プロフィール
国際基督教大学卒業。ロンドン生まれ。6歳よりロサンゼルスでS.マクドナルドのもとでハープを学ぶ。1985年第9回イスラエル国際ハープ・コンクールに参加者中最年少で優勝。これまでにメータ、シノーポリ、サヴァリッシュ、メニューイン、小澤征爾等の指揮で、ベルリン・フィル、イスラエル・フィル、フィルハーモニア管、フィラデルフィア管等と共演。
“「ハーピスト」になりたい!”と思って今の自分がいるのではなく、自然に気がついたらハーピストになっていました。
- 齋藤
- 今日はありがとうございます。吉野さんにこのような形でお話をお伺いできること、すごく楽しみにしていました、どうぞよろしくお願いします。僕は前から実は不思議に思っていたことがあり、今日はぜひそれをお伺いできればと思います。ハープという楽器の音楽家だったら、普通、音楽大学に進学すると思うのですが、なぜそうされなかったのでしょうか? なぜICUに入学されたのですか?
- 吉野
- 意外でしょうか。当時の私にとってはむしろ、音大に行くことのほうに違和感があったと思います。たまたま母がハーピストだということもあり、自然に小さな頃からハープに触れていました。ハープを始めた頃の細かいことは忘れてしまいましたが、6歳の時に、父の赴任先のロサンゼルスでハープを始めました。 母が受けていたハープのレッスンについて行き、そこで、私のハープの恩師となるスーザン・マクドナルド先生に出会いました。父の赴任が終わり日本に帰ってきてからも、夏休みや冬休みなどの大きな休みの時には、集中的にレッスンを受けるために母と共にアメリカに行きました。マクドナルド先生とは本当に相性が良くて、そのような時には先生のお宅に泊めていただきながら、たくさんのレッスンをしていただきました。 大学に進学する頃には、その直前にコンクールで優勝していたこともあり、コンサートにたびたび出演していました。進学を考えた時、音大に行きたいとは思っていませんでしたね。きっと、自分にはアメリカにマクドナルド先生がいるということで、日本の音大に行くことは自然ではなかったのでしょうね。
- 渡辺
- そうだったのですか。ハープはお母様の影響なのですね。でも、当時ハープを弾くということは珍しかったのではないですか?どうしてお母様はハープを選ばれたのでしょう?
- 吉野
- 母は昔からずっと音楽家になりたいと思っていたそうです。ピアノをずっと弾いていたのですが、手が小さくて小指が短いということで、一時は諦めて普通の大学に入りました。でもやっぱりどうしても“音楽がしたい”ということで、普通の大学を卒業後、小指を使わないハープを始めて、それからあらためて芸大に入りました。そんな母は私に対して、わざわざ音大に行く必要がないのでは、と思っていたようです。私自身も、自分はたまたま音楽をやっているけれど普通の人、という感覚だったので、大学はICUの人文科学で美術史を勉強したいと思って入学したんです。
- 齋藤
- 6歳からハープを始めて、ハープで仕事をしようと思ったりはしていなかったんですか?
- 吉野
- 私にとってハープは、最初から自然な存在だったのですが、だからといってそれを一生仕事にして生きていくんだ、というような意識はあまりありませんでした。
- 奈良橋
- お母様のお話に戻りますが、お母様が音楽をやっていたのは何か影響があったのでしょうか?
- 吉野
- 私の祖母もピアノを弾いたりしていたと聞いたことがありますね。
- 齋藤
- 音楽と近いご一家なのですね、ちなみに、吉野さんのお父様も音楽をされていたのですか?
- 吉野
- 実は、父と母は同じピアノの先生でピアノを通して知り合ったんです。母の兄が父と同じ年でみんな遊び仲間だったようです。
- 齋藤
- そうなんですか! やはりなんか繋がりがあるんですね!
- 渡辺
- 本当に素敵。私みたいなピアノ脱落者にとっては憧れです。ご家族の皆さんが音楽をなさるということはクリスマスとか、何気なく連弾なさったりすることもあったのでしょうね。
- 吉野
- 何かの遊びのような感覚でピアノを弾いたり歌ったりと、そんなことはあったように思います。・・とはいえ、ごく普通の家庭でしたよ。
- 齋藤
- ところで、今までインタビューで色々なICUの同窓生にお話を聞いていると、“人との出会い”がその人の人生で非常に重要となっていると思うんです。先ほどお話にあったように恩師マクドナルド先生と吉野さんは出会ったことは吉野さんの今に影響したと思うんです。どのようにその先生に出会われたのでしょうか?
