■プロフィール
2003年にICUに入学。3年生修了時に退学・再入学の制度を利用し、イギリスのNGO団体を通して、アフリカのモザンビーク・アンゴラにて教育分野のボランティアを行う。2年後に大学に戻り、国際関係学科と人文科学科の学科間専攻で2009年に卒業。大学院を経て、JICA(国際協力機構)に就職し、現在(※インタビュー当時)は中南米地域の青年海外協力隊事業を担当している。
聞き手:清水さん(4年生)、飯塚さん(2年生)
国連に入るには、経済が狙い目?
- 飯塚
- なぜICUに入学したのか、というところからお聞き出来ればと思います。
- 中村
- 私の場合は、ICUを知るより先に、やりたいことに出会いました。中学校一年生の時だったのですが、たまたま見ていたマザーテレサのドキュメンタリー番組に衝撃を受けて、私も世界の貧困のために何かしたいというか、同じ地球上に同じタイミングで生まれてきたのに、なんでこんなに人生が違うんだろうと感じて。
しかも、その人たちのために一生を捧げた女性が実在したということにとてもびっくりして。そういう生き方をしたいなと思ったんです。
- 飯塚
- 中学校一年ですか!私なんて、遊んでばかりでした(笑)
- 中村
- 私も遊んでいましたよ!
ただ、ちょうどその頃、気管支炎を患っていて、学校を休んでいたんです。仰向けになると息苦しいから、一日中座椅子に座りっぱなし、寝落ちすると息が止まって起きてしまう‥‥。そんな事をずっと繰り返していたんです。本当に辛くて、世界で自分が一番かわいそうかもと思っていた時にたまたま観たのが、マザーテレサの番組だったんです。たった15分間程度のドキュメンタリーだったんですが、自分なんかよりもはるかに辛い目にあっている人がいて、かつそれに一生を捧げた人がいたなんて、と。
- 清水
- その時の気持ちと、テレビの内容が偶然巡り合ったんですね。
- 中村
- 中学校一年生という早い段階でマザーテレサに出会って、国際機関で働きたいという夢を持ち、それに向かってICUに入ったということは、その時に受けた衝撃が大きかったみたいですね!(笑)
- 清水
- では、国際機関を目指すためにICUに入学したんですか?
- 中村
- 中学の社会科の教科書で国際公務員や国連の仕事があると知って、興味を持ったんです。
当時の日本は、GDP世界第二位の経済大国だったんですよ。で、あと少しで一位なのかとか、二位って悔しいなと思いながら、でもそんな大国に生まれて、国際公務員という仕事であれば役に立てるのかなと漠然と思いました。国際公務員をたくさん輩出している大学はどこなんだろうって思っていた時に、塾の先生がICUを教えてくれたのがきっかけです。
ICUについて調べて見ると、入るのも難しそうだし、入った後も大変そうで、しかも知名度もあまり高くないのに学生が集まっている。ということは、そこに集まっている人たちはすごいモチベーションが高いんじゃないかな、と想像したんです。
私は、大学の知名度よりも、その四年間を過ごしたら個人の力が付きそうだなと思い、ICUに入学する事を決めました。
- 清水
- なるほどー。ちなみに、国際機関以外の将来の道を考えてみたりはしなかったんですか?
- 中村
- 実は、ブラジャーの物理的な構造とかにもすごく関心があって(笑)。 だから、JICAに就職しなかったら、下着メーカーに入っていたかもしれません。だって、日本のブラジャーの技術ってすごいじゃないですか。日本の技術で東アジアの貧乳を救えるんじゃないかって‥‥(笑)
- 一同
- 爆笑
- 清水
- 国際的な、海外での仕事に興味を持ち始めたのも、やはりマザーテレサの影響なんですか?
- 中村
- それ、よく聞かれるんです。
でも私、実は海外で仕事をしたり、留学をしたりする事に関心があったわけではないんです。「途上国」だとか、世界の不条理、格差をできるだけ少なくなるような仕事をしたいし、そういう事を学びたい、というのが先にあって、たまたま自分の勉強したい事がイギリスにあったからイギリスの大学院に行ったり、「勉強しているだけじゃ意味がないかも」と思って3年生の時にICUを休学して、イギリスのNGO団体を通じてアフリカで半年間、活動したりしました。
- 清水
- なるほど‥‥。
- 中村
- だから、先にやりたい事があって、たまたまその場所が海外だったので、そこに行っただけだということです。
- 飯塚
- ICUに入学して、何が何でも海外で‥‥というわけではなかったんですね。
- 中村
- ICUには国際関係学科(IS)で入学したのですが、何も迷いも無くバリバリ勉強していたのかと言われると、実はそうではなくて・・・。
- 飯塚
- そうなんですか?
