INTERVIEWS

第27回 矢野 創

JAXA宇宙科学研究所助教,慶應義塾大学院特別招聘准教授

プロフィール

矢野 創(やの はじめ)
1967年東京都生まれ。1991年ICU理学科卒。英国ケント大学院宇宙科学科博士課程修了。米国NASAジョンソン宇宙センター研究員等を経て、現在JAXA宇宙科学研究所および月惑星探査プログラムグループ・助教。慶應義塾大学院システムデザインマネジメント学科・特別招聘准教授。Ph.D., PMP。専門は太陽系探査科学、宇宙環境科学。特に小惑星・彗星・宇宙塵・流星等の太陽系小天体の理論・観測・分析・実験・探査の融合的研究を進めている。

 

齋藤
今日はよろしくお願いします。今日は矢野さんから「宇宙」という知らない世界のお話をお伺いできるのを楽しみに来ました。
矢野
こちらこそ、よろしくお願いします。ここへ来る前にHPでこれまでの記事を見させていただいたのですが、一つひとつの内容が濃く、多士済々な方々にインタビューなされていると知りました。このコーナーを検索エンジンの上位に掲載してもらって、ぜひ多くの方に読んでいただきたいですね。
渡辺
これから大学へ進む人の中で、ICUの環境に魅力を感じていて、同時に宇宙関係にもとても興味がある!という方もいらっしゃると思います。そういった分野のお話もお伺いできれば嬉しいです。
私は日本で大学や宇宙機関に入るためにキャリアを目指したわけではなくて、“自分で宇宙を探査する”という子供みたいな夢を追い続けるためには世界のどこで何をしたらいいか、ということを小さい頃からずっと考えていたんです。ICUを選んだのもそのプランのひとつでした。その結果として、今は日本にいるわけです。
齋藤
まずは現在、矢野さんがご専門としてやっていらっしゃることを簡単に説明していただけますか?お名刺を拝見すると肩書きがたくさんあるので“簡単に”とはいかなそうですけど(笑)。
矢野
これは肩書きではなくて、併任の仕事が多いんです。最も基本的な仕事は、大学院の教員としての研究と教育です。私のスタート地点は科学者です。具体的には、小惑星や彗星、そのかけらである流れ星や宇宙塵や隕石を調べて、私たちが住む太陽系や地球、そして生命の原材料が作られた頃の様子を解き明かそうとしています。人類史上初めて小惑星のかけらを地球に持ち帰ったはやぶさプロジェクトにも、その一環として開発段階から地球帰還まで関わってきました。 そこに至る道のりを順に話すと、まず20年前にICUのNSを卒業した後、イギリスで宇宙科学の博士号をとり、日本学術振興会のポスドクという“期限付き博士研究員”として日本の宇宙科学研究所(ISAS)に戻って来ました。当時自分の研究分野を活かすことのできるプロジェクトがちょうど日本で進められていると知り、応募したところ運良く受け入れてもらえたのです。 実はそのときにNASAに行けるチャンスもあったのですが、日本のプロジェクトについてNASAに伝えたところ、“せっかく良いタイミングで巡り合えたのだから活かした方が良い。また機会があれば来てもらうことになるだろう”と言われたんです。人工衛星や宇宙探査機は、飛行機のように毎日あがっているわけではないので、宇宙分野では、正しいタイミングで仕事を選ぶことがとても大事なのです。ISASのポスドク任期中に日本国内の大学研究室のポストもいくつか受けましたが、最終選考まで残っても全部落ちてしまったので、ヒューストンにあるNASAジョンソン宇宙センターに彗星探査にかかわるテーマを提案して改めて申し込んだところ、再び受かったので、渡米することになりました。
矢野
ちょうどNASAでポスドクとして研究しはじめて1年程経った頃に、古巣のISASで小惑星探査に関するポストが公募されたんです。メインの仕事は、はやぶさ探査機の試料採取装置を作って、サンプルを分析することでした。少なくとも3年間はヒューストンにいるつもりで渡米していたので応募すべきか悩み、NASAのボスに相談したところ、「もともと宇宙探査の枠は世界規模でも小さいし、日本においてはさらに限られてくる。しかも今度の公募は、お前の研究分野にドンピシャのテーマ。これを逃したら次はいつ日本にチャンスがまわってくるかわからないし、募集対象はもうお前の次の世代になっているかもしれない。今のチャンスに手を挙げなくてどうするんだ。」と言われ、アメリカから再度日本に戻ることを決めて、現在に至っています。 つまり、私は日本で大学や宇宙機関に入るためにキャリアを目指したわけではなくて、“自分で宇宙を探査する”という子供みたいな夢を追い続けるためには世界のどこで何をしたらいいか、ということを小さい頃からずっと考えていたんです。ICUを選んだのもそのプランのひとつでした。その結果として、今は日本にいるわけです。
齋藤
そのプランの中で、なぜ進学先にICUを選んだのでしょう?
矢野
1980年代の日本では、宇宙について本格的に研究できるのは大学院に入ってからだったんです。でも私はそれまでの時間がもったいないと思ったんですね。“学部の間にどっぷり天文や宇宙科学に浸れるルートはないか”と思い調べたところ、アメリカやイギリスではそれができると知ったんです。本当はその国の大学に進学できたらいいのですが、後でお話しする理由から、国内に進学する必要がありました。そこで天文学を専攻できる英米の理系大学と単位を互換して留学する方法を考えたときに、ICUか早稲田という選択肢が見つかりました。
渡辺
早稲田ではなくICUを選んだ決め手は何だったんですか?
矢野
理由はいくつかあったのですが、ひとつめは何と言っても、世界トップレベルの天文学科があるカリフォルニア大学バークレー校へ単位互換留学ができるチャンスがあったこと。次にマンモス大学の対極にあるICUは、規模が小さいゆえに教授との距離が大変近くて、基礎をしっかり学べることが魅力的でした。それから私は都立高校出身で、同級生の約半分が早慶に受かるので、選べるなら高校時代と異なる環境でも自分が通用するか試したい、と思ったんです。あとは、ICUは一年生の春学期から奨学金がもらえるんですね。それで学費が半額免除されれば早稲田に比べても圧倒的に安く、国立並みになる、ということで決めました。