- 吉野
- 私が生まれる頃、両親はロンドンにいたのですが、母はロンドンでもハープのレッスンを受けていました。父のロサンゼルスへの転勤が決まった時、ロンドンのハープの先生に母が相談をしたところ、スーザン・マクドナルド先生を紹介して下さったのです。それで、母がロサンゼルスでマクドナルド先生にレッスンを受けるようになり、先ほどお話したように、私はそのレッスンについていき、6歳の時に、私もハープを習い始めました。家にはアイリッシュハープという小さなハープがあったので、それを使ってスタートしました。
- 渡辺
- お話を伺っていると、お母様が吉野さんに「ハープ」をなさいと仰ったことはなかったということでしょうか?
- 吉野
- 母からハープを弾くことを強制されたと感じことは、一度もありません。・・今となっては、実は、“うまく乗せられた(笑)”と 思うことはありますが。あくまでも自然に、ハープと付き合っていました。
海外で育ちましたが、日本人の心を忘れないように、と両親は思って 私を育ててくれました。
- 齋藤
- お父様の転勤でご家族が海外生活を経験しているのですが、ご両親は吉野さんをどのように育てたいと考えていたのでしょうね?
- 吉野
- 私はロサンゼルスでは現地校に通っていましたが、両親は私に日本人の心をちゃんと大切にしてほしいと片方で思っていたようです。9歳で帰国してからは、両親の薦めで東京の麻布にある、西町インターナショナル・スクールに入りました。というのも、私の両親は日本人のアイデンティティーを大事にしてほしい、と思い、日本語もきちんと教えた上で、国際人を育てることに力を入れていた、西町を選んだそうです。アメリカにいた頃の私は「アメリカ大好き、日本は嫌」と思っていて、日本に帰ることにさえ抵抗がありました。でも、後になってみると、両親が私の中の日本人の部分を大事にしてくれたことは、本当に有難いことで、今では両親に感謝しています。 西町は中学校までしかなかったので、高校からは両親の薦めでICU高校に入りました。当時の西町の友人は、誰もICU高校に行かなかったし、私はその時もICU高校に行くのが嫌でしょうがなかったんです。でも行ってみると3分の2が帰国生でいろいろな人が混じりあっていて、自由だし楽しかった 。ICU高校では、良い先生と良い友達に出会うことができました。やはり、私の根は日本人なので、アメリカンスクールのように海外に向いた学校よりもICU高校のほうが、心地よい自分の居場所みたいなものに思えたのでしょう。
- 渡辺
- インターに吉野さんを入れられたことはお母様とお父様の教育方針が現れているようにも思います。最近では著名人も、お子さんをインターにいれるケースが多いそうですが、その子の良い部分を自由な空気の中で伸ばそうと思う場合、日本に居ながらインターにいれる傾向にあるようですね。吉野さんのご両親も、インターの教育方針に共感なさったのでしょうね。吉野さんに何も強制はしないけど、自由な沢山の選択肢を見せてくださっていたのでしょうね。
- 吉野
- そのとおりかもしれませんね。ハープについても自分の好きでやっていましたし、いつも両親からは、「直子が好きなこと何でもやっていいんだよ。」と言われて育ちました。
- 齋藤
- お父様はなぜ海外赴任をされたのでしょうか? もともと海外で生活をされていたのですか?
