なドキュメンタリー映画をつくって、NHKは途中で辞めてしまいました。NHKの枠に入りきれなかったんでしょうね。あとは竹上くんという教育のディレクターもいました。実は私はICUを卒業して、すぐにNHKに入ったわけじゃなくて、卒業後2年間アメリカのコーネル大学に行っていたんです。だから私と同じ年にICUを卒業して入社した人は2年先輩になります。さかのぼると1期生からNHKにはICU卒の社員がいるんじゃないでしょうか。
- 渡辺
- 平野さんは4期でいらっしゃいますよね。ということはまだ出来て間もないICUをお選びになったのはどうしてだったのでしょう?
- 平野
- 麻布の中高校生のころ、私は鳥居坂教会に通っていたんです。その教会のハイキングでICUに行ったことがあるんですよ。そこでICUの存在、緑溢れるキャンパスを知って、「日本の中にこんなところがあるんだ!」とショックを受けました。それが縁で受験の際に志望校の選択肢の中に入れたんです。
- 齋藤
- ご両親もクリスチャンだったんですか?
- 平野
- いやいや、麻布に入ってからです。鳥居坂教会っていうのはもともと東洋英和の教会なのですが、実は東洋英和と麻布は姉妹校なんです。と、いうふうに麻布は言っています(笑)。昔カナダの教会が東洋英和学園という男子校を作ったのがはじまりです。ずいぶん人気がでたので拡張しようと麻布に土地を求めて、麻布中学校高校を作りました。それでもとの東洋英和を女学校にした。これが兄弟校といっている理由です。こういうわけで、私は麻布の学生部に入ったときから鳥居坂教会に行くようになりました。
- 渡辺
- 存じませんでした。その中学のときに教会のハイキングでICUを初めてお知りになった、というわけですね。平野さんはお生まれも東京ですか?
- 平野
- はい、渋谷です。
- 渡辺
- 渋谷というとまさに今NHKのある場所ですけれど、もともとお家が渋谷にあったんでしょうか?
- 平野
- 父方の祖父が長野から東京に出てきて役人になりましてね。祖父はそこで生涯を終え、父も東京渋谷で生まれ亡くなりました。私と兄弟も同じく渋谷で生まれ育ちました。
- 渡辺
- おじいさまのころから渋谷でいらしたんですね。麻布高校でしたらご自宅からも近いですよね。
- 平野
- はい、高校までは1時間程度なので歩いて行ったこともありました。
- 渡辺
- その頃は、もう進路について何か考えていらっしゃいましたか?
- 平野
- いやあ、特に何も考えていませんでしたね。でも理系の能力はないなと思っていました。
- 渡辺
- 平野さんが幼少期を過ごしていらした頃の渋谷は、今よりも、もっと長閑な街という面もあったのでしょうか?
- 平野
- そうですね。私が幼い頃はまだ道路が今のように舗装されていなくて、夕立が降ったときなんかは大変でした。それから代々木公園はまだ米軍基地だったので、原宿まで行くのにぐるっと遠回りをしないと行けませんでしたね。
- 渡辺
- そんな平野さんの目にも、ICUというのは日本ではないような、とても緑豊かなキャンパスに映ったんですね。ご両親もICUへの進学には賛成してらしたのですか?
- 平野
- いや、はじめ父は反対していました。というのも、祖父も父も兄も従兄弟も東大。日本の男なら当然東大!という考えの人だったんです。とは言っても、父の友人の助言などもあり、進学することが決まってからは応援してくれましたけどね。
- 齋藤
- そうだったんですか。平野さんはICUは選択肢の一つだとおっしゃっておられましたが東大も受験されたのですか?
- 平野
- 東大も受けましたけれど、受かりませんでした。
- 渡辺
- 当時のICUの入学試験はどういうものだったのでしょう?たしか私のときは膨大な文章があって、読んでは解いて…というものだったのですが。
- 平野
- 基本的にはだいたい同じでしょうね。分厚い論文を読んで、何が書いてあるのかを判断したり、リスニングもあったり。2日間ありました。
ICUのキャンパスライフは天国でした。アメリカから来た先生方は「初めに事実あり。事実の中から演繹して自分で論を見つけなさい」という教え方で、とても新鮮で面白かったんです。
- 渡辺
- 平野さんがICUに行きたいと思われた理由は、緑溢れるキャンパスの他にはどんなことがあったんでしょうか?どんなキャンパスライフでしたか?
- 平野
- 極めて稚拙な正義感みたいなものですね。要するに、日本をこんな風にしたのは官僚と軍部ではないか、と当時は思ったんです。官僚にはどうやってなるのかと言えば、東大から。そんなところに自分は行きたくない、という考えです。まあ今から考えれば極めて稚拙な正義感でしたね(笑)。入ってからは、それはもう天国でした!まずICUに行かなかったら女房に会えなかったですね(笑)。これは半分冗談、半分本気として、嫌な思い出はなんにもなかったですよ。やっぱりICUのリベラルな校風は好きで、自分には合っていたのでしょう。
- 齋藤
- ご専攻は?
