プロフィール
98年、国際関係学科卒業。大学卒業後、複数のNPO法人を経験し、2000年4月にNPO法人「ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)」に入り、同年11月から2003年7月までイラク北部クルド人自治区で現場責任者として国内避難民・難民・帰還民支援やイラク緊急救援事業に携わる。2004年4月から1年間、テレビ朝日「報道ステーション」レポーターとして活躍。2005年、英国ブラッドフォード大学大学院修士課程修了(紛争解決学)。その後、PWJに復職。2009年5月より、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)エルサレム事務所で働く。
- 渡辺
- こんにちは、今日はエルサレムへの赴任直前にありがとうございます。 よろしくお願いします。
- 岸谷
- よろしくお願いします!突然ですが、今日、真理さんに初めてお会いしたんですけど、共通点がいくつかあって。私、実は一年だけレポーターで『報道ステーション』にいたことがあるんです。
- 渡辺
- えぇ!?そうなんですか!?何で『ニュースステーション』にしてくださらなかったんですか(笑)。
- 岸谷
- 2003年のイラク戦争で『ニュース23』にもレポーターとして出させていただいていました。『ニュースステーション』は最近まで所属していたNGO団体、ピース・ウィンズ・ジャパン(以下PWJ)の統括責任者が、「『ニュースステーション』は、失敗したら大変な番組やから岸谷じゃなくて、俺が出るから。」と、私は出れなかったんです。…でも、あの時その隣に実は私がいたんです(笑)。そしてしかも、私、ICU時代は真理さんがマネージャーをしていらしたアメフト部と切っても切れないエンジェルズでチアリーディングをしていたんです。
- 渡辺
- えぇぇぇ!!知らなかったです!!私のアメフト部マネージャー時代からチアリは本当に優秀だったんです!アメフトは頑張ってもなかなか勝てなかったりもしたのですが、チアリは、その時から社会人チームの応援に駆り出されたり、大会に出たりしていたみたいで。当時、アメフトメンバーで「チアリはすごいなー」って言っていました(笑)。
- 岸谷
- チアリはばりばりの帰国子女の人が多かったので、アメリカで高校時代からチアリをやっています、という子もいて、精鋭揃いだったんですよね。
- 渡辺
- 納得です。私の中でチアリって、本当に、岸谷さんみたいな、こういうイメージなんですよ。綺麗で芯が強くて。チアリーディングの話が長くなってしまいますが、確か以前『ニュースステーション』で、アメリカのNFLチアリーディングに所属していた日本人の方が生出演なさったことがあって、「本当に過酷」という話だったんです。日本ではチアリーディングってあまりそんなイメージじゃないですよね。
- 岸谷
- ボンボン持って、「きゃー」って踊っているような、チアガールのイメージですよね。
- 渡辺
- そう。「実際は、どれだけ狭き門で、その後もどれだけ大変か」という話に納得できるんですよ(笑)。学生の頃、クラブとはいえチアリーディングのハードさを間近に見ていたので、今、岸谷さんを見てチアリだったというのに納得しました。しかしそもそも、どうしてチアリに入ろうと思われたんですか?
- 岸谷
- 面白そうだったからです。第4女子寮だったので寮のイベントもあるし、バイトもあるしで大変だったんですけど、せっかく大学に来たし、楽しくやろうかなと、夏休みが終わった後にチアリに入りました。
- 渡辺
- やってみたらかなりハードだったでしょう?
- 岸谷
- ハードでしたね〜。週に三回は筋トレしてましたし。チアリの目標は、いかに夏、電車の中で吊り革を持った時に腕の筋肉が見えないようにするか、っていう(笑)。
ICUを選んだのは雑誌で見てキャンパスの第一印象が良かったから。それと、環境を変えたい、外に出ていきたいという気持ちや、将来的に国際的な仕事をしたいという気持ちもありました。
- 齋藤
- ところで、いつも皆さんにお伺いしている質問なのですが、岸谷さんは何故ICUを選ばれたんでしょうか?
- 岸谷
- 私は中学、高校と同志社だったので、そこからキリスト教推薦でICUに入学したんです。ICUのことは雑誌を読んで知りました。広大なキャンパスで、陽がさんさんと降り注ぐ芝生のある明るい雰囲気で、英語と日本語で話をしているっていう、すごく良い印象があって。中高6年間同じ学校だったので、大学まで行くと10年も同じ内部のメンバーと過ごしますから、変わらないのも面白くないなーと思ったんです。
- 齋藤
- きっかけは雑誌だったんですか。ICUを実際に見に来られた時はどうでしたか?
- 岸谷
- いえ、実は行ってないんです(笑)。東京は遠かったですし。
- 齋藤
- 奈良からだったら確かに遠いですが…雑誌見て、「あ、ここにしようか」とは、まさかキャンパスが理由だけでは決めづらいでしょう?
- 岸谷
- まぁ推薦枠があったので。高校も受検せずにそのまま進んできましたから、受験で大学に進学するのは無理だと思ってたんです。
- 齋藤
- 推薦を受けたということは成績は優秀だったということですよね。
- 岸谷
- まぁまぁくらいでした。同志社大学って良い大学ですし、ほとんどの同級生は皆同志社大学に行くので、推薦枠があっても応募する人はあまりいないんですよ。やっぱり地元志向が強いんですよね。
- 齋藤
- そうすると、ICUになんとしてでも行きたいんだ、という強い気持ちはあまりなかったということなんや。しかし雑誌を見て、キャンパスが綺麗っていうだけではなかなか奈良から東京には出て行かないですよ(笑)。
- 岸谷
- 三鷹がどこにあるのかも全く分かってなかったですね(笑)。あと、環境を変えたい、外に出ていきたいという気持ちも強かったですし、将来的に国際的な仕事をしたいと考えていたっていうのもありました。親は東京はお金もかかるし同志社大学でいいじゃないかと大反対だったので説得するのが大変でしたよ。
- 渡辺
- どうやって説得なさったんですか?
