プロフィール
1980年東京生まれ。国際基督教大学卒’94年雑誌「装苑」でモデルデビュー。その後「セブンティーン」をはじめ数々のファッション誌、テレビ等で活躍。’01年、アシュタンガヨガと出会い、インド・マイソールのシュリ・K・パタビジョイス氏に師事する。’06年、日本人女性初のアシュタンガヨガ正式指導資格を取得する。現在、日本とインドを拠点にヨガインストラクターとして活躍。
- 齋藤
- 今日はよろしくお願いします!今日は、ICU卒業生のモデルさんに初めてインタビューということで、楽しみにしてきました。ブログも読ませていただきましたが、お子さんが生まれたとか、おめでとうございます。でも出産の影響はなんにも出ていないようですね。
- 吉川
- いえいえ。ようやく幅は戻ったのですが、まだ完全ではないですよ(笑)。
- 齋藤
- さすがプロですね。
14歳から始めたモデルの仕事は、私にとって「稼ぐ手段」でしたね、 学校に行くための。ずっしり重い責任感がありました。
- 渡辺
- 吉川さんはどんなきっかけで、モデルを始められたんですか?
- 吉川
- 母がハーフで、18、19歳の頃から「岸さおり」という名前でモデルをしていました。当時、日本ではハーフのモデルが新しい時代だったので、女性雑誌の表紙になったりしていました。
我が家は4人兄弟なのですが、姉2人が母の影響でモデルをしていました。私も14歳の頃、「コンポジットカード(モデルにとっては名刺の役割を果たす写真のカード)を作ろうよ」と言われ、その後、気が付くとモデルになっていました(笑)。
あと、10代半ばに、家庭の事情で両親が離婚したのですが、うちは兄弟みんなインターンナショナルスクールに通っていたので、経済的にも厳しいところがありました。なので、学費も自分で働いて稼ぐようになったんです。モデルも、仕事というか私にとっては「稼ぐ手段」でしたね、学校に行くための。だから、華やかで可愛いお洋服を着てにっこり笑って楽しい、というよりも、ずっしり重い責任感がありました。10代の頃はファッション、メイク、などビューティーのお仕事をしていたのですが、いずれは他のことをしたいという願望がありました。私は二次元の世界にいたので、中身で勝負したかったんです。今は違うんですけど、昔はテキストや辞書などの情報が大好きで、百科事典を読んでいました。中学生の頃は、Ivy League(アメリカ東部の有名私立大学連盟)に行きたいと思っていました。
- 渡辺
- でも、そこからまたヨガのインストラクターになられるわけですよね?
- 吉川
- 大学生時代に一度体を壊したので、健康になりたいとヨガを始めたのですが、すごく大好きで、大切なものになりました。ちょうど日本にヨガブームが来た頃、先生に「ヨガを教えてみないか」と言われ、教え始めました。その後、ヨガの雑誌の仕事をするようになったり、ヨガのインストラクターを週に一、二度していたのですが、仕事の形態がモデルの時と変わったんです。そして、23歳の頃から自分で事務所をすごく探したのですが、なかなか見つからず、親友の元フジテレビアナウンサーの深澤里奈さんに「他にどのような人が所属している事務所か、見た方が良いよ」とアドバイスを貰って、長い目で付き合っていける関係を築ける事務所を探そうと思っていました。そうこうしている間に、雨宮塔子さんや桐島かれんさんなど、仕事もして、家庭も持ち、趣味も持ち、海外でも活動している人たちをマネージメントしている寺迫さんと知り合い、事務所に足を運んだんです。そしたら、なんとミーティングルームにインドのガネーシャ神の置物が置いてあったんですよ!象の顔をしている、インドでは事の始まりに拝まれる神様です。私は縁を感じて、「ここだ!」って思いました。
- 渡辺
- そんな経緯でご自分に合った事務所にも出会われたんですね。 桐島さんや塔子ちゃん(雨宮さん)は、仕事のスタイルも本当に素敵ですよね。
- 吉川
- モデルだけではなく、母であったり、本を出していたり、色々な角度から見ていて飽きない女性ということで、とても尊敬できました。この事務所にはいろいろなタイプの方が所属されていて、踊り、自然派・育児、などそれぞれの人がそれぞれの輝きをもっていて魅力的でした。 今の事務所に入ってしばらくして、髪をバッサリ切りました!大学の時は、髪の毛がすごく長かったんです。モデルの仕事場では、髪が長いといろんなアレンジができて好まれるので、髪を切ることでお仕事が減るかも、と思って切らなかったんですが、ヨガの教室を持たせて頂くようになって、「これでモデルの仕事がなくなってもやっていけるかも!」と思った時にバッサリ、ショートにしました!とても気持ちよかったですね、すぐに写真撮っちゃいましたよ(笑)。
- 渡辺
- そうだったんですか!吉川さんは、ICUはセプテンバー入学ですか?