渡辺
なるほど。矢野さんにとってICUはどんなところでしたか?
矢野
一つの通過点として、わりと自然に自分の中に入って来た場所ですね。“やりたいことは自分の責任でやりなさい”と言われると、他人に迷惑をかけないようにしなきゃという意識が働いて、かえっていいかげんなことはできなくなるじゃないですか。ICUの校風は、そうやって親に言われて育った自分と相性がよかったんだと思います。実は中学1年生の夏休みに、友達と3人で東京の日本橋から京都の三条大橋まで二十日間かけて、東海道五十三次を歩いたんです。
齋藤
え!?またすごいことしてますね!
矢野
もちろん友達の親は大反対して、学校でも職員会議が開かれてしまいました。それでもどうにか実行したくて、まずは実際に自宅のある荻窪から新宿の間を歩いて、荷物の重さも考慮しながら、かかる時間や疲れ具合なんかを細かく調査しました。毎朝登校前に10km近くジョギングして足腰も鍛えました。次に国道1号線沿いの海岸線は長めに、逆に箱根や鈴鹿など、山がちで坂が急なところは短めに見積もりながら、毎日どこからどこまで歩いて、どこに泊まるのか、一週間ごとに親に確認してもらうことなど、すべて計算して全日程の計画を立てました。それをレポートにまとめてプレゼンして、友達の親や学校を説得しようとしたんですね。 それでも職員会議は最後まで認めてくれなかったのですが、当時の担任の先生が最終的に「私は矢野くんの夏休みの予定、知らないよ」って言ってくれたんです。これでいよいよ失敗できなくなりますよね。なんとか無事成功できて夏休みが終わったら、今度は学校が、”東海道縦断徒歩について杉並区の社会科研究発表会で報告しろ”、と。 自分で決めたことに結果を出せば、それまで反対していた人も認めてくれる、という大人の社会の現実を、このとき学びました。話を戻すと、ICUも同様に“自己責任でやり通せると証明できるなら、どんな挑戦でも支援しよう”という、懐の深い校風だったと思います。
渡辺
なるほど。たしかにICUには自律した雰囲気の学生が多いですよね。
矢野
それからもうひとつの理由は逆説的かもしれませんが、学生がやり通せることを証明する機会として、ICUが“成績至上主義”を掲げていたのも、私には良かったんです。奨学金を頂くにも毎年査定があって、教員免許の取得や交換留学にも条件となるGPAの基準がある。ということは、目的を実現するために、どんなレベルのハ‐ドルをクリアするためにいつ何をすべきか、流れが自然と見えてくるんですね。
齋藤
それでは学校の成績の方もきっと良かったのでしょうね!
矢野
いやぁ、それなりですよ。日本にいる間にもなるべく自分の興味ある分野を学びたいし、Junior(第三学年)で留学しても4年間で卒業したい、と思っていたので、ほぼ毎学期、取得できるぎりぎりのコマ数を採る必要がありました。 そういう意味ではあまり自由度はなくて、バークレー留学に応募できるGPAの条件をクリアするために、Freshman(第一学年)から計画的に勉強に取組んでいました。例えば、ELPは一番授業数の少ないProgram-Cだったので、浮いたコマ数を使って、NSの物理専攻の必須科目や教職科目を、1学年分先取りさせてもらっていました。要は、目標達成のためにトップでなくてはいけない科目と、卒業条件を満たすためにパスさえすればよい科目を識別したうえで、必要なGPAを維持するという戦略でした。
齋藤
IDはおいくつなんでしたっけ?
矢野
真理さんの一つ下で91です。実は入学したばかりの頃に、当時マネージャーだった真理さんに声をかけられ、アメフト部に強く勧誘されたのを覚えています(笑)。一応高校時代にアメフトをかじった経験もありスポーツは大好きなんですが、留学を大学時代の目標に定めていたため、体育会系に思いきりコミットはできないと考えていました。それで結局、自分のペースでできる水泳同好会とISL(学内サッカーリーグ)で活動していました。
子供は誰でも目に見えない世界を考えたり、未知の領域を拓いていくことにわくわくすると思うんですね。一番わくわくを感じたのが“宇宙”でした。“もっと探求したい”“もっと突き詰めるにはどうしたらいいのか”と、将来の進路については中学1〜2年のころから考えていました。
渡辺
その節は大変失礼致しました。お話を伺っていて感じるのですが、矢野さんはひとつひとつの物事をしっかりと考えて選択なさっていますよね。そもそもどんなところからご自分の専門分野に興味をもたれたんですか?
矢野
小さいころから理科好きな少年だったんです。ただ“宇宙だけ”というのではなく、大半の小学生と同じように、山も海も空も面白い、その延長上で宇宙も・・・という感じでした。その中でも特に宇宙がおもしろいなと思い始めたのは小学校高学年くらいですね。その頃は、よくアメリカや旧ソ連から宇宙に関するいろんなニュースが日本に届くわけですよ。例えばスペースシャトルの初飛行の話題だったり、無人探査機ボイジャーが初めて撮った木星や土星の衛星の写真だったり。 子供は誰でも目に見えない世界を考えたり、未知の領域を拓いていくことにわくわくすると思うんですね。その中で自分が一番わくわくを感じたのが“宇宙”という入り口でした。当時はこれを仕事にしたい!という感覚すらありませんでしたが、“もっと探求したい”“もっと突き詰めるにはどうしたらいいのか”と、将来の進路について中学1〜2年のころから考えていました。
齋藤
へぇー!中学生のころからもう将来について考えはじめていたのですね!
矢野
そうですね。1980年代初頭の日本の宇宙科学の領域は、地球の周囲をまわる人工衛星を使った“宇宙観測”だけで、自力で地球の重力を振り払って別の星に行く“宇宙探査”という分野はまだなかったんです。だったらその能力を持つ国、つまり旧ソ連かアメリカに行こう!と思い、全国から公募で選ばれるAFS財団の高校交換留学制度に挑戦することを、中学のときに決めました。ただ残念ながらペレストロイカ以前の時代で旧ソ連への交換留学はできず、アメリカに一年間行くことにしました。州は選べなかったのですが運に任せた結果、東海岸のコネチカット州にある小さな町に決まりました。田舎町だったので留学中の一年間、日本人にはほとんど会いませんでしたね。