- 岸谷
- 一生懸命、「将来的に国際的な職業に就きたくて、同志社じゃ無理だからICUに行かせてくれ」と言って、もう大ゲンカでしたよ。
- 齋藤
- 今、お話を伺っている印象から言うと、「ICUに行ってホントによかった〜〜!」っていう感じでもないような…?
- 岸谷
- いえ、ICUに入らなかったら今の自分はないと思います。一つの例ですが、海外が近いというか、皆簡単に留学するじゃないですか。奈良にいると海外に行ったことのある人がまず少ないし、英語をしゃべれる人もいません。ICUに行って日本語ができない日本人にも初めて会いましたね。すごくカルチャーショックを受けて、そのショックが私には良いほうに作用したと思っています。
- 齋藤
- それは確かに僕もそう思います。ICUに来る前には「留学するって大変だ」と思ってたんですけど、入ってから「なんや、海外って結構当たり前なんや〜」と感じましたね。
- 岸谷
- ICUですと、皆ぽんぽん海外に行くし、ぽんぽん行けるシステムですしね。
- 渡辺
- 今振り返ってご覧になって、他にICUのどういうところが良かったと思われますか?
- 岸谷
- 私はELPが良かったと思っています。入学時、私は全然英語が出来なかったんですよ。
- 齋藤
- 仕事で現地に行かれて、英語で会話するわけですよね。となると英語が出来ないと話にならないですもんね。
- 岸谷
- 今でも本当にELPで学んだことは役に立っています。Introduction、Body1、Body2、Body3、Conclusionっていう文章構成も、今でも意識して役立てていますよ。
- 齋藤
- とするとELPで鍛えられていなければ今の仕事は出来なかったということですか?
- 岸谷
- 無理ですね。だって私、英語の全く出来ないプロA(Program A)というレベルのクラスだったんですけど、授業の10%も分かっていませんでしたから(笑)。
- 齋藤
- でも、プロAの人が海外に行って英語を使うレベルまで成長するには、ELPだけでで出来たんですか?
- 岸谷
- 2年生の時にはSEA Programという語学留学のプログラムでイギリスに行ってきました。その時のホームステイ先のおばあちゃんがすごくいい人で、ゆっくり綺麗なクイーンズイングリッシュで話してくれたので、英語を音で覚えたんです。だから未だに書くのは苦手で、話す方が得意ですね。
- 齋藤
- 全員が語学留学するわけではない中でSEA Programに申し込まれたのは、英語が苦手だということと、将来国際的な仕事をしたいっていうのがあったからですか?
- 岸谷
- そうですね。それと、私は地方に居たら英語もそれなりに出来るほうだったんですけど、ICUでは1年生の時から挫折の連続で全然だめで、ショックで…。
- 齋藤
- その大学2年生の時の留学は親御さんはすぐに許してくれました?
- 岸谷
- またそれも大ゲンカだったんですよ。またお金がかかるじゃないですか。東京に進学した時に3か月くらい喧嘩しましたが、SEA Proに行く時も一か月半くらいずっと電話で喧嘩しましたね。
- 渡辺
- ちなみに留学なさったのはイギリスのどちらだったんですか?
- 岸谷
- ヨークに行きました。
- 渡辺
- 良いところでしたか?
- 岸谷
- どうでしょう…。白人の多い保守的な街でしたので、初めて自分が日本人だと感じました。それまでって、ICUに居ても自分が日本人だ、とかって意識しないじゃないですか。ヨークでは、世界大戦の経験もあるので、ドイツ人と日本人が嫌われてるんですね。日本人だからって現地では結構いじめられました。うちのホストマザーも、ICUの学生の日本人を受け入れるようになってお茶会に行けなくなったって言っていましたね。
- 齋藤
- チアリーディングや英語の勉強を一生懸命にやってらした岸谷さんですが、他には大学時代、どういったことをされてたんですか?D館にいたりとかですか?
- 岸谷
- いえ、あとはバイトでしょうか。寮生でしたから、大学のすぐ近くにあるモンマートっていうコンビニのレジ打ちや、家庭教師、ぱぱんっていうパン屋さん、あと夏休みは山中湖でペンションの住み込みバイトなんかもしていました。でも基本的に生活の中心はチアリの練習のあるクラブハウスでしたね。
若い時しかフィールドに出れないのに東京に居て良いのか、この仕事をプロとしてやるなら嫌でもフィールドに出なければと思いました。
- 渡辺
- 伺いたいことが沢山あるんです。何故PWJに入られたのか、とか、何故そういった生活を選ばれたのか、とか。
- 岸谷
- NGOで働きたかったっていうのと、その時の運というか成り行きでこうなった部分も大きいですね。ICUのときにフランシスコ・ネメンゾ先生というフィリピンからの客員教授の先生に出会ったんですが、彼は80年代のマルコスの独裁政権のときの民主革命のリーダーの一人だったんですよ。彼についてフィリピンへ海外研修に行って、家に泊まらせてもらった時、「ここで捕まって拷問されてあそこから逃げてきたんだよ」という話を聞いたんです。それまで私は海外経験はほとんどなく、国際関係学を勉強していたのでNGOには興味はあったものの実地で学んだこともなかったので、素直にすごいなーと思って、そういう方と一緒に仕事してみたいって思っちゃったんですよね。その時大学院進学も考えてたんですけど、何を勉強していいかもよく分からなかったので、じゃあ一回フィールドに出て、現実を知ってから大学院に戻りたかったら戻ろうと思って、NGOへ行こうと決めました。
- 渡辺
- それではICUを卒業なさった後、そのままPWJに行かれたんですか?