- 吉川
- そうです、セプテンバーだったんです。だからあの特殊なICUのテストは受験してないんですよ(笑)。
オーディションに行っても落とされるばかりでした。モデルオーディションは意思のない子が簡単に通るような世界ではありませんでした。でも、そうなると、だんだん、裏(オーディションの合否を決めるスタッフ側の考え)のことに興味が出てきて、「この仕事をとるためには何が必要なんだろう?」と考えるようになりました。
- 齋藤
- 14歳の頃にモデルをはじめ、仕事を始めたときはどんな感じでしたか?
- 吉川
- すごく嫌いでした。引きずって行かれないと行けないくらい。シャイだったと言うか、意識が過敏で、歯列矯正が終わって器具が外れる直前だったんですね。綺麗にしてもらって、嬉しい、という感覚はありませんでした。私は雑誌「装苑」でデビューしたのですが、初めての撮影に行った時、自分は全く気分があがらないし、矯正器具が見えるので歯を見せて笑いたくないので、カメラの前でプンプンしていたんです。そしたら、当時モデルのケイトモスが大人気で、彼女がすごくダークな化粧で、ダークな洋服を着せられていたせいもあり、逆に「そのプンプンした感じが良いね!」と、カメラマンがどんどんシャッターが切るのがなんとも言いきれない気持ちでした。
モデルを始めた最初の頃は、オーディションにたくさん行っても落とされるばかりでした。意思のない子が受けて簡単に通るような世界ではないので。そうすると、だんだん、裏(オーディションの合否を決めるスタッフ側の考え)のことに意識が向き、「この仕事をとるためには何が必要なんだろう?」と考えるようになりました。例えば着物のオーディションの時は首元がすっきり見えるVネックをきて背筋を伸ばしていこうとか、いかに自分がブランクになって、一緒に仕事をするスタッフが作りたいものを作るために自分はどうするべきかを考えたりと、モデルに対しての意識が変わってきました。
- 齋藤
- それを考えるようになったのはいつの頃ですか?
- 吉川
- 15歳のときです。
- 齋藤
- それは早い!!その頃にそんな考え方ができたのはすごいですね!
- 吉川
- 特殊な世界にいたので、そういう考え方になるのが早かったんでしょうね。あと、一番の上の姉が10歳離れているので、色々なヒントやアドバイスをもらっていました。「今日はなになにのオーディションなら、これを着ていったらいいよ」と言って洋服を選んでくれたり。オーディションなどに受かるようになると、直接仕事につながってくるので面白かったです。 15歳の時に、集英社の「・Zブンティーン」に出始めたのですが、その時は初めて仕事の現場を楽しむことができました。というのも、学校がインターで環境が特殊だったのですが、「セブンティーン」の撮影現場に行くと、今までいなかった日本の学校の同年代の若い友達、仲間達ができるようになったんです。お互い異文化なので面白みがありましたね。でもなかなか忙しくて、1時間くらいかかる高校から電車に乗って、宿題持って4時半にスタジオに入って、8、9時くらいまで撮影して、帰って・・・という生活をしていました。
- 齋藤
- でも、普通そういうモデルのお仕事を若い頃からしていらっしゃると、大学にいこうと思わないんじゃないですか?
- 吉川
- 考えましたよ、私も。私は宣教師の手によってつくられた高校に通っていたのですが、その高校が大嫌いでした。先生が望んでいる答えを言わないとAがもらえなかったんです!教育というものに、そこまで宗教が入るのはどうなのか?と私なりに思ったんですね。当時、私の中では高校をやめるか、人生をやめるか、くらいに大きな問題ですごく考えました。そして、高2の頃に一度辞めました。在学中の夏休みにも単位をとっていて、辞める時には卒業に必要な単位は2単位しか残していませんでした。父に「高校を辞めて、中卒になるけどどうするんだ」と言われましたが、自分で調べて、インターナショナル通信で、ネブラスカ高校を卒業しました。1年間は仕事に専念し、学費も100%自分で払いました。
ICUでの大学生活はすごく良い4年間だったと思います。なんだか今でも胸がキュンとするような・・・。大切な仲間にも出会えた場所で、すごく仲の良い数人との絆をすごく大切にしました。今でも、その友達とは一番仲が良いです。
- 渡辺
- ネブラスカ高校を卒業後、ICUに入ろうと思われたのはどうしてなんですか?
