プロフィール
ICUにてコミュニケーションを専攻後、ノースウエスタン大学大学院コミュニケーション学修士課程、成城大学文芸学部大学院コミュニケーション学科博士課程後期修了。その後、東海大学医学部を卒業。現在、精神科医として神田東クリニックで医長を務める傍ら、教職員のメンタルヘルスをテーマに講演や執筆、相談員としての仕事も数多く行う。
ICU受験日に見た一面雪化粧の神聖な光景が胸に“ぐさっ”と刺さって、ICUへの進学を決めました。
- 渡辺
- 今日はよろしくお願いします。ICUの卒業生は色々な方面で生き生きと活躍なさっていますが、同窓生や在校生、ICUに興味を持ってらっしゃる学生の方などにその姿や活動が伝わりにくい側面があるかと思っています。なかなか自ら広告なさいませんし、群れることもありませんし(笑)。 私自身、同窓会のお手伝いをするようになってから、弁護士の方や牧さんのようなお医者さまが多くいらっしゃることを知りました。ICUに学部がなかっただけに驚きのひとつで、例えば、病院を探している方や弁護・mさんに相談したいことを抱えてらっしゃる方にとって、相談先を知る機会の一つになれば、全く知らないところを探して訪ねるより心強い場合もあるのでは…と思ったこともこのインタビューを始めた大きな理由です。精神科の先生にお話を伺える機会を頂戴できて、感謝しています。
- 齋藤
- 今日お会いできること、楽しみにしてたんです!今日はよろしくお願いします。ところで牧さんは、もともと精神科医になろうと思ってたんですか?
- 牧
- いえ。高校卒業までは医者になりたかったんですけど、父親に「中途半端ではできない仕事に、女の君が苦労してやっていく必要はない」と言われ、その時は医学部は諦めたんです。
- 齋藤
- 高校はどちらに行かれていたんですか?
- 牧
- 神奈川県の希望ヶ丘高校を卒業しました。もともと男子校だった学校なので私の通っていた当時は特に女子が少なくて…全体の3分の1くらいでしたでしょうか。勉強してたら男子が廊下にやってきて女の子を見に来るような感じでしたよ(笑)。
- 渡辺
- ICUのことはどうやってお知りになったのですか?
- 牧
- 家庭教師の先生が勧めてくれたのがきっかけでした。もともと生物や物理が好きで英語が苦手だったので、英語だけ集中ケアのため、高3のとき家庭教師をつけたんです。で、「医学部に行きたい」と言っていたのですが、父親に大反対されまして。父は他のことでは優しいのですが…いえ、むしろ優しいからこそ、娘には苦労をさせたくないという気持ちがあったんでしょうね。
- 渡辺
- 大事なお嬢さんが医者になるなんて苦労はさせたくない、と。
- 牧
- はい。もう、「医学部はダメだ!」の一点張りで譲らなかったんですね。「だったら大学なんて行かない!」くらいに思っていましたが、そんなある日、家庭教師の先生がICUを勧めてくれて。祖父が明治時代イギリス・アイルランドに留学していたり、外の空気を吸ってみたい気持ちは(英語が苦手なのに)ずっと持っていましたので、見抜かれたかもしれませんね。
- 齋藤
- その家庭教師の先生はそもそも何でICUを勧めてくれたんでしょうか?
- 牧
- その先生は東京外語大学の方だったんですけど、ちょうど在学されていたのが学園紛争の時期だったので東京外大にはあまり良い印象がなかったのかもしれません。「リベラルで、インターナショナルで、君にぴったりだよ」とICUを勧めてくれて、私もそれでICUを魅力的に感じて、受験しようと思いました。
- 齋藤
- 先生にICUの写真を見せてもらったり、事前に見学に行ったりはしたんですか?