渡辺
高校から海外に飛び出たのですね。それまでは普通に日本で暮らしてらしたということは、英語の壁はどうでした?
矢野
実は中学生のときは英語が一番成績の悪い科目だったんです。英語塾なんかも行っていなかったですし。それでも中学1年から3年間、NHKラジオ英会話は毎朝聞いていました。AFS留学に挑戦すると決めてからは、当時のFENを自分の部屋で常に流していました。初めは何を言っているのかちんぷんかんぷんでしたが、やがて毎正時のニュースの内容はだんだん想像がつくようになってきました。特別にしたのはこれくらいですね。
渡辺
高校の1年間で英語を学び続け、しかもご自分の興味のある分野についても吸収する、というのはどんな生活だったのでしょう?
矢野
留学中の1年間は現地の普通高校に通っていたので、宇宙について専門的な勉強をしたわけではありません。それでも、当時の日本では“宇宙は生活から切り離された、非日常の世界”というイメージがありましたが、アメリカでは新聞を開けば毎日どこかしらに宇宙に関する記事が載っているんですよ。スペースシャトルの打ち上げや衛星放送に関する情報など、いろんなニュースがあふれていました。それが日常である国、宇宙が身近にある国で人々は宇宙にどんな思いを持って接しているのか、を実感できたのが一番の収穫でしたね。それからときどきホストファミリーにイェール大学の図書館などに連れて行ってもらい、宇宙飛行士になるためにはどんなことが求められるのか、探査機が地球の重力を越えて他の星に行くとはこういうことだ、ということなんかも調べました。もともと自分の進路を考える上で参考になる情報を見つけられればいいな、くらいに思っていたので、予想以上に面白い経験となりました。
渡辺
なるほど〜!本当に小さい頃からよく考えて選択、行動なさってますよね!ICU卒業後にイギリスにいらしたのも、いろんな選択肢の中から選ばれたのでしょうか?
矢野
そうですね。宇宙科学と一言でいっても、望遠鏡で星をのぞく分野である“天文”と、自分で宇宙船をつくって他の星に送り出す“探査”という、ざっくりと2つの分野に分けられるんです。バークレーではどちらも勉強しながら、自分はどちらをよりやりたいのかを自問していました。
齋藤
ということは、はじめから探査の分野に一直線だったわけではなかったんですね!?
矢野
はい、バークレーにいた当時は”宇宙論“という数学モデルが描いていた宇宙の姿を、天文観測の結果が否定しはじめていた時代で、指導教授にも恵まれ、天文にも大変興味が深かったのです。ただ天文観測を日常の研究作業に落とし込むと、まず巨大な天文台に観測のプロポーザルを通して、時間をかりて操作してもらう、そこで得られた電子データをもらって、PC上で分析をする、というものだったんですね。それよりは自分の手でつくった装置が別の天体に直接行って、謎を解き明かす方が自分の性に合っている、探査でいこうと思いました。実はアメリカの大学院も合格したのですが、そこは天文だったのでイギリスへ行くことに決めました。
渡辺
“自分でやってみる”がお好きなんですね。
矢野
そうですね。これは親にまんまと教育されたんだと思います(笑)。小さい頃もおもちゃはときどきしか買ってもらえず、その代わりにいろんなガラクタを集めておく箱を渡されて、”自分でつくりなさい“と言われていました。基本的に欲しいものはつくる、という考えでしたね。そのせいか小学校では毎年発明創意工夫展で優勝していました。
“知りたい”というモチベーションは常にありました。雲をつかむようなゴールだからあきらめるのではなく、それを目指すにはどうすればいいのかを考えて、ヒントが浮かんだら挑戦してみる、ということをひたすら繰り返して進んでいました。
齋藤
さすがですね!それにしても、ここまで冷静に、着々と準備を進められる人はなかなかいませんよね。
矢野
当時はあまり他のことを深く考えていなかったんだと思います。大人なら、これは一見面白そうだけど、実際は危ないからあちらを選ぼう、とトレードオフやリスクヘッジをするんでしょうが、子供の頃の私は“こうありたい、そのときに実現の道が見えたらそこへ進む”という、単純な行動原理だったんでしょうね。とにかく“知りたい”というモチベーションは常にありました。なので、雲をつかむようなゴールだからあきらめるのではなく、それを目指すにはどうすればいいのかを考えて、ヒントが浮かんだら挑戦してみる、ということをひたすら繰り返して進んでいました。
渡辺
たしかに日本では、“宇宙の勉強がしたい、宇宙を研究したい”っていう大元の部分、きっかけから自分で探しださなくてはいけないという面もあるのでしょうね。
矢野
そうですねぇ。ただ、今は昔と比べて大分変わってきています。情報が流れる水路は、英語教育の拡大や、インターネットや衛星放送のおかげで国境や文化的なボーダーの力が弱まったことによってどんどん拡大し、宇宙に関する日本国内の情報量はこの20年間で、文字通りケタ違いに増えました。ただ残念なことに宇宙分野を志す若者の数が、それに比例して増えたわけではなさそうです。
渡辺
なぜなのでしょう?
矢野
情報とは常に自分の周囲を流れていて必要なときにぱっと掴む、というイメージがあるのですが、宇宙については、きっとまだ自発的に手が伸びない状況なんでしょうね。日本で教育を受けてきた若者の関心を巻き起こす、手を伸ばしたくなるようなキャッチーなもの、面白さや魅力が伝わりきっていないんだと思います。これは現場の人間である私たちの責任でもあります。
齋藤
ちなみに宇宙業界への狭き門は広がったと思いますか?
矢野