- 平野
- 社会科学科です。
- 齋藤
- 卒業論文というのはどんな内容だったんですか?
- 平野
- 「ビルマにおける南機関の研究」を書きました。わかります?(笑)。
- 齋藤
- 南機関というと、諜報機関ですね?
- 平野
- そうです。ビルマは今のミャンマーですね。第二次世界大戦中に軍が諜報機関をいくつか作って、反植民地闘争を始めさせたんです。そういう背景に何があったのかは当時だれも知らなかったので、生き残りの方々にインタビューをして、聞いた話をまとめて卒論にしました。
- 齋藤
- へぇ〜!ものすごく珍しいテーマですね。
- 渡辺
- 一つの番組になりそうな内容ですね。
- 平野
- そうですね。ただ、その頃ビルマは鎖国していて、現地に行くことはできなかったので、日本に来た方々に話を聞くのが限界でした。
- 齋藤
- Social Scienceに興味を持ったのは、軍関係に対する興味からなのでしょうか?
- 平野
- いや、最初は文化人類学に興味を持っていました。David Wurfelという先生がいて、彼は東南アジア研究と政治学が専門だったんです。コーネル大学の博士課程を終えて、博士論文を書く傍らICUで教えていました。当時まだ30代の男性だったのですがね、彼の授業がとってもおもしろくて。極めてジャーナリスティックなんですよ。彼は東南アジアの政治、特にフィリピンが専門で、いろいろ話しているうちに東南アジアの独立の歴史の中で、ビルマについての研究は資料がないからまだ誰もやったことがない、ということがわかったんです。それで調べてみたら、南機関というものがあると知り、これについて知っている鈴木さんという方が浜松に住んでいることもわかったんです。それで会ってお話を聞きたいと手紙を書きました。3回くらい書いてやっと返事が来ましてね。泊まりがけで来いと言ってくださり、会いに行きました。そこでお話を伺って、お仲間の名前も何人か教えてもらいました。東京に戻ってからも彼らに会いに行って情報収集をしたんです。
- 齋藤
- 実際の当事者の話を聞くというのは調査の基本ですが、卒論でそこまでされたのはすごいことですね。このテーマの場合、秘密にしておきたいことがいろいろあったでしょうから、普通はなかなか教えてくれませんよね。平野さんの熱意や誠意が伝わったということなのでしょうね。
- 渡辺
- 先程“極めてジャーナリスティックな授業だった”とおっしゃっていまいしたが、具体的にはどのような授業だったのですか?
- 平野
- まず、英字新聞を毎日読みなさいと言われましたね。教科書の代わりで、そこから試験問題も出たりしました。
- 渡辺
- ではコーネル大学に行かれる前から、英字新聞に目を通していらしたんですね。
- 平野
- そうですね。Student Timesのような優しい英字新聞ではだめで、Japan Timesなんかを読んでいました。
- 渡辺
- そうするとICU在学中の印象としては、課題だけではなくて勉強量はだいぶ多かったのでしょうか?
- 平野
- 勉強量ではなくて、作業量でしょう。ICUにもいろんな先生がいましてね、国立大学を出て日本で教えている先生たちに共通しているのは「学問は論である、説である」という考えなんです。これは初めに論ありきでおもしろくない。一方で、アメリカから来た先生の教え方っていうのは、「初めに事実ありで、事実の中から演繹して自分で論を見つけなさい」というものでした。これはとても新鮮で面白かったです。
- 渡辺
- たしかに日本の教育は大学入学に比重が置かれる結果、偏差値を軸に暗記がメインになっていますよね...そういった教育と、ICUで受ける授業では、違う印象をもたれましたか?
- 平野
- そうですね。特に日本の高等教育はドイツの影響をものすごく受けているな、と感じました。講座制だったり、生徒や先生の関係もピラミッド構造だったり。アメリカは全く違っていて、何か新しいことや他と違ったことをしないと認められない、そういう土壌が強いんですね。それが学問においても同様でした。こういったことを、ICUに入って、いろんな講義を受ける中で発見しました。
- 齋藤
- フロンティアで開拓していかないといけないんですね!
- 渡辺
- 初めてお話したときにも、こんなに明晰な方がいらっしゃるんだなぁ…と感じ入ったのを思い出しますが、ちなみに不得意な科目って、あったのでしょうか?
- 平野
- 芸術系の科目ですね。工作は好きだったけれど、図画や製図、絵画なんかは苦手でした。
- 渡辺
- 平野さんにも不得意な科目がおありになった、と聞くだけで若干ほっとします(笑)。でも主要科目というのはほとんどご苦労なさったことはなかったのでは?
- 平野
- 主要科目というと国数英ですか?数学はそこまで得意ではなかったです。理系ではないなと思っていましたし。国語は橋本先生という面白い先生がいまして、どちらかというと好きでした。ICUでは英語開講の授業はだいぶ取りましたね。コンポジションは免除されました。
- 渡辺
- ということは、もともと英語は堪能でいらしたのですか?