- 中村
- 学科制の時代は、リトリートは学科ごとに行われていたんです。 だから、リトリートでは自分の周りはみんなISの人ばかり。「国連行きたいです」みたいな人が集まってて。あー、類は友を呼ぶとはこのことなんだと。
- 清水
- そうだったんですね。
- 中村
- リトリート中、皆が「国連に行くには?」という感じの質問を教授に投げていてたんですね。
その時、ある先生が「日本人の国連職員は確かに少ない。けれど、方法としては政治分野で行くか経済分野で行くかという選択肢がある。経済分野のほうが入りやすいし、日本人の強みを活かしやすいから狙い目だよ!」とアドバイスしていたんです。
それを聞いた周りの皆は、経済の方に流れていったんですが、私にはそれにピンと来なかった。国連に入るために経済をやるのは変だよなあって違和感を感じたんです。
- 飯塚
- なるほどー。
- 中村
- 他にも、入学後に取った「開発学入門」という授業では、戦後どのように「先進国が途上国を支援する」という構造が始まったのかという、1950年代〜60年代から現在に至るまで歴史と経済の話を主にしていました。 でも、正直私は興味が湧かなくて。私のやりたいことは本当に歴史と経済だったのかな?と感じていました。
そんな時、横関祐見子先生(ICU卒業生、現ユニセフ中西部アフリカ地域事務所・教育アドバイザー)の「発展途上国の教育」という授業を受けた時に、「これだ!」と思ったんです。私は、政治や経済のマクロな動きよりも、援助の対象となる人の顔が見えるというか、JICAでは「被益者」という言葉を使うんですが、直接そういう人たちに関われる仕事がしたいんだなあって思ったんです。
ですから、自分が関心を持っているのは、同じ途上国開発でも、政治や経済では無くて、国際協力の、しかも教育分野なんだと気付く事ができたのは、すごく良かったですね。
いつか、恩返しできるように
- 清水
- 中村さんは、ICU3年生の時に退学・再入学の制度を利用して、モザンビークに行っているんですよね?
- 中村
- そうなんです。理由によっては退学して3年以内であれば大学に戻れるという制度がありまして。
それで、なぜわざわざ2年間大学を離れて行った先がアフリカだったかというと、ICUで所属していたコミッティー(ICU祭実行委員会)に、休学してインドでトイレを作って帰ってきた先輩がいたんです 。(笑)
- 清水
- ICUらしいですねー。
- 中村
- その先輩は、直接インドのNGOに行って、自分でニーズ調査をして募金を集めていたんです。
それを見て、「アジアは行こうと思えば自力で直接NGOにコンタクトをとってボランティアに行けるんだな」と。だから、せっかくなので、ちょっと自力じゃ行けないような、よく国際協力の教科書に書いてあるサハラ以南アフリカのどこかに行きたいと思いました。横関さんの授業を受けてから、国際協力の中でも、教育という専門性を身につけたいと思ったので、サハラ以南アフリカで、教育分野の活動が出来て、半年以上同じ場所で働ける所、という条件を軸に探したら、それがたまたまモザンビークだったんです。
- 清水
- なるほど。モザンビークでは、何をしていたんですか?