それについても20年前とはだいぶ状況が変わりました。私は結果として科学者の道へ進んだのでポストはそんなに多くないのですが、もはや今の宇宙は、海、空という言葉と似ているんですよ。つまり海は海洋学者だけのものではなく、漁業だったり運送や資源採掘のためのフィールドだったりしますよね。同様に宇宙も科学者のためだけのフィールドではなくて、通信や放送、災害感知、GPS、飛行機の安全など、スペースを利用する領域がだいぶ広がったんです。そういう意味では宇宙はもはやすっかり日常に溶け込んでしまいました。例えば今日、自宅からこの場所まで来るのに、宇宙技術を全く使わずには来られなかったでしょう。
渡辺
そうですね。よく考えてみれば、テレビの天気予報や車のGPS機能など、今や当たり前になっているものもたくさんあげられますね。
矢野
そうなんです!ただ皮肉なことに、それらは地上生活のインフラの一部に取り込まれて日常化すればする程、当たり前のこととなり、無意識化、そして一般化されてしまうんです。
お腹がすいたら自分でご飯の支度をする、お風呂に入りたかったら自分で洗って準備する、というように、“やりたいことがあったら自分でやることがあたり前”という感覚で育ちました。たぶん意図的でしょうけれど、ほったらかしにされていましたからね、自分でやるしかないんです(笑)。
渡辺
小さい頃からいろんな選択をなさる中で、決断する時はご両親かどなたかに相談してましたか?それとも自分ひとりで決断なさいましたか?
矢野
私はひとりっこで兄弟はいません。もちろん先生に相談したり、友達と将来の夢を語ったりはしましたけど、最後に決めるのは自分一人で、でした。ありがたいことに両親は、意見は言っても私の選択に決して反対しませんでした。これはお前の人生なんだから、と言って。これにはとても感謝しています。
齋藤
子供の頃から矢野さんのような生き方、考え方ができるというのはなかなか起こりえないですよね。ご両親の影響なのでしょうか?
矢野
おそらく、そうなんでしょうね。私の両親は科学ではなく、芸術畑の人間なんです。父親は詩人であり彫刻家で、かつ生計を立てるために大学で美術を教えるという三足のわらじを履いていました。もともと父も東京の人間なのですが、仙台の大学で教えていたので、東京と仙台の中間地点にアトリエをつくったんです。私も子供の頃から頻繁に行っていたし、そこには父親が遺したものが今でも残っています。
渡辺
そうなんですか〜!お母様は何をしていらしたんですか?
矢野
母親も同じく美術の教師で、0歳児から芸大の受験生まで、首都圏の様々な地域で子供に直接絵画や工作の指導をしていました。教えながら子供の成長に応じた認識力の発達がどのように絵画の表現に現れてくるのかを研究し、父親はそれを理論化して大学で教えていました。私も母の教室には、記憶がないくらい小さい頃から生徒として参加していたんです。
齋藤
ご両親ともに芸術家とはすごいですね!どんな生活だったのでしょう?
矢野
およそ芸術家というのは世の中の時間の流れとはまったく違う生活をしているんですよ。夜中制作に取組んで、私が小学校に行っている間はずっと寝ていたり。マイペースというか、社会的な流れの中にのっかっていないんですね。子供心に、「こんな生活人になっちゃいけない」と、父を見ていつも思っていました(笑)。一方で、父親の彫刻の個展に行くと、毎回その独創性やメッセージ性に打たれて、素直に感動していました。そんな父は、私にとって二つの全く対極の人物評価を与える、不思議な存在でした。 それから共働きだったこともあり、0歳から4歳までは毎週、母親の教え子のお宅に預けられ、それ以降も自宅には父親の教え子の大学生が何人も住み込みでいたりと、たくさんの大人に育てて頂いたという記憶があります。小学校に入ってからは、学童クラブに通う”鍵っ子”でした。そういったこともあって、基本的に自分のことは自分でやれ、という教育でしたね。お腹がすいたら自分でご飯の支度をする、お風呂に入りたかったら自分で洗って準備する、というように、やりたいことがあったら自分でやることがあたり前、という感覚で育ちました。
渡辺
矢野さんの聡明さと冷静さと独立独歩の雰囲気のルーツはきっとここなんでしょうね。
矢野
たぶん意図的でしょうけれど、ほったらかしにされていましたからね、自分でやるしかないんです(笑)。
渡辺
福島県双葉郡富岡町の図書館にはお父様の作品や文庫があるとのことですが、お名前を教えていただけますか?
矢野
父の名前は井手則雄といいます。私が高校2年の正月、現地で作品をつくっているときに海岸で事故に遭って亡くなりました。大変残念なことに富岡町は、先の東日本大震災で地震と津波と原発事故に見舞われ、地元の方々は強制避難なされています。被災者でない自分達が、今度いつ図書館を訪ねたり、父の野外彫刻や詩碑の安否を確認できるのか、今は分かりません。
渡辺
そうでしたか…。ご兄弟もいらっしゃらない中で、自分がしっかりしないと!という意識はあったのでしょうね。
矢野
そうですね、教師というのは定年がない生業なので、母親は今でもいきいきと子供たちに絵を教えています。これは素晴らしいことですよね。もともとモチベーションが高い人なので、教え子たちに愛され、趣味を楽しみながら、健康でさえいてくれれば特に心配はしていません。 でもやっぱり何かあった時には自分がすべてやらないといけないな、と父親の死を境に覚悟するようになりました。そこで当時、私は18歳で大学受験の年だったので、米英の大学へ学部入学する希望は一度胸の内にしまい、まずは絶対に浪人にならず、多くの奨学金を取ってなるべく母親に負担をかけずに国内の大学に入学しよう。その代わり、交換留学制度を使って海外で天文を専攻できる大学を選ぼう、という最初にお話しした作戦を立てたわけです。
芸術と科学でよく似ているところは“観察”です。アウトプットの仕方が違うだけで、情報が観察者の中に一度入って咀嚼されるプロセスはほとんど同じだと思います。
齋藤
昨年、はやぶさの地球帰還カプセルを回収するためにオーストラリアに行かれたとき、「約束」という読み物をお書きになっていますよね。読ませていただいたのですが、とてもロマンティックで素敵でした。このインタビュー記事の最後にも転載させてもらおうと思っています。ただ、今日お話をお聞きしていると、わりと現実的によく計画した上で行動されているので、この二極はどこでつながっているのだろう?と思ったのですが、ご両親から受け継いだものなのでしょうね。
