INTERVIEWS

第17回 ジョン・カビラ

J-waveナビゲーター

プロフィール

ジョン・カビラ
教養学部卒業後、CBSソニー勤務を経て、J-waveナビゲーター。テレビ番組の司会、CM、雑誌などの出演も多数。05年第42回ギャラクシー賞「DJパーソナリティー賞」受賞。07年ICUのDAY受賞。06年中学二年国語の教科書に実名と実録インタビュー「ジョンカビラ/言葉の仕事」が教材として登場(教育出版)。

 

齋藤
今日はどうぞよろしくお願いします。今日はICUの同窓生や後輩たちに向けて、DJという仕事や、その仕事の中で大切にしてらっしゃることについてお聞きできればと思っています。カビラさんは過去に色々インタビューを受けておられたので拝見させて頂いたのですが、1958年生まれということを知り驚きました!かなりお若く見えますね〜!!
カビラ
その誤解は有り難いですね(笑)。
齋藤
本当にびっくりしました!最初にお聞きしたいなと思ったのが、そもそも“DJ”って何をやる仕事なんでしょうか。カビラさんの過去のインタビューを拝見すると、「聞いている人に気持ちよくなってもらいたい」という表現もありましたが、DJという仕事を簡潔に説明なさろうとすると、どう表現されるんでしょうか?
カビラ
「聞いて下さる皆さんを心地よくする」という、正にそれだけです。実はJ-waveでは“DJ(ディスクジョッキー)”という名称は使っておらず、“ナビゲーター(水先案内人)”という表現を使っています。今、僕がご案内させていただいている番組は、朝の時間帯、つまり全ての放送時間の中でも最大公約数のお客さんがいらっしゃる時間で、それこそ、お母さんと一緒に聞いている生まれたての赤ちゃんや保育園や幼稚園に行くお子さんたちもいれば、朝の時間をのんびり過ごしていらっしゃるシニア層の方もいます。朝お休みになられる出版界にお勤めの方のような層もいらっしゃいますけれども、大多数の方が、朝起きられますよね。ですから、恐らく最大公約数の方に聞いていただいていると思うんです。つまり我々はその時間その時間、その方たちを心地よい方向に導いていく水先案内人であるというのが一番単純化した表現だと思います。
僕が大切にしているのは、専門家ではない自分、門外漢の自分の感覚です。そのテーマに詳しい方に「こんなの知ってる、退屈なインタビューだなぁ」と思わせてもいけないし、知らない方に「なんだこれ、さっぱりわかんない」と思わせてもダメなんです。
カビラ
ラジオって、今日はJ-wave、明日はFM東京を聞こうというメディアではあんまりないんですよね。目というのは感覚の中で一番鋭敏な部分ですので、テレビは少しでも気に入らないものがあるとすぐチャンネルを変えてしまいます。でも聴覚というのは、自分のイマジネーションの振れ幅を自分で作れるという意味では鋭敏なんですが、それはテレビとは異なる鋭敏さなんです。ですので、ラジオはチャンネルホッピングもしくはラジオ局ホッピングというのはそれほどない、非常に習慣性の高いメディアであると僕らは分析しています。もう1つ、ラジオの面白い特性としてタイムスタンプ機能があります。「この交通情報が始まるとそろそろ出なければいけない」とか、時計がわりの機能を色濃く持っているメディアなんですよね。だからこそ、皆さんの生活に関与出来るので、出来ればそれを前向きな方向に持っていって、皆さんと一緒に歩んでいけたらな、と思っています。僕がお話ししているのは朝の時間なので、必然的にニュース、交通情報、天気予報など、“今、この時、東京や世界の各地で何が起きているか”という情報を共有しているのですが、その中で喜怒哀楽を感じるっていう空間なんですよね。
齋藤
なるほど。番組ではその時その時にかける音楽ってありますよね?これにも工夫があるのですか?
カビラ
はい、FMはステレオで高音質の放送が出来ますので、選曲も非常に留意しなければならないポイントです。「番組のスタート直後の1曲目だからこの曲をかけよう」、「ここは今日の天気に合わせてこういう曲にしよう」、「来日が近いアーティストの曲を重点的に流そう」、もしくは「先日東京でのライブが話題騒然だったバンドの音楽を流そう」など、その時に合わせて色々な要素で曲を選択しています。
齋藤
その選曲もカビラさんがされているんですか?
カビラ
選曲はディレクターさんがやります。そしてディレクターさんと相談しながら番組を展開していきます。ですから、「この曲を差し替えよう」などの相談は自由に出来ますし、毎回それはやらせてもらっていますね。
齋藤
ナビゲーターとして「聞いている人に気持ちよくなってもらおう」と思うと、そういった音楽の要素に加えて“話す”という要素もかなり重要だと思うのですが、その日のトピックやゲストの話をうまく展開させていくためにはかなり幅広い知識や高度なスキルが求められるのではないでしょうか?