- 岸谷
- いえ、PWJは三つめの団体で、最初はカンボジアで学校を作っている小山内美江子さんの団体で修行をして、その次に旧ユーゴの難民支援をしている団体に入りました。その二つの団体ではどちらも東京勤務で、体が弱かったのでずっとそうしていたんですが、フィールドに出たくて。フィールドを経験しないと、この先将来がないと思ったんですね。やっぱり現場を知らないとNGOで働いていても寄付をしてくださる方に説明できないし、広報をしていても一般の方への説明が出来ない。若いうちにしかフィールドの経験はできないので、こんな若いうちに東京に居て良いのか、って思ったんです。ちょうどその頃にコソボ紛争が起きて、外務省の方とコソボ支援に関して話をする時に、私、ひとつも説明が出来なかったんですよ。上司がその時ジュネーブに出張中で、私が行かなきゃいけなかったので沢山資料を持って行ったんですけど、全然説明が出来なくて、隣にいた他のNGOの方にさんざん馬鹿にされて…。
- 渡辺
- 馬鹿にされて、ってどういう風にですか?
- 岸谷
- 「現場を知らない人間がこんなところに来るな!もっと経験のある人に出席してもらわないと、NGOとして外務省からお金をもらえない!」って怒られて、すごく悔しい思いをしたんです。多分そのせいでうちの団体への外務省からの金額も減ったんだと思うんですよ。その悔しさと、この仕事をプロとしてやるなら嫌でもフィールドを経験しなきゃいけないという思いがありまして。その団体では本部付の契約だったのでフィールドに行けるチャンスがなく、そこでPWJに移ったんです。
- 齋藤
- この度、国連のパレスチナ難民救済事業機関のエルサレム事務所への就職が決まられたということですが、何故今回国連の仕事を選ばれたんですか?
- 岸谷
- PWJの仕事は20代だから出来ました。20代だと自分のことだけ考えていれば良いですし、体力もやる気もあります。でも我々の業界って2年持てば良い方で、それからは現実と理想のギャップで辞めるか、体力が持たないか、経済的にやっていけなくなるんです。その後の道は選択肢としては、一般企業の場合は商社、あとはJICAか、少ないですけど国連。私もやっぱりどうしようかと考えました。色々な所で取り上げて頂いてそれなりに評価もして頂いたとは思っているんですけど、自分がやっていることに限界を感じたのと、年齢的な限度も感じまして、「自分の将来をちゃんと考えないと」と思って。そこで今回、PWJを辞めて少し休養して、国連に行くことにしました。国連で働いた後に、残りたければ残れば良いし、選択肢の幅を若いうちに広げておいて、やりたいことをその中から選ぼうかな、と。
- 齋藤
- 今おっしゃられた、気力と体力と財力の問題っていうのは、「なるほど」と思いました。色々な現場を経験された岸谷さんならではの言葉ですね。
- 岸谷
- はい、私自身もあまり体が強くないので、いつもかばうようにしていたんです。私が倒れると全部ダメになるような仕事をしていたので…。イラクでは特に、現地では日本人は私一人で、ローカルスタッフが100人、現地で支援していた人も7万人程居たので、私に何かあると、事業は止まりはしないものの、うまく進まなくなるんです。私が襲撃されたり誘拐されたりして大きなことになったら、活動は全部止まり、団体自体も危なくなり、何より7万人の受益者の人への支援が滞ります。なので、倒れないように、危ないことがないように、いつも本当に気をつけていましたね。
- 齋藤
- 先ほどの、情熱を持って入ってきたものの現実と理想の違いを知って辞めるというお話についてですが、僕もそうやと思います。岸谷さんご自身もフィリピンやNGO時代に色々な衝撃を受けられたと思いますが、何があなたをその業界から離さずに現在までつなげたのでしょうか。
- 岸谷
- いくつかあるんですけど、まず、最初に小山内先生の下ですごい厳しく指導してもらったというのがあります。私は本当にはねっかえりだったので、いつも怒られていたんですが、その反面、すごく可愛がって頂いて。彼女は社会的な礼儀作法にすごく厳しい方ですから、そのおかげで社会人としての自覚が出ました。また、お給料がほとんど出ない中の一人暮らしで、親の支援も断っていたので、自立していく大変さも学びましたね。
- 渡辺
- その環境の中でもご両親の援助は断っていらしたんですね。
- 岸谷
- それまでかなりお金をかけてもらっていましたし、一応頂いているお給料で生活は出来ましたので。それで厳しさを学んだのと、当時、団体も少し伸び悩んでいた時だったので、『清く正しく美しく』というイメージのNGOがそれだけでは回らないというのも勉強になりました。それで、プロとしてこの業界に何が足りないのか、業界を育てるために何をしていかなければならないのかということをその時から少しずつ考えるようになったんですね。こうやって最初は団体ですごく勉強させてもらったのと、PWJでイラクに行ったのは自分自身にとってかなり大きかったですね。
- 渡辺
- 岸谷さんの略歴等を活字で目にする方はきっと「すごいな」と感じると思うんです。この若さでこれだけの経験をなさっていて、『ウーマンオブザイヤー』、『中曽根康弘賞』など大きな賞も受賞していらして。岸谷さんご自身は受賞なさった時、どう感じられたんでしょうか?
- 岸谷
- 実は両方とも、「もらって良いのかな…」と思って、本当は辞退しようかとも思ったんです。
- 渡辺
- どうして辞退しようと?
- 岸谷
- たまたま当時目立ったので頂けただけだと思っているので。中曽根賞は推薦してくださった方が、「これくらいの時期にこういった賞を貰うのはあなたの将来的にプラスになるから貰っておきなさい」とおっしゃったので、親孝行も考えて頂きました。ウーマンオブザイヤーについてはイラク戦争のときにテレビに出て目立っただけで、アフリカとかで私よりもっと長期に渡って土着で活動している方等、他にもっと過酷な現場で頑張っておられる方って沢山いらっしゃるので、「もらっていいのかなぁ」ってほんとに思いました。だから授賞式も行かずに、代わりに広報の方に行ってもらったんです。
現地での孤独のマネージ法?ウサギを飼っていました。鍋に話しかけるよりウサギに話しかけたほうが人間的かと思って(笑)。
- 渡辺
- 先ほど、フィールドに出たいと強く感じたとおっしゃっていましたが、実際に初めてフィールドに出られた時はどうでしたか?