- 平野
- 高校のときから英作文を書くのは好きだったんです。発音なんかはだめでしたがね(笑)。
大学に入る前から“窮屈な日本にずっといたくない、海外に行きたい”と思っていたんです。その中で自然とジャーナリストへの道が見えてきました。
- 平野
- 英作文の中でもTheme Writingが一番好きでした。“こういう証拠があるから認めなさい”っていうのを「文章を書く中でできる」ということ、つまりfootnoteをつけるのがとても楽しかったんです。
- 齋藤
- そういった考え方なんかを聞くと、もう入るべくしてNHKに入った!という感じがしますね。
- 平野
- そうかもしれないですね(笑)。
- 渡辺
- 留学についてはいつ頃から考えてらしたのですか?
- 平野
- たしか大学2年生の時に、日独親交協会と外務省のドイツ大使館なんかが主催で論文を募集する企画があると知って応募してみたんです。そうしたら入賞して、ベートーベンのレコードセットを景品でもらいました。それで味をしめましてね。また2年生の秋学期に奨学金に関する同様の企画があるのを見つけて挑戦してみたんです。その結果、留学に行くことになりました。留学に行きたい、というよりは、大学に入る前から“日本にずっといたくない、海外に行きたい”と思っていました。ICUにいる間は気持ちよく過ごしていたけれど、いずれここから出なくてはいけない、もとの社会に戻るのは嫌だなあ、と思っていたんです。
- 渡辺
- 戻りたくないな、と思われた“日本の社会”というのは、言葉にするとどんな社会だったのでしょう?
- 平野
- 窮屈でしたね。それから、たぶん当時の私の判断が稚拙だったんだけれど、日本は今後発展しないんじゃないかって思っていたんです。やっぱり日本という国をある程度良い国にしたのはアメリカだったと思います。それは明治時代、大正時代もそうですし、戦争が終わったあとも日本を自由で明るい国にしたのはアメリカだなぁと。それでアメリカが撤退すると、昔の官僚たちが戻って来たので、日本はまた昔のような国になってしまうのではないか。そこに入っていくのは嫌だなと思ったんです。ただそのあと高度経済成長の時代にもなったので、これは私の判断ミスでしたね(笑)。
- 齋藤
- でもやっぱり日本に比べて、アメリカの方が先進的なことをいろいろしていたから、そこにも惹かれたんでしょうね。
- 平野
- そうですね。当時はみんな外国に行きたがっていましたよ。そのための道はある程度限られていて、商社に入るか、外交官か、特派員になるか。その中で、ジャーナリストの道に進みたいなぁと漠然と思い、だんだん自分の進路が決まってきました。
- 齋藤
- そういった話は、親や友達と相談し合ったりする中で見えてきたんでしょうか?
- 平野
- いや、友達と話すというよりは、卒業生の進路を聞いたりする中で良いなーと思いました。
- 齋藤
- どんな点がいいなぁと思ったんですか?
- 平野
- まずマスコミの試験ほどフェアなものはないな、と思いました。当時大企業はだいだい縁故で決まる面がありましたから(笑)。マスコミの試験に受かれば本物の人間だ、という認識がありましたね。それからもう一つの理由は、帰国後、既卒者に入社試験を受けさせてくれる日本企業はマスコミ以外にほとんどなかったんです。
- 渡辺
- なるほど。それでは日本の企業で就職するとしたらマスコミだろうけれど、その前に海外に出たい、とお考えになって留学にアプライしたということですよね。コーネル大学への留学が決まったとき、どんなお気持ちでしたか?
- 平野
- 初めてのことでしたから、やっぱり嬉しかったですよ。
- 渡辺
- それまでご実家にお住まいだったということは、海外に暮らすことに加えて、初めての一人暮らしでもありますよね。まったく生活が変わったのでしょうね。
- 平野
- そうですね。でも私の奨学金というのは、授業料、生活費、お小遣い、往復航空費も全部含まれていて、ものすごく条件の良いスカラーシップだったんです。スポンサーがNCRという会社だったんですが、昔日本に子会社をつくってだいぶ収益をあげたんですよ。それで会長が日本で得た利益の一部を日本に還元しよう、というんで作ったのがこの奨学金でした。ついでにお話すると、これは表向きの理由で、もう一つわけがあります。当時優秀な人間は外資に見向きもしなくて、みんな日本の大手に就職したんです。それでどうにか注目してもらおうと、ハーバードのビジネススクールか、コーネルの全学科を留学先に設定してこのスカラーシップを設けたそうです。現地にはNCRの工場がありましてね、身元引受人は工場長でした。そういう背景があったので何も心配することなく、金銭的にも待遇面でもだいぶ恵まれた留学でした。
- 渡辺
- ハーバードかコーネルかというのはご自分でお選びになったんですか?
