プロフィール
画家。神奈川県鎌倉市生まれ。幼いころから絵の世界にふれ、フェリス女学院、ICU国際基督教大学に在学した後、日本航空のCAとして活躍。結婚後、1969年からロンドンに数年間滞在。子育ての傍ら絵筆を握り、1984年の鎌倉朝日大賞展 大賞、1996年の鎌倉美術家協会展 馬渕聖賞、1998年の笹りんどう賞、1997年の熊谷守一大賞展 佳作賞、2005年の青木繁記念大賞展 大賞、2009年の神奈川県展 特選など、数々の賞を受賞。
- 齋藤
- 今日はよろしくお願いします。今日は鎌倉からお越しいただきましてありがとうございます。実は、数年前から「画家になられて、素晴らしい絵を描いている方が同窓生にいらっしゃる」とは聞いていたのですが、お願いするのがすっかり遅くなってしまって、本日お話を伺えるのがとても楽しみです。
- 渡辺
- 有難うございます。ICUは家庭の事情もあって、卒業はしていないので、皆さんの参考になるかどうかは分からないのですが、どういうわけか、2005年の青木繁記念大賞展で、大賞という結構な賞を頂いて、こうしてお声掛けしていただけるのは嬉しいですね。
- 真理
- 先輩で、画家になられた方にお話をうかがうのは初めてなのです。ご本人を前に申し上げるのは失礼かと思いつつ…でも、本当に若々しくていらっしゃいますね!お洋服も、アクセサリーの色合いもとても素敵で、さすが絵を描かれる方だなぁと思いました。
- 渡辺
- 普段画廊を歩く時には黒ばかりなのです。目立ってしまうし、絵との兼ね合いで、絵を引き立てなくてはならないから、最近ではお花も貰わない画廊があるぐらい。今日は、渡辺さんにお会いするから、と思って明るい色を着てきました。
若いころに受ける印象は鮮烈。両親や親戚、先生や牧師様、先輩など、身近な方に、絵を愛する気持ちや、クリスチャニティ、広い世界観などを育んでいただきました。感受性が豊かな時に与えられる影響は新鮮で、一生を通じて強く残るものなのですね。
- 齋藤
- 素晴らしい賞を取って画家として活躍されていますが、いつ頃から絵を始められたのですか?
- 渡辺
- そうですね、絵はずっと好きで、小さな頃から描いていました。叔父は絵が上手で、初めの手ほどきはしていただいたかしら。兄弟は、姉が1人、弟が2人で、姉と通った女学校の時の絵の先生が、風間完さん(挿絵の第一人者で、司馬遼太郎さんや遠藤周作さんなどの、新聞や雑誌の連載に挿絵を描かれていた方)のご兄弟でした。その先生の御指導の下に水彩で描いていました。当時は絵の先生について個人的に勉強というような時代ではなかったので、正式に習ったことはないのです。
- 齋藤
- ご両親の影響などもあったのですか?
- 渡辺
- 両親も絵は好きでしたが、母は日舞や三味線など和の世界の住人で、父のほうが、絵画など、どちらかというと洋風のものを好んでおりました。いとこに日本画を描いている方がいて、そんな方々の影響も受けたかもしれません。
- 真理
- それは、きっと大きいのでしょうね。身近に好きな方がいらっしゃると、知らず知らず良い影響を受けますよね。
- 渡辺
- ええ。でも、風間先生の絵が、私はあまり好きではなくて、、、。とても良い方で、素敵なお人柄ではあったのですが、絵の方は心にアピールしてくるものがありませんでした。そのせいでしょうか、絵には興味が湧かず、大学はICUに行くことにしてしまいました。女学校の時の6年の影響は大きいですね。
- 真理
- では、小さい頃から画家になろうと決めていらしたわけではないのですね。
- 渡辺
- はい、ただ、後になって母から、実は風間先生が、私に絵の方面に進むことを勧めていらした。と聞いてびっくりしたことがあります。その時に言ってくれたら考えたかもしれないのに、本当に、ずっと後になるまで聞かされなかったのです。母としては、絵の方面に進むのは心配だったのかもしれないですね。ICUに行ったから、主人に巡り合ったので、それも良かったと思います。
- 真理
- やっぱり才能は芽生えてたのですね!