- 牧
- 受験ぎりぎりに申し込んだので、ちゃんと大学を見に行く時間もなくて。申し込みの後にICUから届いたパンフレットを見た時の「綺麗だな〜」という印象を胸に受験日にICUを訪れたんです。そしたらその日は大雪で、キャンパスは雪化粧。ただでさえ綺麗なキャンパスが、本当に、ものすごく綺麗だったんですね。もうその光景が胸に“ぐさっ”と刺さっちゃって、「もう医学部には行かなくていいや」っていう気持ちになっちゃいました(笑)。
- 渡辺
- 私も在校生の頃、“三鷹の雪を侮っちゃいけない”と何度も実感しましたが、あの三鷹の雪が牧さんを惹きつけたですね。
- 牧
- 今、真理さんの言葉をお伺いして、“雪が意外に厳しくて大変”という意味ではなく、“雪の三鷹に行ってしまうと魅せられてしまうので、侮っちゃいけない”という意味かと思ってしまいました(笑)。それくらい綺麗だったんです。
留学した時は自分自身がうつ状態で何か逃げるものがほしかった。だから、留学中はひたすら集中して勉強していて、一週間に4〜5冊の本のレポートを出していました。
- 渡辺
- 今の牧先生になられるまでを追ってうかがうと、ICUを卒業なさって、まず次は、ノースウエスタン大学に進学されたんですよね?
- 牧
- ノースウエスタン大学に行こうと思ったのは、その当時色々起きまして、私自身がうつの症状になり、すごく虚しさ、寂しさ、無価値さを感じてしまう自分自身の気持ちについて勉強しようと思ったからなんです。“人が離れる”と書いて“離人感”と言うのですが、それを経験しまして。道を歩いていても人が5〜6m先にしか歩いてないような感じがするんですね。現実すべてが一枚の薄いベールに包まれてしか見えてこない。そのくらい心理的な状況が物理的な視覚にも影響を与えるんです。
- 齋藤
- 大学を卒業されて、その頃は仕事はしていなかったわけですか?
- 牧
- はじめは東京銀行に勤めていました。
- 齋藤
- 当時流行りの。
- 牧
- そうです、流行っていましたね。結婚して、子供が生まれる時にやめました。
- 齋藤
- ノースウエスタン大学へはお子さんも一緒に行かれたんですか?
- 牧
- そこは1年だけで修士を取れたのでその時は子供は連れていきませんでした。ただフランスでも1年間勉強をしていたのですが、その時は子供も一緒に連れていきました。
- 齋藤
- フランスでは何を勉強されてたんですか?
- 牧
- コミュニケーションを。
- 齋藤
- しつこくコミュニケーションを勉強されてたんですね(笑)。それだけ学びを重ねることが出来たのはなぜだったんでしょうか?
- 牧
- その時は自分がもう、いっぱいいっぱいだったんですね。何かわかんない気持ちから逃げたかった。でも、子供がいましたのでそれが抑止力になって、修士も2年ではなく1年でとろうと思いました。その分、留学時代は本当に集中していましたよ。1日1冊、だから1週間に計4〜5冊の本のレポートを出されていたので、毎日ひたすら英語の本を読んでいました。
- 渡辺
- 「この気持ちは何だろう」とご自身に向き合われるために、何かにひたすら打ち込むことが出来る時期が必要だったのでしょうね。きっと、普通の大学受検などでも発揮できないような集中力と勉強量だったのかと想像します。
- 牧
- そうですね。普通の状態では出来なかったと思います。うんと落ち込んだ人が浮上していく時って、下手したら上がりすぎちゃってマニック(躁病状態)になっちゃう恐れもあります。それって、悪い方向にふれなければ、その力を利用して結構色んなことを習得できるという面もあるんです。作家の方にもそういった方がおられますし。今振り返ってみると、「私もそういう状態だったのかな」って時々思ったりします。今から考えたら全然信じられないですね。
- 渡辺
- その後、更に成城大学にも進まれて、コミュニケーションをずっと学ばれて。ICUにも勤務なさったんですよね?
- 牧
- フランスから帰ってきてICUの斎藤美津子先生のドアをたたいて初めてお会いしました。彼女のTAとしてコミュニケーションの非常勤講師としてICUに勤めていました。
- 齋藤
- そのころには“先生”になりたいと思っていて、だから非常勤の先生をしていたんですか?