カビラ
専門番組なら正におっしゃる通りだと思います。古典音楽の世界やサイエンス関連の番組など、専門性の高い番組でしたら正にその道の言わば達人にならなければならない部分がありますよね。でも逆に僕がいつも大切にしているのは、専門家ではない自分、門外漢の自分の感覚なんです。例えば番組の中でインタビューがあるとすると、もちろん予告がある場合もありますけれども、大抵の場合は聞いてくださる皆さんにとっては何の前触れもなくいきなり始まるわけですよね。そうすると僕らの仕事はまず導入部で“何故Aさんという人にBという話を聞くのか”ということを分かりやすく、皆さんが聞きたいと思うようにプレゼンテーションをし、そして全く門外漢の立場で質問をしながら「なるほど、こういう視点や生き方もあるのね」というところにもっていき、「結論としてこういうことを学べましたね」というまとめをすることです。きっと僕がエキスパートであればあるほど、「もうこのくらいのことは皆分かってるよね」とか、「僕がこのくらいのことを知らないのは恥ずかしいよね」という意識で話を進めてしまって、置いてきぼりにしてしまう方々が相当数いるということなんですよね。僕がやっているのは、Aという専門的な話題を掘り下げるコーナーではないので。
齋藤
とすると、それはカビラさんの番組を聞いておられる最大公約数の色んな人達の中でも特に、そのテーマを知らない人たちに目線を合わせながら話す、ということですか?
カビラ
知らない方と、詳しい方の両方です。それをどうやって織り交ぜるかですよね。「こんなの知ってる、退屈なインタビューだなぁ」と思わせてもいけないし、「なんだこれ、さっぱりわかんない」と思わせてもダメなわけですよ。
齋藤
それはかなり高度なスキルですよね。僕は社会人を対象に教えるという仕事もしているんですが、企業や大学院生はある程度同じようなレベルの人が集まっています。でも、カビラさんはすごく幅広い人達に向かって話してらっしゃる。それはほんとうに難しいことでしょう。
渡辺
もちろんターゲットが広いか狭いか、という点はあると思うんですが、例えばそれが10人という狭いターゲットだとしても、その10人をどう飽きさせないか、というところは同じだと思うんです。カビラさんの番組を聞かせていただいていると、硬軟混ぜながら行き渡った気配りをなさっていて、また、混ぜるというのが易しいものから難しいものへという順番で聞くという常道だけではなくて、逆に難しいところから聞いてみて、「すみません、初歩的で分からないところが1つあって」と後で戻って印象づけたりと、目の前にはおられない様々な聞き手を想定しながら、ご自分も面白がって聞き、伝えていらっしゃる。その混ぜ方が面白いから、恐らく聞き手を飽きさせないんですよね。
ラジオは“Theater of the Mind”なので、一人一人の頭の中に劇場が生まれる、例えば「今、カビラが東京の六本木のどこかに居て、困っている」って、番組を聞きながら想像出来るんですよね。
齋藤
カビラさんは朝は何時から番組をやっておられるんですか?
カビラ
6時スタートで11時半までの5時間半ですね。
渡辺
以前、朝の番組を持っていらした時も6時からでしたっけ?
カビラ
月曜から金曜まで担当させて頂いていた時は6時もしくは7時スタートで9時まででした。
渡辺
そうすると、テレビの場合はお化粧の時間も入ってきますが、ラジオの場合は6時スタートですと何時入りくらいですか?
カビラ
6時スタートの番組ですと4時半までにはスタジオに着いてなければダメですね。ですから毎日3時台起きでした。
渡辺
そういう生活を何年くらい続けていらしたんですか?
カビラ
20年近くやっていましたね。
渡辺
本当に規則的な、時間帯としても大変な生活ですね。私はかなりヘビーなJ-waveリスナーなんですが、現在もカビラさんの番組を拝聴させていただいています。リスナーがインターネットを通してクリックで番組に参加出来る双方向番組なんですが、ものすごいクリック数なんですよね!今日はこのレアな曲と、こっちの貴重な音源のどちらが聴きたいか、スタジオにゲストが来てらしてライブバージョンであっても、2択でリスナーからリクエストを受け付ける。そうすると、リスナーからちょっと考えられないくらいのクリックが来て、カビラさんが時々、謝っていらしゃいますよね?
カビラ
時々サーバーがダウンしちゃうんです。
齋藤
それはすごいことですね!