- 齋藤
- 本当ですね。でも、それでどうしてまたICUに?
- 渡辺
- それもやっぱり先生の影響ですね。中高と横浜のフェリス女学院に通っていて、そこがミッションスクールだったというのが一つ。ただ、ICUに行く人は学年に1人ぐらいでとても少なくて。もうひとつは、先生が、推薦入学をすすめて下さったからですね。もっとも推薦入学はその当時都道府県に1名づつというきまりがあったようで、合格できず、結局普通の試験を受けて入学しました。当時の私はアンチクリスチャンだったので、どうして先生がICUを進めてくださったのかは不思議ですが、先生には何か感じることがあったのでしょうね。それで、結局、ICUで豊留牧師から洗礼まで受けましたから、何か、見通していらしたのかしら。今は良くないクリスチャンで、殆ど教会には行っていないのですけれど(笑)。
- 齋藤
- アンチクリスチャンから、洗礼を受けるまでに変わったのはどうしてでしょうね?
- 渡辺
- そうですね。思い返せば、特にきっかけとなる出来事はなくて、ICUの素敵なクリスチャンの方々にふれて、その世界に自然に入って行ったのでしょうね。豊留先生の深みのあるお説教や、第一女子寮でアドバイザーをされていた平野四郎先生と奥様の平野百合子様(現在は緒方百合子様で大井町教会の会員)の接点、毎週の教会での礼拝などに影響を受けたのだと思います。
- 齋藤
- それはすごい。毎週礼拝に行かれていたのですね。今の学生さんはなかなか行かないようですよ。素晴らしいですね。
- 渡辺
- それも、気負って行ったのではなく、何となく、自然になのです。私の子供二人はカトリックの学校に行って、もうすこしで洗礼を受けるところまで行ったのです。神父様の熱心な勧誘もありましたけれど、二人とも純粋だったから、多感な頃に心の中に入ったものというのは強いですね。私がプロテスタントだったので、もう少し他のものを見てからにしたら?と言って、その時には洗礼は受けなかったのですが、結婚式の時にはそのお世話になった神父様に司式をしていただくなど、ずっと関係は続いているようですし、洗礼を受けるならカトリック、と今も言っています。若いころの影響は鮮烈なのですね。
- 真理
- ICUの大学生活はいかがでしたか?
- 渡辺
- 大学生活は本当に楽しかったですね。寮生活は4人部屋で、その先輩たちがフレッシュマンである自分を大事に導いてくださり、仮装パーティあり、イベントありでホームシックになっている暇はなかったです。初めての仮装パーティでは、先輩が私を飾るために、ベッドのシーツを使って、もう大変!楽しいことがいっぱいでした。英文科の教養学科(ヒューマニティ)でしたから、1年間の太田先生、2年目の斎藤先生の英語はとても厳しかったけど、2年の1学期に大学を辞めていましたので、専門的に学ぶ前だったのが今でも残念に思っています。
- 真理
- ご主人とはどんなふうに知り合われたのでしょう?
- 渡辺
- フェリス女学院では音楽の世界に入ることが無かったのですが、大学ではその分野にチャレンジしたいと思い、グリークラブに入りました。そこに主人が居りました。私が1年生で彼が4年生でした。私はその頃、武蔵野のクヌギやワサビの畑などの水彩画を描いていましたが、主人が卒業する時に、彼が作成を担当していたコンボケーションのポスターを引き継ぐことになって縁が出来ました。当時はとても真面目だったので、お付き合いしたら結婚までは約束しないけど、ステディではありましたね(笑)。
CAとして、妻として、母として。世界の広がりが、自分の中に小さな頃から持っていた“何か”を蓄積して行った。自分の中に”何か“がある人は沢山いる。それを外に出すきっかけを少しずつ積み重ねて、絵が自分の中心になって行った。
- 齋藤
- 2年の1学期に大学をお辞めになったとのことですが、それはまたどうして?