矢野
そうですね。宇宙と美術、あるいは科学と芸術ということで、“両親とは正反対ですね”とよく言われるのですが、私自身はかなり一致していると思っているんです。もともと工作や絵を描くのは好きで、父親も死ぬまで私を芸大に行かせたがっていました。ただ、父親を見ながら育ち、“芸術は仕事にしないで、趣味にとどめて楽しむ方がいい”と子供の頃から思っていたんですね。
渡辺
どんなところに科学と芸術の共通性を感じるのですか?
矢野
子供の頃から感じていたのですが、芸術と科学でよく似ているところは“観察”です。自然界や自分の周囲の世界をまず観察して、解釈する。優秀な抽象芸術の画家、たとえばピカソなどの絵を見ると線がすごく少ないんですね。つまり芯がどこにあるか、本質をぱっと観察で見抜き、それを最少限の線でデフォルメして表しているんです。そうやって芸術家が再構成して表現したものに対して、100人いれば100通りの受け取め方があって良いというのが芸術の世界ですね。 それに対して、科学の世界では本質を物理や数学で表現するんです。なので、どの時代の誰でも数式をたどればただ一つの同じ結論にたどり着くことができます。つまり情報が観察者の中に一度入って咀嚼されるプロセスはほとんど同じで、科学と芸術の違いはアウトプットにあるのだと思っています。 もう一つの共通点は、自分の頭と手を使った「もの作り」ですね。彫刻や絵画とは、誰でも入手できる道具や素材を使いこなして、他の誰にも創れない造形を生み出す行為ですよね。科学の世界でも、新しい実験装置や観測機器を創って未知に挑戦したときに、世界初の発見や発明が生み出されることが多いのです。 振り返ってみると、父親は自然に分け入るような旅が大好きだったし、朝食から自宅の設計まで、何でも自分で作ってしまう人でした。その性格を、科学者である私も知らぬ間に引き継いでいるのだと思います。
渡辺
なるほど。今日ずっと思っていることなのですが、矢野さんのお話の仕方はとてもわかりやすいですよね。矢野さんの授業はきっと生徒さん方にとっても面白くて、人気なんだろうなあと思います。筋道立ててわかりやすく話をするというのは非常に難しいものですよね。
矢野
ありがとうございます。あまり意識したことはありませんが、これは母親の影響なのかもしれません。母親は絵画教室で教える中で、子供たちに対して何かをしなさいとだか、何が美しいと決めつけるのではなく、必ず聞き返す会話をしていたんです。“これでいい?”と尋ねてくる生徒に対して、同じ台詞を返して相手自身に再考させて、本人に決めさせるんですね。そのときにボキャブラリーの少ない子供にもわかるように、同じことをいろんな言い回しで伝えているのを小さい頃から見ていました。
渡辺
これも観察されていたんですものね。
矢野
そうですね。話し方は相手の理解度をはかりながら変えるものなんだなぁ、というのも自然と見ていました。私自身が母親の教室を卒業してからも、家に帰ればいつも子供たちがいたので、そういう話し方は日常の観察から身に付いたのかもしれません。
形あるものが壊れ、価値観が大きく変わったときに自分で判断できること。いったん自分で決めたことは周りに振り回されず、歯を食いしばって守り続ける根性。親が子に残せるのは、結局そういった無形の生き抜く生命力のようなものだと思います。
齋藤
ちなみに今、仕事をしていないときは何をしているんですか?
矢野
昔は絵を描いたり、水泳をしたり、放浪の旅を楽しんだりしていましたが、長丁場のプロジェクトに関わっている最近は趣味の時間がほとんど持てず、専ら子育てですね(笑)。3歳8ヶ月と1歳2ヶ月の子供がいるんです。仕事に輪をかけて自由になる時間が少なくなりましたが、動物である“ヒト”が社会的存在である“人間”に成長していくプロセスに毎日接することで、親自身も日々学び、癒される感覚はとても楽しいですよ。
齋藤
奥様は何をされている方なんですか?
矢野
宇宙という領域は一緒なのですが、厳密にいえば彼女はエンジニアで、私はサイエンティストです。簡単に言うと、妻は地球を離れた惑星探査機の通り道を決める計算をしているんです。
渡辺
日本で知り合われたのですよね。もともと狭き門の中で、エンジニアの女性はさらにかなり少ないでしょうけど、奥様はどのような経緯でこの道に進まれたのでしょう?
矢野
彼女と知り合った当時、私がちょうどNASAから帰ってJAXAに勤め始めたときでした。9歳年が離れているので初めて出逢った時、彼女はまだ関西の大学院生で、JAXAに研究発表をしに来ていたんですね。家族と一緒にわいわい仲良く暮らしたいという性格なので、卒業後は関西のシステムメーカーに就職していました。実ははやぶさの次のプロジェクトが今年から始まる予定なのですが、はやぶさの後継プロジェクトをどうすすめるべきか、というボトムアップで議論するためのコミュニティを、私が主宰して2000年にネット上でつくったんです。このグループにはサイエンティストでなくても、実名で登録さえすれば誰でも参加できました。
渡辺
今で言うfacebookと同じ発想ですね!
矢野
そうですね。彼女はメーカーに就職はしたものの、“宇宙関係のことも趣味としてやっていこう”という気持ちでそこに参加していたんです。私の研究基盤は物理や天文、地学だけど、彼女のフィールドは数学で、とても良い軌道を描くんですね。他の人にはなかなかまねできないセンスがあり、いろいろと手伝ってもらっていました。そうしているうちに3年程経ち、“やっぱり宇宙に戻りたい”と彼女がこちらの博士課程に入ったので一緒に暮らすことにしました。
渡辺
子をもつ親として、何かお考えのことがあったら教えてください。
矢野
私は両親に対して、やりたいといったものを自分の責任でやらせてくれたこと、自分の価値観でものごとを決めなさい、と教えてくれたことにとても感謝しています。今回の震災のように形あるものが壊れ、価値観が大きく変わったときに自分で判断できること。いったん自分で決めたことは周りに振り回されず、歯を食いしばって守り続ける根性。親が子に残せるのは、結局そういった無形の生き抜く生命力のようなものだと思います。