- 岸谷
- 最初は東ティモールに駐在で研修に行ったんですけど、大失敗をしました。そういう時って、せっかくのフィールドで、「頑張らなきゃ」って気持ちだけはやるじゃないですか。もう、空回りでうまくいかなくて、一緒に赴任していた専門家の方と大喧嘩して、更に本部からも怒られて落ち込みました。その次に行くフィールドは、体も弱いしあまり長期では行きたくなかったので、一番厳しいフィールドのイラクを選んだんですが、またそこでも色々失敗しまして。現地に行くとやっぱり私よりもローカルスタッフのほうが優秀なんですよ。当時25歳だったんですけど、何も知らない日本の女の子がいきなり彼らのボスとしてイラクに来て色々言っても彼らは聞かないですよね。もう7年も8年も仕事をしてて現地のことを良く知っていますから、完全に無視されて、全然うまくいかなかったんです。でもその時に、うちの上司から「ローカルスタッフの言うことをよく聞け、彼らに教えてもらうくらいの気概でいきなさい」と言われまして、すごく心が軽くなりました。それから、現地の人に教えてもらうっていう姿勢にしてみると、学ぶことが非常に多くて。それこそ本当に人道危機とか、戦争の中で生活している人たちですから。現実と理想のギャップを本当にすごく学びましたね。
- 齋藤
- そこで、自分の考えていた世界と現実というものの違いを見極めたからうまく次のステージにいけたということなんでしょうか?
- 岸谷
- そうですね、私なんかも本当にそうだったんですけど、中高、そして大学と本当に良い学校を出してもらったので、逆に言うと頭でっかちなんですよ。理想もいっぱいあって、「世界を変えてやる」的な志を持っていて。でも、現地では実際に役に立たないというのをすごく感じたのは、難民キャンプでおばちゃんたちとパンを作ってた時ですかね。突然そばで銃撃戦が始まって、私なんてもう固まったんですよ。銃声なんて聞いたことないし、何もわかんなくて。そのときのうちのスタッフのきびきびとした動きを見て、「こりゃあ、どれだけ知識があってもあかんわ」と思いました。
- 齋藤
- スタッフって、ローカルスタッフの方ですか?
- 岸谷
- そうです。私はドライバーに頭をたたかれて気づいたら目の前は地面で、スタッフが3人私を囲んでくれて、いつでも銃を打てるように準備していました。私はそのままずるずると物陰にひっぱられて事なきをえたんですけど、そういうのを見て、この人たちにとってこの光景は生活の一部なんだ、それを外部の人間が変えてやるっていうのはおこがましい、彼らがどうしたいのかっていうのを理解した上で、外部の人間としてどういう支援が出来るのかっていうのをプロとして考えていかないといけないな、と考えるようになりました。
- 齋藤
- イラクでは沢山の方を統率されていたわけですが、日本人は一人で行っているわけですか?
- 岸谷
- 私一人だったんですよね〜。
- 齋藤
- それはきついですね。日本語で気軽に相談しあうとか慰め合うとかは出来ないわけですか?
- 岸谷
- 出来ないですよ。孤独は孤独でした。ローカルスタッフとは親子ほど年が離れていたので娘扱いしてくれて、家に呼んでくれたり、気にかけたりしてくれていたのですけど、私はいつか去るのが仕事ですし、やはり雇用関係上の関係で、スタッフに問題があれば首を切る時はばっさり切りますから孤独感は強かったですね。どんなに仲が良くても相談は出来ないですから。
- 齋藤
- それはご自分でどのように対処されていたんですか?孤独感をマネージするってものすごく難しいと思うんですけど。
- 岸谷
- 難しいですね。私、実は本当に寂しがり屋なので、現地でウサギを飼ってましたよ。鍋に話しかけるよりも、ウサギに話しかけたほうがまだ人間的じゃないですか(笑)。
- 渡辺
- リアルですね、鍋に話しかけるより、ウサギに話しかけるほうが良いって。
- 岸谷
- それが気付いたら12匹!(笑)最初は一匹で良いと思ったんです。でもスタッフから、「かわいそうだから2匹にしな」と言われて。彼らはウサギを食べますから、どうも、繁殖を狙っていたらしいです。もう、どんどん数が増えて、その事務所に行くたびにウサギの顔が変わっているんですよ。私のお気に入りのグレーのあの子はどこいっちゃったの?みたいな(笑)。そういったことで気晴らしをしていましたね。あとは、すごく危ない地域なのでセキュリティの規制は厳しいんですけど、時々破って買い物に行ったりもしていました(笑)。キリスト教の村もあるので、そこでローカルのワインを買って、羊を一匹つれてって皆でバーベキューをしたり。
この情報化社会で生きていくためには、情報の受け手側が情報の本質を見抜いてどれが正しいのかを考え、自分の責任で選んでいかなきゃいけないっていう注意は必要だと思います。
- 齋藤
- 沢山失敗されたたと先ほどおっしゃっていましたが、一般企業でも沢山失敗する人はいて、そこで踏ん張れる人と踏ん張れない人がいる。岸谷さんの場合、そこから成長してこられたわけですよね。本部の人からの「ローカルスタッフの声を聞いてごらん」というアドバイス以外にも、失敗を乗り越えるために何か意識的にやられていことはありますか?
- 岸谷
- 二つありまして、一つは、出来ないことについては自分は出来ないんだと認めて諦める、もう一つは、自分の出発点に戻るようにしています。
- 齋藤
- 出発点とは?
- 岸谷
- 私の出発点はイラクに行った時なんです。そこで初めて大きな世界を見ましたので、その時の気持ちとそこで見た世界を思い出すようにしています。
- 渡辺
- イラクにいらした時の気持ちというのは?
- 岸谷
- うーん、自分の将来のために行ったので。クルドの人のためにイラクに行ったとよく誤解されるんですけど、先ほども申しましたが、辞令がきて、モンゴル、東ティモール、イラクと選択肢があり、あんまり長期では行きたくないので一番経験が出来そうな所、と冷静に比較して選んだんですね。実際は、失敗の連続でしたが(笑)。そういえば、『報道ステーション』は私にとって大失敗だったんです。自分としてはオファーを頂いて、変わったことが出来ると思っていたんですね。「我々の業界は知られていないので、まずは知って、興味を持ってもらわないと」と思って頑張ろうとしたんですけど、テレビはそんなに甘いものじゃありませんでした。そこは自分の過信でしたね。
- 渡辺
- どうしてそう思われたんでしょう?