- 中村
- そこでは、小学校の先生を育てる学校で英語と社会などを教える仕事をしていました。
なるべく村に溶け込みたい、村の人とできる限り同じ感覚で生活したいと思っていて、電気も水道もなかったので日が暮れたらロウソクを灯して、1日100リットル水が必要だったので頭に乗せて運んで、という生活を毎日していましたね。
- 清水
- それは大変そうですね‥‥
- 中村
- ジュースを買う所すら、村の人に見られたくないというか、それは外国人だからできる贅沢で、村の人と心の距離が出来てしまうと思って我慢していました。
そんなある日、空のジュースの箱を集めていた時に、子供たちが群がってきてその空箱を奪っていったんですね。私はその時に、「えっ、空なのになんで?」と自然に思ったんです。
だけど村の人に、「あの子達はそれに水を入れて薄めて甘い水を飲みたいからその箱を奪うんだよ」と言われた時、どんなに自分が努力してその人たちの目線になりたいと思っても、自分はやっぱり日本で生まれ育っている人なんだという自覚の少なさを思い知らされました。
- 清水
- なるほど・・・・。
- 中村
- 他にも、道端でハイチュウや飴をバラバラにして1つずつ売っているのですが、なんでかというと1つずつの単位で売らないと高すぎて誰も買えないんです。
現地の人に心を許して慣れ親しんだつもりだったけど、日本でのシャワーがあって電気が普通に点いていて‥‥という生活が当たり前になっている自分もいる。
だから、同じになるんじゃなくて、よそ者だからできることを考えなければいけない。そんな事を感じましたね。
- 飯塚
- 私もすごく共感できます。
アフリカのマラウイという国の、ジャカランダという場所をご存知ですか?AIDSの孤児の学校があるんですけど、そこで夏に4週間ほどボランティアをしたんです。
- 中村
- サービスラーニングですか?
- 飯塚
- そうではなくて、高校生のときに行きました。私もトイレを作って帰ってきたんです(笑)。
その時の経験が本当に胸に残っていて。学校の生徒の一人をスポンサーしているので、すごく「戻りたい」という気持ちがあって。
とても感動したのが、2年後にジャカランダに戻った時にみんなが私の名前を覚えていてくれたんです。戻るだけでも自分に出来ることがあるんだなと思いました。
- 中村
- 確かにそうですよね。 私もJICAに入る直前に、3年半ぶりにその村に行ったら、皆がボランティアに来た歴代の日本人の名前を覚えてくれていました。
- 飯塚
- そんな中村さんが、今の日本にいて、毎日どういう風にこの社会を受け入れていますか? 水もあるし。電気も点いてるし・・・。
- 中村
- それにいちいち罪悪感を感じてたらキリがないとも思います。でも、すごくやるせなさを日本で感じるのは「自殺」なんですよね。 特に人身事故で電車が止まった時に、いま人が亡くなっているかもしれないのに舌打ちする人がいたり。こういう社会が人を殺すんだとすごく思って、他人の死や痛みに対する無関心さにすごく憤りを感じました。
- 飯塚
- なるほど‥‥。
- 中村
- 実は、モザンビークで授業をしていた時に、日本の自殺のエピソードを取り上げたことがあるんです。日本で毎年3万人が自分で自分を殺していると言っても、皆全然ピンと来てなかったようなので、「私自身も実は死にたいと思ったことがある」と口にしたら、寝ていた生徒たちも飛び起きて、「先生、死んじゃダメだ!」と口々に叫びだしたんです。
私が死にたいと思った当時の理由は相当くだらなくて、すごく好きだった人に彼女が出来て、かつその彼女が私と全然違うタイプの女の子だった、というだけなんですが(笑)。
- 一同
- (笑)
- 中村
- まあ、自己否定感というか自分のことを自分で認めてあげられなくなってしまって、苦しくなった時期だったんです。でも、その授業で、生まれつき片足が不自由な男子生徒が、「日本人って自分が生きてることに感謝してないってこと?」と、さらっと言ったのが、なんだか忘れられなくて‥‥。
彼自身は生まれつき片足がなくても自己否定感のかけらもなくすごく明るくて、「俺は先生になるんだ!」と言っていて、生きる力というか輝きを感じました。
- 飯塚
- そうなんですね。
- 中村
- モザンビークの人たちから私たちが学ぶのは、自己肯定感と生きる力ですね。
日本では、滅多に周りの人が死ぬことがないから、身内の人が亡くなったりしたときに「何で自分ばかりがこんな目に会うんだろう」と思ってしまいますよね。だけど、モザンビークでは、悲しいことにそれが頻繁に起こりすぎいて、自分だけが特別な目に会っているとは思えないんです。
私の生徒さんにも、「うちのダンナは交通事故で死んだよ」とか「これ、俺の死んだ子供。3歳だった」と話してくれた人たちがいたんですが、彼らは落ち込んでなんかいられない、残りの生きている人たちのために働くんだ、という前向きに生きざるを得ない。
このように死が身近すぎる社会であり続けてはならないと思いますが、他人と比較して「こんな目に」って思うのではなくて、今を受け止めて生きる、自分で自分をちゃんと認めてあげる気持ちが大事だなと、モザンビークでの暮らしを振り返って思いますね。
- 飯塚
- なるほど。
- 中村
- でも、モザンビークでの活動を終えた時は、半年ではこの人達に何もしてあげられなかったし、勉強も経験も不足していて役に立てず、むしろ助けてもらってばかりだったなあと、帰りの飛行機でしみじみ思いましたね。
いつかこの人たちに恩返しできるような仕事ができるように帰ってこようと、そう思ってアフリカ大陸を離陸したのを、今でも覚えていますね。
- 飯塚
- モザンビークで感じた想いは、JICAでのお仕事をしていく中でも意識していることなんですか?