- 吉野
- いえ、父は海外に留学したことはありましたが、海外で育ったわけではありませんよ。
- 齋藤
- そうなんですか、海外留学経験がある、それも当時としては非常に稀なことだと思います。とすると、吉野さんを今のように育てたのはお父様の海外経験が大きな影響を与えていると思えてなりません。お話を伺っていて非常に面白いと思ったことがあるのですが、実は、企業変革においても会社を変えようという人は、いろんな国に行った経験があり、いろいろな経験をした人の方が多いのです。広い世界を見ている人のほうが柔軟に考えられる場合が多く、難しいことにでもチャレンジする可能性が高そうに思えるんです。吉野さんのお父様はより広い視野でものごとをみていた、だからこそ、吉野さんのようなお子さんを育てることができたんではないでしょうか。ICUの人は伸びやすい、というのもある意味世界が広い人が集まっているからだし、広い世界の人に触れたいと思っている人の集まりだからなのかもしれませんね。
中学生時代の勉強が今の私の土台を作っている。中学校で、自分で「考える」ことを教わりました。
- 齋藤
- 勉強はお好きだったのですか?ICU時代に成績は良かったでしょう。
- 吉野
- いえいえ(笑)ICUの時代の成績はあまりお話できることでは・・・。 勉強に関してはむしろ、中学生の西町インターの時代が一番楽しかったです。今も西町で学んだことは、非常に役に立っています。特に私が好きだったのは世界史の授業でした。前の授業で先生からキーワードをもらい、授業の当日は皆がそのキーワードを知っているという前提で先生が授業を進めていくというものでした。「なぜこのような事件が起こったのか」、「この時代の人はどんなことを考えていたのか?」、「あなたなら、どう考えたのか?どう行動するか?」など、先生は教科書には書いていないことを生徒に質問をし、生徒はそれを考えて自分の言葉で答え、それを先生と一緒に皆で討議するという授業でした。この授業は今でも思い出になるほど大好きな授業だったんです。
- 渡辺
- それは面白い授業ですね、先生が黒板に書くことを写すのではなくて、考える授業。実はこの間ちょうど私の同級生が話していたんです。ICUの授業でスティール先生から「なぜキリスト教は日本に伝来したかを答えよ」という質問があったことを鮮烈に覚えていると。それまでは、どこで何年にといった暗記ものに答えるのが歴史の授業で試験だったけれど、考えたことがない「なぜ」と、問われたことの意味は非常に大きかった、と。彼女は、今は子供の学校の授業を見に行く機会も多いそうですが、学校によって先生によって教え方は様々だと言っていました。教科書に書いていることを覚えて解答するだけではなく、どうしてだろうと「考える」ことで科目を越えて想像力が広がったり、考えたことの記憶や戸惑いが後々、思いもよらない場面で自分を助けてくれる回路になるかについて話しました。
- 吉野
- 本当にそうですよね。講義で詰め込まれることよりも「考える」ことはすごく大事だと思います。そういえば、西町インターでは数学も大好きでした。それも結局、先生が常に考えることを子供に求めて授業をしてくれたからだと思います。
- 渡辺
- 社会人になって10数年ほど仕事をしてきて、教科書に書いてあったことでも、そうとばかりは言えない面もあると思うことが、よくあるんです。原理原則は載っている通りですけれど…例えば、社会で言う国会のしくみや三権分立、算数の基本方程式や国語では漢字など。そのまま覚えることで知識として土台となることはともかく、現実の社会情勢は、政治家は、国連は、ODAは、教育基本法は、というと教わったことだけでは対処しきれない。暗記・ェ勉強という習慣で安穏としていると、考えることや疑問を持つことに鈍感になってしまう恐れはあるのかもしれないと自戒をこめて思います。鵜呑みにしないで自分の目で今を見ること、もしかしたら教科書や常識や正式発表と言われるものに対して疑問を抱くことも恐れないでほしいと願います。あと本来、学校はすごく楽しいところなんだと思うんです。吉野さんの話をうかがっていても。でも、楽しいと思っていない子供達がすごく多いのが現実で悲しいというか、もどかしい気がします。「はじめてのおつかい」で例えると、八百屋さんにいって話をするのは国語で、お金を払って、おつりをもらうのが算数、家に帰りながら道端の花をみてなんだろうと思ったら理科で、買ってきた野菜で、お母さんが夕食を作ってくれること含め今日体験したことの全てが社会で… と、学ぶことは全部、大きな木の幹や枝葉のようにつながって無限に広がっていて。でも今は正解のある質問を解くことで偏差値が上がって受験学として早道になる。学校が楽しくないと子供達に思われても、知ったり考えたりする道のりの楽しさを充分、伝えられてない側の責任だと感じます。