- 吉川
- 大学に行くか行かないかでも、またすごく考えました。17歳で高校を辞め、仕事に専念するようになってから同世代の友達がいなくなったんです。お仕事の現場は歳上の人ばかりですし。高校は嫌いでしたが、だからといって、学校全てを嫌だときめつけるには早いんじゃないかと思い、大学に進学することに決めました。当時、私がSATを使って受験出来る大学はICU、上智、テンブル大学の3つしかなく、その中で一番良い大学だと思うICUを選びました。キャンパスに惹かれたのも事実です。兄の影響で、アメリカの大学に憧れを抱いたりもしていたので、似ているICUを選びました。学科は国際関係でした。
- 渡辺
- ICUに入って楽しかったですか?
- 吉川
- 私、顔の広い学生じゃなかったんですよ。今でも友達は少ない方で。でも、すごく仲の良い数人との絆をすごく大切にしました。今も、その友達とは一番仲が良いです。
- 渡辺
- 実は私もすごく狭い方ですが(笑)、それはそれですごく心地が良いですよね?
- 吉川
- ヨガのクラスでも、メディアのお仕事でもたくさんの人に会いますが、ほんとうに自分の心を許せるひとは一握りだと思います。でも私にとってはその一握りの人がとても大切なんです。ICUで過ごした4年間はとても良いものだったと思いますし、特に私はその前の1年間、同世代の友達がいない状況を経験していたので、なんだか胸がキュンとするような・・・。大切な仲間に出会えた場所でした。
- 渡辺
- めいさんご自身は狭いと思ってらっしゃるかもしれないけど、ICUの中では多分ものすごく有名でしたよ。きっとみんなご存じだったし、学食とかで密かに見てたんじゃないかな? 私の学生時代もICUの学生が読者モデルとしてでも「雑誌に出たらしい」なんて聞いたら、みんなでコンビニに立ち読みに行くくらいでしたから!(笑)
- 吉川
- そうなんですか!でもそんな噂さえ聞こえないくらい。 耳に蓋をして、自分の事で精一杯だったんですよ(笑)
本当に仲の良い大学時代の友達が私に抱いていたイメージは、「ラウンジで眉間にシワをよせながら、お母さんの通帳をみている」という感じですね(笑)
- 齋藤
- そうですよね、ぼくもめいさんのお話を聞いていて、若い時代からしっかりとモノを考えていることがすごいなと思いました。なぜそんなことができたのでしょうね。
- 吉川
- 人生、誰でもそうだと思うのですが、生きていると波があるじゃないですか。私の場合、一番最初の大波が14歳の時でした。両親が離婚したことですごく感情的にものを考えたりして。その数年後、私が17歳の時に母が難病にかかったんですね。右脳の萎縮が進む病気で、当時からもう治らない病気だと言われていました。ICU在学中は、母の様態が一番変わったときでした。みんなはモデルという華やかな部分だけを想像していたかもしれませんが、私にとってモデルの仕事は学費や生活費を稼ぐためでした。母の病気は今のように介護制度がまだ整う前で、すごく大変でした。私は三女でしたが、学生だったので一番時間があるだろうということで、母の経済的なことまでサポートするようになりました。本当に仲の良い大学時代の友達が私に抱いていたイメージは、「ラウンジで眉間にシワをよせながら、お母さんの通帳をみている」という感じだったと思います(笑)。学生では考えられないような生活でした。
そして、20歳くらいを境に体調を崩したんです。冷え、不眠が続いて、精神的にも鬱状態という感じでした。冬は特に体調が良くなかったので、5、6月くらいになると、秋がくるのがすごく嫌でした。二度とあんな思いをしたくない、と。体調がとても悪いと仕事も休まないといけなくなり、お金にも困り、と余計に悪循環だったので、体を改善しなくてはと、7、8月くらいから、継続出来る何かを始めようと色々と調べました。最初はピラティスを調べたんですけど、まだ日本にありませんでした。その後、ヨガを調べ始めたんです。そしてスクールに通い始めました。
自分が好きなもの、自分を変えてくれたもの、自分をここまで健康にしてくれたものを人に伝えることは絶対に良いことだと思って、インストラクターを始めたんです。インドのグルジ(アシュタンガヨガの継承者)に会いに行ったのも、この知恵の源に遡っていきたいと思ったからです。
- 齋藤
