INTERVIEWS

第8回 藤本 篤子

遺伝専門小児科医・理学博士

プロフィール

藤本 篤子
58年ICU卒。NS専攻。その年にフルブライトでUCLAに留学、専攻は生化学。PH.D.終了後UCLAのNuclear Medicine Department でPostdoctoral Fellow になる。 65UCLAの医学部に入学し、卒業後はLos Angeles County-USC Medical Center で小児科のインターンとレジデントを終えた後、Medical Genetics のFellowshipを取る。続けて小児科と遺伝病の専門医として勤務。

 

齋藤
藤本さんはICUを卒業してから理学博士も医学博士もとってらっしゃる、これはすごいことだと思いました。 今日はなぜそのようになれたのかをお伺いできればと思っています!よろしくお願いします。
藤本
私は、実に運がよかったのだと思います。 先日70歳を迎えたときこんな素晴らしい人生はないと満足することができました。そして、なんでそう思えたのかを改めて考えてたのです・・・。 今日はお役にたてるかわかりませんが、よろしくお願いいたします。
ICUに入学しなければ、今の自分にはなりませんでした。ICUがまさに原点なのです。
藤本
ICUの4年生の時に卒業前になって、「もっと勉強したい!このままでは物足りない。」と思い、先輩の真似事でフルブライトに申し込んだら運良く受かってUCLAで勉強をすることになりました。 当時、私はお金がなかったのでフルブライトに合格できなかったら、就職を続けようと決めていました。今考えても、それもこれもICUにいたからこそ。1期生にフルブライトの道を作ってくれた先輩がいたから、私はその道筋にのったようなものです。
UCLAに行くことになり、何を勉強しようかと思っていたら、上の年代の知り合いの方から生化学を勧められました。日本では学問としてまだ浸透していなかったということもあり、新しい分野の生化学を専攻することにしました。
実は大学に入って2週間後にUCLAのキャンパスで主人と会いました。道を歩いていたら話しかけられて、はじめは何とも思ってはいなかったのですが、話をしてみるとすごく気があって1年後に結婚して、すぐに妊娠しました。 当時、妊娠したとわかったときに、博士号はとれないと思って、先生に「I am very sorry but I don’t think I can complete my doctor’s degree」と謝りにいきました。でも、カナダからこられたProf.Smith は、「Congratulation! That is no reason to quit!」と祝ってくれたのです! 今の時代ならまだわかるのですが、1958年当時に妊娠をしても勉強を続けられるとは考えていませんでしたし、子育てをするために仕事は止める、それが常識だと思っていました。ですから、これほどうれしいアドバイスはありませんでした。その先生がそんな風に言ってくれたから、私は勉強を続けることができたんです。
小さいころから理系の科目が得意で、自分には理学しかないと思っていました。
藤本
私は自分には理学しかないと小さい頃から思っていました。
渡辺
どうして、理学しかないと思ってらしたのでしょうか?小さい頃からお得意だったのですか?
藤本
小さい頃から理系の科目が好きで、小学校時代から算数のテストは満点でミスしたことがありませんでした。 なぜ人がわからないのかが、すごく不思議だったのです・・・。 嫌味ではなく、ほんとうに。 。
渡辺
ほんとうにいらっしゃるんですね…そういう方! お父様とお母様はいかがでしょうか?