カビラ
いや、情けないことなんですけどね、ほんとは。
渡辺
いやいや、謝ってらっしゃるカビラさんを聞くのも実はまた楽しみなんです。
カビラ
またやったか、みたいな(笑)。
齋藤
なるほど(笑)。
カビラ
今、東京の六本木のどこかにカビラがいて、困っている、っていうイメージングもリスナーの皆さんが出来るんですよね。本当にラジオは“Theater of the Mind”なので。一人一人の頭の中に劇場があって、想像出来るんですよね。
ナビゲーターとして「自分が一番面白がる」ということを大切にしています。自分が面白がることが出来れば、それはどこにいても、どなたとお話ししても、面白がってそれを伝えたくなるので。
齋藤
カビラさんのようなお仕事をされておられると、恐らく自分のスタイルがないと面白くないだろうから、自分の良さを出すために何か努力をしてらっしゃったりするのではと思うのですが、良いナビゲーターであるために気をつけてらっしゃることなどはあるんでしょうか?
カビラ
「自分が一番面白がる」ということだと思います。自分が面白がることが出来れば、それはどこにいても、どなたとお話ししても、面白がってそれを伝えたくなるので。
齋藤
その、「面白がる」ことが出来るカビラさんは、どうやって作られたのでしょうか?
カビラ
僕が3兄弟だからでしょうね。小さな頃から、今日は何が面白かったかっていうのを兄弟で毎日語り尽くすわけですよ。誰かが「今日こんな面白いことがあってさ」と話すと、「そんなの全然面白くない!俺が今日見たのはこれでさ…」と違う誰かが話して、「いや、それも全然面白くない、俺はもっと面白い!」という風に3人が言い合う。きっとそれが根本なんじゃないかなぁと思っています。
渡辺
想像するだけで贅沢で濃いですよね。このまま小さくなったカビラ少年や、弟の慈英さんが一生懸命、話してらっしゃるわけですよ。可愛いというか、見てみたいというか。しかしこのインタビューをさせていただきながら、カビラさんの声がこのページにはのらないのがもったいないなぁと思ってしまいます。この声だったから、ナビゲーターという仕事をなさった面はあるんでしょうか?舞台や歌手や、他の選択肢もあるかもしれませんけれど。
カビラ
でもこの仕事を始めるまでは全く考えていませんでしたね。ICUを卒業した後はCBSソニー、今のソニーレコードで会社員をしていましたから。
渡辺
でも、何かしら声を使われる職業に就かれないともったいないと思ってしまう声をお持ちですよね。
ICUは“University”という名前のカレッジですからね。こぢんまりとしたカレッジの規模であるにも関わらず、世界から多くの人が来ていて、なおかつ海外で色んな経験を積んだ日本人の同級生がいて、非常に刺激あふれる大学生活でした。
渡辺
もともとカビラさんがICUにお入りになったのはどうしてだったんでしょう?
カビラ
アメリカンスクール出身であまり選択の幅がありませんでしたね。当時ですと、いわゆる9月生として入れたのが上智かICUしかなくて。その中で、ICUのキャンパスの魅力にはなかなか抗えないものがありました。
齋藤
でも四ツ谷も悪くないと思われませんでした?
カビラ
いや、当時は市ヶ谷キャンパスだったんですよ。それと、そもそもASIJ(The American School in Japan)はICUに隣接していましたので、高校の陸上部時代、ランニングでICUの中を走ったりもしていました。親近感がありましたね。
渡辺
お母様がASIJの先生もしてらしたんですよね。カビラさんが通学されていた時とは重なってはいらっしゃらないと伺いしましたが。
カビラ
すごい情報ですね。僕、ここで話さなくてもいいんじゃないでしょうか(笑)。
渡辺
いえいえ(笑)。でも、いかがですか、ICUは楽しかったですか?
カビラ
楽しかったですね。在学中にUCバークレーに1年間留学しましたが、本当に好対照でしたね。バークレーは3万人以上の学生が集うとてつもなく大きい総合大学だったのに対して、ICUは“University”という名前のカレッジですからね。こぢんまりとしたカレッジの規模であるにも関わらず、世界から多くの人が来ていて、なおかつ海外で色んな経験を積んだ日本人の同級生がいて、非常に刺激あふれる大学生活でした。
渡辺
卒業後に振り返って感じられるICUの良かった点、逆に足りなかった点などありますか?
カビラ
卒業してから知ったことは、女子学生の比率が極めて高いということですよね。会社に入って他の人に話を聞いてみて、「え、女子がいないの!?そんな環境があり得るの!?」と思いましたね。「可哀想になぁ!」と(笑)。それと、数の力ではないんでしょうけど、女性の学生たちが非常に元気で、主義主張もしっかりしていたという点もありますね。「“女子にしては”と言うことすらおかしいでしょ」っていう世界でしたよね。たまたま女の人と男の人がいるだけで、それを言う意味がないとはっきり感じる場所でした。でも逆に社会に出てみると未だにそういう環境じゃないですよね。女子学生の皆さんは未だに坂を登らなきゃいけない。まだ情けない日本だな、ということを感じます。
齋藤
ICU時代は何を一生懸命やられていたんですか?勉強に夢中になっていたとか?