- 平野
- いや、順番でした。私は4期目でしたが、はじめの人はハーバードでMBAを取得してすぐ管理職になり、2番目の方はコーネル大学で原子炉の研究をしていました。3番目はハーバード、という順で、4番目の私はコーネル大学に行くことになったんです。日本の大学は卒業しなくて良いからすぐに来いと言われましてね、秋頃に急いで卒論を仕上げて行きました。そういうことで3月の卒業式には出ていないんですよ。
- 渡辺
- 卒論の提出は通常2月ですよね。先ほどのお話だとインタビューをはじめ内容の濃い卒論ですから、きっと相当なご苦労でしたでしょうね。ICUに比べて、コーネル大学の方が勉強の密度はあがりましたか?
- 平野
- そうですね。社会科学系は本を読まないと話にならないので。1日400ページ読みなさいと言われましたが大変でした。
- 齋藤
- コーネルでのご専攻は?
- 平野
- Government、要するに政治学、行政学です。
- 渡辺
- そのまま日本に帰らないという選択肢は平野さんの中にはおありだったんでしょうか?
- 平野
- ええ、アメリカにいる間に芽生えてきました。でもそれと同時に、ジャーナリストになりたい!とはっきり思い始めたんです。そこで何通か手紙を出しました。まずNHKのNY支局長に手紙書いたけれど返信は来ませんでした。あとは朝日新聞にICU卒の先輩がいるので彼にも手紙を書いたら、わざわざ日本から返信をくださったんです。「ジャーナリズムとアカデミズムは違います。ジャーナリズムの道を選ぶなら、アカデミズムの道は捨てなさい。アカデミズムの道を選ぶなら、ジャーナリズムの道は捨てなさい」と書いてありました。私は両立できるんじゃないか、ということを手紙に書いていたのでね。それで、「そうか、アカデミズムはそんなに魅力あるものじゃないな」なんて思い始めたりして。それで結局この通りジャーナリズムの道に進みました。なしのつぶてで返信も来なかったNHKに就職したというのは皮肉ですが(笑)。
- 渡辺
- そこでマスコミ、メディアの中からNHKというテレビ局をお選びになったのはどうしてですか?
- 渡辺
- うーん。この人の成功はどこからなんだろう?と、どうしても逆算したくなりますが、お話を伺っているとそういうことではないんだなぁ、と改めて感じました。新しい分野で成功した第一世代というのは、純粋に“面白い、好きだな”という想いを追求して探り当てたフィールドに飛び込んだ方々ですよね。”ここでやりたい!“という強い情熱をもって、当時は誰も信じていなかった新しい産業領域で精一杯頑張った結果の成功なのだと思います。矢野さんも不眠不休で大変な時期があったり、大変な努力をされてきたのだと、おっしゃらないけれど、拝察します。
- 平野
- 帰国したのが1964年の夏で、最初に給料をもらったのが東京オリンピック組織委員会の報道部での仕事だったんです。オリンピックは10月10日に始まって24日に終わりましたが、準備期間から関わっていて、オリンピックを報道するために各国から来た報道局の方々のお世話をする仕事でした。その中でテレビの持つ力をひしひしと感じましてね。これからは活字メディアの時代じゃないんだなって思ったことも背景の一つです。
- 渡辺
- そうですか。平野さんはなるべくしてキャスターになられたと今では思いますが、もしかしたら記者としてご活躍する道も、その頃は選択肢にあったかもしれないですね。
- 平野
- そうですね。当時はランキングなんかを見ても朝日や共同通信など、ペンのメディアの方が人気がありましたからね。NHKはちょっと違う分野という感じがしました。私なんかもNHKの番組はアナウンサーが新聞記事を読んでるんだと思っていました。本当に昔はそういう面もありました(笑)。新聞の記事を口語体に書き直す担当者がいましてね。実際に自分でインタビューなんかしていなかったです。だから昔と今では日本のメディアも変わったと思います。
- 渡辺
- やはり、ペンありきなのですね。今までの平野さんの選択や行動をうかがっていますと、東大や朝日新聞が1番という価値観や、当然こうあるものという既成概念に対して、あまのじゃく…というのでしょうか。(笑)ご自分で決める、ご自分で道をつくるという生き方をなさっていると感じます。
- 平野
- そうですね。あまのじゃくだし頑固なところもあるんでしょうね。自分で納得しないと受け入れないっていうところがあります。
まじめな兄に対して、私はエキセントリックな人間です。バランスを保つことが大事だと思っていました。
- 渡辺
- 平野さんは中学校から6年間麻布中高に通っていらしたということですが、ご家族のみなさんも麻布だったんでしょうか?
- 平野
- いや、兄は麻布高校でしたが、親父なんかは違いますよ。
- 齋藤
- お兄様は通産官僚とお聞きしました。
- 平野
- もう辞めましたがね。兄は麻布中高、東大法学部、官僚という典型的なまじめな人間です。兄自身おもしろくない人生だったと言っていますが(笑)。
- 渡辺
- お兄様とは進路についての相談だったり、将来のことを話したりなさいましたか?
- 平野
- いや、兄とは2歳違いですが、そういった話は全然しなかったですね。兄はものすごくまじめな人間なんです。責任感も強いので、東大落ちたらどうしよう、という恐怖観念につきまとわれていたところも多分あったと思います。
- 渡辺
- なるほど。例えば、平野兄弟を客観視してみると、まじめなお兄様に対して弟さんの次郎さんはどういう方だったのでしょう?