- 初めてヨガをやってみた時はどうでしたか?僕も実は会社のスタッフといったのですが、何せ体が硬くて・・・教室では「あいたたた・・・」と単なるお笑いをやってました。
- 吉川
- 初めてのヨガはアシュタンガヨガでした。もともと、どうせやるならちゃんとやりたいタイプだったので、当時、東京にあるクラスを全部調べました。家から通える範囲で継続できる・ウ室が、アシュタンガヨガだったんです。そのクラスは「プライマリークラス」だったので、日本語でいう「初歩クラス」だと思っていたのですが、アシュタンガヨガの「初歩クラス」が、日本のヨガでは一番レベルが上だったんです(笑)。初めて教室に行った時、10分くらいやって、もう十分という感じでいたら、「今日はもうここまでで良いですよ。横になって休んで下さい」と先生に言われたんです。言われた通り、ヨガマットの上に横になったんです。そしたら、今まで不眠症、ストレス、緊張感で悩んでいたのに、他の生徒さん達がまだレッスンを続けている教室で、半寝状態というか、安眠というか、言葉にならないふわふわ状態になったんです!自分が信じられませんでした。そして3回目のレッスンで、具体的に自分の心のなかで「これ一生やるかも」と思いました。
- 齋藤
- それにしても、どうしてインドまで行って先生に教えをこうて、インストラクターの資格をもらうところまでやってみようと思ったのですが?
- 吉川
- もともとインストラクターになろうとは思っていませんでしたし、今でも私はインストラクターですってなかなか言えません。飛行機に乗るときに職業欄に、迷って「主婦」と書くみたいな(笑)。 ヨガを始めて数年で、ヨガのブームがきたんです。先生に、「教えてみないか」と言われて、「1回だけやる」ということで始めました。自分が教えるのはおこがましいと思ったのですが、自分が知っていることを次の人に伝えればいいのだよ」と言われて、自分が好きなもの、自分を変えてくれたもの、自分をここまで健康にしてくれたものを人に伝えることは絶対に良いことだと思って、インストラクターを始めたんです。インドのグルジ(アシュタンガヨガの継承者)に会いに行ったのも、ヨガの知恵の源に遡っていきたいと思ったからです、ひまわりが太陽に向かうように。
- 齋藤
- 健康的に変わったとおっしゃいましたが、ものの考え方なども変わったのですが?
自分が好きなもの、自分を変えてくれたもの、自分をここまで健康にしてくれたものを人に伝えることは絶対に良いことだと思って、インストラク・^ーを始めたんです。インドのグルジ(アシュタンガヨガの継承者)に会いに行ったのも、この知恵の源に遡っていきたいと思ったからです。
- 吉川
- 変わったというか、戻ったっていうんでしょうか?健康って体だけのことではなくて、ヨガを通じて、健康とは体と心がつながっているんだって思いました。情緒の安定があってこそ、心と体の健康があると思うんです。人によって大事なものって違って、経済力、地位、お金だったり色々ですし、優先順位も違いますよね。そこで健康をあげる人は、一度健康を失った人です。私は自分と母のことを見ているので、健康あってこその人生だなって思いました。これほどまでに自分を救ってくれたものを、人に伝えたかったんです。 ヨガは浄化のプログラムなので、体だけではなく、心の浄化もされるんです。気持ちの面で、今まで蓋をしていて意識がなかったものに気付かせてくれ、浄化をしていくのがヨガのプラクティスなんです。確かに、問題について意識がある状態、認知している状態の方が苦しみも多いかもしれません。
”Ignorance is bliss” (無知は至福である)と言いますが、意識が覚醒したら苦しいこともたくさんみることになるんです。でも、意識がない人間か、意識が覚醒している人間かどちらが良いかと言われたら、やっぱり私は覚醒している人間でいたいんです。意識が覚醒していることで、辛いこともたくさん体験するけれど、悲しみや苦しみが、自分の中の「情」や「compassion(思いやり、慈悲)」に直結しているということが、経験上分かるようになりました。自分が出来ることは限られていると思いますが、自分の体験がないと他の人の気持ちを分かってあげることは出来ないと思うんです。あと、辛いなかから、感謝の気持ちがうまれることに気付きました。苦しいから嫌!じゃなくて、ありがとうって。私にとっては母のことがすごく大きくて、母が病気になったことで自分がこういう経験をしたり、ヨガに出会ったり、喜びや苦しみを頂いたり。ありがとうの気持ちの深さを毎日掘っています。