藤本
父はいわゆるものを考案する、「エンジニア」で、母は姉が生まれるまで、先生をしていました。 私の家は6人兄弟で2人が理系という家庭です。 でも、私よりも一番下の理系の弟のほうが優秀なんですよ。
1963年に父が62歳で糖尿病でなくなりました。 両親は子供も多くお金がないから自分の体よりも子供を優先していたのでしょう。 そのときは、一番下の弟がまだ小学生で、私はPhD.をとった後だったので家に仕送りしていました。今でも覚えているのが、母は頼みもしないのに明細を送ってきて、それをみると二人の弟の教育費に半分のお金を使っていました。 ほんとうに子供の教育に熱心な親だったと思います。 1965年に医学部に入学し仕送りが出来なくなりました。 一緒に住めば息子にも良いと考えて母と弟二人をアメリカに呼びよせました。 アメリカに来た当時は英語ができなかった一番下の弟がカリフォルニア工科大学にフルスカラーシップで入学しました。 弟がSATという米国の一般大学入学試験の四つのカテゴリで満点をとったので、応募もしてないのに向こうから迎えにきたのです。私はその当時すごく忙しくて1分たりとも無駄な時間がなくって、弟の話を聞く時間もなくただ、学費が安くて近いUCLAに行けと言っていまいました。 でも、三回もカリフォルニア工科大学から人がきて、とうとう私が正直に「我が家にはお金がない」とお伝えしたら、「Oh! That was the reason. Then、there is no problem!」 といって全額のスカラーシップを提供してくれたのです!
齋藤
弟さんも優秀なのですね! ・・・これは私の素朴な疑問なんですけど、ご両親お二人が優れていたから子供も優れていらっしゃるのでしょうか?
藤本
私は遺伝を専門にしているのですが、「Intelligence」 は直接おりてこないのです。すごく優れた頭脳を持っている両親の子供は「Regression to the mean(平均値への回帰)」 といってpopulation(普通)以上になることは多いけどお父さんやお母さんと同じレベルになるのは14%、15%くらいというわけなんです。だから私がよく言うのは「あなたの子供があなた以上もしくは、あなたくらいになれば
『Count your blessing!』 」って。
齋藤
そうなんですか・・・。それは非常に面白い!
私からすると、他の大学は面白みがありませんでした。 それに比べてICUのキャンパスは美しく、人がフレンドリー、それに惹かれたんです!
齋藤
これは他のインタビューでも皆さんにお伺いしているのですが、藤本さんはなぜICUに入られたのですか?
藤本
すごくひょんなことでした。
渡辺
他の大学にいらっしゃる可能性はあったのですか?
藤本
出身は土佐で、神奈川に移り、そこから東京の駒場高校に通いました。 両親や学校の先生には近くの東大を薦められていました。 でもそのころの東大の女子学生は地味で見栄えが無く、あまり東大に魅力がありませんでした。 そんなとき、高校の富田朝子さんという先輩がICUに入りました。 その方は「人がしないことを率先して行う」すごく素敵な方で、後にオキシデンタル大学に初の日本人交換留学生としていった方です。 その方から「まぁ、とにかくICUを見にいらっしゃいよ!」と言われ、興味があったのでクラスメートと見に行きました。 そしたら、まずキャンパスがきれいなことにびっくりし, そのうえに、富田さんが「これ私の後輩よ?」と本館で出会った方々に気さくに紹介してくれましたことにも感動しました。 初対面なのに、皆が親しく話しかけてくれ、日本の大学と全然違う環境だということがわかり、ICUで勉強したいと強く思いました。 ICUのNS は英語と化学と両方を学べるわけで、あの頃、もしかしたら今でも、それが可能なのは日本でICU だけだったのではないでしょうか。 それで、父や学校の先生にICUに行きたいと相談したら、先生は「あんな何を教えているか分からない学校に行くな」と反対されましたが、父は私が頑固なことを知っていましたし、当時は奨学金をもらえることが早い段階で決まっていたので、賛成してくれました。
齋藤
じゃぁ、もし奨学金をもらってなければ行かなかったのですか?
藤本
はい、行きませんでした。不可能なことを無理にしてもしょうがないと考えておりましたので。 あの時の奨学金がその後の運を開いてくれました。だから、これから入学する学生さんに奨学金で支援したいと思っているのです。
渡辺
藤本さんがはじめにICUにいらしたときに、学生、働いている人、校舎の感じがすごくよかったでしょうね。普通は皆、素通りしてもおかしくない、でも、富田さんが色んな方に藤本さんを紹介してくださって暖かく迎えいれられて、そんな暖かい雰囲気が当時からあったのでしょうね。
ICUでの寮生活は楽しくてしょうがありませんでした!4人部屋が大好きでした! 勉強は易しくてこれで大丈夫かどうか、心配していたのですが、UCLAで学ぶために十分な基礎を気がつかないうちにICUで学んでいました。
渡辺
実際にICUに入学なさってからはどうでしたか?