人数も少ないし予算もない。危ない局面も何度かあったけれど、最後まで諦めずに何とか負けずにやってこられました。“まだ行ける、こうしたら続けられる”と粘って、時には実力で、時には運で。総力戦でしたね。
齋藤
矢野さんは世で言う「成功した人」だと思うんですけど、そうなれた理由を3つあげるとしたらどんなことでしょうか?お話を伺う中でNASAに行くチャンスをきちんと掴んだことはとても重要でしょうね。あとは何だと思いますか?
矢野
そもそも成功したのか、というところから疑問はあるのですが、はやぶさについて言うとまずは“チームワーク”ですね。人数も少ないし予算もない。それでも何とかして勝てた。それはつまり“負けなかった”ということですよね。いろんな局面で危なかったことは実は何度もあったのですが、最後まで諦めずに“まだ行ける、こうしたら続けられる”と粘って、時には実力で、時には運で、何とかやってこられました。総力戦でしたね。
齋藤
チームワークというものは、実はなかなか難しいことですよね。特に国策となると「国益のために」とは言っても、いろんな企業や組織が絡んでくると、利害関係なんかもでてくるのでチームワークを発揮することが難しいと思うのですけどね?
矢野
そういう意味では、はやぶさは本当に地球に帰ってくるまでは、周囲からどうでもいい存在だと思われていたんだと思います。わかりやすく予算規模で考えてみると、アメリカでは軍事の方がNASAよりもはるかに大きな宇宙関係の予算をもっています。それでもNASAの年間予算と比べると、日本の宇宙予算はその一割より少ないんです。そのわずかな宇宙予算の内、サイエンスはさらに1割程の割り当てで、その中でオーロラなどを研究する高層大気観測衛星や遠くの天体を覗く宇宙望遠鏡衛星、そしてはやぶさのような宇宙探査機など、いろんな分野に細かく分割しているのが、日本のやり方なんです。 もちろん絶対額でいえば大きな税金を使わせていただいているのですが、他国と比較すれば割合は微々たるものです。例えば、はやぶさは15年間のプロジェクトで打ち上げも含め総額200億円程かかりました。ということは、日本の納税者一人が1年間に10縲鰀15円くらい、15年間ではペットボトル飲料1本分くらいのお金を負担して、あれだけのことをしたんですね。厳密に比較するのは難しいのですが、考え方のひとつとして、湾岸戦争の際には納税者一人あたり1万円、某銀行が経営破たんした際には4万円支払ったことに比べれば、そこまで大きな金額でもないので、ステークホルダー間の利害関係はあまり絡まないんですよ。
齋藤
そうなのですね!そのチームワークがなぜ成り立つのか?という質問に対し、“その分野における最高の人間が集まったから、自分もベストでなきゃならないと考えていた”というお話を聞いたのですけど。
矢野
それは一つ言えるかもしれませんが、そもそも“宇宙”という分野は層が薄いですからね(笑)。 はやぶさプロジェクトも非常に小さなチームでした。その中でやらなくちゃいけないことははっきりしていたので、それぞれ専門分野のポジションを任せてもらえたんです。それからはやぶさの場合、チャレンジが直列に並んでいたんですね。前の人が担当するチャレンジがうまくいって初めてバトンがまわってくる、駅伝や野球のようなチームワークです。だれかが失敗すればその時点でサドンデスなので、打順が回ってきた人を信じるしかないし、自分の打順で途切れさせずに次につなげなきゃ、という思いやプレッシャーはありますね。
入念に考え抜いたうえで、最後はリスクをとらないと一番にはなれない。サイエンスの世界で2番目は無価値なんです。“頑張ったで賞”はないんですね。
齋藤
なるほど、それにはチームワークの要素は不可欠ですね。矢野さんがこのチームの一員になった一番の要因は何だと思いますか?
矢野
うーん、やっぱりタイミングでしょうね。人間、生まれてくる時代は選べないので。もし5年遅く、もしくは早く生まれていたらこのプロジェクトチームに選ばれていなかったと思います。はじめにも言った通り、タイミングの重要性は宇宙という分野全般において言えることです。特にはやぶさについては、なるべく短い期間で地球から小惑星まで往復したいと考えると、打ち上げるタイミング、帰るタイミングはもう決まってしまうんです。なので、もし打上げのタイミングが5年早くて、その開発段階で自分がまだ英国の学生だったら関われなかったでしょうし、逆に5年後だったらNASAで別の研究を続けていた可能性もある。そういう意味での巡り合わせもあるでしょうね。
渡辺
なるほど、タイミングは何事においても大切ですよね。
矢野
そうですね。それから、この仕事を続けさせてもらえた理由がもう一つあるとすれば、“諦めが悪い”性格のせいかもしれません。諦めるのは簡単だけど、はやぶさで結果を出さなければ、JAXAの始原天体探査のプログラム自体がなくなってしまうかもしれない、下手をしたら日本は二度と太陽系の大海原に挑戦しない、地球を回る衛星しか打上げない国に縮んでしまうのでは、という危機感が強くありました。困難な時期にはやぶさチームを維持するには、サンプル採取担当である自分が、探査機を地球に戻して小惑星のかけらを手に入れることを決してあきらめずに、そのためならできることはなんでもやるという姿勢を、どんな時にも仲間に見せ続けることが大事だと思ってきました。 でも本当のところ、はやぶさは世界で誰もやったことのないチャレンジをたくさん詰め込んだプロジェクトで、決して順風満帆ではありませんでした。アメリカではいろんなプロセスを分割して、ひとつひとつ実証しながら進めていくところを、日本では予算も人もチャンスも少ないため、全部いっぺんに成功させないと次が続けられないんですね。まさにハイリスク・ハイリターンの典型で、プロジェクトマネジメントの教科書に“やってはいけないプロジェクトの見本“として載りそうな挑戦だったんです。
齋藤
そうなんですか!
矢野