- 渡辺
- それが、父は終戦後、シベリアに抑留されていまして、帰ってきてから、生活が出来る様になりましたが、その後いろいろとありまして、下に弟が2人いることを考えると自分だけがのんびりとICUの学生生活を楽しんでいるのは間違っていると思いました。そんな折、同級生の友、平本統子さん、(現在、岩崎統子さん)がJALのCA募集の情報を見つけてくれ、その試験を受けて日本航空に入ったのです。
- 真理
- そうなのですか!私の母も日本航空の9期の客室乗務員でした。当時は人数が少なかったと母から聞いているので、きっとどこかでご一緒させていただいたかもしれませんね。
- 渡辺
- 本当ですね。私は16期で同期は15人ぐらいしかいないし、いろいろ広報にも関わりましたから、分かるかもしれないですね。
- 真理
- あの頃のCAは、国外に行くと1週間ぐらい帰ってこられないですよね。日本航空では、女性は一人で外を出歩かないようにとのお達しがあるなど厳しかったとか。いろいろ大変だったのでしょうか?
- 渡辺
- そうなのです。ヨーロッパ便が就航した当初は、便は1週間に1回しかなかったですね。すると、コペンハーゲンに1週間滞在しなくてはならないのですよね。私は真面目に“国境を越えるな”というルールに従っていたのに、お友達は自転車で色々なところに行かれて、小さな教会堂で有名なオルガニストに出会うなど、素敵な体験をされた方もいるんですよ。勿体ないことをしたなって、今となっては思います。
- 真理
- ご主人は心配なさいませんでしたか?
- 渡辺
- それは、心配したかもしれませんが、主人のお友達(3期の小川洋司さんや鈴木良一さん)がパーサーになっていて、お目付役だったので安心したのかも(笑)。
- 齋藤
- CA時代に絵は描かれなかったのですか?
- 渡辺
- たまには絵を描いたりもしたが、皆さんと一緒だったから、あまり表には出さずに、皆様とお付き合いをしていました。CAは先輩後輩に厳しい世界でしたから、自由にはできなかったですね。3年間CAをした後に結婚したのです。勿論、結婚式はICU教会です。それで、当時は結婚するとCAは辞めなくてはならなかったので、秘書課に異動になって、そこで長く勤務しました。絵は、少し水彩画を描いただけ。ただ、乗務していた間に見たり聞いたりしたことが、自分の記憶に残り、身体や感覚に残って、それらが絵を描く度に何となくイメージに出てくるのは大変大きいことで、これからも大切にしてゆきたいと思っています。
- 真理
- 否応なくでも海外にいらっしゃると、世界は広がりますよね。
- 渡辺
- 結婚してから、主人が外資系に転職して、ロンドンの国際部で勉強させて頂くことになったので、3年くらいロンドンに住みました。そこでの生活でも+αが加味されたかもしれないけれど、CAの頃に世界を飛び回っていた影響は大きいですね。
- 齋藤
- ロンドンでは何を?
- 渡辺
- ロイヤルアカデミーオブアーツで勉強したかったのですが、ICUの卒業資格が必要で無理だったのです。でも、向こうは生涯教育のシステムが発達していましたので、社会人向けの絵画のプログラムがあって、それに通いました。ただ、子供も生まれましたし、日本の商社ほど大変ではないけどお客様とのお付き合いもありますし、それであっという間に年月は過ぎてしまいました。ロンドンで、あるおじいさんから譲っていただいたアンティークカーは、日本に持って帰ってきて大事にしていて絵のモチーフにもなりました。
- 齋藤
- その絵はネットで拝見しました。素敵ですね。
- 真理
- ご主人は絵の勉強に関しては、どう言われたのですか?