カビラ
そうですね、勉強もしましたし、あとは、学内サッカーですね。サッカー部ではなく、ISLという、校内リーグを作って総当たり戦をする学内サッカーリーグの創設メンバーでした。
渡辺
そういえば、ICUは体育会というのがないですよね。学生会という形がないからと聞きましたが。
カビラ
そうですね、そういう意味では、良くも悪くも日本の大学の典型的な組織とか、規範とか、そういうものとはちょっとかけ離れているところがありますよね。ですから、ICUを卒業して社会に出るとICUの共通のボキャブラリーや感覚が一般的な社会の認識とあまりにも違うというのはあるかもしれませんね。だからといって臆することは全くないんですけれども。
就職活動をするときは僕がコンテンツになるという発想はどこにもなかったですね。むしろ、コンテンツに携わるビジネスに関わりたかった。CBSソニーに入社したのも、音楽も映像も好きでしたし、それぞれのアーティストがゼロからものを生み出す“ヒューマンビジネス”であるコンテンツビジネスの特性にも魅力を感じていたからです。
齋藤
就職活動をされていた際、何故CBSソニーに行こうと思われたのでしょうか?
カビラ
今でこそ“コンテンツ”という言葉を使っていますけども、当時で言う“ソフトウェア”、音楽とか映像とか含めたソフトウェア全般に携わりたかったんですね。興味のあるものをビジネスにしたかった。例えば商社に入ったとすると、穀物からボーキサイトからミサイルから、スケールの大きな仕事は当然出来るのでしょうけれども、それよりも自分の好きなコンテンツに関わる仕事をしたいと思っていました。なおかつ日英両方使えるという環境という視点で探してみると、それがSONYだったんですね。もちろん先輩の紹介があったというのも大きいんですけれども。先達の皆さんがいらっしゃったというのもあって紹介を受けて、応募したら受かったんです。
齋藤
“コンテンツ”とおっしゃると、音楽、言葉、映像などとても広い概念だと思うのですが、その中でもどの部分に興味がおありだったんですか?
カビラ
音楽も映像も好きでした。当時はまだ製品化されたばかりだったビデオカセットとしての映画ソフトも、まだベータとVHSが争っているころでしたが、必ず大きなビジネスになるだろうと感じていました。あとはやはり、“ヒューマンビジネス”であるコンテンツの特徴も魅力でしたね。アーティストがゼロから作り出してくれないとコンテンツは生まれないわけですよね。在庫があって、それを処理して、また新しく素材から製造してあまた広く売っていくというビジネスとは違って、松田聖子さんもビリー・ジョエルさんも一人しかいない。アーティストビジネスというのはそういう非常に専門特化したコンテンツを扱うビジネスなので、その根元に携わることができたら面白いな、と思っていました。
渡辺
カビラさんご自身が弟の慈英さんみたいに舞台に出るとか、表現するということは考えられなかったんですか?
カビラ
全くないですね。
渡辺
もったいないですね〜。
カビラ
そうですか?
渡辺
だって、兄弟公演ができたかもしれない(笑)。
カビラ
それは今からでも遅くないですね(笑)。しかし、僕がコンテンツになるという発想はどこにもなかったですね。そうではなく、コンテンツに携わるビジネスに関わりたかった。
仕事を換えようと思ったのは、現場で燃え尽きてしまったんです。アーティストの海外渉外の世界の中で、どんどん高くなるハードルをそのまま超え続けて、幸運が続いて上司の席についたとしても、それは僕にとってのほんとうにハッピーなのか、と違和感を感じたんです。
渡辺
コンテンツに関わることを考えて入られたCBSソニーの現場は楽しかったですか?
カビラ
非常に楽しかったですね。アーティストのインタビューの通訳から、海外取材のセットアップ、海外音源の獲得、交渉など、要はプロモーションのコーディネーションから法務的な契約書の作成まで数多の仕事をやらせて頂いたので、非常に勉強になりました。
渡辺
でも、そのまま続けたいというお気持ちにはなれなかったんでしょうか?
カビラ
もう燃え尽きちゃったんですね。TOTOというアメリカのロックバンドがグラミー賞を総なめにした年に来日したんですが、それに合わせてフジテレビさんの“夜のヒットスタジオ”に出てもらうための出演交渉の仕事を担当したんです。海外渉外という仕事をしていたので、プロモーションの方が立案したプランを実現させるための交渉ですね。LAにCBSレコードのインターナショナル部門があったので、当然その部門が僕の依頼を含め数多くの依頼の中から取捨選択し、優先順位をつけて交渉するわけですが、日本とLAの日夜激しい時差の中あまりに僕が押しすぎたので、CBSのLAのオフィスが折れたんです。「こんな依頼、TOTOが受けるはずがない!でも、そこまで言うのなら君が直接交渉しろ。」と。
齋藤
それで交渉できちゃったんですか?