- 岸谷
- ああいう大きなビジネスに入ってしまうと、自分がやりたいレポートも出来ず、枠が決められちゃう感じがしたんですね。
- 渡辺
- …確かに出方と制作陣のベクトルが一致したら、細かく言うと伝えたい内容や伝え方の嗜好なども偶然一致したりした場合、想像以上の作用が生じる幸運に巡り合うことがありますが、確率は高くはないです。でも…予感なのですが、将来、岸谷さんはご自分の伝えたいことを伝えられる場所を得られるのじゃないでしょうか。
- 岸谷
- そうあってほしいです。本当に、伝えること、それが使命だと思っています。
- 渡辺
- テレビを見る側と、テレビに出て伝える側の両方を経験なさって、且つ色んな矛盾点も実感なさった岸谷さんは、どういうところに気をつけてテレビというものを見れば良いと思われましたか?
- 岸谷
- テレビは一方通行な情報媒体ですので、インターネットも含めて本当に情報量が多い中、自分が何を知りたいのかということに注意して選ばなければいけないと思います。イラク戦争の時に現地で、BBC、CNN、アルジャジーラ、FOXなど海外のテレビ局のニュースを色々と見ていたんですが、その時面白かったのが、戦争が始まった当初はクルド人は皆FOXを見るんですよ。アメリカ軍が頑張っていて、サダムフセインを追いやって勝利していくっていうシナリオを見たかったんです。でも戦況が怪しくなると今度は情報が正確だからという理由で皆BBCやCNNを見始めて。そして最後は、アルジャジーラがアメリカ軍がひどいことをしていると伝えているので、「そうだそうだ!」とアルジャジーラに移ったんですよ。このように皆、その時自分が見たいものを見るんですね。FOXなんて完全にアメリカの宣伝ですし、アルジャジーラはアラブ側の主観です。この情報化社会で生きるためには、見ている方が情報の本質を見抜いてどれが正しいのかを考えて、自分の責任で選んでいかなきゃいけないっていう注意は必要だと思います。
- 渡辺
- 冷静に判断するということですね?
- 岸谷
- はい、私が例えばインターネット上に自分のウェブサイトを作って言いたい放題言ったとしてもそれは事実になりますから。だから正しく判断するように心がけて見ないとテレビは正直怖いなって思いますね。実際にテレビに関わってみて思ったんですけど、テレビが持つ影響力っていうのは怖いと思います。
最近結婚したばかりなのですが、彼の存在は大きいと思います。今まで自分が持てなかった考えを言ってくれますし、私が突き進んでいくのを止めてくれる(笑)。それと、電話が出来る相手が出来たっていうのは大きいですね。
- 渡辺
- 先ほど、フィールドに出たいと強く感じたとおっしゃっていましたが、実際に初めてフィールドに出られた時はどうでしたか?
- 渡辺
- 先ほどから何度かご家族のお話が出てきましたが、ご兄弟はいらっしゃるんですか?
- 岸谷
- はい、兄が一人。もう、性格も仕事も安定してるんです。兄に任せておけば大丈夫かな、みたいな(笑)。
- 渡辺
- ご兄弟の雰囲気としては、しっかり頼れるお兄さんの下で、妹さんとしてはねっかえりというか、結構自由に過ごしていらっしゃった面もあるのでしょうか?
- 岸谷
- 兄が真面目にやってるので、それを隠れ蓑にしてましたね(笑)。もちろん親も心配はしていましたけど、やりたいようにやらせてもらいました。
- 渡辺
- お兄さんにとっては、それは可愛い妹さんでしょうから…岸谷さんのお仕事について心配していらっしゃいますか?
- 岸谷
- すごく心配していましたよ。だからあまり仕事のことは言わないようにしていました。イラクに行ってる時とかも、最初は「どうなんトルコは?イランは?」って言われていたので、はっきり言わなかったんですよ。
- 渡辺
- 詳しいことまでは分からない面も多いでしょうね。
- 岸谷
- そうやって隠してたんですけど、2003年の戦争の時にPWJのポリシーで私が表に出て『ニュース23』で生放送でレポートをしたり映像を出したりしていたので、「ほんまに危ないとこおんねんや」と、とうとう兄から言われて。
- 渡辺
- それでも「帰って来い」とか「やめろ」とかおっしゃらなかった…?
- 岸谷
- それはなかったですね。「本人が自分の意思でやってるし、応援するのは家族くらいしかいないから応援したるわ」みたいな感じでした。
- 渡辺
- 良いご家族ですね。
- 岸谷
- そうですね、本当に家族には感謝しています。ちなみに、真理さんの旦那さんはフジテレビでいらっしゃいますよね。私、結婚したばかりなんですが、主人は昔、NHKでディレクターをしてたんです。
- 渡辺
- そうなんですか?本当に共通点が多いんですね!
- 岸谷
- 実はこの4月16日に式をあげたばかりで。入籍もまだしていないので苗字はどうしようかな、と考えているところなんですよ。
- 渡辺
- 旦那様はどんな方なんですか?
- 岸谷
- 彼は国連職員なんですよ。NHKを辞めた後、ヨルダン大学の大学院で死海の研究をして、そのまま国連職員になった人です。水の専門家としてユネスコのイラク事務所に勤めていて、ヨルダンで出会ったんです。
- 渡辺
- ヨルダンで出会われたのは何年前なんですか?
- 岸谷
- 『報道ステーション』を辞めた後でしたから…、2006年かな。付き合って3年経ったので、両家の結婚しろっていうプレッシャーも強く、「じゃあ、きっちりしますか」と結婚して、二日前に新婚旅行から帰ってきたところだったんです(笑)。
- 渡辺
- そうだったんですか。ご主人は今、東京にいらっしゃるんですか?