- 中村
- 業務とは直接関係無いんですけど、個人活動の一環として、小中高大学の出張授業を行っているんです。
- 清水
- すごい!どんな授業なんですか?
- 中村
- 開発教育というか、先進国である日本の子供たちに、自分の消費生活と世界の貧困がどのようにつながっているかを知ってもらう、そんな授業です。 そして、自分が手に取る食べ物の先に生産者がいて、世界があるということを感じる人が一人でも増えたらいいなと思っています。そこでも、モザンビークで得たメッセージや、いじめや自殺という言葉が存在していなかったモザンビークの暮らしを伝えています。
- 清水
- 中村さんにしか出来ない、素敵な活動ですね。
- 飯塚
- モザンビークから帰ってきて、自分が一生かけて一人でがんばって働いても、おそらくこの貧困はなくないだろうと感じたんですね。 でも、過去の人たちが学んだ失敗を、自分が一生懸命学んで生きて、新しい世代に伝える事は出来る、そう考えたんです
- 清水
- モザンビークの経験が、今に生きているわけですね。
人の生活は、分野では区切れない
- 飯塚
- ところで、大学での学びと今のキャリアはどのように具体的に繋がっていますか?活かせていますか?
- 中村
- 確かに分野としては、ずっと国際協力を勉強してきて、「国際協力機構」に勤めているので繋がっていそうですが、学部で学んだ知識が実務で生きているかというと、そうでもないですね。
まず、私は、実は学科間専攻(今で言うダブルメジャー)をしていて、ISで卒業してないんですよ。
- 飯塚
- えっ、そうなんですか?
- 中村
- ISとヒューマ二(人文科学科Division of Humanities)で学科間専攻をしていました。
さらに、卒業論文の担当教授はエデュケ(教育学科 Division of Education)の先生でした。さらには、学外の東京外語大学の先生にも、卒論のアドバイスを頂いていました。
- 清水
- それはすごいですね。ちなみに、卒論のテーマは何だったんですか?
- 中村
- モザンビークにおける植民地支配が教育に及ぼした負の影響やインパクトと、その初等教育のあり方について書きました。
とはいえ、ICUの4年間で国際協力だけを勉強していたのかというと、かなり、他の分野も好き放題授業を取っていて。例えば、旧約聖書学とか新約の授業も取っていたんです。
- 飯塚
- へえー!
- 中村
- 古代ヘブライ語の授業も1とか2まで取っていましたし(笑)
- 清水
- すごい!!!(笑)
- 中村
- だから、最後は多分160単位くらい取って卒業したんですよね。 せっかく好きな授業を取れるんだから、できるだけ興味のあるものを取りたいなあって。その途中で人類学に出会って、人との関わり方を学んだりだとか、好きなものを取っていたという感じですね。
- 飯塚
- すごいですよね。好きな授業を取りつつ、卒業要件も満たしていて。
- 中村
- 当時の学科間専攻という制度は、すごく自由にカリキュラムを組めたんです。 自分から大学側に「これが自分の専攻です」って申請できたので良かったです。
- 飯塚
- ヘブライ語も?(笑)
- 中村
- いや、ヘブライ語はさすがに要件には入らなかったですね(笑)。
- 飯塚
- そうなると、メジャーとしては何になるんですか?