カビラ
はい。普通は当然混乱を防ぐために1つのところ、この場合はLAオフィスがまとめて交渉を行うので、ほとんどない例なんですけどね。海外の1支店である東京のCBS Japanの1スタッフが直接TOTOのマネジメントと話すことができたんです。そして、うまくいったんですよ。そういうラッキーなこともあったんですが、その時、「じゃあ次に何がくるんだ?このままいくとどうなっちゃうんだろう?」と、はたと思ったんです。達成感と同時に焦燥感と一種の恐れを感じました。ご承知のように、交渉の世界ってうまくいけばいくほど、いわゆるハードルが高くなるわけですよ。この仕事を続けていく限りそこで査定されて、うまくいけば今の上司の席に着き、ラッキーだと、その上司の上司の席に着くわけです。その時、入社して7年目くらいだったんですが、その部長が座っている席と彼がやっていることを見て、「それってほんとにハッピーか?…いや、ハッピーじゃないな。」って思ったんですね。日々の仕事の中で100やって100評価されて、ひょっとしたら時々ラッキーで120くらい評価されるかもしれない、その連続がきっと僕を色んなところに連れてってくれるだろうとそれまでは思っていたんですが、常に間に挟まれている上司の仕事を見て、違和感を抱いたわけです。ボスになりたかったわけでもないし。また、交渉って本当に時間がなくて、決まっている放送日までにどんな策を使っても交渉を成就させれば良いわけですね。TOTOのマネジメントが“夜のヒットスタジオ”が何かをわかってくれなくても良いんです、出てさえくれれば。でも、「本当は分かってほしい」という青い気持ち・ェあるわけですよ。「カルチャーギャップにつけ込んで成立させていくしかないっていうビジネスって、自分にとってどうなの?」という気持ちもありましたね。まぁ今思えば視野が狭かったなって思うんですけど。レコード会社にも色んな仕事があって、海外渉外以外の道もあるというのに気づくことが出来たらよかったんですが、「きっと国際畑でずっと進んでいっちゃうんだろうな、そうするとずっとこういうのをやって…」と考えてしまったんですね。
齋藤
それはおいくつの時ですか?
カビラ
28、29歳の時ですね。
齋藤
その時代、その年齢で、そう考えることが出来る人ってほとんどいなかったと思うんですよ。多くの人はそういうものだと思って、1つの会社に入ったら次の席を狙っていって、ともかく昇進出来れば良い、という人達が普通だと思うんですね。ちょっと、普通の人じゃないですよね(笑)。
渡辺
うかがっていると、ICUを選ばれる時からそうだったんでしょうね。9月入学が少ないという条件はあったものの、ご自分が魅力を感じた部分を大事になさる点というか。その時も、ここだったら出世出来そうとか、大きなビジネスに関われるから、ではなく、ご自分の最も好きなことを率直に選んばれたんですね。
J-waveとの出会いはそれまでのパズルの“ピース”の集約でした。アメリカでのビジネスとしてのラジオとの出会い、先輩からいきなり依頼されたラジオ番組のDJ、English DJコンテスト…それまであった色んなピースがその時ひゅっと1つの絵を描いたんです。
渡辺
そうやって燃え尽きてらした時にたまたまラジオとの出会いがあったんですか?
カビラ
はい、たまたまなんです。僕はよく“パズル”って言ってるんですけど、色んなところにパズルのピースがあって、それがひゅっと1つの形になるんですね。たまたま燃え尽き症候群になっていた時にそのパズルのピースたちが1つの絵を描いてくれたんです。
渡辺
どんなピースだったんでしょうか?