だからといって分割してちまちまと進めていては、決してアメリカには勝てない。入念に考え抜いたうえで、最後はリスクをとらないと1番にはなれない。サイエンスの世界で2番目は無価値なんです。”頑張ったで賞“はないんですね。実は、これも科学と芸術の共通点だと思っているんですが。 アメリカの宇宙探査分野は日本の数十倍の規模で、人材の面でも才能あるすごい科学者がたくさんいて、エンジニアも分業体制で揃っている。日本は、アメリカが大規模すぎるゆえに逆に失敗するのが怖くて手を出せないところに、覚悟を決めてつっこんでいくしかないんです。老舗の大企業が支配する市場に、新規参入するベンチャー企業と同じ。ニッチを狙って、結果を出すまで諦めずに挑み続けるしかないんです。
渡辺
うーん。この人の成功はどこからなんだろう?と、どうしても逆算したくなりますが、お話を伺っているとそういうことではないんだなぁ、と改めて感じました。新しい分野で成功した第一世代というのは、純粋に“面白い、好きだな”という想いを追求して探り当てたフィールドに飛び込んだ方々ですよね。”ここでやりたい!“という強い情熱をもって、当時は誰も信じていなかった新しい産業領域で精一杯頑張った結果の成功なのだと思います。矢野さんも不眠不休で大変な時期があったり、大変な努力をされてきたのだと、おっしゃらないけれど、拝察します。
矢野
確かに、今思うと父親よりもはるかに非人間的な生活をしているかもしれません(笑)。
サイエンティストは宇宙に限らず、何か新しいものを発見したときの、その瞬間が病的に好きなんだと思います。科学者の役割として、我々が発明や発見したものは最終的に人類共通の知識財産にならないといけないんです。結果として世界観が変わったり、新しい産業が生まれたり。でも根源的に多くの科学者は、“面白い”を追求しているうちに、ばっとサプライズがある!その瞬間を味わいたくて生涯に渡って研究をしているんだと思います。
矢野
あ、そうだ、今日ははやぶさが着陸した”イトカワ“を持ってきました(と小さい模型を鞄から取り出して見せてくれた)。
渡辺
わあ〜!!かたちが丸くないところが面白いですね!
齋藤
なんかピーナツの殻みたいな形ですね!
矢野
そうなんです。子供のときにボイジャー探査機がとらえた土星の衛星なんかと全然違うじゃないですか。私はこれを見たときに、“人類が今までに見たことがなかったものを見ちゃった”と思いました。今、この瞬間、ここにいる我々だけが見てしまった。初めて見たときの“何だこれ!”っていう感覚ですよね。サイエンティストは宇宙に限らず、何か新しいものを発見したときの、その瞬間が病的に好きなんだと思います。 科学者の役割として、我々が発明や発見したものは最終的に人類共通の知識財産にならないといけないんです。結果として世界観が変わったり、新しい産業が生まれたり。でも根源的に多くの科学者は、“面白い”を追求しているうちに、ぱっとサプライズがある!その瞬間を味わいたくて生涯に渡って研究をしているんだと思います。
渡辺
そうなのですね。以前、ミュージシャンの方だったかな、インタ ビューをしたとき、どういう時に”楽しい!”と感じますか?という質問をしたんです。そうしたら“だいたいいつも自分を俯瞰で見ているからそういう瞬間はほとんどない。極端に言えば恋愛をした時もそんな感じはないかも。でもステージで、たまに数秒、自分の心の奥底がぞくぞくするというか主観だけになる瞬間があって、その時は楽しい!生きている!と感じているかも。”という答えでした。こういった瞬間は、質とか場面に違いはあっても好きなことに打ち込んでいる方には訪れるのではないかな?と思います。
矢野
そうですね、あると思います。よく覚えているのは、子供の頃にアメリカの宇宙ステーションで宇宙飛行士が3人、亀の親子のように重なった体勢で腕立て伏せしている様子をテレビで観たんです。そのうち彼らは片腕で腕立て伏せを始めて、最後には両手を離して腕立て伏せをしたんです。つまりは微小重力の中でのパフォーマンスだったのですが、そのときの“こんなことがあるのか!”という驚きの瞬間は今でも鮮明に覚えています。あとはボイジャー探査機が見せた木星や土星の衛星たちですね。“こんな星もあるのかー!”という衝撃です。 小惑星イトカワも、この感覚にとても近かった。特に今回は他人から教えられたり、テレビで観たのではなく、自分達が創ったはやぶさという宇宙船で行ったわけです。 それからオーストラリアの砂漠の真ん中で地球帰還カプセルを自分の手で抱えあげたときにも、特別な瞬間を感じました。
渡辺
具体的にはどんな感覚でした?
矢野
うーん、ものすごくぞくぞくしましたね。ちょっと出来すぎた言い方かもしれませんが、“とても重い”と感じました。カプセル自体は10キログラムもないんですけどね。さっきもお話しした通り、もしはやぶさがこけたら日本の宇宙探査の歩みは止まるのではないか、という強い危機感があったんです。なので“これは未来の宇宙探査につながる重さだ!これで次の世代につなげられる!”と思いました。心の底から嬉しかった。
渡辺
最後にICUの学生や若者へメッセージをお願いします。
矢野
世界にはいろんな場所があり、いろんな人がいるので、基本的には何をやってもいいと思います。今は私が三鷹のキャンパスで過ごしていた昔よりも、はるかに未来が予測しづらい時代です。これまで通用していた成功パターンが無力になって、過去の栄光にすがる故の失敗すらありえる時代になりました。でも、予測できないことを悲観するのではなく、見通すために浪費するのでもなく、未来は自分で設計すればいいんです。 これからの若者にはいろんなところに行って、見て、考えて未来を設計する人になって欲しいですね。こういう未来であって欲しい、こういう自分になりたい、そのためにはどんな要素が必要で、いつまでになにを成し遂げないといけないのかと、考えることが大切です。誰もが新しい分野の一代目になれる時代なのだから、どんどん挑戦してみてください。一代目である以上、成功しても失敗しても“自分が設計して始めたこと”。そう考えた方が未来は明るいのではないでしょうか?