- 牧
- それは考えていませんでしたが、娘もいますし、何かしらの仕事はしなきゃいけないじゃないですか。先生でなくても、「ちゃんと勉強して仕事していかなくては」とは思っていましたね。
医療の場のコミュニケーションを勉強した時に医学部に行きたかったことを思い出し、悲嘆にくれている人の助けになりたいと、医学部を受験しました。
- 渡辺
- そうすると、ICUで働いてらしていた時に次の大学への転機があったのでしょうか?
- 牧
- ICUで働き続けて、そのまま教職に就けるものなら残っていたかもしれませんが、非常勤講師からそこでの教職という道はありませんでした。ちょうど、その先のことを考えていた時にノンバーバルコミュニケーションの博士課程を勧められ、私はバーバルが苦手だったので、ノンバーバルの方に行こうと思いまして(笑)。で、その博士課程を終えた後に、東海大学の医学部に入学して、交換留学生としてアメリカのボーマングレー大学に留学しました。
- 渡辺
- そこで医学を志して東海大学へ入学なさったのは何故だったのでしょうか?
- 牧
- 博士課程を終えた時に、教授は講師としての道も探してくださったのですが、ノンバーバルコミュニケーションの勉強の中で、“ナース、ドクター、ペイシェント(患者)のコミュニケーション”というテーマを扱ったものがあり、とても興味をひかれたんですね。そこで、「そうだ、私、医学部に行きたかったんだ!」ということを思い出したんです。それと、コミュニケーションを学んでも、悲嘆にくれている方の苦しみを和らげるための薬は出せないことをもどかしく感じたことも多かったんですね。それで、「医学部にいって精神科の医師になりたい」と思いました。ただ、国立受験は子供がいる中で5−6科目の受験勉強をしていくのは無理だなと思っていまして。そんな折、たまたま新聞に小さく、“東海大学の学士入学の受験生募集”と書いてあるのを見つけたんです。申込締切日は三日後。私はいつもぎりぎりなんですが、その時も直前に資料を取り寄せて、申し込みました。
- 齋藤
- 受験を申し込んで、見事合格され、入っちゃった?
- 牧
- そうなんです。ICUのフレッシュマンイングリッシュで英語を身につけさせてくれたからこそ合格出来たと思っているので、本当にICUには感謝しています。その時の東海大学医学部の学士入学倍率は20〜30倍だったんですよ。受験の時、一つの教室当たり30人くらいの学生が入っていたので、「この中で一人しか受からないんだ…」と思って、「周りを見るのはよそう!」と自分に言い聞かせていました。幸いなことに、東海大学の医学部入試は点数比率の半分が英語だったんだと思います。あとは小論文もありましたが、その英語の点数が高くて受かったんじゃないかと思うんです。
- 渡辺
- 医学部の学生になられた後は、どんな授業や学生生活を経験なさいましたか?
- 牧
- これまでの大学、大学院での学びがありましたので、教養科目等は省いて5年間で卒業できるというカリキュラムにすることが出来て、入学してすぐに解剖学の授業からはじまりました。それまで全く医学部の授業なんて受けたことがありませんでしたので、はじめはご遺体にメスなんてぶるぶる震えて入れられませんでした。初年度の夏休みには物理など、他の学生が1年生にやる科目のうち、必須の科目を集中的に勉強していました。大学が遠かったので、往復5時間かけて通っていましたよ。夜、子供の朝ごはんを作って翌日学校に行き、授業が終わったら超特急で帰っていました…。医学部は覚えることが山のようにあったので、かなりの時間を勉強に費やしていたと思います。「あんなに覚えさせなくても、もうちょっと考えることをさせたらいいのにな」って、個人的には思うんですけどね。でも、アメリカのボーマングレーの学生の生活はもっとハードでした。アメリカの学生は、当時の日本の医学部卒後研修にはなかった、マッチングというものがあり、自分の成績や意欲を卒後研修先に売り込みにいくんですから、勉強も生き馬の目を抜く勢い!「ああ、私なんてまだまだ甘ちゃんだ」と思い知らされました。東海のほうがおっとりしていましたよ。
- 齋藤
- 大学は5年で出られたんですか?
- 牧
- はい。その間で1年近くはアメリカに留学していたんですね。
- 渡辺
- 医師の国家試験の勉強も大変だったのではないでしょうか?