- 岸谷
- いえ、京都にいます。私は5月の頭にエルサレムに入るのですが、同じ時期に彼はヨルダンに戻る予定です。車で3時間の距離ですし、ヨルダン川西岸を渡るものの、国連のパスポートもあるので大丈夫かなーと。
- 渡辺
- お互いの仕事を尊重しながら、やむを得ず離れての生活に戻られるんですね。しかし、これだけ世界や人間のプラスマイナス含め色々な部分を見てこられた岸谷さんご自身は『母』になりたいと思われますか?
- 岸谷
- なりたいとは思ってますがまだ自信がないですね。まだ自分のことで一生懸命なので。主人にも、「お前は本当に余裕がない、人生の楽しみ方を知らない」と散々言われてるんですよ。確かに自分でもいつも真面目にやりすぎると思うんですけど。「人生楽しんでへんな、仕事は趣味のひとつやぞ」といつも言われていて。
- 渡辺
- 素敵なご主人ですね。
- 岸谷
- 私は今まで仕事が全てでしたから。
- 渡辺
- ご主人のご専門の『水の研究』って、あまりイメージがわかないんですけれど、どんなお仕事というか、どんな人生の楽しみなんでしょう?
- 岸谷
- 彼は学者ではなく何かを作るのが好きな人で、ヨルダン川をめぐるパレスチナとイスラエルの戦争みたいなものを扱っています。『ウォーターポリティクス』って言うらしいんですけど。今は、チグリス・ユーフラテス川の水利権の問題をやっているようですね。
- 渡辺
- エジプト文明の頃からの話ですよね。水を巡る話って。
- 岸谷
- そういう歴史的なものに携わってるっていうのが楽しいみたいですね。イラン・イラクは政治的にも複雑なので、そういうところで調整をするのにすごく生きがいを感じていて。人って水がないと生きられませんから、それによって多くの人が水が得られるようになるっていう、そういう直接ではないにせよ、自分がやったことで何かが変わるというのが楽しくて仕方がないんですよね。彼はそれを『趣味』だと言い切るんですよ。私はその心境には達せないんですけど。
- 渡辺
- でも、車で3時間の距離で、会おうと思えば会えるものの、別々に暮らすのは寂しくないですか?
- 岸谷
- それは寂しいと思います。まだ始まってないので何とも言えないですけど。
- 渡辺
- しばらくはその生活が続くんですか?
- 岸谷
- そうですね、私はエルサレムから動けないので。まぁ多分仕事でもヨルダンの首都のアンマンに行くことは多いとは思いますが。
- 渡辺
- すごく広い考え方をなさる方なんだな、と感じますが、そんなふうに『楽しめ』と言ってくれる彼の存在は岸谷さんにとって大きいですか?
- 岸谷
- 大きいですね。今まで自分が持てなかった考えを言ってくれる人が居るというのは安心ですよね。それと私、止める人がいないとどんどん突き進んでぶつかるタイプなので、止めてくれる人が出来たっていうのは大きいと思います(笑)。
- 渡辺
- 出会われた時に最初から結婚するかも、ってどこかで分かってらした…?
- 岸谷
- あ、最初から思いましたね。やっぱりこの仕事ってなかなか理解してもらえる仕事でもないし、誤解されやすいことが多いのですが、彼は最初から冷めていたというか、変に脚色せず見てくれたんです。
- 渡辺
- 岸谷さんのような立場の方は、なかなかいらっしゃらないだけに、帰国なさっても、同姓でも、辛さや悩みを同じ土壌で話せる方はあまりいらっしゃらないのでしょうね。
- 岸谷
- いないですねー。親に話したら親が心配するので、電話をかけられる相手が出来たというのは大きいと思います。すごく仲の良い、同じ業界の、尊敬しているレバノン人のおばちゃんがいるんですけど、彼女からこう言われたんです。「この仕事を将来も続けるんだったら疲弊しきった時に帰れるホームを持て。自分の状況を理解してくれる人と妥協でも良いから結婚するか、いざとなったらお金を払わなくても住める場所というものを持て。自分が幸せじゃないと人の幸せは考えられないって。今になってようやくそれを考え始めました。今まではほんとに走るだけでしたので。
- 渡辺
- 本当にホームが出来てよかったですね。
辞めたいと思うことは何度もありました。でも、意地と責任感、そしてやっぱり良いこともあって、それでこれまで頑張ってきたんです。
- 渡辺
- このインタビューページの良いところはスペースを制限されず、伺うことが出来る点だと思っています。ただ、ご登場いただく方が本当に伝えたいことは、インタビューする側からの質問では引き出せない場合もあるのでお聞きしたいのですが、岸谷さんご自身が、ここで伝えたいことはありますか?
- 岸谷
- この業界に身を投じて10年くらいですが、それを通して感じたのは、やっぱり人の命に関わる仕事ですから、やるからには自覚と自分自身への責任と心構えを持ってやってほしいということです。この業界は興味本位で入ってくる方が多いし、本当に、『清く正しく美しく』というイメージの世界なので。恐らく私自身も誤解されていると思います。
- 渡辺
- 誤解とは…?
- 岸谷
- PWJではテレビに出たりもしましたが、伝えられないことが多くて。「伝えてほしい」と思われていることと、私たちが伝えたいことの整合性っていうのを取りながら、キャッチーに短い言葉で自分たちが伝えたいことを自由な所でさっと挟んでいくのが好きで生中継をやってたんですけど、やっぱり視聴者には、一言で言うとマリア様みたいに思われていたんだと思います。女性で、危険な地域に行って、何人ものローカルスタッフのビッグマザーとしてケアしながら難民にも愛を注ぎ…というイメージを良く持たれるのですが、実際は違います。私は普通の人間ですし、自分の生活もあり、プロとして仕事をしてるっていうのを理解してほしい。私も営業マンなんです。いかに商品である良いプロジェクトを作って、プレゼンをして、バイヤーであるドナーの方に買ってもらうかっていうのを仕事としていているだけなんです。
- 渡辺
- でも、例えば同じ営業で、ITやベンチャーなど億単位のお金を動かす営業でなかったのは何故なのでしょうか?