- 平野
- 私はエキセントリックですね(笑)。兄は右手、私は左手、という感じで最初から私はいないと考えていた。それから、長男の役割っていうのは旗ふりで、自分みたいな次男の役割はバランサーなんです。バランスを保つことが大事だと思っていました。
- 渡辺
- では、お兄様に対しては尊敬もしているし好きだけど、反発や反抗心みたいなものはおありでしたか?
- 平野
- ええ、ありますよ。今はお酒は飲みません。数年前にやめました。もうずーっと反発しています。今でも付き合いがあるので(笑)。
すべてのことに一回クエスチョンマークをつけて、自分で考え検証して、納得したことだけを伝える。これが私の信念です。
- 平野
- 話が変わりますが、私は会議のときにはいつも違う席に座るんです。例えば、今こうして座っていると、渡辺さんが前に座っていて、斎藤さんが左前に座っていて、見える景色がこうで、と視野が決まっているでしょう。
- 渡辺
- その景色に慣れて、居心地良くなってきたりも。
- 平野
- そうでしょう。だから機会があればできるだけ違う席から、いつも違う角度から周りを見るようにしています。見方を変えないとわからないことってたくさんありますから。気がつかないということはそれだけ得られる情報の量が少ないわけです。やっぱり情報っていうのは100あったらそれを全部手に入れて、その中から自分で取捨選択して、そのうちの10だったら10を発表する。そういうフェアなやり方をすべきだと思うんです。そういうことを含めてね、まず既成の概念や考え方に対しては疑ってかかる、というのが私のスタイルなんです。
- 渡辺
- それはNHKにお入りになったからそうなったというわけではなくて、平野さんがもともと持ってらしたものとお見受けするのですが、どこからそういう気質が生まれたというか、身に付いたのでしょうか?
- 平野
- やっぱり日本はこれで間違った、という考えがあるからじゃないでしょうか。馬車馬のように前だけ見て、見させて、突進して、その結果玉砕してしまったんですよ。こういう気質が日本人の中にもともとあると思うので、用心深くなったんじゃないでしょうか。 もう一つ、全く違う話をしましょう。マルコポーロは中国行きましたか?
- 渡辺
- 行ったと思います。
- 平野
- そうですよね。大学入試では行ったと書かないとバツになるけれど、実は「行っていない」という有力な学説があるんです。東方見聞録のどこを探してもそれらしき記述がないんです。私は学習院女子大学で教えていたことがありますが、必ず一学期に一度は授業の中でこの話をしました。何を伝えたかったのかと言うと、“これまでは常識として当然学ぶべきことはあったけれど、大学生になって、今後社会に出てからは必ず疑問をもって自分の頭で考えなくちゃいけないことがあるんだよ”ということ、その証拠としてこの話をするんです。すべてのことに一回クエスチョンマークをつけて、自分で考えたり検証して、納得したことだけを伝えましょう。これが私の信念です。
- 渡辺
- ICUの生徒はよく変わっていると言われますが、その分、今平野さんがおっしゃったことに対して、ほとんどの在校生や卒業生は納得する部分があるかと思います。ただ、日本人全体では、やはりルーティーンを好む割合の方が高いですよね。会議ひとつにしても同じ席に座って、ヒエラルキーも変わらず残そうとする。その中で常にクエスチョンを持ち続けるというのは時には辛く感じられることもあるのではないかと拝察するのですが。
- 平野
- しんどいですよ(笑)。さっき私が言ったことは、突き詰めれば権威と権力を認めないということなんです。日本の社会で“権威と権力を認めない”っていうのは大変なことです。
- 渡辺
- 最初は尖っていて自分の筋や志があっても、それを通そうとすると組織の中で居づらくなった挙げ句、変節していくこともままあるかと思います。平野さんがそうならないのはどうしてなのでしょうか?
- 平野
- それは私が欠陥人間だからでしょう(笑)。あいつはいつになってもガキだと言われています。ちなみに、斎藤さんがご苦労なさった同窓会の評議員会に数回出席したことがあったのですが、はっきり言うとそれはあまり好きじゃなかったですね。大人になって卒業生たちが集まると、どうしてもその中にひとつの組織みたいのが生まれてしまう。それは会社がどうだとか、年上だとかいう話にも発展していて…もっと自由な学校だったんじゃなかったのかなって思いました。そういう意味であまり積極的になれませんでした。
- 齋藤
- たしかに、ひとつの課題ではありますね。ここまで平野さんのお話を伺ったり、海外を飛び回っていたご経歴なんかを見て、私の持っているNHKのイメージとなかなか結び付かないなぁと正直感じました。NHKは放送局だけれど、ある意味で権威であるというイメージが強いですよね。
- 平野
- たしかにNHKの中でいろいろ言われたり、大変なこともありました。NHKは誇りと自信と責任感はかなりあるのでしぶとい面もあります。民放は視聴者と企業がスポンサーですが、NHKのスポンサーは視聴者であり、時には国なんですね。民放とはそういった違いもあります。それでもNHKにもいろんな価値観の人がいるんです。特に報道のメンバーはみんな何かしら共通するものがあって理解もあり、私は居心地がよかったですね。「新入社員に送る言葉」という、何人かで一章ずつ書いたものをまとめた本がありまして、私もそこに一筆書いたことがあるんです。その中で私は“組織に対する忠誠心は持つな”、と書きました。何故かというと、組織に対する忠誠心と言いながら、たいていそれは組織の中のある特定の人物に対する忠誠心なんです。それは間違いだと思います。私はNHKに対して忠誠心は持っていません。忠誠の対象はあくまで視聴者、および事実です。この二つをしっかり持っていればそれで良いんじゃないでしょうか。
- 齋藤
- よくわかります。それでも平野さんがNHKというひとつの組織の中で成功してきたのはどうしてだと思われますか?