- 牧
- 国家試験が11月にあったんですけど、アメリカ留学から帰国したのが秋だったんです。帰ってきたら、周りの皆が必死で勉強していて。もう、焦らず開き直って、「暗記勉強するなら短い方がいいや」って思って短期集中で勉強をしました(笑)。
子供とはいつも二人三脚でした。私がテスト前日に熱を出して寝込んでいた日には、紀伊國屋まで医学書を買いに行ってくれて。おかげでテストに合格しました。
- 渡辺
- 子育てと両立するハードなスケジュールの中で、更に留学まで決断なさった牧先生の努力と姿勢に敬服します。そのモチベーションの源泉は何だったのでしょうか?
- 牧
- 恥ずかしながら奨学金のためだったんです。ボーマングレー大学に行ったらその間の日本の授業料が免除されて、かつ向こうの授業料は全額補助、その上向こうで一か月何百ドルもの手当てが出るんですね。子供を抱えた生活だったので、「それは行かなくちゃ、受からなくちゃ!」って思って。かっこいい話じゃないんですけど。
- 齋藤
- かっこいいですよ!
- 牧
- ですから、留学時は、当時小学生だった子供は日本の親の元に残して行きました。フランスの時は幼稚園だったので一緒に行けたんですけどね。
- 渡辺
- お嬢さんも、頑張って生活するということで、小さい体でお母さまをすごくバックアップされたんですね。
- 牧
- はい。私が試験の前日に熱を出してしまった時に、「ある本から試験問題が出るらしい」という情報を聞いたんですが、寝込んでいたので買いに出かけることも出来なかったんですね。その時、当時小学校2年か3年生くらいだった子供が「心配しないで、私が行って買ってくるから、ご本探してくる!」と、新宿の紀伊國屋の雑踏の中、医学書コーナーに行ってその重い本を買ってきてくれて、ベッドで必死で勉強して何とかテストに受かったということもありました。
- 渡辺
- まさに、お嬢さんと二人三脚だったんですね。
- 牧
- それと、両親のバックアップも大きかったですね。最初は「医学部なんてダメだ!」ってまたもや大反対されてたんですけど。東海大学に受かった時、あとの学費等は奨学金で何とかする自信があったのですが、まず納める入学金がなかったので、合格通知を持って父の職場に押し掛けて直談判したんですね。お昼を食べながら二人で話したのですが、「生活のためのお金は最低ラインなら出すから、そんな苦労をする道を選ぶことはない。医学部は、入った後の勉強はもちろん、卒業した後も大変なんだから」と言われました。ぽたぽたとランチのコロッケに涙がこぼれてとまりませんでした。けれど、うなだれて、地下鉄の階段を降りていくときに、背中の向こうから「由美子」と呼ぶ声がして、「出さないよ、貸すだけだよ」と父が言うのが聞こえました。あの時自分で何を考えていて、何を考えない人間なのか、わからなくなっていましたよ。若いうちは皆そんなときがあると思うのですが、何しろそんなに若くなかったのにね。まあ、今にして思うと、娘の医学部の合格通知を目の前にしてここまで言い切る父もすごいなって思ったんですけど。
- 齋藤
- お父さんはお仕事は何をされていたのですか?
- 牧
- 父はエンジニアでした。
- 齋藤
- お医者さんをやっている方以外でそれだけ反対されるのは珍しいですね。お母さんもお医者さんではないんですよね?
- 牧
- 母の家系は医者の家系なんですね。母の義理の姉は精神科医だったんです。
- 齋藤
- もしかしたらそれが影響しているのかもしれませんね。
「精神科の薬って飲むとアホになるんとちゃうか」って思う人が今でも結構多いんですが、薬のおかげで回復が早まります。だから、薬の働き、効用をしっかりと伝えていかなければと思っています。
- 齋藤
- 医学部をご卒業なさって精神科を選ばれたのはやっぱり精神科医をしておられる親戚の方の影響があったんでしょうか?