- 岸谷
- もちろん生活するにはお金が必要ですが、お金はありすぎると人を不幸にしますので、自分が楽しく生活出来る範囲であれば良いとしか思っていないんですね。よく「ボランティアで大変ね」と言われるんですが、それは自分自身が何に満足するかの問題なのだと思います。お金を持って豪華な生活をするのが幸せな人もいるかもしれませんが、私はそこには魅力を感じていないだけで、仕事上色んな人に会うのがすごく面白いんですね。近所のおばちゃんからイラクの大統領まで会いますし、教えてもらうこともレベルによって違う、そういうののほうが私には楽しいんです。それと、先ほど言われたインタビューを通じて何を伝えたいかというところとも関連しますが、自分の軸が何なのかは常に考えていかなければならないのかな、と思います。20代はどんな分野でも良いからやりたいように突き進めば良いと思うんですよ。日本は一回挫折してしまうと戻りにくい社会ではありますが、やりたいようにやってみて、その上で自分の軸足というものを30歳くらいで分かれば良いのでは、と思います。
- 渡辺
- 岸谷さんの「やりたいこと」とは何だったんでしょうか?
- 岸谷
- 人道支援の最前線に出て最も人間らしいところを見たかったんです。戦争って人間の本当にむき出しじゃないですか。それを実感した上で自分は何を出来るのかっていうのを考えたいなと思ったんです。そして自分の能力を自覚して軸足を持った時に、目標のために自分の能力を最大限生かすにはどうするのか、と考えるのが大事なんじゃないでしょうか。これから社会に出るICUの学生たちも、やりたいようにやれば良いと思うんですけど、いつまでもやりたいようには出来ないので、その次のステージのための軸足を探す努力は並行してやる必要があるのかな、と。
- 渡辺
- 本当に駆け抜けてらしたんですね。
- 岸谷
- 本当に駆け抜けてきましたね。やりたい放題やってきてしまいまいした(笑)。濃すぎる20代でした。
- 渡辺
- 岸谷さんのお仕事は傍から見たら、「そんなところ危ないからやめて」とか「命までかけることに見合うのか?」とか様々に思われる職場だと思いますが、それでも続けてらしたのは、実感としてやっぱりこれが好き、やっていたいと思われる瞬間があるのかとも思うのですが。
- 岸谷
- 辞めたいと思ったことは多々ありますよ。
- 渡辺
- どんな時ですか?
- 岸谷
- 自分のほうに人材もお金もない場合、やらなきゃいけない事業なのに、ストップせざるを得ないものも沢山ありますし、また、多くの方から批判はくらえども褒めてもらえることは少ない仕事なんですね。
- 渡辺
- 感謝されてばかりの仕事なんじゃないかと思われますよね?
- 岸谷
- そう思われるんですけど、実際はクレームばかりですよ。
- 渡辺
- 例えば、どんな方からどういう内容のクレームなんですか?
- 岸谷
- 色々ありますよ。受益者の方一人当たりにお米を1キロあげても、「うちはそれじゃ足りない」、「質が悪い」、「隣の村には行ってうちの村はなんでないのか」等色々な文句がありますし、スタッフからも「給料が少ない」、「亡命したいけど手伝ってくれない」等も言われます。本部との調整の中で、本部が広報のためにやってほしい事業と現場の意見が合わず、現場は「そんな事業必要ないからいやだ」とか言うこともありますし、ドナーの方に、「こんなにお金使って」って怒られるのもしょっちゅう。サプライヤーの人に裏切られたりもします。
- 渡辺
- でも、クレームを受けている時に辞めたいと思われるわけではないんですよね?
- 岸谷
- それを全部処理し終わって例えば家に帰ってきた時に思いますね。「何してるんだろう」って。20代って、本来ならば、海外旅行とかに行って、遊んだりするんですよね。「でも、自分は海外でも全く種類の違うところにいってるなー」と思います。時々暗殺予告とかも来ますから目立って危ない赤い服は着ずに、常に黒い服を着て目立たないようにしていますし、不満を聞いてくれる人はいないし、例え本部に言ったところで何もしてくれないですからね。そういったことで辞めたくなるときはありますね。
- 渡辺
- で、どうして翌日やめなかったんでしょうか?
- 岸谷
- 意地ですね。行くと言ったからにはやるべきだっていう考えがあるのが一つ。それと、ローカルスタッフとその後ろに居るそれぞれ6人ずつくらいの家族、そして受益者の方への責任もあります。私がここで「嫌だ!!」って言って帰ったら新規の事業はなくなってしまい、その事業で助かったはずの人がいなくなってしまうんです。そして、過酷な状況ではありますが、それでもやっぱり良いことはあるんですよ。いつも文句を言われている人に感謝されたりとかすると、感動してしまいますよね。そういったことで頑張ってきたかんじですね。
- 渡辺
- すごく…生きてる実感がありますね。
- 岸谷
- そうですね、そこが続けている一番の理由だと思います。一般企業で働いていて、定型化した仕事の中でモラトリアムになってしまう人がいますが、そういったことはないですね。やりがいもありますし。
- 渡辺
- しかし岸谷さんご自身も、ICU時代は今のような生活を想像していらっしゃらなかったんじゃないですか?
- 岸谷
- してないですね。ほんとに私、あんまり考えずに、チャンスだと思ったらその方向へ進んできましたから。
- 齋藤
- 先ほど、意地や責任、ということが仕事を続ける力になるとおっしゃっていましたが、それを持ってない人もたくさんいる中で、岸谷さんは何故それを持てるようになったんでしょうか?
- 岸谷
- 元来の負けず嫌いで、始めたらとことんやってしまいたくなる性格なんだと思います。でも最近その割合は減ってきました。ただ頑張るだけじゃハムスターがぐるぐる回っているのと一緒ですから、きちんと一回立ち止まって考えるっていうのを覚えようかと思いまして。
- 齋藤
- それは、「20代、30代の始めのうちは頑張れるだけ頑張ってみよう。その後は結婚しても良いし、別のことをやっても良いかもしれないし」といった考えを昔から持っていたということなんですか?