藤本
すごく楽しかったです。特に、寮生活がICUの良さだと私は思います。 今の学生は寮に住めないのがむしろ問題だと思うくらい。 私は、4人部屋で皆がいないと寂しく、一人でもいないと落ち着かない気持ちになるほど寮での友達との共同生活が大好きでした(笑)。 ICUの良さはなんといいますか、キャンパスで夜勉強会があったり、湯浅学長のお宅に伺ったり、毎週水曜日に篠遠先生の奥さまがお家に呼んで下さるなど、学生を集めた楽しいことがたくさんありました。そんな日常がほんとうに楽しくてしょうがありませんでした。
渡辺
今までインタビューした優秀な方々でもICUの授業やDUEがたくさんあって、大変とおっしゃていましたが、藤本さんはいかがだったでしょうか?
藤本
ICUの授業は比較的易しいと思っていました。 あれでは自分の習った化学は大学院で通用しないと思っていました。 でも、実際はその逆。UCLAにいってみて、ICUのリベラルアーツがしっかりした基礎を作ってくれたことがわかり驚きました。
渡辺
以前から英語は得意でいらっしゃったのですか?海外で勉強をする際に英語が難しいと思ったことはなかったのでしょうか?
藤本
UCLAにいったときは、もちろん英語は充分ではありませんでした。講義はよくわかりましたが、道でおばあさんとお話をすると話がわからなかったりもしました。 UCLAの講義はすごくわかりやすくて、つまり生徒に理解してもらうために、どの教授も授業内容をしっかりと整えわかりやすい言葉で講義をしてくれていたんです。私は講義から英語を学んだんです。 後に私も教鞭をとることになった時、常にこの点を心がけ、生徒に理解してもらえるような講義をするよう努めました。ICUといえば、ロックフェラーさんとの出会いがすごく印象にあります。三鷹からバスに乗ったときに、一緒に話をしただけなのですが、後で気がついてみると、彼は初対面の私に専攻や大学生活について質問し、私の話をじ〜っと耳を傾けて聞いてくれたのです。 あの若さで、あれだけ人の話を聞ける人は誰とでもうまくやっていけるのではないかと、彼の外交的な能力に驚きました。 そういう人だからこそ、成功されたのでしょうね。
私のモットーは自分の全力を尽くすこと。その時々をただ一生懸命やっていました。
齋藤
先ほど、妊娠した後にも支援してくれたProf. Smithとの出来事なんですが、やはりいい人、いい先生と出逢ったからこそ大きく世界が広がったということなのでしょうか?
藤本
MentorであるProf.SmithもUSCで私を指導してくれたProf.Wilsonも私を引っ張ってくれました。 そんな人達に出会えた自分の運の良さには感謝します。 Prof.Smithはいつも「不可能はない、自信をもてばなんでも叶う!」と励ましてくれました。Prof. Wilsonは私を自分の跡継ぎと考えてくれてたようで、たまには厳しく次から次へと仕事を与えられ、それが結果的に私を成長させてくれました。 「なぜ私がいつもやらなきゃ駄目なの」と不満に思ったこともありましたが、ある日 「It is all yours.」 といってすべて譲ってくれてその意味がわかりました。そして、すべてを譲ってくれたことも、私を大きく成長させてくれました。・・・でも、今思い返してみても、これらのことが可能だったのは、ICUという原点があったから出発できたからです。昔は、まさか自分がずっと働くとは思っていなかったし、まして、海外に行ってなんて思ってもいませんでした。単純にすごくいい人と結婚して海外とかにも行けたらとは思っていたけれど、こんな風に自分の力で海外で勉強や仕事ができるなんて想像もしませんでした!
齋藤
今までインタビューした人に共通点としてあるのが、家族に恵まれるということも大きいようでしたが、どうなのでしょうか?