- 渡辺
- 主人は私より絵が上手だったのです。出身は仙台で、高校生の頃に大きな賞を取って、後に銀座で画廊を経営することになる当時のお友達に、「お前は絶対に芸大に行け」と言われたのに、ICUを選んだそうです。その方はずっとそれを残念に思ってくださった程で、、、ですから、主人も絵が好きで、全く反対はされなかったですね。
- 真理
- では、ご主人も一緒に絵を描かれるのですか?
- 渡辺
- 私が絵を始めてからは全く描かなくなりましたが、大学生のころに私を書いてくれたデッサンなどは残っているのですよ。
- 齋藤
- そうなのですか。私は、絵で賞を取るような方は、小学生の時も学内展覧会で賞をもらって、ご主人のように高校生の時にも賞をもらって…というようにいつも賞をもらったり、誰かに褒められたりしている、というものかと思っていました。渡辺さんはどうして賞が取れたのでしょうね。
- 渡辺
- 学生時代の賞というは主に小、中、高校での絵画の先生の指導によるもの、それから家庭での絵画に対する誘導などが大きいと思います。勿論、小さな頃から、自分の中には何かがあったのだと思います。でも、それが外に出るきっかけがない方も沢山いて、小学校・中学校など小さな頃から一途にそれを目指されるような方に比べると、中途半端だったのかもしれませんけど、ずっと好きだったのは確かで、それが何となく自分の中心になって行ったのかもしれないですね。
- 真理
- 外の世界をいろいろ経験なさってから、絵の世界に戻られたのですね。
- 渡辺
- それで、英国から帰って来てからも絵は書いていて、子供が学校に入ってから、本格的に油絵を始めたのです。それも、母親の子供へのアテンションが強くなりすぎるのをコントロールしようと思って、絵に力を入れ始めたのです。そうしたら、1984年に、鎌倉朝日大賞を初めての賞として貰えたのです。これは、審査員で日展の顧問だった中村琢二先生が選んでくださったのです。
- 真理
- 思い出話になってしまいますが、中村琢二先生は、私の祖父の親友で、よく祖父のところに遊びにいらしたので、おじいちゃまのようにお慕いしていました。私が小さい頃や、母の若い頃の絵も描いて下さいました。今思うとバチ当たりですけれど、私は小さい頃じっとしているのが辛くて、描いてくださる間中、拗ねてものすごく不機嫌で。先生は非常に正直な方だったので、そのままの“むすっ”とした顔の絵を作品展に出品なさっていました。でも、さすがにそのまま飾るのはかわいそうと思われたのか、うちには私が普通ににっこり笑った絵をくださいました(笑)。
- 渡辺
- とても素敵な方ですよね。
- 真理
- これが芸術家と言うものか、と実感したのは、アトリエが足の踏み場がないくらい、大変な散らかりようだったことです。キャンパスが無造作にたくさん置かれてて、パレットに絵の具が渇いたままになってたり。おばあちゃまが優雅にプードルを抱いて、「このお部屋はタイヘン・・・」と言っていらしたのが記憶に残っています。でも、ご本人は、そのままで全て分かってらっしゃるようで「片付けられたら、かなわん」とおっしゃってました。
- 渡辺