カビラ
1つはアメリカのラジオコンベンションに参加したことですね。ある時、開局して間もないFM横浜さんの編成の方と、もう一人ラジオにプロモーションをしに行くラジオプロモーターをしている先輩と3人でそのラジオコンベンションに行ってきてくれと言われて、ツアコン兼通訳としてアメリカに行ったんですね。National Association of broadcasters…言わば日本の民放連みたいなものが年に1回行うイベントなのですが、シンポジウム、最新技術のお披露目会、商談会、レコード会社の新人紹介フォーラム等があり、なおかつ朝から晩までセミナーが行われるわけですよ。“How to produce a winning morning show”とか、“How to earn more money by selling less”とか、数々のトピックがありました。そういう真っ只中に僕は何の予備知識もなく放り込まれて、ビジネスサイドからのラジオを見て、「すっごい面白いな、ラジオって!」と思ったんです。放送局の人、技術の人、広告宣伝の人、このマーケットはこの番組が強いから、というようなアドバイスをするプロであるラジオコンサルティングの人…、本当に沢山の人が集まっていました。「さすが1万数千局もあるアメリカだな!」と思いましたね。“This is not a business. This is an industry!(業界じゃない、産業だ!)”と言われてすごいカルチャーショックを受けて。夜は夜で、FM横浜の方と一緒にその日のセッションのメモをもとに情報交換をする勉強会をやるわけですよ。お互い違うセミナーに出ていたので、全然違う知識を交換出来る。その時はまだ26歳くらいでしたが、すごく面白くて、その経験が1つ目のピースでしたね。2つ目のピースは、洋楽の部長が転任された先の会社から番組を作ろうという声がかかったことですね。その部長は昔とった杵柄で洋楽中心の番組を、「まぁ音楽とDJを合わせれば番組だろう」というような簡単な感じで立ち上げたんですが、そこでなぜか「カビラ、よろしく!」と僕におはちが回ってきて。「ええっ、やったことないですよ」って言ったら、「録音番組だから大丈夫だよ。ちゃんと構成作家がいるから、それを読んでりゃいいんだ。」と返されて。「ええっ!?」って言いつつ始めた番組がFM横浜さんだったんですね。別のところでは、TBSさん主催のEnglish DJのコンテストに先輩の女子社員が勝手に「カビラくんの名前書いて応募してきたから頑張ってね」っていうエピソードがあったり。「はぁっ!?」って、それもまた、びっくりしましたけどね(笑)。
渡辺
お姉さんとかが勝手に応募するジャニーズオーディションみたいな感じですね(笑)。
カビラ
本当にそうですよね(笑)。「これオーディション要領だから、これ読んでやっといて。カセットテープは下のスタジオで作ってくれば良いでしょ。」って、ぽいって渡されて。そういったピースたちがあって、かつ仕事で燃え尽きて、「うわぁ、この先どうしようかなぁ」と思っていた時にそのピースが集約したんですね。ある日、会社の廊下ですれ違った邦楽担当の後輩から「カビラさん、電話しといたあの件どうしました?」と聞かれて。邦楽からの連絡って、「歌詞を翻訳して」とか、「かっこいいキャッチコピーを考えて」とかいう依頼ばっかりだから、電話があったって聞いても無視していて・・・でも廊下ですれ違っちゃったから無視することも出来なくて、「あの件って何?」って聞いたら、「実は…」と言われたのが、電通のラジオ局で、J-waveの開局のビジネスに携わってる方からだったんですよ。
渡辺
無視するはずだったのに。
カビラ
その日のその時間にその廊下にいなければ、その後輩にばったり会っていなければ、今僕はここにいなかったと思います。
渡辺
すーっとピースが集約していったんですね。
カビラ
そうなんです。ピースがゆるやかに集まって、その方のお話を聞いて1つの絵を描いたんですね。「あ、出来るかもしれない」って思って。だから、「どうすればDJになれますか?」と聞かれても分からないんですけど(笑)。ただ、この世界にもオーディションや公募があったり、色んなチャンスがあるので、それがピースになる可能性があって、ただピースってほんとにどこにあるのか分からないので、色んなピースを集めておいた方が良いですよ、というお話をいつもさせて頂いています。
最初のブレイク(休暇)を決めたのは、1つの価値観でいっぱいにならないように、守りに入ってしまわないように、一旦区切りをつけようと思ったからです。長くやってるから偉い、という考えには絶対なりたくないんです。
渡辺
ラジオの世界に出会われてJ-waveで活躍なさっている真っ最中、たくさんのリスナーもいらっしゃる中で、休憩、ブレイクを取られるという判断はどうしてだったのでしょうか?
カビラ
2回休んじゃったんですけど、最初の方は、まず10年と決めていたからですね。
渡辺
始められた頃からですか?
カビラ
いえ、3年目くらいからですかね。
渡辺
普通、出来るところまでどんどん手を広げていく方向、というかそういう方の方がもしかしたら多いかと思うんですが、そっちには向かれなかったのですか?
カビラ
全くなかったですね。面白いなと思ったのが、J-waveは開局時、新規参入というだけで話題になるわけですよ。よく笑い話にもされる「世界一成功した官僚全体主義国家」、日本の規制の中、生まれたラジオ局がJ-Waveなんです。だから、もちろん編成方針とかが優れていたというのもあるんですけど、一種の注目がくるのは分かっていて、ありがたいことに取材の対象にもなったんですね。その時、「次はテレビですか?」って聞かれて、かちんときたんです。「え、なんで?ラジオは踏み台なんですか?」って言っちゃいましたが(笑)。「TV is king」、アメリカではもうそうでもないかもしれないですけど、日本では未だにそういう意識ですからね。
渡辺
確かにやりたいこと、好きなこと、というベクトル以前に、上下、順位というベクトルでほとんどが語られてしまうということは非常に不思議で残念だと思います。
カビラ
そう、「なんでこういう序列があるの?」というのが不思議だったんです。ただ、そういう思いもある反面、どこかで、なかなか日本語にしにくい気持ちなんですが、「Don’t take yourself so seriously」という感情、「自分のことだけで頭がいっぱいになるな」とか、「何様だと思ってるのか」とか、そういうニュアンスの言葉なんですけれども、そういう気持ちがいつも僕の中にあって。
渡辺
それはいつ頃からなんでしょうか?子供の頃からですか?