- 中村
- 自分でもはっきりと何専攻だったのか言えないんですが、「発展途上国における教育」はキーワードでしたね。
それに道徳教育が入っていたので、若干ヒューマニの授業も取って、あとは哲学と宗教人類学と社会調査系の授業もばんばん取ってました。
- 清水
- とても自由だったんですね。
- 中村
- 授業を受けていると、面白いなと感じることもあるし、逆につまらないと感じることもあるじゃないですか。私はその気持ちを大事にしたんです。
なので、つまらない授業は受けたくないし、逆に学科の外に沢山ある受けたい授業を受けるにはどうしたら良いんだろうと考えた時に、学科間専攻に出会いました。
- 清水
- でも、学んだことが実務で生きているわけではないんですよね?
- 中村
- 知識と言う意味では、そうですね。
ただ、自分でカリキュラムを組めるので余計に思ったのかもしれませんが、学部で一番学んだ事は、学科間、”interdisciplinary”に物事を捉えるという視点ですね。
- 清水
- 「学科間」‥‥というと?
- 中村
- 例えば、大学院の時に論文で書いた、モザンビークのエイズ教育を例にご説明しますね。
エイズといえば保健の問題だから、日本で言うところの厚労省や保健所みたいな所が管轄するんです。モザンビークの保健省は、若者やコミュニティー向けに色々なプログラムを行っているんですが、すべて学校以外で行われていたんです。本来であれば、学校が一番子供達が毎日来る場所で、子供達とか、親とか、若い人達に正しい知識を教えるすごく有効な場なのに、全然活かされていない。なぜかと言うと、学校は教育省が管轄だからなんです。エイズだったら保健だから保健省だよね、とか、教育だったら教育省だよね、とかその分野で分けてしまうことによって、その隙間に落ちてしまうものが当時すごくもったいない。仕事をしていて、そういったことをよく感じるんです。
- 清水
- なるほど、それで”interdisciplinary”なんですね。
- 中村
- JICAも、もちろん地域別や課題別で部署が分かれているんですが、ただ、なんていうか、人の生活は分野で全然区切れませんよね。 例えば、水不足が深刻な農村では、子ども達が水を運ぶために学校に行けいという問題が起こったりもする。水問題と教育問題が、つながっているんです。
人の生活というのは、セクターというか、分野で区切る事はできないと思うんです。
- 飯塚
- 確かにそうですね。
- 中村
- こう思うようになったのも、ICUで学ぶ中で、学科というか、科目同士は実はつながりがあるのを感じたことが大きかったのかなあと思いますね。
人の生活や社会を区切ろうとすると、どうしても隙間ができてしまう。でもその隙間に気付けたのは、ICUで好きに自由に授業を取らせてもらえたお陰かな、と感じています。
- 清水
- 「人の生活は分野では区切れない」って名言ですね!
- 中村
- えっ、名言ですか!わーやった!ありがとうございます!(笑)
- 一同
- (笑)
-
ときめく授業と人を追いかけろ
- 飯塚
- 今は中南米地域を担当されているそうですね。
- 飯塚
- はい、モザンビークに行っていた事もあって、本当はアフリカを担当したかったのですが、とはいえ、中南米に関連する部署に配属になることは、半分は予想していたんです。
- 飯塚
- そうなんですか!