- 齋藤
- 僕はよく企業で「問題解決の考え方」を教えているんだけど、いかに企業が考えることを社員に求めていないかがよくわかります。僕はロジックやテクニックだけではなく、「何が問題か」、「どのようにしたら問題は解決するのか/どうやったらもっとよくなるのか」と皆に問う。そうすると、みんなそんなことをあんまし考えたこともないからびっくりする(でも考え方を伝えるとその重要性を理解してくれて実際に考えるようになるんですけど)。まさに普段の仕事は単にルーティーンワークをしているだけで、考えながらもっと工 夫するためにはどうしたらいいかということをしていないということ。自分個人が成長しないから企業が成長するわけはないと僕は思うんです。だから考えることはすごく大事なんですよね。あと吉野さんの話を聞いていて、思い出したのですけど、もう1つ大事だと思うことは、“「こんな人になりたい」と思う人のそばにいる”ということかな。子供にも、“こんな人になりたい”と感じさせるような大人に触れる機会をできるだけ与えることが重要になると思います。これは実は大人も同じで、年齢が高くなればなるほどある意味難しいことかもしれないけど、すごく大事なことだと思いますよ。
吉野さんは肩の力がいい具合に抜けていて素敵ですね。
- 齋藤
- 僕は音楽の世界はよくわからないけど、コンクールがあったり、すごく競争が激しいように思います。 毎日数十時間練習をして、必死になっているイメージがあるんですけど、それはどうなんですか?
- 吉野
- 時と場合によりますが、私はそれほど練習しません、と言いますか、むしろできません・・・。コンサート前など、集中してリハーサルをしなくてはならない時は、気がつくと5〜6時間練習していることもありますが、私は普段は短期集中型でやっていて、1日2〜3時間程度でしょうか・・・。ある意味、ハープを6歳からずっと弾いていたこともあり、体で覚えているということはあるのかもしれませんね。
- 齋藤
- 世界的に有名な人は音楽にしても、野球にしても6歳に始めるって聞いたことがあります。
- 吉野
- そういえば、大人になってからハープを始めた母が一生懸命やってもできないことを、ハープを始めたばかりの小さな私がすぐにできちゃうと、母がぼやいていた記憶があります。それだけ小さい頃に覚えたことは、すぐに身につくのかもしれません。
- 渡辺
- 確かに、子供の頃の方が無防備な分、語学でもスポーツでも体で覚えるような面がありますよね。遊びながら覚えちゃうような。それを楽しいと感じるままに熱中して、褒められると嬉しくて、もっとのめり込んで上手くなっていくのを繰り返すうちに凄い上達していたり。好きこそモノの、じゃないですが、好きなものは「やりなさい」と言われなくてもしてしまうんでしょうね。ハープを嫌いにならなかったことは吉野さんの才能だと思います。吉野さんはちなみに今まで何か「何か壁にぶちあたった」と思うようなことはありましたか?
- 吉野
- 最近よく、「壁にぶちあたったのはいつだろう」と考えるんです。でも、ないんです。前はそのうちなんかあるかな〜と思っていて、それでもなくって、今に至りますね・・・。
- 齋藤
- では、自分との戦いみたいなものはどうでしょう?
- 吉野
- う〜ん・・・。そうですね、ちょっと思うときもあります。たまに、10年前やっていたことと今やっていることを比較しても、進歩がないように思うときがあります。あと、昔は ある曲をさらっと弾いていたのに、今は考えすぎて同じ曲を完璧に弾くことが大変だと感じることがあります。
- 齋藤
- それはどういう意味でしょうか?