藤本
えぇ。主人との出会いは私にとって非常に大きかったです。主人は日本人で高等学校を卒業してからアメリカに来てUCLAで勉強していました。 主人はなんと言うか、ほんとうに素晴らしい人、私の喜びを自分のことのように感じてくれる、私が博士号をいくつとっても自分のことのように喜んでくれました。
渡辺
どんなふうに出会われたのでしょうか?
藤本
UCLAのキャンパスを歩いていると偶然会って、下宿からUCLAまでのライド(Ride)を丁度同じ方角に住んでいたので申し出てくれた。 はじめは、お断りしていたのですが、バスは1時間に1度しかこない辺鄙なところなので、次の日から主人が待っていてくれたんです。 それがはじまりでした。
渡辺
どんなところで、一緒に歩んでいこうと思われたんでしょうか?
藤本
一緒にいると楽しく、何か安心感があるということがよかったんです。
齋藤
恵まれた出会い、藤本さんにとってはご主人も先生もそうだったのですが、世の中にいい出会いをする人とそうでない人がいる、それはなぜかと僕は考えるんです、藤本さんはどう思われますか?
藤本
運じゃないんでしょうか?
齋藤
運というのは誰にでも来るものではなく、藤本さん自身がもっているものがその運をひきつけたということではないでしょうか?数多くいる学生の中からひきたててもらったりしたことは、何か藤本さんの持つものが運をひきつけたのだと思ってならないのですが・・・。
藤本
・・・あるとすると、私は真面目でした。私のモットーはひとつの機会が与えられたら、自分の全力を尽くすこと。その時々をただ一生懸命やっていました。 それが運を招いたのでしょうか。
日本に戻ろうと思っていました、でも日本には戻る環境が整っていなかった。 だからアメリカで研究を続け、その研究分野に医学部が関係し、メディカルドクターの資格をとりました。
齋藤
ドクターをとられたりする中で、ゆくゆくは教授になろうとかは思っていたのですか?
藤本
私はいつもあまり先のことは考えずに目の前のことを一生懸命やっていただけで、教授になろうなんて思ったことがありませんでした。 フルブライトの旅費のお陰で海外で勉強させてもらったのですから、日本に帰ってこようと思って、日本で就職活動をしたこともあります。でも、現実は厳しく、日本で当時の私の就職先は、女子大で化学の基礎コースを教えるようなものしかなかったのです・・・。当時PhD.を私は4年でとったから(日本だと5年)私がとった博士号は重みがないと日本では言われたり、日本で研究をしたいと思っていましたが、その環境が揃っていませんでした。 それで、UCLAの卒業前に、Prof.Smithから研究の道を勧められていたこともあり、一連のことを、彼に相談したら、「Do not go back home」と言われ、その後、Prof.SmithにNuclear Medicinesの研究を薦められ、その方に進みました。そのときにねずみの心臓の組織培養をして、心臓の機能を持った細胞が普通の細胞になるという過程を調べたのです。それで、毎週ディスカッションを医学部出身の人たちとやるのですが、その人たちの知識は広くて、びっくりしたんです。それで友人に「頭がよければ本を読んで習えるんだけど、それができない・・・」と相談をしたら、医学部に入ったら教えてくれるとアドバイスを受けました。そのころUCLAの医学部では女の人はたったの3人、東洋人は4人、私は歳をとっているし、子供もいるし・・・と思っていました。ただ、入学の可能性を知るために、プリメド(Premed) アドバイザーにアポイントメントをとって、話をしにいったら、私の経歴に関する書類をすべて揃えてあり私に興味を持って「ぜひ入るように」と言われて、入学することになりました。
齋藤
そうなんですか!それはすごいですね!それで次はメディカルドクターを、何年でおとりになったのですか?
藤本
医学部は4年でドクターをとりました。
渡辺
30歳すぎて医学部に入学なさったということは年齢でいうと当時としては上のほうだったのでしょうか?