- 齋藤
- お母様は今どうなさっているのでしょう…?差し支えなければ、ですが。
- 吉川
- 健在なのですが、今は施設にいて、認知症もあり、通常の人間的なコミュニケーションができない状態です。母のことでも、とても考えさせられます。コミュニケーションができなくなって、私のことを認知できなくなった場合の母と私の絆や命って何なんだろうか、という風なことを考えます。母には、そういう風に考えるコンテキストを与えられたと思っています。
- 渡辺
- おだやかに療養されていて何よりです・・・。
- 吉川
- そうですね。母は認知が始まったときに、遺書を書いたんですね。自分のケアにあたって、子供を苦しめさせたくない、1人で住みたい、お葬式はいらない・・・など紙に書いていたので、母の気持ちを尊重したいと思っています。
- 渡辺
- 私の父も療養生活に入っていて母と静かに自宅で暮らしているのですが、私が声をかけるともうほとんど見えない目で私の方を見ようとするんですよ。色んな感覚や意識が前よりも霞んでいく中で、情というのか、絆という繋がりなのか、こんなふうに刻まれるのだな…と思いますし、生きることの根源を考えさせられたりもします。
- 吉川
- その際の部分だと思う。際までいって、戻ることを何度も繰り返すことで、見極めるというか、切なくなる時もあるんですが、際を見ることの重要さを感じています。私は、ヨガのプラクティスでその際をみることが出来ると思うんです。
- 齋藤
- 最後に、モデルをやっていて、「こんな素晴らしいことがあって良かった」って思う時はありますか?
- 吉川
- ちょっといじわるな答え方をすると、自分は今モデルだと思っていないんですね。モデルさんはファッションやビューティーといった流行を伝える生きたマネキンだと思うんです。私の今の仕事のやり方は、モデルの期間を経ていますが、ちょっと角度が違うと思うんですね。逆に、母は元祖モデルって感じですね。こんなことが昔あったんです。母が52歳くらいの時に、吉祥寺を一緒に歩いていたんです。そしたら母と同じくらいの年齢の女性の方に、「このお方はモデルさんじゃないですか?」と聞かれたんです。私はガビーン!って感じですよね、私も現役のはずなのに!って。自分を差し置いて母?(笑)。でも、その方に、「このお方に私は若いころインスピレーションと夢を頂きました!ありがとうございます!」と言われました。現在は色んな形のモデルさんがいますが、当時のモデルは今と違って、本当に憧れの的だったんです。母が人に夢を与えていたということを、すごく誇りに思うし、見る人にインスピレーションを与えるというのがモデルの仕事だと改めて感じました。私は、インスピレーションはビタミンだと思っていて、だから毎日摂りたいんです。自分もインスピレーションをもらえるものを周りにおいて、意識を育ててくれるものとしてヨガとも付き合っていきたいです。
- 渡辺
- 今のICU生や、これからICUに入る方たちにメッセージをお願いします。
- 吉川
- 「興味のあることをやりなさい、好きな事を調べなさい」というICUの教育方針で育まれたことだと思うのですが、枠組みにこだわらなくても、自分の本当に好きな事をやっているとき、それは結果に結びつくと思います。
プロフィール
吉川 めい(よしかわ めい)
1980年東京生まれ。国際基督教大学卒’94年雑誌「装苑」でモデルデビュー。その後「セブンティーン」をはじめ数々のファッション誌、テレビ等で活躍。’01年、アシュタンガヨガと出会い、インド・マイソールのシュリ・K・パタビジョイス氏に師事する。’06年、日本人女性初のアシュタンガヨガ正式指導資格を取得する。現在、日本とインドを拠点にヨガインストラクターとして活躍。著書に『裸足のままで~ナチュラルヨガライフ』(INFASパブリケーションズ)がある。
オフィシャルサイト:http://www.mae-is.com/
オフィシャルブログ「Mae’s Journal 」:http://www.studiovoice.jp/blog/yoshikawa_mae/
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