- 吉野
- 今は、曲を弾く時にこれもしたい、あれもしたいと考えてしまうのです。でもそのやりたいことをやると、技術的に完璧にすることがどうしても出来なくなってしまったり。間違えないためには、やりたいことを抑える必要がある。どっちもやることがすごく難しいのです。
- 齋藤
- それは味がでていてすごくいいんだろうと思いますよ。僕の場合は、人にものの考え方を教える時に以前は完璧に説明試料を説明しなくてはならないと思っていた。でも、今は「どうやって聞いている人に理解してもらおうか」、「どのように会社の業績を上げれる人になるために大事な考え方を伝えられるか」を思いながら話をしている。自分で言うのも変ですが・・・、説明することに必死だった昔よりも確実に進化していると思うんです。
- 渡辺
- 吉野さんのお話をうかがっていると肩の力が抜けていて、私も癒されるような気がします。能でも言うそうです。同じ舞いでも、10代、20代、50代、80代と全く違う、その時々の感覚や、それまで過ごしてきた時間が出るのでしょうね。
- 吉野
- でも、個人的には自分の昔の演奏は、あまり聴きたくないですね・・・。 そうそう、先ほどのお話と関連しているかもしれませんが、いつも私が思っていることは、音楽を決して「作業」として終えないことです。
- 渡辺
- わかる気がします。例えば原稿を読んでいても、読む内容は違うはずなのに、読む行為自体がルーティンになっていく怖さを感じることがあります。慣れていくからこその良さもあるけど、怖さも裏側に貼り付いているものですね。
- 吉野
- 慣れだけで終わらせてしまうことは、絶対にやりたくないと思っています。
- 齋藤
- ちなみに、コンサートをされるときどんなことを考えているのですか?
- 吉野
- なるべく音楽そのものに集中するようにしています。あとは、お客様と一緒に良い雰囲気を作るよう、気持ちを込めます。「聞いてごらん」、「楽しませてあげよう」という傲慢な気持ちは駄目なんですね。音楽が押し付けがましくなってしまいます。
- 齋藤
- そうなんですか・・・。お二人は不思議に思われるかもしれないけど、ビジネスの世界においても軸足の置き方がすごく大事になります。会社の利益をなんとしても出そうと思っている経営者がいる会社は駄目、なぜなら、会社の利益を出すために作為的になってしまってお客さんを喜ばすことができなくなるから。ところが、一生懸命顧客のことを考える会社は業績があがるんです。吉野さんの場合も、聞いてくれる人に聞かせてあげるというように考えると傲慢になったり、1流の音楽家のハープになりたい、コンペティションに勝ちたいと思いすぎると肩に力が入って本当の意味での1位にはなれないのではないでしょうか。 企業の場合では、2位の会社はいつも1位になりたいと思って1位を意識しすぎる。だから1位になれない。顧客を大事にする。その徹底さができると、結果として1位になってしまう。吉野さんの今までの生き方を聞いていると、なんとしても一流のハーピストになろうという意識はまったくない、逆にそのことがあるがゆえに今の吉野さんをいるのでしょうね。
ハープは古いものを守りつつ、新しいことに挑戦できる楽器です。
- 渡辺
- それにしても、なんてチャーミングなえくぼ!って思うんです、いつも。同級生なので大学時代から知ってますけれど、「なんて素敵なえくぼができる人だろう♪」と思っていました。吉野さん、和装も似合うでしょうね。番組の企画で十二単を着る機会があったのだけど、私は本当に似合わなくて・・・。吉野さんだったら本当に似合ったでしょうねと思ってしまいました(笑)。以前、ヨーヨーマさんにインタビューした時に、吉野さんと同じ空気を感じたことを思い出しました。コンサート前なのに、緊張感というよりも、全く気取らないカジュアルな雰囲気でした。そのときにヨーヨーマさんは、「チェロがメインになる曲は少ないのです、だから色んな挑戦をしていきたい。様々な音楽の架け橋にもなっていきたい。新しいことを開拓していきたいんだ。」とおっしゃっていました。チェロの楽曲も少ないかもしれませんが、ハープの場合はどうなのでしょうか?
- 吉野
- 私からするとチェロが羨ましいくらいです。ハープのレパートリーは限られていることもあり、私はいつも新しい可能性を探っています。ヴァイオリンなどのように裾野が広く、すでに道筋がついている楽器も大変ですが、ハープにはまた違う意味での大変さがあります。時にはそれが逆に、やりやすい部分にもなるのですが。
- 渡辺
- ところで、お母様は他の音楽を吉野さんに薦めたりはしなかったのですか?