カビラ
たぶん原点は大学生の頃、復帰の後、沖縄から東京にきたときでしょうね。今でも“ハーフ”って言いますけど、当時は沖縄では“混血児”という表現が使われていて。クラスメイトなど身内ではそういう刺というか、咎めのようなものは全くなかったんですが、違うクラスや上の学年から、それに街を歩いていても言われるわけですよ、「アメリカ」って。当然ですよね。異民族支配だし、軍だし、負け戦の成れの果てですから。そういう経験をして東京にくると、今度は逆に、「え、カビラくんのお母さんってアメリカ人なの!?かっこいい!」になったわけです。
渡辺
オセロみたいに逆転しちゃうわけですね。
カビラ
そうなんです、3時間飛行機に乗るだけで。だから、「これは気をつけなければいけないな」って、思うようになりましたね。
渡辺
なるほど。だから常に「その価値観でいっぱいになっちゃいけないな」と思われたわけなんですね。
カビラ
そう。最近驚いているのは、「“ハーフ”はおかしいだろう、“ダブル”って言うべきだ」と言う意見もあるんですね。でも、「ちょっと待って、それって何?“ダブル”じゃない人は“シングル”なの?その言葉のニュアンスに何が込められてるの?気をつけようね。」って思うんです。まぁ、裏返しなんですけどね。“ハーフ”じゃなくて“ダブル”って言いたい気持ちはすごくわかるし。ただ、「Take it easy」って、僕はそう思います。そういった考えが自分の中に根づいていたので、まずは10年で一度区切りをつけようって思ったんじゃないでしょうか。
渡辺
なるほど。そして、区切ってみる時って、不安に思われたりなさいましたか?
カビラ
いや、気持ちよかったですよ。
渡辺
それは、もう決めたから?
カビラ
はい、もう決めたから。結局、でも説得するのに10年以上かかっちゃったんですけどね。
渡辺
J-waveの方たちからしたら、そうでしょうね。カビラさんという柱というか存在が抜けちゃうわけですから。
カビラ
まぁたまたまそうなっちゃったんですけど。だから、そのままずっと続けたら結局守りになっちゃうだろうと思いました。
渡辺
続ける、ということが目的になってしまう?
カビラ
そうですね、持続させるがための、ということに正になってしまうだろうし、守りにもなってしまうだろうし。偉くなりたくないという気持ちがあるし。今いちばん怖いのはそれですよ。長くやってるから偉いとか、分かってる、というところには絶対行きたくないですね。
渡辺
いつまでも守りには入られないんですね。
カビラ
ただ、残念ながらね、今僕の周りにいるスタッフの皆さんは全員年少ですからね。
渡辺
そうか…ずっとやってらっしゃると、気付くとそうなってますよね。
カビラ
そうなっちゃうんですよ。その時が一番警戒しなきゃいけないですね。
渡辺
実際にそうやって10年で区切られて、復帰なさる時はどんな感覚でしたか?休む時に次の復帰がわかっているわけではないのですよね?
カビラ
いえ、もう復帰を前提としないと休めない、というか辞めさせてくれない、という環境でしたね。
渡辺
そうすると、この期間という決まった期間で充電なさっていたんですね。二度目のブレイクもそういうふうに戻る時期を決めてお休みに入られたのでしょうか?
カビラ
二度目は分からないようにしたつもりなんですけどね。
渡辺
それはどうしてだったんですか?
カビラ
二回目の燃え尽きでしょうね。仕事としてのワールドカップが三回目のドイツ大会だったのですが、フジテレビさんから頂いた「すぽると!」の月曜日と土曜日の放送があって、なおかつラジオの方でも月曜から金曜の早朝の番組があったので、単純に、発想的なものとかスタンスとか生き方以前にこれは続かないなと思ったのがひとつ。それと、娘が小学校に行く前にしか休めないな、と思った部分もありました。子供が学校に行く前にしか出来ないことをやるなら今だ、というタイミングがたまたま重なったんです。
渡辺
まさか…今も次の区切りをご自分の中で作ってらっしゃったりは…?
カビラ
今は考えてないです(笑)。
渡辺
よかった(笑)!