- 牧
- それと、やはり自分自身が“うつ”を経験したからという理由もあります。アメリカに行っていた間も、「子供がいるから早く回復しなきゃ」という気持ちはあったものの、ずっとうつ状態で人生楽しいものなどとはどんな瞬間も思えないでいました。医者にも行かなくて、強引に治したようなもので、回復には恐らく4年くらいかかったと思います。その頃はうつ病というのもそんなに多く聞く話ではなく、ほとんどの人が病院にも行かずに何とか治してきてたでしょう?でも、抗うつ剤を飲んだらもっと楽になるんですよね。
- 齋藤
- 僕の知人にも、うつになってしまって、歌うことで回復した人がいますね。
- 牧
- うつは、薬なしでもなんとか乗り越えられることもあると言われているんですが、薬を飲んだ方が必要以上に長く苦しむ必要がなくて、回復が早いんですね。でも、精神科のお薬って、「飲んだらアホになるんとちゃうか」なんて思う人が今でも結構多い。
- 齋藤
- 確かにそういうのってあるかもしれませんね。
- 牧
- そうなんですね。だからそういう誤解をといて、正しい事実をどうやって分かってもらうかっていうのも大事なんです。
- 齋藤
- 精神科の薬って普通はどんな薬があるんですか?
- 牧
- 大きく分けて、“メジャー”と呼ばれるものと“マイナー”と呼ばれるものの二種類の薬があります。“メジャー”は統合失調症、大うつ病などに使う薬で、とても簡単に言うと脳内の神経伝達物質に働きかけるものなんです。嬉しいという感情を伝えたり、感激や元気のもととなるセロトニン、ドーパミンなどの神経伝達物質を励まして活性化させたり、神経の節目の通りをよくしたり、という働きがあります。“マイナー”と呼ばれるものは安定剤や睡眠薬などですね。今は、薬局でも睡眠導入剤が売られるようになりましたが、現代人が眠れなくなってしまうのは昼間の緊張が原因となっていることが多いので、その緊張をとってあげる薬を飲むだけで眠れるようになる人も多いんです。
- 齋藤
- そういう話を聞いていると、そんなに危なくなさそうですよね。むしろ僕ももらいたいくらい(笑)。
- 渡辺
- 精神科の薬に対する誤解もそうですが、精神科自体に対して誤解を助長させる風潮があることも否めないかと思っています。例えば、ニュースで、精神科に通院歴がある容疑者の名前を伏せるのは、ご存じの通りです。名前を出すべき、出さざるべきということではなくて、精神科に通ったことがある=即、特別扱いという不文律は、知らず識らずのうちに精神科への足を遠ざけている面はあるかと感じます。アメリカのように、カウンセリングするのは日常の一コマで、カウンセリングしないと症候群みたいになるのも、また大変かと思いますが、もっと気軽に精神面を相談できる環境は必要じゃないか、と。変わった目で見られるとか、違う扱いをされないかと恐れて、精神科を訪ねる壁を高く厚くしてしまうほど、早めに行って軽いうちに診てもらえる機会を遠ざけてしまいますし。重症化を避けるためにも、出来るだけ診てもらいやすい環境がいいかと感じています。実際、私の伯父も医師で、こんなことを言っていました。「皆、何ていう病気か白黒つけてもらいたくて病院に来られるけれど、症状っていうのは人それぞれ違って、白か黒かじゃない。白と黒の間には、ものすごくたくさんのグレーが存在して、はっきり言えないというより、断定することの方が違う場合もあるんだよ。」と。確かに人の身体は都合上、部所ごとに名前がついていて、病院も科に分かれてますけど、どうしてその症状が出ているか複合的な場合が多い中で、どこからが外科の範疇でどこからが内科で、どこからが脳の問題か、線引きは難しいですよね。精神科も同様で、というより、複雑に絡み合った体の不調を最も引き起こしやすいナイーブな中枢という意味では最も気軽に扉を叩ける存在でないと、と思います。
- 牧
- 本当にそうですね。心身症といって、精神的な病名がつく病気ではないのに体の症状の原因が、明らかにストレス(それも、悪いストレスのためすぎ)だったりする病気の群も認められています。心と体などと切って考えられないのが臨床の場での実感です。
「自殺防止」と言う前に、耐えられなくなるまで落ち込まないために、悩みや苦しみを抱えたら気軽に行けるような場所を作ることが大切だと思います。
- 渡辺
- お名刺に労働衛生コンサルタントとありますが、これはどんなお仕事なのでしょうか?