- 平野
- 謙遜ではなく、成功したとは思っていません。ただNHKにとって番組は商品ですよね。商品なんていうとまた怒られてしまいますが(笑)。お客様にアピールする商品のコンポーネントの一つとして、平野はある程度役に立つんじゃないか、とは周りも判断していたのではないでしょうか。あいつはちょっとおかしなこと言うけど、面白いから泳がせて行こうという経営陣の判断でしょうかね。
- 渡辺
- ちなみに組織の中で動きにくいなぁとか、やりにくいなぁと感じたことはありましたか?
- 平野
- いや、ありませんでした。それに上の人にも「もっと好きにやれ」と言われました。
- 齋藤
- それはNHKの中でどんなときに言われたのですか?
- 平野
- 実はね、放送でだじゃれを言ったことがあるんです。怒られると思ったらもっとやれと言われました。おそらく報道の仕事で笑ったのは私が初めてだったと思います。それまでNHKの記者やアナウンサーはしかめっ面をして、世の中の深刻なことは全部自分が背負ってるんだ、というふりをしなきゃいけなかったんですよね。でも私はそういうのが好きじゃなかったから、笑ったりだじゃれを言ったりしたんです。それで怒られるかと思ったら怒られませんでした。意図的ではなく無神経でやったことでしたが、結果的にNHKにとっても自分にとってもプラスになったと思います。恰好つけて言えば、時代の少し先をきちっと読んでいたんでしょうね。そういう感覚はまったくなくて無意識ではありましたけれど。そういう意味ではNHKはすごくリベラルですよ。
本は好きで、SteinbeckやJeffrey Archerの本は全部読みました。端的かつ穏やかに、敏速に言葉を選ぶには豊富な語彙が必要だと思います。
- 齋藤
- 先ほど少し学生時代のお話も伺いましたが、勉強をしていたり、何かを考えているとき以外はどんなことをされていましたか?いろんなことに興味をお持ちになったとは思いますが、たとえばスポーツだったり、友達との関わりだったり。平野さんの一本筋の通った側面はとてもよくわかったのですが、もう一方の人間との交わりと言いますか、たとえば自分をもっと豊かにしよう、みたいなものはあったのでしょうか?
- 平野
- そうですねぇ…。本を読むのは好きでしたね。私は自分の英語力はいびつなものだということがわかっていたんです。それはなぜかと言いますと、社会科学的な勉強ばかりして、ジャーナリスティックな文章ばかり読んでいたので、文化的な芸術的な素養がないんですよ。たとえば花の名前がわからなかったり。それで文学作品を読もうと思ったんです。初めに読んだのがJohn Steinbeckの「チャーリーとの旅」という本でした。チャーリーという少年が犬と一緒に世界を旅してまわるという話なのですが、これがとても面白かったんです。それでSteinbeckの本は全部読みました。それからJeffrey Howard Archerの本なんかも面白くて出版されているものは全部読みました。ですから本は好きですね。最近は目が疲れるし新しい作家であまり好きなものがいないのであまり読んでいませんが。あとは、仕事をしていないとき何しているか…。うーん、ヨーロッパにいるときは運転が好きなのでよく車で出かけていました。それから泳ぐのは好きでしたよ。4期生の佐々木治さんという方が同じくコーネルにいたのですが、勉強の息抜きをしたいと思って一緒にプールに行っていました。そこは決まりがありましてね、男子用のプールは水着を着ちゃいけないんです。一方で女子学生のためのプールは水着を着なきゃ行けないけど、男子も行って良いんですよ。それでキャサリンという女友達がよく誘ってくれて、佐々木さんと一緒に遊びに行っていましたね。
- 齋藤
- 楽しそうですね!なんとなく旅行だったり自然に触れているイメージを持っていましたがそんなことはないのでしょうか?
- 平野
- やっぱりそういう人生を送りたいと思ったらテレビの世界に入ってはいけないですね。例えば、「あなたのご家族が何を食べるかレストランでお話されているのを見ました」というような手紙をいくつか受け取ったことがあります。
- 齋藤
- そうなんですね!その辺は渡辺真理さんも同じなのかな?