- 中村
- 何故かというと…私、フランス語で挫折したんですよ。
- 飯塚
- わたしもです‥‥(笑)
- 中村
- そうなんですか(笑)。
国際協力の分野で文系でご飯を食べていくには、現場経験も修士号だけじゃなくて、第二外国語が必要だと思ったんです。NGOで行ったモザンビーク・アンゴラがポルトガル語圏だったので、ポルトガル語を独学で勉強したんですね。ポルトガル語で業務や調査をせざるを得ない環境だったので、基本的な会話だとか、英語の授業をポルトガル語で授業をするということには困らないぐらいになったんです。
- 飯塚
- すごい‥‥。
- 中村
- その後に、本当はICUに帰ってからもポルトガル語を学び続けたかったんですけど、ICUにはポルトガル語の授業はないんですよね。
フランス語を挫折した私は、ポルトガル語に似ているからという理由と、途上国に行ける可能性が広がるかなということで、スペイン語を履修したんですよ
- 飯塚
- そうだったんですね。
- 中村
- で、履歴書に書ける資格があった方がいいのかなと思って、ポルトガル語とスペイン語の両方を中級まで資格をとって、JICAを受けたんです。 だから、「アフリカに行きたい」とは言っていたんですけど、ポルトガル語とスペイン語の資格を持っている新人が来たら…ねえ(笑)。
- 一同
- (笑)。
- 中村
- まあ、中南米関連の部署に配属されますよね(笑)。
でも、国によってJICAがこれまでやってきた援助の歴史とか、失敗や成功とか、学べるものが違うので、今は中南米で援助のことを勉強してから、いつかはアフリカに帰りたいなとものすごく思っています。
- 清水
- 最後に、今、メジャーを何にしようかと悩んでいる学生に対して、何かアドバイスがあればお願い致します。
今、ICUはメジャー制に代わって31のメジャーから自分の専門分野を選ぶんですが、学生がメジャーを選ぶ時に、それに関連する仕事に将来就かなければならないと感じたり、自分の将来を考えたうえでメジャー選択をしなければならないと考える学生が増えているという現状があります。これが、この同窓会企画を始めたきっかけでもあるのですが‥‥。
- 中村
- そうですね。
学科制だった私の世代では、専攻と直結した就職先に就いている人って本当に少なかったと思います。
- 清水
- そうだったんですか。
- 中村
- 感覚的には、1割ぐらいかな?
もし私が今のメジャーが選べるICUにいるとしたら、本当にそのメジャーでご飯を食べていきたいのかどうかを、まず考えますね。
- 清水
- ご飯を食べていくというのは、その道のプロになる、ということですか。
- 中村
- そうですね。例えば、私は哲学にもかなり関心があったけれど、本当にその道の研究者になってご飯を食べていく気はありませんでした。
もし、自分の選ぶメジャーでごはんを食べていきたいと思うのであれば、その分野には実際どのような市場があって、職業があって、どれくらい実際に食べていけている人達がいるのか、その人達がどんなキャリアを歩んでそれに至ったのかを調べた方がいいですね。
- 清水
- 目指すべき人を見つけるんですね。
- 中村
- そうです。その人を見た時、「そうなりたい!」と思うか、「そこまではできないな」と思うか、が大事です。
そこまで現時点では見つからないというのであれば、逆に将来の事はあまり考えずに、今この瞬間に自分の心がビビビって動かされるとか、逆にこれはつまらないと思うとか、その気持ちを大事にして選ぶと良いんじゃないかなって思っています。
ときめく授業と人を追いかけるといいと思います。大学では、「かっこよくて打ちのめされる」「こんな歩み方をしたいな」と憧れる先生方や先輩方に出会って、ビビビとほれ込みんだ授業ばかり取っていました(笑)
- 清水
- (笑)
- 中村
- 「すごくかっこいい!」と思った方々を追いかけたいと思った先に私の進路があって、今の私がいます。
メジャーを選ぶからその後の就職先も考えなきゃ」という考えから一回離れて、その時に何かワクワクする気持ち、これは飽きない、心の底からやるぞ!ってわき上がってくる力みたいなものに正直に従っていったらいいんじゃないかな。
- 清水
- なるほどー。
- 中村
- 最近、すごく共感できる図を見つけたんです。
<と、手元の紙に図を書き始める中村さん>
- 中村
- 自分がやるべき事(must)、できる事(can)、やりたい事(want)の3つの円があるとしたら、全ての円が重なるところが、一番エネルギーをガーッと集中できるはずですよね。これに出会えたら、社会もハッピーだし、自分もハッピーになれるんだろうな、と思うんです。「やるべき」という義務感だけではなくて、「自分がやらなきゃ」「うずうずする」、と感じる使命感のようなものを感じる時があると思うんです。
自分自身が、お客さん側では無くて、やる側になりたくてたまらない事。そういうものに出会えたら進めばいいし、迷っているのであれば、キャンパスの外に出て、刺激を受けたりするもいいですね。
大学のメジャーも単位も、その縛りに囚わるのではなく、「あ、ちょっといいな」と思う気持ちを大事にしたらいいのかなと思います。
- 清水
- なるほど、とっても分かりやすかったです。
本日は、貴重なお話をありがとうございました。
<おわりです>