- 牧
- 現在在籍している神田東クリニックは、EAP(Employee Assistance Program)と呼ばれるプログラムを扱っているのですが、そういった、企業で働く方のメンタルヘルスをサポートする仕事です。
- 渡辺
- 会社との関係の中で辛い状況に立たされる方は多いのでしょうね。
- 牧
- 今は、激務な仕事による負荷で苦しんでいるという方に加えて、職を失ってしまったショックから回復出来ない方もいらっしゃいますね。自殺者は今年、過去最高になっています。9月は自殺防止キャンペーンなどもあり、“自殺防止”というのが大きな課題と言われていますが、その前にまず、普通の人が、耐えられなくなるまで落ち込まないために、悩みや苦しみを抱えたら気軽に行けるような場所を作るのが大切なのでは、と考えています。
- 齋藤
- その労働衛生コンサルタントになられるためにもまた努力を重ねられたんでしょうか?
- 牧
- 労働衛生コンサルタントというのは国家資格なんですけど、私にとっては、それは医師の国家試験より難しかったかもしれません。…なんだかすごく「頑張った、頑張った」って自分で言ってるようでなんですけど(笑)。
- 渡辺
- 伺っていると、牧先生しか乗り越えられないような機会や試練に次々と、ふってかかられているように感じます。実際に今は本当に、働いている中で病んでいってしまう労働環境ですよね。
- 牧
- 以前、教職員のメンタルヘルスを主に扱っていた時期があったのですが、今は教師が本当に本当に大変な環境に居るんです。皆さん、頑張りすぎて燃え尽きちゃうんですね。
- 渡辺
- 学校という一番豊かであってしかるべき場所に勤務する方がそうなのは早くなんとかしないといけない状況ですよね。
- 牧
- はい。5〜6年間教師のメンタルヘルスに関わっていたのですが、その時も現在も、やっていることは基本的にはどちらも同じなんです。労働衛生コンサルタントの資格を取ったのも、真面目な働き過ぎの人が亡くなってしまうとか燃え尽きてしまうとか、そういうことをなんとかしたいと思って。
- 齋藤
- ぼくの事務所のクライアントと話していても、うつになった人がいるという話を聞くことがあるんですね。でも何の対処もしていない。会社にカウンセラーを置いたり、何か対応をしたらいいのに、と思うことがあります。
- 牧
- 今、日本にもそういったケースが増えてきていて、企業にも産業医を置こうという流れになってきています。そういった中で、新しいタイプのうつ病、これは病気と言えるのか、怠けとは言えないまでも甘えなのか分からないようなうつ病が増えているのも事実です。“新型うつ”、“第二世代うつ”など色々な言い方があるのですが、それを素人判断するとすごく危険なんですね。ある人が、ものを激しく机の上に置いてしまったりするのも、「こういう性格だから」と判断されるケースもあるでしょうが、実は真面目な人がうつ病になってしまっていて、焦燥感からそういった行動に出てしまっているのかもしれない。それは実際どちらかという判断についても、医師の診断を受けたほうがいいんですね。専門の人に診てもらうことで分かることはやっぱりあるんです。
- 渡辺
- 心の中の悩みや苦しみは目に見えない分、処置の大変さなどは単純比較できないものの、外科のほうがわかりやすい面はありますよね。教育の現状や雇用状況の悪化を受けて景気対策と雇用対策がずっと議論されていますが、今、生じているひずみに飲みこまれそうな方を救おうとしている現場の病院の先生方が最も大変なのではないかと心配になります。
- 牧
- 小児科、産婦人科などでは医師が耐えられなくて辞めてしまう病院も沢山あるんです。医師が沢山いる病院ですと交代制の勤務に出来るんですが、そうじゃないところだと、感情を無くさないとそういう仕事って出来なくなってしまうと思うんですね。
ICUに感謝していることは、英語教育です。私はやはりあれだけフレマンで英語を強制的に鍛えてもらったので医学部にも進学できて、卒業も出来たと思っています。英語以外の部分では、ICUの人は精神的に本当に皆独立していて、大学に入った時に、これまでとは全然違うと思いました。