藤本
はい、UCLAでは年のリミットが30歳だったので、まさにぎりぎりだったのです。 それで、医学部に入ったのですが、忙しいことは知っていたのですが、これほどすごい世界があるとは・・・まさに想像以上の世界でした。朝から晩まで講義にでないといけませんし、本を斜めに読むぐらいはしないと間に合わない。でも、当時は、Aをとるための勉強はせず、できるだけ、次の段階に進めるだけの知識を得るための勉強をしました。 大体Bを目標にして気を楽に保ちました。
知識を増やしていくほど楽しいことはない、知れば知るほど、人生は楽しくなっていくんです。
齋藤
研究をしたいというのはどこからくるのでしょうか?大きな目的があってやっているのでしょうか、それとも、新しいことを知りたいということなのでしょうか。
藤本
知れば知るほど人生が良くなるんです。 医学部の先生がいつも、「I can promise you every year it gets better」、と励ましてくれました。 これはほんとうにその通りなんです。 なぜ良くなるというと、知識が増えると医療の醍醐味も増えるからです。
子供、孫が一番大切だと今は心から思います。 だから、孫については、できるだけ息子の家族をヘルプするようにしています。
渡辺
アジア人で女性、日本人が少ない環境、そして離婚率はアメリカのほうが高かったりする。でも藤本さんはご自分の仕事にも全力で情熱を傾けられ、子育てにも専心なさって、今も素敵な家庭をパートナーと築いていらっしゃる…どうして可能だったのでしょう?
藤本
どうやって可能だったのか・・・、私にもわかりません(笑)。
渡辺
投げ出したいほど、おつらいことはなかったのですか?
藤本
とにかく、勉強や仕事が終わると、私は毎日毎日、ただ寝たいと思っていました。 確かに、私が忙しすぎて子供がかわいそうでした。入学式、参観日、卒業式とか、節目すべてには参加できませんでした。唯一卒業式だけ、学会から駆けつけることができましたけど。
渡辺
お子さん方は何かおっしゃっていますか?
藤本
寂しかった、といわれたことはあります。だから、私は孫についてはできる限りヘルプをしようと思っています。
藤本
お孫さんとはどんなお話をなさるのですか?
藤本
孫とはあまりゆっくり話をする時間がありません、というのも孫は柔道をやっていて、全米で優勝したり、ジュニアオリンピックで優勝したりしているので、試合と学校でほんとうに駆け回っているのです。 でもアメリカは柔道が弱いんですよ。福岡で試合があったときに日本に来ましたが、米国チームは1回戦で負けてしまう。 アメリカの底上げができれば良いがと思いますね。・・・孫は私よりも私の弟を尊敬しているようです(笑)。弟はプリンストンで物理のプラズマを研究し、PhD.をとりました。現在プリンストン大学の学部長として仕事をしていてどうやら、孫は弟に憧れているようです。
日本には、まだ、女が仕事をできる土壌がそろっていないのではないでしょうか。
齋藤
それにしても、藤本さんにしても弟さんにしても、日本の財産を外に出してしまったように思えてなりませんね・・・。
藤本
いえ、でも日本にいたら彼も今のようにはならなかった。ちょうど紛争の時代だったから。 アメリカに行ったからこそ今の彼があるのだと思います。
渡辺
国の違いはありますが、藤本さんからご覧になって、日本はどのように見えるのでしょうか?研究する環境としても、国として、文化的にでも、いかがでしょう?