- 我が家は、家全体だからもっと大変なのですよ。以前取材に来た方は、撮影が上手で、ぐちゃぐちゃなところを避けて、上の方だけとって掲載してくださったのです(笑)。そうしたら、その写真を見た方が、素敵なおうちと褒めてくださったのです。プロは凄いですね。自分としては、こちらには鎌倉美術家協会関係の書類の山、こちらには横浜市ハマ展関係の山、こちらには違うものと分けてあるんですが、他の方からはどれもゴミに見えるんです。たまにお掃除を助けてくださる方が片づけてくださると、折角の整理されていたものがわからなくなってしまう。主人にもお客も呼べないと文句を言われてしまうから、片づけるのですが、なかなか片付けきれないのです(笑)。
- 真理
- やっぱり芸術家の方はそうなのですね!中村琢二先生は、画壇で色々な役を務めたすごい方なんだと成長してから知りましたが、子供の頃の私が接した感覚では、とても率直で淡々としてらして、芯が優しいだけに正直にものをおっしゃる厳しい方でした。きっと審査においても、そうだったのでしょうね。積み上げてきたキャリア以上に、絵そのものを見ていらしたはず。その先生に認められたというのは、鎌倉朝日大賞の絵も、本当に素晴らしいものだったと拝察します。
- 渡辺
- 有難うございます。20号の向日葵と果物の絵で、向日葵があって、梨がごろごろ転がっているような絵だったのですよ。
- 齋藤
- 私は画家の仕事を知らないので、どのような流れで仕事をされているのかはわかりませんが、例えば、モチーフを選び、絵を考え、完成させるという流れがあるとしたら、どんな時が一番大変だったり楽しかったりするのですか?
- 渡辺
- 絵を描いている時、途中段階は必死ですから、書き終わった時が一番楽しいですね。最後の最後に、これでいいかな、と思って筆を置くときに、感動します。この瞬間が一番楽しい。でも、描いている間は迷うこともあり、途中で考えが変わることもあり、これでいいと思えなくて、分からないまま発表してしまうことだってある。だから、いつも満足しているわけではないし、満足したものが間違っていることだってあるんです。例えば、作品展に3点出して、一番気に入らなかったものが評価されることもあり、それは自分が満足したことが間違っていたということになります。まあ、展覧会によっては、100人近い会員が全員投票するから、何とも言えないこともありますけれどね。
- 渡辺
- 好きな絵、描きたい絵も、段々と変ってきます。私は初めに日展の先生についていたけれど、自分が変ってくると、先生の考え方とのずれが出てきて、その先生の下では自分が発展できないと思う様になりました。これは辛いですね。でも、絵の世界では先生を変えるというのは大変なことで、私は先生がいいよと言ってくださるまで10年待ちました。それで、日展系でない在野の(新制作展、独立展、二紀展等の)公募展に移って、先生を変えることが出来ました。
- 真理
- 順風満帆でいらしたのかな、と思ったら、大変な思いもなさっているのですね。ストラグルがあった時期もあるのですね。
- 渡辺
- そうですね。絵の世界では政治的なことや、人の影響が赤裸々にあるから、色々あります。でも、私は逆に、えいここで頑張ろう、と思って今の世界に突入したのです。我慢する時期が10年も続いて、やっと、自分が考えたことが、できるようになったのです。
- 齋藤
- 画家になられて良かったことは何ですか?
- 渡辺
- 自分の心の中に居られて、のんびりと世の中のITやパソコンや携帯や…、という流れからはずれていても、絵があるから許されてしまう、ということかしら。
- 真理
- 楽しそうですね!