- 渡辺
- 牧先生のお話を伺っていると、「どうしてこんなに頑張れるのだろう」と、やっぱり思います。患者さんを目の前にすると頑張るしかないという現実もあるのでしょうけれど…。
- 牧
- 仕事がしんどくなってしまってもSOSを出せない人がいる。私もそういう部類だと思うんですね。色んな仕事を抱えると、「やっちゃおう!」ってやってしまう。それはあるところまでは良いけど、いきすぎちゃいけませんね。ただ、しばしば土日はへたれていますよ(笑)。でも、仕事が出来なくなってしまうようなへたれかたはしちゃいけないと思っているので、そんなへたれかたは土日にもってきて、平日は切り替えているんです。
- 齋藤
- その根性というか、努力する姿勢は子供の頃からだったのでしょうか。「苦労しなくて良い」とおっしゃるようなお父さんの子供だと、甘えん坊でのほほんとした人が出来るのかな〜と思うんですが、そんなことはなく、すごい努力家に育っている。
- 牧
- たぶん、小さな頃から男の子っぽいというか、負けん気が強かったんでしょうね。
- 渡辺
- 最後の質問になるのですが、これまで沢山の学びの場を経験なさっていらした牧さんが今ICUを振り返ってご覧になって、「ICUのこういったところが良かったな」と思われる点はどこでしょうか。
- 牧
- 一つは、繰り返しになりますが、やはりICUの国際文化教育というか私にとっては質の高い英語教育ですね。もともと英語が出来ていた方だと違うのでしょうが、私は英語が苦手な純ジャパでしたので、やはりあれだけフレマンで英語を強制的に鍛えてもらったおかげでその先医学部にも進学できて、卒業も出来たと思っています。医学部在学中に資金が足りず「大学を辞めます」と学部長に言いに行ったら、「僕が貸してあげるから卒業しなさい」と言われたこともあったんですが、その時も何とか留学試験に受かることが出来たので学費が免除されて辞めないで助かったんですね。そうやって私の身を助けてくれた英語教育には本当に感謝しています。英語以外の部分では、ICUの人は精神的に本当に皆独立していて、大学に入った時に、これまでとは全然違うと思いました。フレマンの授業の中で「セールスマンの死」という戯曲がテキストに入っていたのですが、それをネイティブが話しているテープを借りてきなさいという宿題が出たんですね。ところが、あちこち調べたけどなかったんです。「なかった」って先生に言ったら、「ここであきらめるのが日本の女の子か」って言うわけですよ。そんなことを言われると悔しいじゃないですか。「朝日新聞にまだ行ってないなら行ってみろ」って言われて、とりあえず倉庫みたいなところへわけがわからなかったけど行ったら、ほんとにあったんですね。「とことん探せ、『ない』なんて言うな」と鍛えられました。今でも「こんなところにあるのかな、あの先生あほちゃうか」と思いながら朝日新聞の石の階段を登っていった時のことを覚えています。そういう強さ、あきらめないしぶとさは鍛えられましたね。
- 渡辺
- 今日は、本当にありがとうございました。牧先生のような先生に相談したいけど、どこに行っていいのかわからない、と思われる方はICU関係じゃなくてもいらっしゃるかと思います。そんなふうに先生をお訪ねした時は、どうかよろしくお願いします。
- 牧
- いつでも気楽に相談してください。今日はこちらこそありがとうございました。
プロフィール
牧 由美子(まき ゆみこ)
ICUにてコミュニケーションを専攻後、ノースウエスタン大学大学院コミュニケーション学修士課程、成城大学文芸学部大学院コミュニケーション学科博士課程後期修了。その後、東海大学医学部を卒業し、在学中、ボーマングレイ医科大学の留学も経験。現在、精神科医として神田東クリニックで医長を務める傍ら、教職員のメンタルヘルスをテーマに講演や執筆、相談員としての仕事も数多く行う。