- 岸谷
- それはなかったですね〜。
- 齋藤
- とするとその場その場をともかくやってみようという姿勢を続けてこられたんでしょうか?
- 岸谷
- 知らないことばかりですから、とりあえずやらないといけないわけですよ。燃え尽きて、灰になったりもしてますけど、最近やっと、自分がやってきたことへの実感も感じるようになってきました。
- 齋藤
- 今後、50、60代にはどんなことをしていたいな、とか考えたりなさいますか?
- 岸谷
- そのくらいには引退してのんびりしてたいですねー。いや、40歳くらいで引退したいかも(笑)。
- 齋藤
- 引退したら、どんなことをなさりたい?
- 岸谷
- 引退したらですか、何したいかなぁ…とりあえず山小屋でのんびりしたいです。ほんとにアウトドア好きなので。
- 渡辺
- 山小屋は国内?
- 岸谷
- それは国内ですね。楽じゃないですか。コンビニ近くにあるし、ラーメンいつでも食べれるし(笑)。
自分を通して遠い他の国の話に興味を持ってもらうきっかけを作る。それは自分自身の使命だと思っていますし、逃げられない運命なのかなと思ってやっています。
- 渡辺
- ニュースは出来るだけ正確を期してはいるはずですが、文字や画像を制限時間内に流すということイコール見えない部分も作ってしまう反面もあるので、ニュースだけで解ったような錯覚を覚えられるのは怖い作用です。直接現地にいらした岸谷さんからご覧になったら、どうやってイラクやヨルダンと付き合っていくのが良いんでしょう?
- 岸谷
- まず、我々の立場から働きかけて関心を持ってもらわないといけないと思っています。関心を持ったら人間って積極的に調べますから。だからそのための最大限の努力をするために私がテレビに出たんですね。テレビを見ていてイラクの中継が始まったとしても、むさくるしい、ジャケットを着た、いかにも『ジャーナリスト』っていう男性が出たらチャンネルを変えるじゃないですか。でもそこに私みたいな若い女の子がぱって出てると、「あれっ、何だか違う」って思ってもらえる。短い言葉でいかにメッセージ性のあるものを伝えるかということの重要性を常に言われていましたし、自分でも意識していました。「自分たち人類の問題だから興味を持つのが当たり前だ」と言っても、そんな簡単には持ってもらえないものだと思っています。それよりも「明日のお昼ご飯どうしよう」っていう方が関心事だったりするじゃないですか。だから、伝える努力はしなきゃいけないと思っています。
- 渡辺
- きっかけを持てば、その場に行かなくても「どんな場所なんだろう、今どんな状況なんだろう」と興味を持つことにつながりますよね。
- 岸谷
- 宇多田ヒカルがイラク戦争の時にブログに書いてて、その通りだって思ったんですけど、「知らないことは罪」だと思います。これだけグローバル化した社会の中で、どこか別の国の問題で自分には関係ないっていう風にはいかなくなってると思うんですね。イラク戦争があれば石油の値段も上がって、ガソリン代も高くなるし、色々な所で自分自身の生活にも影響は出てくるわけで。強制的にイラクのことを知ってくださいとは思いませんが、自分たちの問題でもあるということは自覚してほしいですね。
- 渡辺
- 例えば、友達との日常会話の中では「久米宏」とか「たけし」とか呼び捨てで話してても、もしも実際に目の前にすると多分、呼び捨てでは呼べなくて「久米さん」「たけしさん」になりますよね。自分にとっての3人称じゃなく、2人称として向き合った時、初めて他人事じゃなくなるのと一緒で、乱暴な例えではありますが、世界の他の国についても、気持ちの上では似た状態かと。3人称だと漠然とした”国”という総合体で捉えるけれど、岸谷さんみたいに現地に知り合いの方がいらっしゃると、今その空の下で何が起こっていて危険なのか、顔が浮かびますよね。望むらくは実際に現地に行ったことがなくても友達がいなくても、岸谷さんを通してその国が2人称に変換されれば…名前と顔を持った個人同士がつながれば何らか改善される余地があると信じたいです。
- 岸谷
- 私は表舞台に出るのはほんとは嫌なんですが、出ることによって、私を通して全然知らないイラク人のムハマド君が近くになるわけじゃないですか。それは自分自身の使命だと思っていますし、逃げられない運命なのかなと思ってやっています。だから今度の仕事も渉外の仕事なんです。そういう導入線になることが自分の仕事なのかな、と、嫌だけど思っていますね。
- 渡辺
- ご自身では何でこんなことしてるんだろう…と思う瞬間もあるでしょうけれど、岸谷さんの経験やご苦労が少しづつ人と人を介して還元されていったらいいですね。
- 岸谷
- そうだといいなと思っていますし、またそれが、次のステップへの糧になりますね。
- 齋藤
- 今日は遠いところおいでいただいてありがとうございました。
- 渡辺
- 勉強になりました。ありがとうございました。
プロフィール
岸谷 美穂(きしたに みほ)
98年、国際関係学科卒業。大学卒業後、複数のNPO法人を経験し、2000年4月にNPO法人「ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)」に入り、同年11月から2003年7月までイラク北部クルド人自治区で現場責任者として国内避難民・難民・帰還民支援やイラク緊急救援事業に携わる。2004年4月から1年間、テレビ朝日「報道ステーション」レポーターとして活躍。2005年、英国ブラッドフォード大学大学院修士課程修了(紛争解決学)。その後、PWJに復職し、イラク現地代表としてヨルダン及びイラクに駐在して、イラク緊急・復興事業の統轄業務を担当。2009年5月より、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)エルサレム事務所で働く。2004年ウーマン・オブ・ザ・イヤー(総合五位、リーダーシップ部門4位)、2006年中曽根康弘賞優秀賞受賞。2003年‐2005年ロータリー世界平和フェロー。国内外で講演活動も行う。