- 渡辺
- それは楽しいですね〜。でも、あと期限まで3日しかない、という時などは、気持ちが追い詰められて大変。私はストレスが爪に出る性質で、爪がボロボロになってしまうのです。次の展覧会に向け制作しますが、時間的に間に合う様にしなければなりませんから、そうなると徹夜などして、、、、。
- 渡辺
- 自分の絵のことは良く分からないけれど、人の絵は面白いことに良く分かるので、人の相談に乗ったりもしています。ただ、新しい感覚を取りこまないと、などと言っても、自分自身が変わらないと、絵は変わらないから難しいですね。そこに、自分の気持ちを組入れ、現代性が感じられるように動かしていくことが出来れば、それが自分のもの自分の画風になっていくのです。
- 真理
- とても貴重なお時間を頂いているんですね。ありがとうございます。
- 渡辺
- CAの頃の経験は役に立っていますね。例えば、CAの頃に昼間この3時間を寝ておかないと体がもたない、などの経験がたくさんあったので、主婦、画家、主人の来客接待など仕事の時間配分や切り替えには慣れました。
- 真理
- ICUから画家になりたい、というか、なれる人はあまりいないのかもしれませんが、やはり画家というのは難しい職業なのでしょうか?また中村琢二先生の話になりますが、学生の頃、絵の道に進まれることにお父様が大反対なさったため、一度は東大経済学部に入り、でもやっぱりどうしても絵を諦めきれず、画家を目指されたそうです。
- 渡辺
- 画家は、食べていくのは本当に大変。いろいろな芸術大学や美術学校から毎年ベルトコンベアーに乗った製品のように卒業生が出てきて、その中で画家になれる人なんてごく一部。だから、男性が仕事としてやるのは大変ね。女性でご主人がいればまだしも、そうでなければかなり難しいでしょうね。更に、今は経済界が大変だから、芸術界への余波も大きいですね。どこも予算を削られているし、3月11日直後に個展をやった方がいますが、全然人が来なかったそうです。残念ながら、絵どころではない時もありますね。
- 真理
- 人にとって必要なものから数えたら、空気や水、電気やお米となっていくのは分かるのですが、もしかしたら、そんな時こそ人に豊かさをもたらすものが大切にも思えます。
- 渡辺
- 実は私も少し前に鎌倉で個展をしました。開催はどうしようか迷いましたが、お花の絵を中心にしたら、見てホッとしてもらえるかもしれない、と思って、実行したのです。皆さんそう思ってくださったようで、やはり開催して良かったな、と思っています。直後は心よりも体のことや、食べ物のことが優先するけれど、もう少ししたら絵で何かお役に立つことになれば、と願っております。
- 真理
- 絵であっても、音楽であっても、無くてもいいかもしれないけれど、あると豊かになれるものは本当に大事ですよね。
- 渡辺
- そうですね。今は、現地で子供たちと一緒になって絵を描くことをされている先生もいてとても素敵だ、と思っています。私には、そこまではできないけれど、教会のバザーに私のいろいろな作品を絵ハガキにしたものを寄付して、売上を義援金にしていただこうと思っています。
- 真理
- では、最後にICU在校生やICUを目指している人へのメッセージをお願いします。
- 渡辺
- ICUは良いところ、素晴らしい大学、それが全てだと思います。我々の子供たちは違う大学に行って、それはそれで得るものはあったと思いますが、ICUは、ICUでしか学べない何かがある気がします。そして、それがとても大きいのではないでしょうか。私たちは6期生ですが、1期、2期の方々の心意気にふれると、ICUの創立の理念や心構えを感じ、それが私達の中にもずっと生きているような気がします。最近はどの程度かは判りませんが、それがこれからも受け継がれてほしいし、若い方々にも感じていただきたいと思います。
プロフィール
渡辺 幸子(わたなべ さちこ)
画家。神奈川県鎌倉市生まれ。幼いころから絵の世界にふれ、フェリス女学院、ICU国際基督教大学に在学した後、日本航空のCAとして活躍。結婚後、1969年からロンドンに数年間滞在。子育ての傍ら絵筆を握り、1984年の鎌倉朝日大賞展 大賞、1996年の鎌倉美術家協会展 馬渕聖賞、1998年の笹りんどう賞、1997年の熊谷守一大賞展 佳作賞、2005年の青木繁記念大賞展 大賞、2009年の神奈川県展 特選など、数々の賞を受賞。これまでに、14回の個展を開催し、作品は、鎌倉市、石橋財団石橋美術館、北里研究所、横須賀共済病院等に収蔵されている。新制作展所属、横浜美術協会会員、神奈川県女流美術家協会会友、鎌倉美術家協会会員、日本美術家連盟会員。