- 渡辺
- うーん、そうですねぇ。でもやっぱりNHKのアンカーを務めるということは、ふつうの番組に出るのとはまた違ってくると思います。もちろん信頼もありますが。わかりやすい例えになるか分かりませんが、紅白歌合戦は、例え他の歌番組がどんなに視聴率を取ろうと人気が出ようと、並列では話されないですよね、今でも。NHKの看板というのはある種、別の意味合いを帯びているかと思います。
初めてお会いしてお話したとき、平たい言葉で申し訳ないのですが、「あ、こんなに頭の切れる、スマートな先輩がICUにいらっしゃるんだ」と、感動した覚えがあります。今もそのときの口調と全くお変わりないのですが、ピンポイントで的確に話されます。言葉って便利なもので自分の気持ちや色んな表現を可能にしてくれるのだけれど、時としてスルスルと逃げてしまって、うまく言葉に表せない葛藤も出てきます。平野さんは、どうしてそこまで端的に、かつ穏やかに、敏速に言葉をお選びになれるのでしょう?うかがっても真似できることではないよなぁと思いつつの質問なのですが。
- 平野
- いやいや。でもたぶんそれだけ豊富な語彙を持っているということなんでしょうね。
- 渡辺
- 読書も含めてですよね。その中からぱっとお選びになる、ということですね。それからもう一つ、この記憶力の良さというのはおそらく類を見ないほどだと思うんです。
- 齋藤
- 僕もびっくりしました。もう昔の人の名前や日付がどんどん出てきますよね。これは昔からそのように記憶が良かったのですか?
- 平野
- 家内にはもう認知症だって言われますけどね(笑)。私は勉強はあんまりしなかったし今でもしないんですけど、その代わり「大事なことは一回でも聞いたら絶対に忘れないんだ」って嘯いていましてね。忘れてしまうようなことはたいしたことないって昔から言っていました。でも大分衰えましたよ。
- 齋藤
- きっとご自分の中でぱっとどこかに焼き付けることができるのでしょうね。
「むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに」これが私のモットーです。
- 齋藤
- 学習院の女子大で教えられていたということですが、ICUと比べて何か思う点はありましたか?
- 平野
- そうですねぇ、学習院とICUの似ているところは、まず工学部や医学部がないことですよね。もう一つは立ち居振る舞いがしっかりしているという評価を受けているんじゃないでしょうか。
- 渡辺
- 平野さんご自身がお選びになって学習院で教鞭をとられることになったのですか?
- 平野
- いえ、実はその頃は12~13の大学から教えてくれないか、とお誘いがあったんです。その中から1番通いやすいところを選びました(笑)。それと娘たちがお世話になっていたのでなかなか断れないなと思って。
- 渡辺
- 平野さんから教えていただけることは本当にたくさんあると思います。学習院というプライオリティはもちろん理解できるのですが、やっぱりICUでも教鞭をとっていただけたらと思ってしまいます。
- 平野
- そうですね。ICUで教えることも考えたけれど、結局チャンスがなかったんですよね。
- 齋藤
- 強い信念を持って仕事をして、いろいろ新しい世界を開拓して行く。それらの活動を通じて広く世界を見た先輩が、直接その経験を在校生に教える、というのはとても貴重な機会ですよね。
- 平野
- それはそうですよね。でもまあ私は学者ではないので。
- 渡辺
- いや、知識量でいえば学者や研究者に劣らないので。でも大学で教えるというのは、これまでのNHKでの仕事とは全く違うものでしたか?
- 平野
- 違いますね。でも教師をしてみてNHKの視聴率が上がらない理由がすぐにわかりました。学習院の女子学生は全く興味がないんですよ。第一に美空ひばりを知らない。美空ひばりは日本を代表する国民的歌手なんだよ、と言うと「違います」という答えが返ってきました。それで「じゃあ、あなたは誰だと思う?」と聞くと「B’zです」と言われました。数年前のことです。
- 齋藤
- へえ〜そういう答えが返ってくるんですね。
- 平野
- それから永六輔や井上ひさしも知らない。実は井上ひさしの座右の銘が私のモットーなんです。「むずかしいことをやさしく,やさしいことをふかく,ふかいことをおもしろく,おもしろいことをまじめに,まじめなことをゆかいに,ゆかいなことをいっそうゆかいに」ということです。
- 渡辺
- それはいつからモットーになさっているんでしょうか?
- 平野
- News Todayのリポートを始めたころですね。ニュースはまさに難しいことをやさしくわかりやすく伝えなくちゃいけない。学者なんかは優しいことをわざと難しく話したがる人もいるけど、それじゃあいけないと思うんです。学習院でこの話をするときに井上ひさしの話をしたのですが、学生はみんな知らないんですよ。それで、そもそも興味がないからNHKを見ない、視聴率が上がらない、ということがわかりました。
- 渡辺
- 池上彰さんも私がNHKに通わせていただいていた頃のデスクだったのですが、「そうそう、そこが知りたかったんだよね」っていう視聴者に向かった分かりやすい伝え方を徹底して追求するスピリットは、平野さんのモットーをはじめNHKの中に脈々とひと筋あるのですね。
- 平野
- 源流をたどるとすべてのジャーナリストに辿り着くんだと思います。特にNHKの場合はそうですね。なぜかというと、NHKは受信料をいただいているんです。その受信料を払ってくださっている方たちの全員が高校や大学を卒業しているとは限らない。だから私たちが入社するときには、「君たちの書く原稿は、義務教育を受けた人ならだれでも理解できないと行けない」と言われました。だからできるだけ原稿はやさしく書いて、証拠を映像で見せたりスタジオに持ち込むように努力していました。
- 渡辺
- そういうことをずっと考えて報道していらした平野さんからご覧になって、ここ数年のニュースや情報番組はどう映りますか?