JAXA ホームページより転載
「約束」

サンプラ担当、SV、回収隊・方探班本部、科学・輸送班 矢野 創

はやぶさへ、

いまは6月13日朝。僕は、オーストラリアのウーメラ砂漠の宿で一人、君への手紙を書いている。

君が内之浦の5月晴れの空に吸い込まれていったあの日から、もう7年が過ぎたね。今朝のウーメラも、打上げの日の内之浦みたいに雲ひとつない青空で、窓から入ってくるひんやりした風が、心地いいよ。

「はやぶさ、いってらっしゃい。」

2003年。僕は、君のお腹の中にあるサンプラに、打上げ直前まで地球の汚染物質を入れないように窒素ガスを送り続けるため、科学者として最初に内之浦に入った。打上げ12時間前にM-Vロケット先端のフェアリングに包まれた君からガスチューブを抜いて蓋をする、最後の一人でもあった。フェアリングのアクセス窓を閉じたときに君にささやいたのが、この言葉。そのとき君はまだ「MUSES-C」と呼ばれていたけれど、僕は君の名付け親の一人だから、宇宙に出る前に、そっと君に名前を教えてあげたんだよ。

34mアンテナ下の管制室で、宇宙へ上昇する君の振動で全身で感じたあと、3か月間一緒に君の面倒を見ていたメーカーの技術者の方から「臍の緒です。」とプレゼントをもらった。パージラインのふただった。一生の宝物だ。

はやぶさ、君との旅には忘れられない場面は本当にたくさんある。でもそれらは全部、君が僕以上によく知っていること。今は残された時間で、君へ伝えたいことだけを書くよ。

はやぶさ、僕と君との出会いは君が生まれるずっとまえ、1995年に宇宙研でポスドクをしていたときに遡る。もっとも僕は、高校時代から日本と海外をふらふら渡り歩いていた。だから宇宙研での任期が終わって、1998年にヒューストンに異動したときに、君との縁も一度は切れた。でも、一年後には相模原に舞い戻った。出勤初日に君の初代プロジェクトサイエンティストで、僕の新しい上司の藤原顕先生から、「MUSES-Cのサンプラ開発から試料採取、世界中の研究者にサンプルを配るまで、面倒をみてほしい」と言われ、「わかりました」と約束した。そしてこの10年間、風来坊だった僕も日本に腰を落ち着けて仕事をして、愛する家族も持てた。はやぶさ、これは、君が呼び寄せてくれた縁だと思っている。君がイトカワに到着した翌年に藤原先生は退職されて、サンプラも僕が引き継いだ。だからこそ僕は、あの日の約束を、石にかじりついても果たそうと誓っている。嬉しいことに、藤原先生はこのウーメラの地で今晩、君の帰りを見届けてくれるよ。

はやぶさ、内之浦では生まれたての赤ん坊のようだった君も、様々な苦難を乗り越えて、今は立派な大人になった気がする。そして今日、次の世代に使命をつなぐために、自らの卵であるカプセルを僕たちに届けてくれるんだね。はやぶさ、息子と娘の誕生に立ちあって、初めて彼らを抱いたとき、なぜか決まって君の打上げを思い出したよ。そんな息子ももうすぐ3歳。昨秋、鱗がはがれた鮭たちが、産卵のために懸命に川を跳ねながら上っていく姿を、彼に見せたよ。いつもなら「おさかな〜!」とはしゃぐはずの彼が、僕の手をぎゅっと握りながら、何も言わずじっと見つめていた。

はやぶさ、一体君は、100年後の世界の人々に何と語られるだろうか?「その昔、東洋に日本という島国があって、月より遠い星から塵を拾うという、時間と金の無駄をしていた」と言われるのか。それとも、「今日、人類社会が太陽系の大海原を超えて広がり、隕石の地球衝突を回避して文明の崩壊を防ぐ技術を身に付けるための、小さな第一歩だった」と評されるのか。持てる知恵と力の全てを注いで、未知の自然を理解し、未踏の地に歩みを進めることこそ、人類の歴史そのものだ。君の旅は、そうした系譜の中に書き加えられるべきだと、僕は思う。

はやぶさ、だからこそ今晩僕らは「結果」を出さなきゃいけない。現代に生きる僕らは、世界で初めて地球一周に成功したマゼラン艦隊を知っているが、初めて地球一周に挑んだ船の名は知らない。未踏の地での科学的発見や社会的貢献は、それを成し遂げる技術を完遂することが、前提だ。満身創痍になった君に鞭打っても地球に呼び戻したのは、そのためだ。往復航海のノウハウを本国に伝え、後継者が出てくることで、人々はスパイスや小惑星のかけらを手にできるようになる。待っている人々がいて、届けるべきものがあるからこそ、途中であきらめずに旅を続けられたんだね。

あと半日ほどで、君は生まれた地球に還って、ウーメラ砂漠の風になる。どんな形で着地したとしても、君が遺した卵であるカプセルを拾って、ふるさとの相模原に持ち帰るのが僕の役目。ヘリコプターからカプセルが着地した大地に降り立ったら、まず風になった君を肌で感じて、胸いっぱい吸い込もう。でも僕と君の物語はそこで終わらない。君の卵の中から、太陽系の始まりを物語るイトカワのかけらと、君に続いて太陽系を飛び回る雛たちを、無事に孵してみせるまでは。それが、僕を日本に呼び戻した人たちと、はやぶさ、他ならぬ君と交わした約束だからね。

はやぶさ、この7年間、僕はまるで大航海時代の船乗りになった気分だった。君という宇宙船に素晴らしい仲間と一緒に乗り込んだ、楽しくて、苦しくて、眩しい深宇宙の旅だった。悔しくても、恰好悪くても、決してくじけない心を教えてもらった。今まで、ありがとう。あとのことは、任せてくれ。

はやぶさ。君と出逢えてよかった。「おかえりなさい。」

(6月13日早朝、ウーメラにて記す)



プロフィール

矢野 創(やの はじめ)
1967年東京都生まれ。1991年ICU理学科卒。英国ケント大学院宇宙科学科博士課程修了。米国NASAジョンソン宇宙センター研究員等を経て、現在JAXA宇宙科学研究所および月惑星探査プログラムグループ・助教。慶應義塾大学院システムデザインマネジメント学科・特別招聘准教授。Ph.D., PMP。専門は太陽系探査科学、宇宙環境科学。特に小惑星・彗星・宇宙塵・流星等の太陽系小天体の理論・観測・分析・実験・探査の融合的研究を進めている。日欧米で十余りの宇宙実験・探査プロジェクトに従事。「はやぶさ」では科学チームメンバー、運用スーパーバイザーのほか、試料採取機構の開発や地球帰還カプセルの回収・輸送を担当。150以上の学術論文の主・共著の他、一般書の共著・共訳に『彗星大衝突』『小惑星衝突』『未解決のサイエンス』『太陽系大地図』『小惑星探査機はやぶさの超技術』など、インタビューに『ビヨンド・エジソン(最相葉月著)』がある。主な受賞に、個人としてISTS Jaya Jayant Award、ESA学生微小重力実験コンテスト入賞、NASA感謝状、IAU小惑星(8906)Yano命名、ICU-DAY賞、はやぶさサンプラ開発チームとして日本機械学会宇宙工学部門・一般表彰スペースフロンティア、はやぶさチーム全体としてSpace Pioneer Award、星雲賞、文部科学大臣表彰、菊池寛賞、朝日賞、読売テクノフォーラム・ゴールドメダル賞などがある。