カビラ
考えてはいないですけれども、確実に来るんじゃないでしょうか(笑)?ただ、以前のような、月曜から金曜まで毎朝3時半に起きています、というような体と心へのスケジュール的な負担という状況には陥ってませんね。
渡辺
それは良かったです。先程SONY時代に、楽しかったんだけど、「僕の幸せはここにあるんだろうか」と思ったとおっしゃっていましたが、幸せという概念は掴みどころはないものの、今、ご家族や仕事など色んなバランスの中で心地よさや幸せを実感なさっているなら、本当にリスナーとしても嬉しいです。
いかに相手に納得して、楽しんでもらいながら、レベルの高い仕事をチームで一緒に創り上げていくか、ということを常に考えています。楽しくっていうのは、“Funny”じゃなくて“Fun” なんです。そこに納得感があるからこそ“Fun”になるんです。
齋藤
今のお話を聞いていると、あんまり普通起こらないようなことをやってらっしゃるんですよね。例えば、復帰が前提ではないと仕事を休めないというようなことはよっぽど実力があって、組織にとってものすごく重要で特別な存在になっていないと起こらない。これを読む同窓生や在校生の人たちが「僕らもカビラさんのように自分の好きなことを求めていったらそういう道に行けるかもしれないんだ、そういう風に休めるんだ」と単純に考えちゃうと困るなぁと思うんですね。カビラさんがうまくいったのには理由があって、自分自身のコアとなるもの、とか考え方のようなものがあるのではないかと思うんですが、それは何なのでしょうか。3兄弟でよく話をしたとい・、ご経験も関係してくるのかなとも思いますし、沖縄返還などの時代背景でお母様がアメリカ人という環境ですと、日本の普通の家庭のような「一生懸命我慢して会社のために尽くせば認めてもらえるから頑張りなさい」という教育環境とはまた違ったものだったのかな、とも思うのですが。
カビラ
いえ、母はそういう人でしたよ。「ちゃんとやりなさい、頑張りなさい」っていう、もうごりごりのいわゆるキリスト教系勤勉主義です。
齋藤
そうすると、舞台で活躍しておられる慈英さん含め、アーティスト系の部分というのはどこから影響を受けられたんでしょうか。ご両親はそういうアート系の分野ですか?
カビラ
父は放送の現場も経験はしていますが、どちらかというと、編成の方ですね。
齋藤
では、友達の輪が広かったとか?
カビラ
何でしょうね…。大切にしている部分と言うと、CBSソニー時代もそうでしたけども、チームでいかに楽しく仕事をするのか、ということを考える性格なんですよね。楽しくっていうのは、“Funny”じゃなくて“Fun” なんです。“Fun”にするためには“納得”した上での行動でないといけないんですね。だから、もちろん雰囲気作りなども大切なのですが、常にプレゼンテーションとネゴシエーションが必要なんです。いかに相手に納得して、楽しんでもらいながら、レベルの高い仕事を一緒にやっていくか、ということを常に考えています。だから、今の僕の仕事で言うと、例えば番組の編成会議などでチームで話をする時は、立場は基本的に関係ないですね。皆が面白いと思うこと、ほーっと唸ること、笑うこと、もしくは怒ること、そういった皆の喜怒哀楽の振れ幅が出せるような話を持ち寄るんですが、どういったものを今日皆が持ってきてくれて、それをどういう風に説明すればリスナーがわかってくれるのかを率直に話し合う。「それがどのくらい面白いんだろう」、「なんで君は面白いと思ったんだろう」というところを掘り下げていくと「なるほど!」と納得するところがあるんですね。その「なるほど!」というのが“Fun”なんです。それをいかに負担なく、自分もストレスを感じず作っていけるか、っていうことなんでしょうね。
渡辺
受け手としてはそれが、聞いていて“楽しい”もしくは、“楽しくなった”と感じる部分で、“楽しくなった”という状況を感じられるのがきっとベストなんでしょうね。難しいけれども、本当にユニークだと思います。残念ながら、もうお時間なので、最後に、在校生、卒業生へのメッセージをいただければ幸いです。
カビラ
いかに自分を導くピースを探すか、もしくは自分で作るか、そしてピースに気付く俯瞰した目を持っているか、というところを意識してほしいですね。
齋藤
その“ピース”っていうのは日本語ではどういう表現が良いんでしょう?
カビラ
“気付き”と“きっかけ”でしょうね。
齋藤
なるほど。それはよくわかります。では、今日はどうもありがとうございました。


プロフィール

ジョン・カビラ
教養学部卒業後、CBSソニー勤務を経て、J-waveナビゲーター。テレビ番組の司会、CM、雑誌などの出演も多数。05年第42回ギャラクシー賞「DJパーソナリティー賞」受賞。07年ICUのDAY受賞。06年中学二年国語の教科書に実名と実録インタビュー「ジョンカビラ/言葉の仕事」が教材として登場(教育出版)。06年10月から08年4月まで1年半にわたり休業、海外に移住。08年4月より日本にベースを移し復帰。 オフィシャルサイト:http://www.jonkabira.com/