- 平野
- うーん、情報番組はなんだか食べ歩きが多いですよね。ニュース番組は当たり前だけど、良いのもあるし悪いのもありますよね。
- 渡辺
- その良し悪しはどういうところでしょうか?
- 平野
- やっぱり心を込めて作っているものと、そうではなくただ番組にするために心なく作っているかどうかは、見ていればよくわかります。
- 渡辺
- ちなみに、今後テレビはどうなっていくと思われますか?
- 平野
- テレビとインターネットがもう合体していますよね。その結果、発信者が放送局だけではなくなっている。そうすると情報にも質的にずいぶん格差が出てくると思います。そこをどうやって泳いでいくかが肝でしょうね。あとは受取側の力量の発しどころでもあって、どれだけの身構えでもって様々なメディアが発する情報を受けとめるかということも大切になってくると思います。
- 渡辺
- というと、メディアとしては見ている視聴者に合ったものを発信する姿勢も強まっていくのでしょうか?
- 平野
- うーん。ただね、テレビってお金がかかるんです。だからお金を持ってる人しかそういうゲームに参加できなくなるのかな、いうことは実感しました。まあ正直言って今の私にとってテレビは煩わしい、うるさいですね。
- 平野
- 地上波も含めて?
- 平野
- そうです。
- 渡辺
- たしかに内容はあまり濃くなる方向ではないですよね。スカってしているという面も…。
- 平野
- 全然濃くはなっていないです。人間の知恵っていうのはそんなに次から次へと出てくるものじゃない。結局は自分たちの時代の焼き直しにすぎないから、結局うすい印象しか受けないんですよね。
- 渡辺
- 今部数が減っていますが、新聞はどうでしょう?
- 平野
- 新聞は、記録のためには必要だと思います。ということは、記録が間違ってはいけないから、正確さが大事ですよね。それが記者の方々の努力の目標だろうなとは思います。でも正直言って新聞もあまり読みたくないですね。
- 渡辺
- 今でも英字新聞もお読みになるんですか?
- 平野
- 英字はときどきしか読みません。でもエコノミストはやっぱり一番おもしろいと思います。
「気品と気概をもちなさい」、「神と人とに奉仕する」とはどういうことなのか?最近よく考えています。
- 渡辺
- 最近、これが気になる…ということなどあったら教えていただけますか?
- 平野
- うーん、歳をとるとだんだん昔のことを思い出すようになりましてね。この前女房と話していたのは、湯浅八郎先生が「気品と気概をもちなさい」と学生に対してよくおっしゃっていたんです。気品とは一体何を意味していたのか、気概とは何を表現していたのか、気になりましてね。これは考えれば考える程わからない。とくに気品についてがわからないですね。気概はまあガッツを持て、ということだと思うのですが、なぜ湯浅先生は学生に対して気品を求めていたのかな、ということが最近の新しい疑問です。 それから「神と人とに奉仕する」とはどういうことなのか。昔チャールズ・アイグルハートという方がいたのですが、面白い人でね。富士山の頂上はひとつしかないけど、登り口はたくさんある。これを宗教にたとえてお話をされて、頂上の心理に達するために仏教口か、イスラム口か、キリスト口か…選ばなければならない。これは大変な宗教哲学ですよね。
- 渡辺
- 最後に在校生やこれからICUを受験する学生のみなさんに対して、メッセージをお願いします。
- 平野
- とにかくICUは良い学校ですよ、と伝えたいです。
プロフィール
平野 次郎(ひらの じろう)
国際基督教大学社会学科を卒業後、コーネル大学大学院に2年間留学。1965年(昭和40年)、帰国してNHKに入局した。初任地は横浜放送局であり、以後、東京政治部、アメリカ・ワシントン支局特派員を歴任した。1980年(昭和55年)からは、同局の情報番組『「海外ウィークリー」』にテレビ出演、幸田シャーミンとともに番組の進行を務めた。また、ニュース番組『NHKニュースワイド』、『ワールドニュース』への出演、同『NHKニュースTODAY』のアンカーマンなどとしても広く知られることとなった。1991年(平成3年)にはNHK解説委員室に就任。国際問題を専門に担当し、定年退職後の2004年(平成16年)3月まで同職を務めた。同4月、学習院女子大学特別専任教授に就任、現在はシンポジウムコーディネーターなどとしても活動している。ドラマ『ザ・ホワイトハウス』の日本語版では監修を務めた。