- 吉野
- ピアノは5歳から習っていたのですが、どうしても自分に合ったものとは思えませんでした(笑)。
- 渡辺
- そうなんですか、吉野さんでも。あうものあわないもの、面白いですね♪
どんな人にもチャンスを与えられて、それをとるかとらないかの違いは大きい。
- 齋藤
- どんな人にもチャンスを与えられて、それをとるかとらないかの違いと思うことがあります。チャンスとは思わなかったけど、そのときに“やってみようと思って行動した”ことが、結果的に人生の大きなスタートとなるのでしょう。
- 渡辺
- それと、子供にとっては自分のことを守ってくれた大人がいるかいないかが大きいのじゃないかと思います。向き合ってくれる大人、何かの時に目を逸らさず話してくれる大人が周りにいるかいないかでは違う気がします。その時は愛情と認識しなくても、お日様みたいにその子に視線を注ぐことで、いつか大変なことにぶつかったとしても見えない支えや祈りを感じることで乗り切ってくれる力に、いくばくかなれるかもしれない。
- 齋藤
- そうですね、企業でも従業員に愛情を注いで育て上げると、会社も大きく成長すると思うことがあります。 それにしても、今日はありがとうございました、あと、吉野さんには今まで募金パーティーなど同窓会にいろいろ貢献して頂いてきた、この場を借りて心より感謝します。
- 吉野
- とんでもないです。
- 齋藤
- でも、なんで吉野さんは同窓会に貢献してくれるのですか?普通有名になったりするとそんなややこしい、面倒臭いと思ってしまうんだと思うんだけど・・・。すごく不思議なんですよ。
- 吉野
- いぇ・・・・。なんといいますか・・・。
- 渡辺
- ・・・僭越ですが私が思うに、吉野さんは、ご自を有名だとか「やってあげている」という気持ちがないんだと思います。変な例えですけれど、たっぷり干して太陽のぬくもりをたくさん含んだ布団みたいに、ふんわりしていらっしゃる。今までご両親や先生から愛情を注がれ、豊かな土壌になっているからこそ、周りにも純粋に応えたり、素直に感謝する分、愛情を注げるんじゃないか、と。同窓会からの声に出来ることならばやります、というシンプルな感覚なのではな いでしょうか。
- 吉野
- ・・代弁していただきありがとうございます!本当に何の違和感もなく、声をかけてくださったので、私でよければ・・・という感覚しか私にはありません。
- 渡辺
- 今までのインタビューの方もそうですが、周りへの感謝の心を自然に常に持っていらっしゃるのが印象的です。
- 齋藤
- 本当にそうですね。愛情を受けていた人は愛情をたくさんあげようとする、そんなことなのでしょうね。吉野さん、今日はありがとうございました。非常に楽しいお話を伺えました。また今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
プロフィール
吉野 直子(よしの なおこ)
吉野 直子(よしのなおこ)
国際基督教大学卒業。ロンドン生まれ。6歳よりロサンゼルスでS.マクドナルドのもとでハープを学ぶ。1985年第9回イスラエル国際ハープ・コンクールに参加者中最年少で優勝。これまでにメータ、シノーポリ、サヴァリッシュ、メニューイン、小澤征爾等の指揮で、ベルリン・フィル、イスラエル・フィル、フィルハーモニア管、フィラデルフィア管等と共演。また、ハープの新作紹介も数多く、武満徹「そして、それが風であることを知った」、細川俊夫「ハープ協奏曲」などは、その代表的作品。 1985年アリオン賞、1987年村松賞、 1988年芸術祭賞、1989年モービル音楽賞奨励賞、1991年文化庁芸術選奨文部大臣新人賞、エイボン女性芸術賞をそれぞれ受賞している。吉野さん公式HPへのリンク:http://www.naokoyoshino.com/j/index.html
国際基督教大学卒業。ロンドン生まれ。6歳よりロサンゼルスでS.マクドナルドのもとでハープを学ぶ。1985年第9回イスラエル国際ハープ・コンクールに参加者中最年少で優勝。これまでにメータ、シノーポリ、サヴァリッシュ、メニューイン、小澤征爾等の指揮で、ベルリン・フィル、イスラエル・フィル、フィルハーモニア管、フィラデルフィア管等と共演。また、ハープの新作紹介も数多く、武満徹「そして、それが風であることを知った」、細川俊夫「ハープ協奏曲」などは、その代表的作品。 1985年アリオン賞、1987年村松賞、 1988年芸術祭賞、1989年モービル音楽賞奨励賞、1991年文化庁芸術選奨文部大臣新人賞、エイボン女性芸術賞をそれぞれ受賞している。吉野さん公式HPへのリンク:http://www.naokoyoshino.com/j/index.html