藤本
日本は医学でもしがらみがあるし、アカデミックでも教授・助教授の世界も官僚的、女の人がやれることはまだまだ限られているし、子供をもった人に対しての理解も少ない。でも、海外では子供に関しても理解が高くて、例えば子供が病気ならみんなで助けてくれようとする。 日本の女性はそういう理解が得られず、まだまだ厳しいですね。
渡辺
軽々に、分かりますと言えることではありませんが、アメリカからセクシャルハラスメントという言葉が入って流行った時のことを思い出します。「痩せたね、太ったね」のような言葉に表れるもの、目に見えるもの全てを面白がるようにセクハラと言っていた気がしますが、むしろ、輝くような素材がそこにあるのに伸びる妨げになる、それがハラスメントだと思いました。アメリカでは、伸びる人を伸ばそうという風土がある、でも悲しい哉、日本は乏しい気が。今藤本さんがこうしていらっしゃるのも残念ながらもアメリカで研究なさったからという面も否めない気がします。
いまは自分の患者さんを診ているのが幸せ
藤本
今は、病院にオフィス、PC、フルスタッフがいて、自分の患者さんを診ているのが幸せ。家にいなきゃ駄目と言われたら、むしろ困ってしまいます(笑)。
渡辺
お給料をもらっていらっしゃらないのは、なぜなのですか?
藤本
37年間退職金のために払っていたので、給料と同じくらい年金をいただけるから必要ないのです。
渡辺
日本だけではないかもしれませんが、稼げるだけ稼いで、できるだけ子供に残したいと思うものといいますが、藤本さんは違った考えをお持ちなのですね?
藤本
日本人のお金のある方が人助けの寄付をするかわりに莫大な財産を子孫に残したり、必要以上の浪費をするのは良くないと思う。 主人と私は自分達の意志で選べる有意義なプロジェクトに寄付することによりお金を有効に使いたかったのです。 子供にとっても努力もしないで、易々とお金をもらってしまうのは良くないと考えています。 そうすると働く気力もなくなってその子供を駄目にしてしまうのです。 もちろん、必要なものは支援しようと思っています。
渡辺
いい意味での自立を考えなくて、伝承だけを考えてしまうと何代目もとなると会社がつぶれる、ケネディー家が続くのは、子供に自立心を持たせるように育てるからでしょう。
ICUの後輩には自分たちの大学に誇りを持ち、自信をもって勉強してもらいたい。 そして、それを中学・高校の後輩に伝えてもらいたい。
渡辺
ICUの後輩にどうあってもらいたいかなど、何かあったら是非、教えてください。
藤本
こんな素晴らしいユニークな大学にいることを認識して、自信を持って勉強してもらいたい。あと、先日も学長は優秀な受験生が少なくなったと心配して居られたのですが、こんな良い大学の存在を知ったら全国の高校生がICUに来たがると思います。 在校生には機会のあるたびに自分の母校に帰ってICUのことを伝えてもらいたい。 大学のプロダクト(在校生・卒業生)がよければ売れるはず、だから、頑張ってそれを伝えてもらいたいのです。
渡辺
はい。プロダクトである卒業生がチャーミングで、先生が魅力的で講義が充実していて、大学の環境が素晴らしい、となれば絶対に集まるはずですよね!
藤本
先日、今の在校生で3年生の人にあったときに、「ICUに入ったのはなぜ?」と聞くと「大学時代に勉強をして次のステップにいきたい」と答えてくれました、そんな在校生がいることがすごく嬉しいです。 そんな学生を実際にどんどん育てて、世の中に素晴らしい人材を輩出してもらいたいと心から思いますし、ICUはそれができる大学だと私は信じています。


プロフィール

藤本 篤子
58年ICU卒。NS専攻。その年にフルブライトでUCLAに留学、専攻は生化学。PH.D.終了後UCLAのNuclear Medicine Department でPostdoctoral Fellow になる。 65年UCLAの医学部に入学し、卒業後はLos Angeles County-USC Medical Center で小児科のインターンとレジデントを終えた後、Medical Genetics のFellowshipを取る。続けて小児科と遺伝病の専門医として勤務。74年助教授、79年准教授。 小児科、臨床遺伝病、臨床染色体病、臨床代謝病の認定専門医の資格を取る。87年からGenetics Division のChief となり Cytogenetics Laboratory と Biochemical Laboratory の Director も兼ねる。06年三月末に退職。退職後も Voluntary Attending Physician としてクリニックで患者の診察および学生やレジデントに講義をするなど活躍中。趣味はランニング。ランニングは45歳から初めて1984年には河口湖マラソンを3時間28分で完走。